第三章 夫の様子が変です②
*****
「これを……わたしにですか……?」
マルグリットが
そして、それらの前に立ち、
(これはいったい、どういうことかしら……)
不本意な出費をさせられて怒っているのだろうか。だとしたら申し訳ない。
「……嬉しくないのか?」
低い声が部屋に落ちた。ルシアンはうなだれるように花束に顔を
「いえ、まさか! ありがとうございます。ルシアン様。とても嬉しく思います」
マルグリットが笑顔を見せるとルシアンの表情が
どきん、と
「なら、受けとってほしい。これまでの
花束の向こうに見えるのは、
(怒ってはいらっしゃらないのだわ)
マルグリットの両手が花束を抱えるように受けとる。近づいた
ルシアンがどこかほっとしたような顔をしているのはマルグリットの思いすごしだろうか。と、ルシアンは背後をふりむき、
「では始めろ」
「あっ!」
ルシアンの声に使用人たちが品物を室内へ運び入れる。これまでのやりとりを見られていたのだと思うと
クローゼットに数えきれないほどの
「待て」
メイドを呼び止め、ルシアンは彼女の持っているドレスを検分した。
「これは肩が開きすぎている。だめだ。こんなに
たしかに
メイドはドレスを持って部屋を出ていく。
様子を見ていたマルグリットと目があうと、ルシアンはばつの悪そうな顔になった。
「……選んだときは、いいと思ったんだ……君の
「ルシアン様が選んでくださったのですか?」
答えはない。ルシアンはぷいと横を向いてしまった。
別のメイドはベルベットの敷かれた小箱に
イサベラもこんなに多くの宝飾品は持っていなかった。酒を飲んだモーリスは、もとは同格の
ドレスを検分し終わったルシアンが戻ってくる。
「明日からは
「ありがとうございます。こんな、過分な待遇……」
マルグリットは頭をさげた。
「過分ではない。当然の待遇だ。これまでが悪かった……申し訳ないと思っている」
ルシアンの表情に
「お気になさらないでください。本当に感謝しております」
「そうか。……では」
「はい、また明日の朝に。お待ちしておりますね」
ルシアンはふらふらとした足取りで部屋を出ていった。
扉が閉まったあと、顔を赤くしたり青くしたりしながら歩く主人を使用人たちが
*****
翌朝、いつもならばマルグリットをキッチンへ連れていくはずのアンナは、早めの時刻に部屋へ入ってきて、
終始しかめ面だったもののアンナの
「わたし、ルシアン様のこと、
キッと
アンナは仕事の手を抜いていない。そのうえで、正々堂々と勝負を宣言したのだ。
「うん!」
「だから、そんなだらしない顔を……」
嬉しくて笑顔になると、
「ほら、できました。もうルシアン様がいらっしゃいますよ」
アンナのその言葉と同時に、ノックの音が届いた。
部屋を
(アンナが髪も整えてくれたし、自分では思いのほか似合っていると思うのだけれど……やっぱり変なのかしら)
不安げに見上げると、目があった
(顔も見たくないほど
昨日は距離が近づいたような気がしたのに、やはりルシアンにとってマルグリットは敵の家の娘なのだろうか。そう考えると胸の内を
美しいドレスを身にまとったマルグリットをお気に
食堂に現れたマルグリットを見るなり、きゅっと
「まあ、なんですのその派手でけばけばしい格好は! これみよがしに宝石をくっつけて、いやらしい……! 伯爵家はあなたにドレスの選び方も教えなかったの!!」
あっと思ったときには遅かった。
「お義母様!」
「な、なによ……」
これまで口答えをしたことのないマルグリットに呼びかけられ、ユミラ夫人は反射的に口をつぐむ。
数秒の沈黙が支配した食堂に、
「それは……俺が選んだのです……」
その朝、ルシアンはいつもより
ユミラ夫人から
「似合っている……と、俺は思う」
と言ってくれたために、マルグリットの不安はなくなった。
満面の
着ているものが
「いえっ、もう妻にあんなことはさせるなと、ルシアン様からご命令ですのでっ」
「そうなのね」
なにもかも初めてのこと
生活が劇的に変わった理由は、マルグリットをどう扱うかというルシアンの方針が劇的に変わったからだというのはわかる。
だが、なぜ方針が劇的に変わったのかは、あいかわらずわからないままだ。
(きっと、ルシアン様がとってもやさしいお方だからでしょうね)
残念ながら、数年間にわたり人間関係が
そんなわけで、ルシアンから示されたものが
*****
数日後のド・ブロイ
ニコラスはメレスン
先日の晩餐会にもニコラスは顔を見せている。
「ふたりで会うのは久しぶりだな、お前から呼ばれるとは思わなかった」
ソファに背を
そしてそれは当たっていた。ルシアンはわずかに頰を赤らめ、
(こんなルシアンは初めてだな)
相当参っているらしい。どちらの意味にかはわからないが。
「ごにょごにょと世間話をしてもしょうがないだろう? さっさと用件を言えよ」
「ちょっと待っていてくれ」
「なんだ?」
応接室のドアがノックされたのは、そのときだった。
「失礼いたします」
静かにドアを開けて入ってきたのは、妻マルグリットと、数人のメイドである。メイドたちが軽食と飲み物の準備をして立ち去ると、マルグリットも一礼をした。
空色と深青のコントラストの美しいドレスは、この日のためにという名目でルシアンがもう一着あつらえたのだが、もちろんニコラスには知る
頭をあげたマルグリットはにこりと笑った。
ニコラスとの
「お久しぶりでございます、ニコラス様」
「ええ、マルグリット様もお変わりなく……いえ、以前よりお美しくなられたかな」
「まあ、ニコラス様ったら」
笑いあうふたりにルシアンが顔をしかめた。
「もういい」
「はい、失礼いたしました。ごゆっくりと、ニコラス様」
ルシアンの周りの空気がどす黒い。皺の寄った
王命による政略結婚にしては悪くない妻だと思ったが、ルシアンには納得がいかないのだろうか。
「どう思う」
やがておもむろに口を開いたルシアンが、押し殺したような声で尋ねる。
「なにが?」
「彼女のことだ」
「どうって……派手さはないけど落ち着いていて、君にはぴったりじゃないか?」
「そうか」
「……え?」
ニコラスは
こんなルシアンは初めてだ。二度目にそう思うに至り、ニコラスはおぼろげながら真実をつかみかけていた。
「王家からの命令で
「そうだ」
「でも思ったよりはいい娘だ。こっちを嫌っているわけでもなさそうだし、
「そうだ」
「なんの問題もないじゃないか」
「ある」
またどす黒い殺気が戻ってくる。
「実家で、
(……いや、それが君になんの関係があるんだ?)
マルグリットが実家での暮らしについて口を
「ルシアン様が結婚してくださらなかったら、わたしは
もとからモーリスはイサベラに
マルグリットに執事の代わりをさせ、領地や家の管理を補佐させながら、イサベラの子どもたちが伯爵位を継いでゆく。モーリスが考えていたのはそんな未来だった。
(そんなもの、飼い殺しではないか)
口をついて出かかった非難はあまりにも
絶対に誰にも言わないようにお願いします、と口止めされたからニコラスにも
最もルシアンを
黙り込んだルシアンに、ニコラスは腕を組んで
「はあ……なるほどなあ。深くは聞かんが、よほど
「ずいぶんとものわかりがいいな」
「いや君の顔を見ればね……
「望めばド・ブロイ家の総力を挙げてあの家を叩き
「そりゃあ、まあ、王命に
妻の不憫な過去にルシアンが怒りを感じているのはニコラスにもよくわかった。
(しかし、結局のところ、今日の用件はなんなんだ)
まだ話が見えないと内心不思議がるニコラスの前で、ルシアンはまだむっつりと唇を引き結んでいる。しばらくしてじろりと睨むように視線をよこし、
「どうしたらいいと思う?」
「……なにが?」
今日のルシアンはやはりおかしい、とニコラスは嘆息する。長年の
利害関係のない部外者からすれば答えは
「べつに復讐なんかせずに、君が奥さんを幸せにしてやればいいだけの話だろう」
まっとうなことを言ったつもりだったのに、ルシアンの表情はまた険しくなった。
「……もう、十分に幸せだと言うのだ」
「ただの
「幸せなわけがあるか。わが家でも母からひどい扱いを受けている。なのに心底嬉しそうに俺を見るのだ」
「……それはたしかに、もどかしいな」
ニコラスも腕を組んで
「好きな相手ならなおさらだな」
「……は……?」
瞬間、空気が止まった。
ルシアンが目を見開いてニコラスを見る。
遅れて、今日さんざん感じていた
諦めと呆れの境地に達した彼は、ソファに身を沈め、友人が現実を受け入れるのを眺めていた。
おそらく彼の脳裏にはこれまでのことが目まぐるしくよぎっていることだろう。
(だから話が嚙みあわなかったのか)
まさか自分の
ルシアンはまだフリーズしている。
(そういえば昔から色事にはとことん
幼いころから
マルグリットのような令嬢が似合いだと考えたのは当たりだったわけだが、
(素直にイチャつけるとも思えんなあ……)
菓子と紅茶に
「俺は……」
「うん、なんだ」
「……お前を愛するつもりはないと、言ってしまった」
「それはまた……」
なんといっても長年の政敵である。先手を打って相手の鼻っ柱をへし折ってやろうと考えた気持ちはわからなくもない。それにしても馬鹿なことをしたものだと呆れながら、彼女ならそれも許してくれそうだとも思う。
「彼女はなんて言ったんだ」
「〝わたしもあなたを愛する気はありませんので、どうぞご心配なく〟」
ニコラスの問いに答え、ルシアンは一言一句
その瞬間、
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