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結果として、千葉の計画は大入りの客によって破綻しかけていた。
食品や消耗品などの買い物を済ませ、午後は読書などをして時間を潰し、九時も過ぎた頃、東雲はようやく夜の繁華街に繰り出した。飲酒をすることも考えて、『ユートピア』まではタクシーで向かうことに決めた。
普段であればそろそろ客の入れ替わり時間かという頃合。タクシーから降りた東雲は店の前で楽しそうに酔っ払っている若者集団を尻目に、その扉を開く。そしてまだまだ賑わいを見せる店内に口角だけを上げて笑顔を作った。
――千葉くんの思う通り、というわけにはいかなかったか。
店内を忙しなく駆けずり回る千葉の姿を見つけたが声をかける気にもなれず、テーブルの間を通り抜けてバーカウンターまで進む。その間にチラリと千葉と目が合うものの、千葉も東雲に対応する余裕はないらしく苦く笑うだけに留めていた。
テーブル席と比べて、バーカウンターは照明が暗めに設定されており、落ち着いた空間を演出していた。しかしその雰囲気とは真逆に、バーカウンターの中では皆から『マスター』と呼ばれる男がカクテルを作ったりフードの飾り付けをしたりと慌ただしく働いている。その男はがっしりとした鍛え上げられた肉体の持ち主で、髪の毛を後ろに向かってピッタリと撫で付け、威厳のある口髭を蓄えている。今日はいつも着用しているバーコートを羽織っていない。それはこの店が忙しいというサインでもあった。東雲の来店に気づいて、マスターは作業をしていた手元から視線を上げる。東雲は手を挙げて挨拶をしながら、マスターの目の前にある席へ腰を落ち着けた。
「マスター、今日は随分と盛況だね」
「おかげさまで。先に注文を聞こうか。今注文しないといつになるかわからんぞ……どうせジントニックだろ」
「そうだね、いつも通りジントニックを頂こうか」
「おう」
東雲の注文を聞くとマスターは提供順を変更して、真っ先にジントニックを作り出した。透明度の高い氷がグラスに当たる音はなんとも涼しげだ。ジンが注がれ、くし切りにされたライムをその上に搾る。搾られたライムはそのままグラスの中へバースプーンと共に投下され、そのスプーンを伝ってトニックウォーターが加えられた。慎重に手早くステアするとジントニックが完成する。
「ボードゲームバーだってのに、今日はメシだけってパターンが多い」
マスターは不服そうな表情でジントニックのグラスを東雲の前に差し出す。そして一瞬カウンターの下に屈み込むと、小皿を手に再び姿を現し、それをグラスの横へ置いた。小皿の上にはアボカドをスモークサーモンと生ハムで包んだものが四つ並んでいた。マスター手製のバジルソースがかかっており、見た目からして美味であることが察せられるものだった。所謂『お通し』と呼ばれるものがこのバーでも出されることはあるが、大体が豆類であったため、このような手の込んだものが出されるのは珍しかった。
「これは一体?」
「サービス……というより詫びだな。恵吾が目的なんだろう? しばらく時間がかかるぞ」
「どうしてそれを?」
「『今夜は祥ちゃんが来る』って言ってたんだよ、アイツ。だが雲行きが怪しくなってきたからな……そのタイミングで恵吾がこれを仕込んでたんだ。ジントニックと相性が良い」
せっせと小皿を仕込む千葉の姿を想像すると、東雲の顔には自然と微笑みが浮かぶ。
「ああ……これは千葉くんからの気遣いということかい」
「そういうことだ」
「では遠慮なく頂こう」
東雲がグラスを掲げるとマスターは恭しく軽く目を伏せ、掌を差し出した。
「どうぞ、ごゆっくりお過ごしください」
先程までの口調とは一転、上品な仕草で東雲に告げる。普段のマスターとはギャップのある姿だが実に様になっている。矜持を持ってこの店を経営しているのだとわかる男のその振る舞いは、東雲も敬意を持たざるを得ない。
マスターの矜持はその振る舞いだけではなく、カクテルや料理からも感じ取ることができる。指先が痛くなるほどに冷やされたグラスの縁からジントニックを口の中へ含むと、ライムの爽やかな香りが口内と鼻腔へ一気に広がる。トニックウォーターの苦味とジン特有のドライなフレーバーの絶妙な均衡。シンプルなカクテルなだけにバーテンダーの腕が試されるものだった。この店で飲むジントニックは格別に美味しい。
カクテルの美味しさに心が緩むのを感じ、東雲はそっと息を吐く。いつも不測の事態に備えて体が緊張していることが多いのだが、この瞬間ばかりは肩から力が抜ける。
千葉が用意したというつまみもピックを刺して口の中へ運ぶ。まずバジルソースの豊かな香りを感じるとあとから燻製の香りが主張してきた。生ハムの油とアボカドが口の中でとろけると、スモークサーモンと生ハムの塩っぱさが舌に残り、酒を煽りたくなる。おおかた味の想像はついていたが、手製のバジルソースが味に奥行きを持たせている。確かに、すっきりとした味わいのジントニックとはピッタリのつまみだ。
「――これは、なかなか」
「気に入ってくれた?」
大きな盆に次々に料理とドリンクを載せながら千葉が声をかけてきた。忙殺されて余裕がないのか、普段であれば抑え気味に整えているはずの特に癖の強い前髪がくるっと捻れている。それを見て笑みを深くした東雲が前髪を指差すと、男は慌ててデバイスのカメラを起動して鏡代わりにする。
「とても美味しいよ。わざわざお気遣いいただきありがとう」
「いやこっちこそありがとう。うわ……めっちゃ跳ねてるやん」
「君にしては珍しいね、よほど忙しいらしい」
跳ねた前髪を梳きながら、千葉は気まずそうな表情で東雲を見る。
「遊びに来てって言ったのに、ごめんなあ。思ったよりお客さん多くて……」
「マスターのご迷惑でなければ落ち着くまで居座るつもりさ、気にしないでくれ」
「マスターは気にせんと思うけど、祥ちゃんは大丈夫なん? 明日出勤ちゃうん?」
「明日は振替で休日を取っているから、ゆっくりさせてもらうよ。それより君こそ大丈夫かい?」
「いやあ、正直猫の手も借りたいわ。昼営業もせやったけど夜営業もずっとラッシュが続いてる状態で……」
前髪を何度梳かしても思うようにならないのか、千葉はとうとう諦めてカウンター近くに設置されていた消毒ボトルで手を消毒した。どちらかといえば身だしなみを気にするタイプの千葉が諦めるほどには店内状況に余裕がないということだった。
そんな千葉を見ながらジントニックを飲み続ける東雲。待つとは言ったものの、ただ待つだけではやはり暇だ。何か面白いことはないものか――。
そして東雲はグラスの中身を飲み干すと、薄暗い照明の中でも眩しく感じるほどの笑顔で千葉の肩を二度叩いた。
「良いことを思いついたよ、千葉くん」
「――あんまり良いことのような気はせんけど、一応聞こか」
「猫の手じゃなくて僕の手を借りれば良いじゃないか」
「……もう酔っ払ってんのか?」
東雲の輝かしい笑顔を見つめる千葉は呆れ顔そのものだった。
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