6

「この程度で酔いはしないさ」

「せやろなあ。じゃあ、本気で言ってんの?」

「本気だよ」

「本気か冗談かわからんねん……」

 千葉は眉間を指で押さえながら天井を向く。東雲をどのように扱えばいいか決めあぐねているようだった。

「君はその跳ねた前髪を整えておいでよ。料理をどのテーブルに提供すればいいか伝票を見ればわかるんだろう?」

「あのなあ、祥ちゃん。お客さんにそんなことさせるわけにはいかんやろ」

「誰も気にしないさ。それに僕だって大学時代は飲食店バイトをしていたこともあるよ」

「そういう問題ちゃうやろ……」

 東雲という男は強かで柔軟な働きをできる人間だったが、同時にこれと決めたことは揺らがない頑固さも持ち合わせていた。こういう態度でいる時の東雲は、納得できるだけの理由がなければ自分の意見を譲ることはない。

 千葉はそれを理解していたため、余計に困っていた。そして東雲も千葉が困惑しながらも最終的には己の提案を受け入れるだろうことがわかっていたのだ。

 千葉がそうこうしながら迷っている間にもマスターが次々にオーダーの品を完成させていく。提供しなければならない料理がカウンターに溢れそうだった。

 東雲は満面の笑顔でカウンターの料理に両の掌を向けて、千葉に選択を迫る。

「どうする、どんどん忙しくなっていくよ?」

 千葉の目に真剣な光が灯るとピスポケットからいつものコインを取り出し、素早く弾いた。硬貨が手中に戻ってくるまでの間で、千葉が東雲に問いかける。

「表か裏か」

「表だ」

 東雲が間髪入れずに答えると同時に、千葉の右手が宙を舞っていた硬貨を掴む。男が右手を開くと、厳めしい獅子の顔がふたりを睨みあげていた。

 硬貨が表を向いているのを確認すると千葉は弾かれたように動き出し、カウンターに置いていた盆を掴んだ。

「とりあえずこの盆の料理持っていってくれる? カウンター手前からテーブル番号が若い順になってて……これ三卓のやつやから」

 三番テーブルを指差しながら千葉が料理をセッティング済みの盆を手渡そうとする。東雲は白いジャケットを脱いで椅子の背もたれにかけた。

 それぞれの意匠は違うものの、ベスト姿のウェイターがふたり、この場に揃った。

「これが提供できたら他の品も運ぶから、君は気にせずに髪型を整えておいで」

 東雲が料理を提供しやすいようにカウンター上を整理しながら、千葉は膨れっ面を東雲に向けた。

「言われんでも行ってくるわ――ありがとう」

 その膨れっ面は怒りを含んでいるものではなく、東雲の提案を断れなかったことに対する申し訳なさの表れである。複雑な心境のはずの千葉が東雲に対して礼を言うことを忘れない部分に対して微笑ましく感じる。

「僕がやりたいだけだよ、気にしないで」

 手をヒラヒラと振りながらバックヤードに引っ込む千葉を見送り、東雲は手渡された盆の内容を確認する。するとカウンターの中から声がした。

「バイト代は出せんぞ」

 マスターが口髭の下に悪巧みの笑みを浮かべている。千葉の仕事が滞るといつもなら声を荒げてせっつく男だ。その男が珍しく黙っていると思えば、東雲の提案を受け入れるためにふたりの様子を見守っていたようだった。

 千葉も、マスターも、東雲の提案を受け入れざるを得ないほど、店には次々と客がやってくる。

 東雲は千葉に向けていた眩い笑顔をマスターにも向けて、軽く頷く。

「僕は賄賂を受け取らない主義でね――困っている人に手を差し伸べているだけだよ」

 盆を左手に、カウンターに置かれた料理皿を右手に持つとテーブル席へ歩き出した。


 東雲が料理を各テーブルに提供しだすと女性グループが俄かに色めき立つ。この店の名物といえばマスターの振る舞う酒と料理だが、(特に女性たちにとって)看板といえば千葉であったため、突如として現れた謎のウェイターは彼女たちの会話の格好の的となった。東雲自身は女性からの黄色い声を浴びること自体は慣れているため、うっとりとこちらを見つめる愛らしい瞳を軽くいなしながら淡々と料理を運ぶ。

「こちら、エビとマッシュルームのアヒージョです。バゲットは……こちらに失礼しますね」

「お兄さん、新しい店員さん?」

「今日だけのヘルプですよ」

 下から東雲を見上げる女性は至極残念そうな表情を作り、縋るように言う。

「勿体無い! ずっとこの店にいれば良いじゃない」

「そのお言葉こそ勿体無い。ありがとうございます」

 東雲は自身の容姿が如何に女性ウケをするか心得ていた。東雲が極上の笑みを目の前の人物に送れば、言葉を失くしてこちらを見つめるしかなくなる、ということもわかっていた。端的に言えば、相手を黙らせるにはただただ真剣に微笑みかければいい。

 まだ提供すべき皿がカウンターには残っている。長々とこのテーブルに留まるわけにもいかない。

 そして東雲は最上の笑顔を女性客へ捧げ、軽く会釈をした。

「どうぞ、ごゆっくり」

 東雲の笑顔にかけるべき言葉も見当たらず、女性客はのぼせ上がった表情で東雲の後ろ姿を見つめていた。

「悪い男やなあ」

 東雲がカウンターへ戻り、次に提供するべき料理を盆へ載せていると、千葉が嬉々とした表情をしていることに気づいた。使用済みの皿を回収していた千葉も同じタイミングでカウンターへ戻ってきていたらしい。飲み干された後のビールジョッキをいくつも抱えている。

「君ほどじゃないよ。千葉くんにはたくさんのファンがいるじゃないか」

「まあな……でも祥ちゃんが女の子の席に行くの禁止! 女の子は俺の担当やからな」

 千葉はビールジョッキをシンクに沈めながら東雲に対して無茶な要求を突きつける。忙しいのに配膳箇所の制限までされては店が回らない。それをわかった上で千葉はニヤニヤと笑っていた。冗談を言う余裕が出てきたらしい。それを聞いた東雲は千葉の発言を鼻で笑った。

「ところで千葉くん、今日はどの子にするつもりなんだい。見てれば女の子のいるテーブルにばかり料理を運んでいるじゃないか。可哀想な子もいたもんだ」

「可哀想って……女の子とのロマンスを楽しんでるだけや。そもそもお客さんには手ぇ出さへんし。祥ちゃんにはわからんかあ」

 千葉は肩をすくめて大袈裟に溜息をつく。

 カウンターに料理を置きながらじろりとこちらを睨みつけるマスターの視線は物を切るのではないかと思うほど鋭かった。

「その口を縫い付けるぞ、恵吾。お前ら、料理を運べ」

「お会計お願いしまぁす」

 マスターの声と勘定を申し込む客の声が被る。東雲と千葉は一瞬目を見合わせて、自然と動き出す。

「すまない、マスター。つい楽しくてね」

「チッ……なんで俺だけそんな言われなあかんねん」

 東雲は盆を左手に抱えるとカウンターに踵を返す。舌打ちをする千葉も伝票とカルトンを携えて、同時にテーブル席へと足を踏み出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る