第三章 夫の様子が変です①
これまでが
……と、思っているのは、マルグリットだけである。
「貴族の
(ナット、へそくりが奥さんにバレたっていうの、
「あなたにお似合いなのはルシアン様ではなくて
(フェリスのお
「食事が終わったら
(アンナは今日も元気ね)
同じテーブルで食事をとったことで使用人たちの顔と名前は
(クラヴェル家も、昔はそうだったのよね……でもわたしを
晩餐会でひと月ぶりに顔をあわせたイサベラは、マルグリットの心に変わらぬ
「……ちょっと!! 聞いているの!?」
「え? ああ、うん、床磨きね。道具を貸してちょうだい」
バンッとアンナにテーブルを
床磨きなら実家でやらされていた。この家には磨いた
「ごめんなさい。怒鳴られると別のことを考える
「……!!」
「あ、そうだ、これ。ハンカチなの。アンナの名前を
「いりません!!」
真っ赤になったアンナが
「……
周囲の使用人たちをふりむき
ぽつんとひとりになってしまったマルグリットは首をかしげ、食べ終わった
そんなマルグリットを見つめる視線があった。
ルシアンだ。
晩餐会を終えてからのち、ルシアンはマルグリットの様子をうかがっていた。
幼いころからド・ブロイ
一方で、彼の冷静な思考は、マルグリットの意図を推測してもいた。
王家からド・ブロイ家とクラヴェル家に課せられた期待は、両家が
自分を
マルグリットからすれば虚しいのは実家のクラヴェル家なのだが、ルシアンは知らない。
──ルシアン様はわたくしとお話をしてくださいます。
エミレンヌに語ったマルグリットの
(彼女の言葉が真実になるよう、彼女と話をしなくては)
そんな決意を胸に、ルシアンは北の離れへ向かった。
図書室わきに
マルグリットにとって現在の暮らしは最高である。イサベラは使用人がする
ド・ブロイ家には、
(つらい旅の果てにようやく愛する人を見つけたのね……ああ、なんてすばらしいの)
マルグリットがそんな幸福に
ノックの音にマルグリットは飛びあがると
「俺だ」
「は、はい、ただいま!」
いつものドレスにショールを羽織り、ドアを開ける。
「ルシアン様。なんの
「……」
ルシアンは答えない。
(こんな部屋に住まわされていたのか……まるきり使用人の部屋ではないか)
マルグリットの
使用人にも身分の上下があり、
だが、自分の目で見たマルグリットの部屋は、
ついでマルグリットに視線を移すと、困ったようにルシアンを見返す彼女の目にはうっすらと涙が
「……泣いていたのか」
「えっ、ああ、はい。本を読んでおりまして」
マルグリットは机に置かれた小説を示すが、ルシアンには
(やはり本心はつらいのだ)
当たり前だ、と自責の念に
クラヴェル
(だが彼女はなにもしていない。ド・ブロイ家を
むしろ王妃にとりなしてくれた。
そしてまた、晩餐会で
「本当のことを言ってくれ」
(どうしたのかしら、ルシアン様……?)
部屋に入ろうともせずうなだれるルシアンに、マルグリットは
「俺に言いたいことがあるだろう?」
顔をあげ、ルシアンは問う。
はじまりは
どんな非難も受け入れる。
そう
(俺を信じてもいないのに、言えるわけがないか)
ルシアンは心の中で
だが、
「どうして知っているのですか!? わたしが、言えなかったこと……」
「考えればわかることだ。エミレンヌ王妃にはああ言ってくれたが、俺はこれまで君の意見に耳を
「いいえ、そんな……では、言わせていただきますが」
マルグリットは
「わたし、ド・ブロイ領で、海が見たいのです!!」
「……は?」
「え?」
放たれた願いに思わず
ふたりのあいだに数秒の
見つめあう
口火を切ったのはルシアンだ。
「……領地へ行きたいのか」
「は、はい……」
「海……?」
「そうです。海を見るのが、わたしの夢で……」
「……そうか」
「はい……」
「そのためにド・ブロイ家に嫁いだのか?」
「ええと……」
マルグリットは思い返してみた。
一番の理由は王家からの命令であり、妹が
「そう……ですね。そういう期待も大きかったです……」
だから、
(なんだろう、すごく空気が重たくなったような気がするわ……)
ルシアンの表情は真顔のまま、しかし
「そうか……」
「……あの、わたし、
おそるおそる尋ねるマルグリットに、ルシアンはため息をついた。
言いたいことがあるのではないか、というまわりくどい尋ね方がすでに自身の
「わが家での暮らしはどうかと気になっている」
「ド・ブロイ家での暮らしですか? もちろん、すばらしいものだと思っております」
「……」
「……間違えましたか?」
「
マルグリットが本心からそう言っていることが、さすがにルシアンにも伝わった。
妻となった女性とのあいだになにやら認識の齟齬がある。それはわかった。問題は、それがどこから来るのかわからないということだ。
「君と俺とでは価値観の前提が大きく異なっているようだ」
「申し訳ありません……」
「謝ることではない。だが、俺には君が今の生活をすばらしいと言う理由がわからない」
ルシアンの言葉にしゅんと肩を落としていたマルグリットは顔をあげた。
「ああ、それなら、実家よりもよほどよい暮らしをさせていただいているからですわ」
だから気にしないでください、というつもりで。にこやかな
「実家よりもよい暮らし……?」
(あっ)
いっそう
「待て、実家でどんな暮らしをしてきたというのだ?」
「それは……」
ド・ブロイ家での嫌がらせが生ぬるく感じられる程度の暮らしをしてきたのだが、それを告げることは、マルグリットが追い出されるようにして嫁いできた裏側を語るに等しく、今さらながらに失言だったと気づく。
口をつぐむも、時はすでに
「お前の妹が言っていた……」
妹を出され、マルグリットの表情が初めて
ルシアンの
──クラヴェル家では、
あれは母ユミラへの
(まさか……本心だったのか?)
本心から、姉を
ぞわ、と総毛立つような感覚──わきあがったのは、
殺気すら感じさせるルシアンの表情に、マルグリットは飛びあがりそうになる。
(
ド・ブロイ家は一人
「お許しください!」
ルシアンの足元に身を
「待て! なぜお前が謝るのだ」
「それは──わたしが、クラヴェル家を代表する人間ではないからです。ルシアン様はいずれド・ブロイ家を
マルグリットでは、いくらモーリスに友好的な態度を求めたとしても、モーリスは
対するルシアンも、マルグリットの言葉に焦りを感じていた。なぜなら、彼の怒りの
クラヴェル家が彼女を
「……顔をあげろ」
おそるおそるルシアンを見るマルグリットにいつもの明るさはない。彼女はただひたすらにルシアンの心情を
ずいぶんと手の
「……もしかして、わたしのことを
顔をあげろと言ったまま
ルシアンはまた顔をしかめた。可哀想などという
「……なぜ笑っている?」
マルグリットは笑っていた。
室温にあたためられたクリームのように、やわらかくふんわりとした、それでいてどこか
「えっ、いえ、最近、つい笑ってしまうことが多くて……申し訳ありません」
マルグリットはまた顔を伏せた。まさか、心配されるのが
だがその内心はルシアンに伝わってしまったようだ。
「クラヴェル家のやつら、
「まあまあ。父や妹に悪気は……あるんですが。ほら、物語にはよくあることですし」
「よくあることではないから物語になっているんだ!」
先ほど読んでいたという本を指さされ、ルシアンは思わず大声をあげてしまう。ハッと我に返るも、マルグリットは変わらずに笑っている。この程度の
(俺は、どうしてこんなに……)
(やっぱりルシアン様はやさしいお方だわ)
自分の推測は正しかったのだ。夫になった人はやさしい人だった。ただそれだけ、と言われるかもしれないが、マルグリットにとっては涙が出るほど嬉しい事実だった。
ほかほかと湯気を立てそうに頰を上気させて、マルグリットは笑った。
「ルシアン様と
「──!!」
「ルシアン様?」
「……だ」
「え?」
「移動だ」
そう告げる低い声が聞こえた。
ルシアンの
といってももとからマルグリットの私物はほとんどない。晩餐会で着たドレスはこんなところには置いておけないとユミラの預かりになっているし、
マルグリットはいまだに首をひねっている。
(王家の方々の目もある手前、わたしの生活を
エミレンヌの問いを思い返してそう考え、ほかの者には聞こえないようにそっと、
「あの、ルシアン様、このようなことをしていただかなくともわたしはド・ブロイ家に不利になるようなことを言ったりしません」
と
(とにかく黙って言うとおりにしろということね)
新しい部屋はルシアンの部屋の
使用人たちが働きまわって、木目の
調えられてゆく部屋を
「これまでの扱い、申し訳なかった。ド・ブロイ家次期当主として、不在の父に代わり謝罪する」
「え……っ」
凄みのある表情と声は、理解をわずかに
「えっ、ええっ!? ルシアン様!? 顔をあげてください! 許すもなにも、むしろわたしがこんなところに住まわせていただいて、本当にいいのですか?」
「当然だ。ここは妻になる者の正式な寝室だ」
(正式な場所なら、わたしがいたらだめなんじゃないかしら!?)
まだ驚き続けているマルグリットの前で、ルシアンは壁のドアを指さす。
「あのドアは俺の寝室につながっている」
ルシアンがぐっとなにかを
「開かないように
「はい、わかりました」
立ち入るなという意味だろう、とマルグリットは受けとった。
(一応
混乱しているうちにすべての準備は調ったらしかった。使用人たちはそそくさと部屋を出てゆき、あとにはルシアンとマルグリットが残る。
見まわした部屋は、まるで夢のようだった。どこもかしこも磨き抜かれて
両手を広げ、くるりとまわると、空気を
「も、申し訳ありません」
ルシアンは目を細めてマルグリットのよろこびように見入っていたのだが、深々と頭をさげられると、すぐに顔をそむけた。
「
「礼には及ばない。……君は俺の、妻なのだから。明日はドレスを用意させる」
そのまま、顔をあげる前にルシアンは背を向けて立ち去ってしまったから、やはりマルグリットから真っ赤になったルシアンの顔は見えなかったし、赤くなった耳の先も、
マルグリットの生活は一変した。次期
「し、白い……!!」
新しい部屋の新しいベッドの前で、マルグリットは
ベッドに
(横たわるのが
着古してよれた
(こんな暮らしをされていて、わたしを見たら、ユミラお
嫁いできて初めて、マルグリットは
そのうえ、翌日の夕暮れには、ルシアンは宣言どおり大量のドレスや装飾品を運び込んだのだった。
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