第一章 これは政略結婚です


「わがクラヴェル家とド・ブロイこうしゃく家のえんだんが決まった」

いやよ!! あたし!! あんな人たちの家にとつぐなんて!!」


 クラヴェルはくしゃくしずんだ声と、悲鳴のようなイサベラの声は、ほとんど同時だった。


「嫁ぐのはお姉様!! お姉様にして!! あたしは絶対に嫌だから!!」


 キンキンと耳にひびわめき声をあげながらイサベラは首をる。ゆるくウェーブがかったきんぱつは乱れ、目にはなみだかんでいる。


「どんなあつかいを受けるかわからないわ……お父様、お父様……嫌よ、あたし……」


 イサベラはモーリスの首にうでをまわしてすがりつき、そのほおを涙でらす。

 いかにもあわれっぽいイサベラの仕草に、モーリス・クラヴェル伯爵はマルグリットを見た。迷いや不安を押し隠そうとする視線は、温度を失ったように冷たい。


「そういうことだ、マルグリット」

「……はい」


 妹のようにゆたかな金髪も泣き落としのできる演技力も持ちあわせていないマルグリットは、くすんだ色のかみらし、ただ静かにうなずいた。


「ルシアン・ド・ブロイに嫁ぐのは、お前だ」


 ド・ブロイ公爵家とクラヴェル伯爵家とは、領地を接し、長年の天敵であった。

 もとはといえば公爵家も伯爵家も、くんで功績を立てたいえがらである。両家は南の国境沿いにそれぞれ広大な領地を持ち、りんごくしんりゃくからリネーシュ王国をまもってきた。

 それだけにたがいをライバル視する意識も強く、りあいが絶えない。


「だいたい二代前まではド・ブロイのやつらも伯爵位だった。それをうまいこと王族に取り入って、第四王子を婿むこむかえ、持参金がわりに追加の領地としゃくを得たのだ」


 ったモーリスがこぼすのはいつもその話だった。


「今のこうしゃくじんも国王陛下の妹君さ。ド・ブロイの連中め、王家のほうばかり向きおって。実際にいくさにでもなればどちらが役に立つかよほど知れように」


 血気さかんににくみあう二つの家は、互いに領ざかいの村や都市をおそっては、侵略を受けたと王家にうったえる。隣国の動きをけいかいせよと命じても協力する姿勢すら見せない。

 そういったじょうきょうに王家もついにまんの限界を迎えたらしい。

 ある日、両家のしきに王家からの使者が訪ねたかと思いきや、


「ド・ブロイ公爵家とクラヴェル伯爵家の結びつきを強め、親交を深めるべく、ひと月以内に両家の縁談を調ととのえること」


 という命令をのたまったのであった。


 命じたのは王家きってのやり手とうわさのエミレンヌ・フィリエおうで、今やその権勢は国王をしのぐと言われる。逆らえばしょばつまぬがれない。

 クラヴェル家にはむすめがふたりいるだけだ。

 見た目の派手さはないがゆうしゅうで、父親の補佐として領地の経営も問題なくこなす姉・マルグリットと、ごうなドレスや宝石を身にまとい、き母親ゆずりのぼうで社交界に浮き名を流しているが、国内の地理もおぼつかない妹・イサベラ。

 どちらかが家をぎ、どちらかをド・ブロイ家に嫁がせなければならない。

 こうして、クラヴェル伯爵家当主モーリスは、じゅうの決断をいられた──と、いうわけではなかった。もとより、イサベラがこのけっこんを承知するはずがないのだから。


「そうだな。イサベラをド・ブロイ家にやるなんて、考えただけでもぞっとする」


 美しい妹をきよせ、モーリスは首を振った。


「イサベラ、お前はまだわしの──お父様の腕の中におればよい。いずれ婿をとり、この家を継がせよう」

「ええ、そうしてくださいな、お父様」

「そうと決まれば、さっさと準備をしろ、マルグリット」


 にらみつけるようにマルグリットをえ、モーリスがかけた言葉はそれだけだった。


「はい、承知しました」


 頭をさげるマルグリットにイサベラはあざけみを浮かべ、モーリスはまゆをひそめた。


「ほら、お姉様は嫌がっておられませんわ。あのひとには感情というものがないのかしら」

「まったくだ。敵の家に嫁ぐというのに……イサベラのように泣いて縋ればまだわいげもあるものを」

(泣いて嫌がれば、口答えをするなとののしるでしょうに)


 内心のつぶやきを表には出さず、マルグリットは部屋を出た。背後ではまだ父と妹がマルグリットをくさしているが、気にしてはいない。

 母が亡くなってからというもの、父は母の美貌を受け継いだイサベラの言いなりだ。対して外見は母にあまり似るところのない──それでいて娘のくせに自分よりも優秀であることがうかがえるマルグリットを、うとむようになった。かんしゃくを起こすと手のつけられないイサベラのため、すべての我慢をマルグリットに強いる。

 その態度は使用人全員に伝わり、イサベラの命令でマルグリットは物置のような部屋にかされ、食事をあたえられないこともしばしばあった。

 今だって、マルグリットが着ているのはサイズのあわないうすのドレスだけだ。

 幸いだったのは、母が生きているあいだに、マルグリットにきちんとした教育を受けさせてくれたこと。


(この家を出られるのはチャンスかもしれない)


 降ってわいた天敵との縁談話がなければ、おそらくモーリスはマルグリットに嫁ぎ先など用意しなかったであろうから。


 部屋にもどり、マルグリットはあらためて室内を見まわしてみた。

 北の、最もかんきょうの悪い一室が彼女の部屋だ。夏は暑く冬は寒く、雨が降ればかべみができ、すきかぜは四重奏をかなで、メイドはせいそうほうしている。

 クローゼットという名目の木箱を開き、公爵家へ運ぶものを検討する。マルグリットに許されているのは、いま身につけているもののほかに、数着のったいドレスとヒールのったくつ、数冊の本と、しゅしゅう用品。価値のあるものはすべて、イサベラに取りあげられた。

 と、バタバタとしゅくじょらしからぬ足音がして、ドアが大きく音を立てて開いた。泣き濡れた表情を消し去ったイサベラがとして部屋に入ってくる。

 用事があるときにはノックをとか、りょうしょうを得てから入りなさいとか、そういったことを忠告してやるだけの気力はもうマルグリットにはない。


「ああ、お可哀想かわいそうなお姉様! ド・ブロイ家に嫁ぐことになるなんて。あたし、ばんさん会であの家の人たちを見たことがあるのよ。ルシアン様はね、れいな見た目をなさっていたけれど、ずっとおこったような顔で、一度も笑わなかったわ。公爵家だからって周囲をさげすんでいらっしゃるんでしょ。お姉様なんてボロくずのように扱われるわ」


 そんな扱いは慣れている、と言いたいところだが、言えばイサベラがげきこうすることは目に見えていて、マルグリットは表情のない顔でうつむくだけ。


「あんまり可哀想だから、あたしのお気に入りのブローチをあげるわ」


 あごをそらし、イサベラはエメラルドのブローチをさしだした。言葉どおり姉を思いやって、ではない。似合うドレスもないのに高級なアクセサリーをおくられても扱いに困るだけ。そんな姉の姿が見たいのだ。

 なにも言わず、受けとろうともしないマルグリットに、イサベラは眉を寄せた。すぐにくちびるゆがみ、いかりに顔が赤くなる。


「ねえ! 感謝したらどうなの! いつもそうやって……あたしをバカにして!」


 ひゅっと風を切る音の直後、かたいものが壁にぶつかった。同時にひりついた痛みが走り、マルグリットは頰にれた。指先にはうっすらと血がつく。イサベラの投げつけたブローチがマルグリットの頰に傷を作ったのだ。


「なんてことを。ド・ブロイ家の方々と顔合わせがあるでしょうに……」

「べつにいいわよ。その顔で会ったほうがあたしたちの気持ちがわかるというものよ」

「王家の命令に不服を表すことになるのよ」


 どうようするマルグリットを見てりゅういんがさがったのか、イサベラはにんまりと笑うと部屋をあとにした。マルグリットを苦しめることができた以上、こんなみじめな場所には一秒たりともいたくないのだ。

 やってきたときと同様、バタバタと足音をさせながら気配が遠ざかる。開けっぱなしのドアを閉め、マルグリットは気持ちをえようと深呼吸をした。


「……うん、やっぱりこれは、いいことのように思えてきたわ」


 どうにかしてマルグリットをおとしめたいイサベラと、常にイサベラのかたを持つ父。実の家族からそんな扱いを受けているよりは、敵の家へ嫁いだほうがまだきょうぐうへのあきらめがつくというものだ。

(悲しいことばかり考えていてもなにも始まらないもの)

 みょうな形のキノコをくわえて横切っていくネズミにさよならのあいさつをし、テーブルに向かったマルグリットはあおい表紙の本を開く。

 しきさいほどこされたページには、波しぶきをくぐるかいじゅうたちがえがかれていた。


「ド・ブロイ領には、海がある」


 ド・ブロイ領は、国のなんたんでもあり大陸の南端でもある。リネーシュ王国で海に接する領地を持つのは、王家とド・ブロイ公爵家だけ。

 海──それは幼いころからのマルグリットのあこがれだった。きることのないおおうなばらには、塩気のある水が満ちているという。人々は船を出し、未知の航路をかいたくして、希少な宝石やこうしんりょうを手に入れる。海の底にむ生きものは、だん目にする魚ともまったくちがった姿かたちをしているそうだ。


『海からはあらしがやってくるの。嵐の中心には人魚が棲むと言われているわ。彼女らは美しい声で歌い、船乗りたちを嵐の中へさそい込む……』

こわい、お母様!』

『こわあい!』

だいじょう、いい子にしていれば人魚たちはあなたをかんげいし、海の底のきゅう殿でんへ招待するでしょう。そしてうたげの最後には、てきな贈りものをくれるのよ』


 イサベラもともに母のものがたりを聞いて、目をかがやかせていたはずだった。けれども今の彼女には、海はなんのかんがいも呼び覚まさないものであるらしい。


(ド・ブロイ家に嫁げば、海が見られるかもしれない)


 父や妹が聞けばバカバカしいと笑ったであろう希望を胸に、マルグリットはド・ブロイ家に嫁ぐことになった。


 王家の要望どおり、ルシアン・ド・ブロイとマルグリット・クラヴェルのけっこんしきは翌月に行われた。

 おどろいたことに、ド・ブロイ家との顔合わせはなかった。そのおかげで顔のきずあとは見られる前に治ったのだが、あいさつすらなく式の当日をむかえるというじょうきょうは両家のあいだに横たわるみぞが深いものであることをあらためて感じさせた。

 ひと月のあいだにマルグリットは、モーリスの補佐として管理していた一部の領地の経営状況を文書にまとめた。各村や町ごとの気候、特産物、主要な取引先などをリストアップし、進行中の政策や課題を書きとめたのだ。


(あとはそれをお父様やイサベラが見てくださればいいのだけれど……)


 ド・ブロイ家にとつぐことが決まってからというもの、モーリスとイサベラの態度は冷たさを増した。敵になる者に教えることはなにもないと、マルグリットと領地のやりとりを禁止してしまった。

(最後の手紙で冬のちくを指示していたのは幸いだったわね)

 それ以降マルグリットは結婚して経営から退くことすら役人たちに伝えられず、苦肉の策としてぎのための文書を作成したのだった。

 こんれいの日となってもモーリスとイサベラはかたくなな態度をつらぬき、親類になるド・ブロイ家をきらい、さげすみ続けていたが、それはド・ブロイ家も同じであったようだ。

 ルシアンとマルグリットの婚礼は、まれに見る簡素なものだった。

 本来貴族同士の結婚といえば、ろうの場もねて両家の親類や周辺領の貴族などを呼びたてるものだが、そのあたりはすっぱりとカットされた。ごうな食事もけんらんかざりつけもカットされた。

 王家の代表者と内務長官、司祭の前で、ド・ブロイこうしゃく家とクラヴェルはくしゃく家の者たちが集まり、しんろう新婦が結婚のせんせいを立てるのみ。その宣誓も、ただふたりがふうになったことを表明するだけで、永遠の愛やはんりょの尊重といった文言は省かれた。もちろんちかいのキスもない。とにかく婚礼というしきをすませるだけ。

 ルシアンはイサベラの言ったとおりの人物だった。整った顔立ちに、深海を思わせるあおみがかったくろかみと、同じ色のひとみ。切れ長の目と通った鼻すじはれいこくさを印象づけ、本人もそれをやわらげるつもりはないらしい。表情からも仕草からも感情は読みとれない。

 ただし、王家の代表者はすこぶるじゅうじつ感にあふれた顔をしていた。

 おうエミレンヌ・フィリエその人である。いとして第三王子ノエル・フィリエ以下、複数の王族関係者も参加しているため、格式だけでいえば非常に高いものになる。


(この方が、かのエミレンヌ王妃……)


 シンプルなドレスをりんとしてまとうエミレンヌを見つめ、マルグリットは息をんだ。はっきりとした目鼻立ちとつんとしたあごは彼女の強さを示しているように見える。

 新郎新婦よりも高い位置に座るエミレンヌは列席者たちをへいげいすると、にっこりとみをかべた。


「このたびは、ド・ブロイ公爵家とクラヴェル伯爵家の結びつき、非常にうれしく思う。若いふたりにはぜひ仲むつまじく暮らしてもらい、これまでのすれちがいをぬぐってほしいものだ。ルシアン! マルグリット!」


 はきはきとした声で名を呼ぶやいなや、あわてる内務長官を残し、エミレンヌはからおりてしまう。

 直立の姿勢で話を聞いていたルシアンとマルグリットも急いで礼をした。そのふたりのかたいて顔をあげさせ、エミレンヌはやさしくほほえむ。


「仲睦まじくね、な・か・む・つ・ま・じ・く」

「承知いたしました」


 おそれおおさにおののきつつ、マルグリットはルシアンとともにふたたび頭をさげた。


「さあ! 若いふたりのかどを祝おうではないか!」


 グラスをかかげるエミレンヌのかんぱいに、はくしゅがわき起こる──。

 だが、拍手がまばらになり、王族が退出すると、結婚式はあっさりと終わった。

 ド・ブロイ家とクラヴェル家の面々は、しんせきとなったというのに挨拶もわさずに帰っていく。マルグリットにも理由はわかっていた。

 エミレンヌは仲睦まじく、と強調したが、この式はそうとは受けとれない。内輪のみであり、儀式も省かれている。

 仲睦まじくしなければならない──ただしそれは、人前では、の話。人の目のないところでは、それほどすぐには変わらなくてもよい、というゆうに思える。

 ちらりととなりのルシアンを見るも、新妻の視線に応えることもなく、彼もまた、さっさと広間をあとにしてしまう。

 しばらくなやんだあと、マルグリットはルシアンの去ったほうへと歩んだ。

 少ない列席者の中でも、帰る家が変わるのは、マルグリットだけだ。


*****


 王都にあるこうしゃくていは、さすがに実家よりも大きく、建築様式もはなやかだった。

 とくにマルグリットの心をつかんだのは、室内ちょうこくや調度品に使われている蒼い宝石。しを受けてかべあわい模様を反射させるそれらは、まるで海をほこるようで。


(なんて美しいの……!)


 夢中になっていたマルグリットは、先導するメイドがむっつりとだまり込み無礼な態度をとっていることにも、自分がしんしつや客間のあるおもからはなれ、北の離れへと向かっていることにも気づかない。

 うすぐらい階段をのぼり、ようやく不思議に思ったところで、辿たどりついた光景にマルグリットはふたたび目をうばわれた。

(図書室だわ! おまけに、標本もそろっているじゃない)

 とびらの小窓からのぞくと、けになった円柱状のへきめんはびっしりと本でまっている。階層ごとに通路がめぐらされ、中心には美術品や標本もあった。


「こちらがマルグリット様の寝室になります」


 あいそうにふりむいた使用人が指さしたのは、図書室にえつけられた小部屋だ。以前は管理人が住み込んでいたのだろう。今はだれもおらず、まつなベッドがあるだけだった。

 とても次期当主の妻にあたえる寝室ではない。

 マルグリットがおこりだし、えんを口にするのをメイドは待った。

 だが、マルグリットはなにも言わない。実家のクラヴェル家ではもっとひどい場所に住まわされていたのだから当然である。


「ええ、ありがとう」


 いやな顔ひとつせず、むしろよろこびの色すらにじませつつうなずいたマルグリットに、メイドはぽかんとした顔つきになった。


 みょうな表情のメイドが去ったあと、マルグリットは手持ちの荷物を広げてみた。つつましすぎる所持品は使用人のものだったとみえる小部屋にも難なく収まった。

 輿こしれ道具のないマルグリットを、ド・ブロイ家の人々はいぶかしまなかった。ド・ブロイ家へのきょうじゅんを示すためにわざとみすぼらしい身なりでむすめをさしだしてきたのだと彼らは受けとった。もちろんド・ブロイ家の側もたく金などはらっていないからおたがい様である。


(問題は、夕食の場に出るためのドレスすらないことなのだけれど……さすがに非礼がすぎるわ)


 エメラルドのブローチはクラヴェルていに残してきた。この状況ではあっても意味のないものだったと実感する。

 どうしたら、と考えていたマルグリットのゆうりょは、すぐにふっしょくされることとなった。

 夕食だと呼ばれてマルグリットが通されたのは、キッチンの一角。夫であるルシアンも、義理の両親となった公爵夫妻もいない。

 目の前ではコックたちが金模様の皿にせんさいな盛りつけをほどこしているけれども、マルグリットの前に置かれたのはパンとパテとサラダとスープだ。


「どうぞ」


 運んできたメイドはそう言うだけで立ち去っていく。先ほど案内をしたメイドと同じ人物だ。若奥様であるマルグリットに飲み物をたずねることもない。

 ぽつんと取り残されたマルグリットを無視して、コックやメイドたちはいそがしそうに働き続ける。

 彼らもやはり待っていた。〝使用人あつかい〟をされたマルグリットが怒りだすのを。椅子から立ちあがり、しょくたくを離れ、「もうたくさん。離縁だわ!」とさけぶのを。

 王命に逆らうことになるため、ド・ブロイ家から離縁したいとは言えない。だからこうして遠まわしな嫌がらせを、立場の弱いマルグリットにけることになる。

 だが、マルグリットは離縁を口にしたりしなかった。


 みょうに静かなマルグリットの意図を使用人たちが知ったのは、仕事が終わり、自分たちの食事の時間がまわってきたときのこと。

 キッチンのいちぐうにあるテーブルにはまだマルグリットが座っていた。手つかずの食事を目の前に置いて。

 食べないことでていこうを示す気かとみななっとくしかけたそのとき、


「ああ、やっと仕事が終わったのね。おつかさま


 マルグリットは明るい笑顔を見せた。


「それではみんなで食べましょう。わたしのスープは冷めてしまったけれど問題ないわ。十分においしそうだもの」


 言って、使用人たちにテーブルにつくようにうながす。


「……はい?」


 きつい視線を向けてきたのは先ほどのメイドだった。まだ若いメイドで、古株とは思えないのだが、どうやらキッチンをり仕切っているらしい。


「おっしゃる意味がわからないのですが、若奥様?」

「待っていたのよ。食事はみんなでしたほうがおいしいじゃない。せっかくここに席を用意してもらったのだから、いっしょに食べたいの。名前も覚えたいし」


 ぴき、とメイドのこめかみに青筋が立った。


「なにを考えていらっしゃるのです!! あなたはルシアン・ド・ブロイ夫人なのですよ。こんな扱いをされてへらへら笑っているなんて、プライドというものがないのですか!!」


 バンッとぼんでテーブルをたたき、メイドが叫ぶ。


(……ホームシックにはならなくてすみそうね)


 実家での父モーリスや妹イサベラを思い出し、マルグリットは心の中でつぶやいた。

 この程度のいかりであれば受け流せる。いくらせいのよいことを言おうが、ほおに傷をつけたイサベラとは違い、使用人たちはマルグリットに直接手をあげることはできない。


「あら、それならルシアン・ド・ブロイ夫人の扱いをしてくださいな」

「……!」


 にこりと笑うとメイドはぐっと言葉をまらせた。

 実家ではただの姉であったマルグリットは、この家では彼女の言うとおりしょうしんしょうめいのルシアン・ド・ブロイ夫人なのである。


「それができないのなら仲間にしてちょうだい」


 メイドはわなわなとふるえているが、返す言葉は見つからないらしい。まわりの使用人たちは心配そうにふたりのやりとりを見守っている。


「公爵家から出された指示はわたしを使用人のように扱うことなのではなくて?」

「……」


 無言はこうていであると、マルグリットは受けとった。


「なら、命令に従ったほうがよいのではないかしら。わたしのお願いとも食い違わないことだし」



*****



 一週間がたった。

 あいかわらず夫とは顔をあわせていないし、食事はキッチンのかたすみだし、使用人たちは口もきいてくれないが、マルグリットは気にしていなかった。

 図書室のあるとうは、ほかの塔よりもがんじょうに造られているらしかった。防音・保温効果にすぐれ、窓こそ少ないものの、明かりも入る。誰も来ないから通りがかりに部屋にゴミを放り込まれたりしない。すきかぜも吹かないし、雨が降ってもみてこない。


(そう思えば、なんとこくかんきょうで生きていたのかしら)


 あまりにもそれが当たり前になってしまっていた。

 口答えをすれば報復があるから、えるしかないと考えていた。もしかしたらそういった態度が、余計に父や妹を増長させてしまったのかもしれない。


(ここへ来てからわたし、明るくなった気がするわ)


 図書室にはマルグリットの感性をげきするかんや標本、絵入りの歴史書などがたくさんある。それらをながめ、好きなだけしゅうができる。布や糸はメイドにお願いしたら用意してくれたので、嫌がらせをしているはずなのに詰めが甘い。外に出るのも自由だから身体からだを動かしたくなったら庭に出ればよい。ちなみにマルグリットが部屋を空ける昼食時に、毎日部屋のそうすみずみまでされている。

 ちりひとつない書き物机でせっせと刺繡にはげんでいると、食事を知らせるかねが鳴った。

 大きくのびをし、いつものドレスを身につける。じょはいないから自分でだが、誰に会うわけでもないので気は楽だ。

 キッチンへ出向くと食事の支度がされていた。ほかの使用人たちも席につき始めたところである。根負けしたメイドは、マルグリットの要求を聞き入れ、皆でそろって食事をしている。もとから使用人のような服装のマルグリットに、彼らはすぐに慣れた。

 かしずかれたいなどとは最初から思っていない。がやがやと活気のあるテーブルで、なところもある使用人たちの会話を聞くのは、マルグリットには楽しかった。


(やっぱり嫁いでよかった)


 あたたかなスープを口にしながら、マルグリットは心からの笑顔になった。



****



 図書室の扉を開け、室内にひとかげいだしたルシアンは、いっしゅんどうもくした。だがすぐに思い出した。彼の妻マルグリットの寝室が図書室のわき、かつて管理役の使用人が住み込んでいた部屋に割り当てられたことを。

 マルグリットがルシアンの入室に気づく様子はない。それもそのはず、彼女はテーブルにつっぷして安らかないきを立てている。

 テーブルに広げられているのは海洋学の博物誌だ。

 無言でマルグリットのそばを通りすぎ、ルシアンは目当ての本のあるたなに近よった。祖父の書いた、貴族たちの儀式を解説した手記である。伯爵から公爵となって日の浅いド・ブロイ家には、なくてはならぬものだ。

 しばらくして、調べものを終えたルシアンはマルグリットをふりかえった。

 嫁いで一週間がたつというのに、まだ言葉すら交わしていない妻。


(……あどけないがおだ)


 婚礼の場で初めて顔をあわせたとき、マルグリットは表情の抜け落ちたような顔をしていて、それほどド・ブロイ家に嫁ぐのが嫌なのかとルシアンも怒りをたぎらせた。ひんそうなドレスで公爵邸へやってきたマルグリットを見、怒りはさらに強くなった。


「あの厚かましい娘が出ていきたくなるように、自分の立場をわからせてやるのよ」


 使用人たちに命じる母ユミラの言葉を聞いても、止めようとは思わなかったものだ。

 だが今のマルグリットは、冷酷な仕打ちを受けているというのにそう感はどこにもない。むしろ以前よりも生き生きとしているかもしれないと、使用人たちも首をかしげていた。

 マルグリットの口元にはうっすらとほほえみがいている。夢でも見ているのか、その笑みはときどき深くなり、満足げな笑顔になることもあった。

 美しい、としょうさんするほどではない。容姿だけでいうなら式で見かけた彼女の妹のほうがずっとれんな外見をしていた。

 なのに、不思議と視線がきよせられるのは、彼女に貴族特有の毒気がないからだろう。


(いったいなにを考えているのだ……)


 ぼうぜんともいえるおもちでマルグリットを眺めていたルシアンの手から、手記が落ちた。


 ばさりという音に目を覚ます。

 ふと顔をあげると、テーブルの向こうにルシアンが立っていた。


「ルシアン様!?」


 慌てて立ちあがる。どうやら本を読みながらねむり込んでしまったらしい。ルシアンのおとずれにも気づかなかった。


「も、申し訳ありません。どこでもられる体質なもので」


 妙な謝罪を口走りつつ、ばつの悪さに頭をさげる。

 ルシアンの反応はない。怒っているというよりも、驚いているようだった。

 足元には本が落ちている。しっかりとしたそうていだが豪華なものではない。マルグリットはそれを拾いあげてルシアンにさしだした。


「どうぞ」


 やはりルシアンの反応はにぶい。マルグリットをまじまじと見つめたあと、本に視線をおろし、受けとろうともしない。

 ルシアンの背後には本が抜かれたあとがある。そこへもどしておけということだろうか。


「あの、中をかくにんしてもよろしいですか?」


 尋ねるとルシアンの目つきがするどくなった。


「なぜだ」

「破損などないかを確認したほうがよいかと思いまして……どなたかの手記なのでは?」


 だとしたら大切なものだが、勝手に中を見るのはためらわれる。


「……どうしてわかる?」

「その棚の本はド・ブロイ家のみなさまの書かれたものでしょう」


 じゅうこうこしらえのこくたんほんだなは、それだけ明らかにほかと区別され、さいを放っていた。にもかかわらず収められた本は機能性重視の簡素な装丁のものが多く、表紙には署名と日付や連番のみの情報しかない。目を楽しませるものではなく、むしろ家族以外の目にれることを目的としない、秘された情報だろう。

 マルグリットがモーリスにわたした文書と同じ。領地経営に関してや、財政についての情報があるかもしれない。


「ですから、許可なくわたしが中を見るわけには……」


 その推測は当たっていたらしい。ルシアンの視線がいよいよ鋭くなる。

 あらあらしくマルグリットの手から本を受けとると、ルシアンは自らいたみのないことを確認し、棚に戻した。


(余計なことを言って、怒らせてしまったかしら)


 ──お姉様のいんな顔を見ているとイライラしてくるのよ。

 うつむいたマルグリットののうに、イサベラのきついまなしがよみがえる。

(おまけにわたしを追い出したいのにうまくいっていないし……)

 怒るのは当然だ、と申し訳なくなる。


「ド・ブロイ家の皆様のために、少しでもお役に立てることがあればいいのですが──」

「しおらしい態度をとって、びを売るつもりか? 俺に取り入れるなどと思うな」


 言葉をさえぎったのは、ルシアンの低い声。

 ほのぐらい海の底のような色をした瞳が冷ややかな視線をマルグリットに投げかけた。


「はじめに言っておく。お前を愛するつもりはない」


 告げられたのは、明らかなきょぜつ

 図書室は重たいちんもくに包まれた──わけではなかった。


「──はい!」


 顔をあげたマルグリットが、ぱあっと表情をかがやかせ、ルシアンの手をとったからだ。

 先ほど夢を見ていたときと同じ、花のほころぶような笑顔が、まっすぐにルシアンを見つめ返す。細くしなやかな手のかんしょくに、どきりと走ったどうようかくすよりも早く、


「わたしもあなたを愛する気はありませんので、どうぞご心配なく!」


 満面の笑みのまま、マルグリットはそう言った。


「……!?」


 一瞬おくれてから目を見開き、絶句するルシアン。

 首をかしげるマルグリット。


「あら、なにか変なことを言ったでしょうか?」


 マルグリットからしてみれば、ルシアンの一言は、重要な疑問を解消してくれた。


(そうなのね。ルシアン様は、そのことを不安に思われていたのだわ──わたしがド・ブロイ家に取り入ろうと、ルシアン様にまとわりつくことを)


 その不安ならば、すぐに払拭してさしあげることができる、というよろこびの表れがあの笑顔であり、愛するつもりはないと言われたから、自分もそれに同意したことを伝えただけ。


「この結婚は、王家からの命によるもの。ルシアン様とわたしは愛しあう必要はございません。これまでの両家の関係を考えれば好意を持てというほうが難しいでしょう」


 マルグリットの言うことは正しい。

 正しいゆえに、ちゅうちょなく語られてしまえば、ルシアンのほうも反論ができない。

 実際、ド・ブロイ家の者たちがマルグリットに好意を持つことができないゆえに、マルグリットはこのような格好でこのような場所にいるのだ。


「愛のない結婚なのですから、愛していただかなくて結構です。もちろん式典などの場では王妃様のおっしゃったとおり、仲睦まじくすごすようにいたします。マナーなども、ひと通りは修めておりますのでそちらについてもご心配なく」


 マルグリットはにっこりと笑った。


「現在の暮らしを保証していただければ、ド・ブロイ家の体面を傷つけるようなことはいたしません」


 はずむ声にも表情にもうそはなかった。ルシアンから見て、マルグリットの態度が強がりだとは思えない。もちろん強がりではなかった。むしろマルグリットは浮かれていた。これまでのしんちょうな彼女なら、もう少しルシアンの表情をうかがうことをしただろう。


「……ルシアン様?」


 ようやくマルグリットは、ルシアンの反応がないことに気づく。

 思いがけぬ言葉の連続にぜんとしていたルシアンは、マルグリットから覗き込まれ、はっと顔をそむけた。


「──戻る」

「はい。お話しくださってありがとうございました」


 素っ気なくそれだけ告げるルシアンにもマルグリットはうやうやしく礼をする。型遅れの古いドレスをまとってはいるが、それは彼女が言ったとおり、れいを修めた者の礼であった。


「……礼を言うとは、皮肉か」

「いいえ。価値観のすりあわせというのは、夫婦にとって大切なことですもの」


 たとえそれが仮面夫婦でも──いな、仮面夫婦だからこそ、線引きは明確にしておく必要がある。ルシアンは察しろと押しつけることもなく、自身の希望を伝えてくれた。

 それに、冷たい態度をとろうとしてはいるが、ルシアンは他人を無下にする人間ではないとマルグリットは思った。


(お父様やイサベラならこの長さの会話は不可能だわ)


 マルグリットの対応にルシアンはこんわくしたようであったが、手が出ないし、とうを浴びせてもこないし、根はやさしい人物なのだろう。

 身近にいた家族が人でなしであったせいで、マルグリットの守備はんは相当に広い。

 扉の前で、ルシアンはマルグリットをふりむく。マルグリットはルシアンを見送るために立ち、ほほえんでいた。


「ごきげんよう、ルシアン様」


 ルシアンからの返事はない。

 扉は音もなく閉まり、マルグリットをへだてた。


「──あっ、海へ連れていってくれるよう、お願いし忘れたわ!」


 ひとりになったしゅんかんに最も大切な希望を思い出したマルグリットが声をあげる。


「まあ、いま言ってもだめでしょうから、仕方ないわね。ルシアン様とはうまくお付き合いしていけそうな気がするし、次期当主の妻として領地に顔を出す必要もあるはず」


 何度か外に出て、マルグリットがきちんと妻としての役割を果たすとわかってもらえれば、ド・ブロイ領へも連れていってくれるだろう。

 マルグリットにとって現状は、あいかわらず順風まんぱんなのであった。


 一方のルシアンは、図書室を出て足早に歩きつつ、自分の言動にいらっていた。


(なにを言っているんだ、俺は)


 はなしてやったつもりだった。家族のもとを離れ政敵のもとへ嫁いで、使用人たちからも見向きもされていないあわれな娘へ、最もたよるべき夫すら味方ではないのだと思い知らせてやろうと。

 なのにマルグリットは、くもりのない笑顔で、自分もまたルシアンを愛するつもりはないのだと告げてきた。同じ台詞せりふを、なんのふくみもなく返されて、ルシアンは自覚してしまった。ひどい言葉を投げつけたおのれの身勝手さを。

 マルグリットのほうがよほど冷静に事態を見ている。王妃の命令で離縁することができないのならば、互いに割りきってきょを置くのが最良のせんたくなのだ。

 それでも心にわだかまりがあれば、つらい暮らしのはずなのに。


(どうしてあんなふうに笑える?)


 その答えは一つしかない。

 マルグリットはド・ブロイ家に敵対心をいだいていない──ド・ブロイ家のほうは、彼女を追い出そうとやっになっているのに。



*****



 使用人たちの無礼な態度は、ド・ブロイ家の誰かが指示したものである。マルグリットから離縁を言い出させるために。だがたくらみはとんしつつある。マルグリットは耐えきれず離縁を申し出るどころか、日々楽しそうに暮らしている。


「今日という今日こそははっきりと言わせていただきます。ルシアン様にあなたはふさわしくない!」


 夕食時にキッチンを訪れたマルグリットを迎えたのは、例のメイドのり声だった。

 彼女の名がアンナであるということを、マルグリットは別のメイドから聞き出していた。なぜアンナがここまでたけだかに出るのか最初はわからなかったが、今ではわかる。

 アンナの背後にいるのはルシアンの母、ユミラ夫人。


「ユミラ奥様は一人むすのルシアン様をそれはかわいがっていらっしゃいますから……」


 どうせひまだからとキッチンの片付けを手伝っていたときに、コックのナットがそうこぼしていた。

 彼女にきつけられ、アンナはマルグリットをいたぶるきゅうせんぽうとなっているのだろう。


(わかる。気持ちはわかるわよ、アンナ……!)


 マルグリットは心の中で頷いた。


(ルシアン様にこいをしているのね!)


 先日の図書室で、久々に間近で見たルシアンは、黒髪にダークグレーのジャケットという落ち着いたしきさいの中にも堂々としたげんがあった。


「聞いているのですか!?」


 バンッとテーブルを叩く音がひびく。その音にマルグリットは顔をあげた。

 アンナの頰は紅潮し、眼差しはきつく、寄せられたまゆきばをむくように開いた口も怒りを表している。がるるる……とうなり声が聞こえてきそうだ。


「聞いているわ。ルシアン様にわたしはふさわしくないという話でしょう。たしかに家格も上だし、やさしい方だったし、わたしよりも美しいお顔をされていたわ。だからあなたの言うこともわかるなあって考えていたのよ」


 妻とは思えない他人ひとごとのような評価だが、マルグリットの本心だ。


「やさしい方、だった……?」


 訝しげな顔になるアンナの手をマルグリットはとった。


「……!?」


 アンナはマルグリットよりも一つか二つ年下、イサベラと同じくらいだ。

 ただマルグリットを見下し、どんな扱いをしてもいいと信じ込んでいるイサベラと違って、ひそかにおもう相手のために敵を追い出そうとするアンナの気持ちは、マルグリットにはまっすぐでまぶしかった。

 やり方はちがっているのだろう。でも、強気な態度とは裏腹に、アンナの手は震えている。そのきょうおさえ込んでマルグリットに立ち向かっているのだ。


「なにをなみだぐんで!?」

「ごめんなさいね、最近暮らしが楽しいものだから、すぐに感情が高ぶって……涙もろくなってしまったの」


 うっすらと滲んだ涙をハンカチで押さえ、マルグリットは首をる。


「気持ちを押し隠し、主人がふさわしい相手と結ばれるのを見守っていこう。そう思っていたのに、やってきたのはえない敵家の娘」

「な!? なにを言っているのですか!?」

「自分が隣に並びたいなどとは思っていない、ただあの人が幸せでいてくれれば……なのにあの人の表情はのうしずんでいくようで、自分の進退をしてでも敵を追い出さねばとけなな少女は決心した」


 あふれそうになる涙を拭いながら言えば、アンナの顔が真っ赤になった。

 マルグリットを泣かせてやりたいとは思っていたが、そういう意味じゃない。


「わかる。わかるわよ。なんて純真な心なの」

「違います! 違いますうう!! 図書室にこもって変な本の読みすぎじゃないですか!?」

「あら、そうかもしれないわ」


 離れのほとんどをせんゆうしている図書室の蔵書は多い。一生かかっても読みきれないのではと思うほどだ。

 本の内容もはばひろく、博物誌もあれば歴史書や大辞典もあり、流行はやりのぼうけん小説やれんあい小説などもあった。一日のほとんどを暇にしているマルグリットは、刺繡の手を休めるときにそれらをふけっていた。

 ドキドキワクワクさせてくれる小説は、クラヴェル家でこおりついた心をかしてくれた。

 代わりに、アンナの言うとおり、ちょっともうそうへきが出てきたかもしれない。


「もっ、もう、いいです!!」


 アンナは手を振り払うとキッチンを去ってしまう。

 あとに残された使用人たちは、なんともいえない顔で食事を始めた。



*****



 翌朝、キッチンへ向かおうとしていたマルグリットのもとへ、アンナがやってきた。


「ド・ブロイ家の皆様がお待ちです」

「……えっ」


 さすがのマルグリットも声をあげた。

 今朝は食堂へおもむき、ド・ブロイ家の面々と食事をしろということらしい。あまりにマルグリットが平然としているので、使用人たちでは手に負えないと判断したのだろう。


(それはなんとも言い訳のしようがございません……)


 自分の態度がド・ブロイ家の求める態度でないことはマルグリットにも理解できている。


(皆様から直々にしっせきされてしまうのかしら……それでも離縁を申し出るわけにはいかないし、余計に怒らせてしまうわ……)

 モーリスやイサベラに比べれば生ぬるい叱責だろうが、せめてしおらしい態度で受けとめよう、と明後日あさっての方向にはいりょを決意しながら、マルグリットは食堂へ向かった。


 食堂にはルシアンと、ユミラ夫人が席についているだけだった。ド・ブロイ公爵であるアルヴァンは領地に戻っているそうだ。

 ルシアンの表情はかたい。対して、ユミラの表情は厳しく、くような目で食堂へ入ってきたマルグリットをにらみつけた。


「おはようございます、ユミラお義母かあ様、ルシアン様」


 マルグリットはゆうに礼をする。その所作は先日ルシアンにも認められたもの。だがマルグリットのドレスは飾り気のない流行遅れの一着で、アクセサリーもない。

 すぐさま、ユミラの持つおうぎがバシッとテーブルを叩いた。


「遅れてきたうえになんなの、その格好は! わたくしたちをじょくしているのですか!」

「いえ、めっそうもございません!」


 マルグリットは慌てて顔をせる。

 ドレスについてはド・ブロイ家、クラヴェル家の両家ともマルグリットのためのはなよめ道具を用立ててくれなかったからなのだが、そんなことは問題ではない。


「ド・ブロイ家は歴史あるおいえがらです。その起源はリネーシュ王国建国のきっかけとなったしら百合ゆりの合戦までさかのぼり、戦地へいち早くさんじ武功を挙げた初代ド・ブロイ家当主がしゃくと土地をたまわったのです。つまりあなたの格好は王家やわが家の先祖に至るまでどろこう!」

(お義母様、それでは歴史のこうしゃくになっているだけでおどしになりません)


 声は大きくてたしかにみみざわりだが、内容が精神をえぐってこない。

 皿を投げつけるとかスープをぶっかけるというせんたくはなさそうだ。ユミラも根はやさしい人なのだろうとマルグリットは思った。彼女の意に添うようにしてやりたい。


可哀想かわいそうなルシアン、こんな女と結婚させられて」


 ユミラは王家の出身で、国王のとしの離れた妹にあたる。成人した息子がいるとは思えぬほど若々しく美しい姿はルシアンのぼうの源泉でもある。家柄、容姿、どちらにおいても、伯爵家出身で地味な見た目のマルグリットとは比べものにならない。


(ご自分の次に公爵家へ嫁いできたのがわたしでは、腹が立つのは当然よね……)


 しかもまともなドレスすら持っていないときた。マルグリットからしても、(それはそう)以外の感想はない。


「少しでも良心というものがあるのなら、こんなずべき姿でこの場所へ出てこられるわけがないわ」


 マルグリットは黙り込んだまま、うなだれるように肩を小さくした。

 ここで重要なのは、じんな叱責にマルグリットが傷ついているようによそおうことだ。

 それで少しでもうっぷんを晴らしてくれたら──と思うのだが。


(しおらしい顔、しおらしい顔……つらそうな顔、悲しい顔…………って、どんなのだっけ?)


 伏せた顔をあげることができず、マルグリットは真顔になった。

 クラヴェル家でしいたげられていたとき、つらそうな顔や悲しい顔を、最初はしていたのだと思う。しかし泣けば「がい者ぶるな」と余計に頰を張られ、つらそうな顔をすれば「あたしのせいだと言いたいの」とイサベラをげきこうさせ、マルグリットが抵抗する資格もない無価値な人間であることを切々と説かれたものだ。

 だからマルグリットはいっさいの感情を表に出さなくなった。表情も忘れてしまった。


(笑顔を思い出せたのはすばらしいことだわ)


 ド・ブロイ家に来てから、マルグリットは自然に笑えている。つらそうな顔や悲しい顔ができないのは、そういった感情ではないからだ。表情の作り方は忘れてしまったが、感情はまだ生きている。人と接しながら、笑い、楽しみ、感動の涙だって流せるのだ。

 マルグリットの脳裏をド・ブロイ家での満ち足りた生活がよぎった。

 自分はなんと幸せなのだろうと思わず口元がゆるむ。

 胸いっぱいにふくらんだ幸福感にうながされ、マルグリットは顔をあげる。


「……っ!! あなた、わたくしをバカにしていて!?」

「あっ」


 ここがユミラ夫人のおんまえであることを忘れて。


(失敗したわ……)


 図書室わきの自室で、マルグリットは反省していた。

 ユミラの鬱憤を晴らすどころか、ますますストレスをためさせてしまった。

 イビりの目的はマルグリットが離縁を口にすることか、もういなくなってしまいたいと思うほどつらい気持ちになることだからだ。れて、食事ものどを通らず、弱々しくふるまうことが望みだったはず。


(泣きはしたんだけど……)


 使用人たちといっしょの食事ももちろんおいしかったが、今朝はルシアンやユミラと同じものがマルグリットにも供された。母がくなってから六年ぶりの豪華な食事だった。

 あまりのおいしさに、涙ぐみながら完食してしまったのである。

 クラヴェル家では、マルグリットに与えられるスープはわざわざ冷やした上に水を入れてうすめられ、パンも一日置いて硬くなったもの、しかもそれをモーリスやイサベラと同じテーブルで食べるという手間のかけようだった。

(あの人たち、ものすごくひまじんだったのね……)

 自分たちの食べるものをうらやましそうに眺めるマルグリットを見るのは楽しかったのだろうな、と思う。

 けれどもユミラは違いそうだ。ルシアンはマルグリットの幸せいっぱいの笑顔を見て微妙な顔つきになったあとは終始こちらを見ず、もくもくと食事をすませるとすぐに席を立ってしまった。もちろん楽しくなかっただろう。

 窓の外を眺めてため息をつく。部屋の窓は母屋の通用口に面していて、食材や日用品を運び込む使用人たちの姿が見えた。そばに立って取りまとめ役の商人と話をしているのはルシアンだ。

 けんしわを寄せるルシアンを眺め、マルグリットは小さくため息をついた。


(どうしたら皆様に気持ちよく暮らしていただけるのかしら)


 ド・ブロイ家に不快感を与えておきながら、自分だけが幸せに暮らすのは申し訳ない。

 そう思って考えてみても、答えは見つかりそうになかった。


 昼食もアンナが呼びに来たが、「もうお許しください、キッチンに戻りますとわたしが泣いていたと伝えてくれない?」とお願いするとものの魚のような目つきになったあとマルグリットを置いて立ち去った。

 しばらく待ったがふたたびの迎えはなかったので、ユミラ夫人も納得してくれたと思うことにした。



*****



 マルグリットへの対応はふたたび使用人たちの手に戻された。


「聞いていますか!? あなたはこの家にふさわしくない!! ド・ブロイ家は歴史あるお家柄です。その起源は王国建国のきっかけとなった白百合の合戦までさかのぼり──」


 アンナのせいとテーブルを叩く音とが激しくなった。しんどうするスプーンが皿に当たりカタカタと音を立てる。


(イビられている……けれど、食事をとらせてくれるあたり、やさしいわ)


 ほそってしまってはばんさん会などに出席した際に王家に不仲がけんすると案じてのことなのだろうが、王家の命令を守ろうとしている時点でマルグリットの安全は保証される。

 ユミラに対面したマルグリットには、怒鳴り声とそうおんが彼女らの精いっぱいの行動なのだとわかってしまった。そのため、いくらテーブルをバンバンされても、


(毛を逆立てているねこちゃんみたいだわ〜……)


 と、ついほんわかしてしまうのだった。


 食事を終えて部屋に戻るとドレスやくつがなくなっていた。

 隠されたのか、捨てられたのか。どちらにせよ、マルグリットの部屋にしのび込んだ誰かは、あまりの物持ちの少なさに困惑したことだろう。なにを取りあげれば嫌がらせになるのかわからなかったに違いない。

 マルグリットにとって大切な本や刺繡道具は、意味がないと思われたのか、そのまま残されていた。


(さて、ドレスや靴をさがさなければならないわね)


 今度こそ必死にさがし、見つからずに悲しみ、うらぶれてみせようとマルグリットは決心した。

 しばらくしてマルグリットは、一応ユミラの意に添えたことを知った。

 北の離れから母屋へ顔を出した彼女を、待ち構えていた使用人たちが寄ってたかっておとしめてきたからである。


「まあ、なんてひどい姿なの! ドレスがぼろきれのよう!」

「こんななりでよくド・ブロイ家に嫁げたものだな」

「せめておれいにしてさしあげましてよ!」


 棒読みの台詞をきんちょうした面持ちで告げ、メイドのひとりがバケツを振りかぶった。

 バシャーン! と景気よく水がぶちまけられる。


「おほほほ! ご自分の立場がおわかりになりまして!」


 よろめいて力なくその場にうずくまり、はなをすすり始めたマルグリットに、やはりぎくしゃくとした笑い声をあげながら使用人たちは立ち去った。ユミラ夫人に報告に行くのだろう。


「……」


 彼らの声が聞こえなくなったことを確認するとマルグリットは真顔に戻った。

 もちろん、まったく傷ついたりはしていない。


きゅうだい点ではあるけれど、あともうひと息……っ)


 ぐっとくちびるを引き結んで声に出ないようにしながら、マルグリットはまゆを寄せる。


(まず、水が、どろみずじゃないっ! ただの真水! 冷たいけど震えるほどじゃない! ちゅうはん、すべてが中途半端……っ! 嫌がらせのあとは立ち去るんじゃなくてその場にいて追い打ちをかけないと! 濡れねずみのまま後始末をさせるまでが嫌がらせ……っ!!)


 おそらく彼らはちまたの小説のをしたのだろう。マルグリットが図書室で読んだ本にも似たようなシーンがあった。おしきに働きに出た美しいメイドがせんぱい使用人たちにイビられ、ひとりでシクシク泣くのである。

 だが置き去りにされたということはこれ以上の意地悪は続かないことを示しており、マルグリットのような上級者(?)にとってはいこいの時間だった。

 両手のこぶしをにぎり、ぶるぶる震えながらろうすみにうずくまっているマルグリットは哀れな娘に見えた。実際の心の声は真逆だったが。


「こんなところでなにをしている?」


 かけられた声にマルグリットは顔をあげた。

 見れば廊下のあちら側からルシアンが歩んでくる。ルシアンはマルグリットのそばまで来て、彼女とその周囲がびしょ濡れであることに気づき、しゅうれいな顔をしかめた。


「なんだその姿は」

「いえ……」

「母上の命令か?」


 たぶん、と言いたいところだがわからない。黙り込むマルグリットの態度はルシアンの目にはおびえと映った。


「母上をちょうはつするからだ。己のおろかさを思い知ったか。……なにか、言いたいことがあるなら言え」

独創性オリジナリティがないな、と……」

「は?」

「いえ、なんでもございません。わたしの態度が悪かったのだと思っております」

「……そうか」

「どうしたら皆様のお気にさわらないようにできるのか、考えているのですが……」


 眉をさげて肩を落とし、


(あっ! これが悲しい顔じゃない!? 覚えておかなくちゃ)


 マルグリットの顔に力が入る。

 暗い表情で唇を引き結ぶマルグリットにルシアンは視線をらし、気まずそうな顔になると、ぼそりと呟いた。


「晩餐会だ」

「え?」

「二週間後、母上がこの屋敷で晩餐会をかいさいする。王家の方々も訪れる予定だ。その場でうまくふるまえば母上の気もしずまるかもしれん。できると言っただろう?」

「はい」


 マルグリットは頷いた。王家の命令を守っていることを見せるためなのだろう。ルシアンの妻として問題のない行動ができれば、ユミラにも認めてもらえるかもしれない。

 ユミラの苛立ちの理由もわかった。晩餐会の準備は女主人の仕事。現在ユミラはぼうでストレスをかかえている。それをマルグリットにぶつけたかったのだ。

 考え込むマルグリットにルシアンはほっと息をついた。


「もとの顔に戻ったな」

「えっ、あ、申し訳ありません」


 ルシアンに言われ、悲しげな顔を忘れていたことに気づく。


「なぜ謝る」

「えっと……」


(わたしがつらい目にっていたほうがいいのではないかと思って)という内心の答えは、ルシアンの顔を見たら声にならなかった。それは違うようだと直感がささやく。

 むしろルシアンはマルグリットに手をさしだした。濡れた手で触れることにまどっていると、ごういんに手を引いて立たせてしまう。


「晩餐会までに体調をくずされてはかなわん。すぐにえろ」

「それが、服が、ありませんので……」

「……それも母上か?」


 ルシアンの表情が曇っていく。どうしてだろうかとマルグリットは考えた。マルグリットを追い出そうとする公爵家の行為を、苦々しく感じているようにすら見える。


「このままでも、体調を崩すことはありませんので……わたし、寒さには強いのです」

「来い」


 頑丈アピールはあっさりと無視された。

 手を引かれたまま、向かった先はランドリーだった。次期当主とびしょ濡れのその妻の姿に使用人たちがぎょっとする。ルシアンはタオルをとってマルグリットへ与えた。


「彼女の服のありかを知らないか」


 いつもよりげんそうなルシアンの声に使用人たちはふるふると首を振った。


「これでも着ていろ」


 渡されたのはルシアンのローブだ。厚手のもので、マルグリットの全身をすっぽりとおおうだけの長さがある。メイドたちが急いでマルグリットを別室へ連れてゆき、着替えを手伝ってくれる。ほかの者たちは隠されたドレスをさがしに出ていった。

 濡れたドレスの代わりにローブを着てかみを拭うと、寒さは気にならなくなった。

 なぜかはわからないが、ルシアンはマルグリットを苦境から救いだしてくれたようだ。


「ありがとうございます、ルシアン様」

「……礼を言うとは、皮肉か」

「えっ、いえ、本心です」


 以前と同じ言葉を投げかけてランドリーを出ていこうとするルシアンに、マルグリットはあせった。


(本当に感謝していることを伝えたいのに)


 なにかお礼になることは、と考え、「あ」と手を打つ。


「イグリア商会の者たちは、屋敷の中で休息させてあげるとよろこびますよ」

「なんだと?」


 マルグリットに背を向けていたルシアンがふりむく。

 イグリア商会は南方の調度品や食材に精通している。クラヴェル家は領地でも王都でも密接な関係を持っていた。ド・ブロイ家もそうなのだろう。


「彼らは根っからの商人で、それだけに商売を抜きにした付き合いが大好きなんですよ。ぶっきらぼうに見えますが話してみると気さくで……」

「話したことがあるのか? やつら、いつも黙って商品を置いていくだけだ」


 ぜんとしたルシアンの表情にマルグリットは思わずほほえんだ。


「お茶とおをふるまって、笑顔で話しかければ」


 先日、自室から見た商品の引き渡しは、黙り込んだルシアンと、そんな彼と睨みあうようにして書類のやりとりだけをしている商会長といった様子だった。


「仲よくなると王都流通前の商品を見せてくれたりしますよ」

「……参考にしよう」

「ユミラお義母様のお手伝いができればよいのですけれど」


 クラヴェル家での晩餐会を取り仕切っていたのはマルグリットだ。商会とのつながりもそのときにつちかったものである。だが、ユミラが大切な晩餐会をマルグリットに差配させるとは思えない。


「まずは晩餐会で認めていただくことですね」


 自分をするように頷き、マルグリットはルシアンを見上げた。あいかわらず無愛想ではあるが、晩餐会の予定も、ユミラの多忙も知ることができた。

 マルグリットの表情がほころぶ。


「やっぱりルシアン様は、やさしいお方です」

「……!」


 息を吞んだルシアンは、応えることもなくきびすを返すと、さっさと歩み去ってしまった。

 その頰がわずかに赤く染まっていたことを、マルグリットは知らない。


(晩餐会のお手伝いができないなら、少しでもユミラお義母様のストレス解消に役立ちたいわ……!)


 いつもどおり、明後日の方向に決意を固めていた。

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