第一章 これは政略結婚です
「わがクラヴェル家とド・ブロイ
「
クラヴェル
「嫁ぐのはお姉様!! お姉様にして!! あたしは絶対に嫌だから!!」
キンキンと耳に
「どんな
イサベラはモーリスの首に
いかにも
「そういうことだ、マルグリット」
「……はい」
妹のようにゆたかな金髪も泣き落としのできる演技力も持ちあわせていないマルグリットは、くすんだ
「ルシアン・ド・ブロイに嫁ぐのは、お前だ」
ド・ブロイ公爵家とクラヴェル伯爵家とは、領地を接し、長年の天敵であった。
もとはといえば公爵家も伯爵家も、
それだけに
「だいたい二代前まではド・ブロイのやつらも伯爵位だった。それをうまいこと王族に取り入って、第四王子を
「今の
血気
そういった
ある日、両家の
「ド・ブロイ公爵家とクラヴェル伯爵家の結びつきを強め、親交を深めるべく、ひと月以内に両家の縁談を
という命令を
命じたのは王家きってのやり手と
クラヴェル家には
見た目の派手さはないが
どちらかが家を
こうして、クラヴェル伯爵家当主モーリスは、
「そうだな。イサベラをド・ブロイ家にやるなんて、考えただけでもぞっとする」
美しい妹を
「イサベラ、お前はまだわしの──お父様の腕の中におればよい。いずれ婿をとり、この家を継がせよう」
「ええ、そうしてくださいな、お父様」
「そうと決まれば、さっさと準備をしろ、マルグリット」
「はい、承知しました」
頭をさげるマルグリットにイサベラは
「ほら、お姉様は嫌がっておられませんわ。あのひとには感情というものがないのかしら」
「まったくだ。敵の家に嫁ぐというのに……イサベラのように泣いて縋ればまだ
(泣いて嫌がれば、口答えをするなと
内心の
母が亡くなってからというもの、父は母の美貌を受け継いだイサベラの言いなりだ。対して外見は母にあまり似るところのない──それでいて娘のくせに自分よりも優秀であることがうかがえるマルグリットを、
その態度は使用人全員に伝わり、イサベラの命令でマルグリットは物置のような部屋に
今だって、マルグリットが着ているのはサイズのあわない
幸いだったのは、母が生きているあいだに、マルグリットにきちんとした教育を受けさせてくれたこと。
(この家を出られるのはチャンスかもしれない)
降ってわいた天敵との縁談話がなければ、おそらくモーリスはマルグリットに嫁ぎ先など用意しなかったであろうから。
部屋に
北の、最も
クローゼットという名目の木箱を開き、公爵家へ運ぶものを検討する。マルグリットに許されているのは、いま身につけているもののほかに、数着の
と、バタバタと
用事があるときにはノックをとか、
「ああ、お
そんな扱いは慣れている、と言いたいところだが、言えばイサベラが
「あんまり可哀想だから、あたしのお気に入りのブローチをあげるわ」
なにも言わず、受けとろうともしないマルグリットに、イサベラは眉を寄せた。すぐに
「ねえ! 感謝したらどうなの! いつもそうやって……あたしをバカにして!」
ひゅっと風を切る音の直後、
「なんてことを。ド・ブロイ家の方々と顔合わせがあるでしょうに……」
「べつにいいわよ。その顔で会ったほうがあたしたちの気持ちがわかるというものよ」
「王家の命令に不服を表すことになるのよ」
やってきたときと同様、バタバタと足音をさせながら気配が遠ざかる。開けっぱなしのドアを閉め、マルグリットは気持ちを
「……うん、やっぱりこれは、いいことのように思えてきたわ」
どうにかしてマルグリットを
(悲しいことばかり考えていてもなにも始まらないもの)
「ド・ブロイ領には、海がある」
ド・ブロイ領は、国の
海──それは幼いころからのマルグリットの
『海からは
『
『こわあい!』
『
イサベラもともに母の
(ド・ブロイ家に嫁げば、海が見られるかもしれない)
父や妹が聞けばバカバカしいと笑ったであろう希望を胸に、マルグリットはド・ブロイ家に嫁ぐことになった。
王家の要望どおり、ルシアン・ド・ブロイとマルグリット・クラヴェルの
ひと月のあいだにマルグリットは、モーリスの補佐として管理していた一部の領地の経営状況を文書にまとめた。各村や町ごとの気候、特産物、主要な取引先などをリストアップし、進行中の政策や課題を書きとめたのだ。
(あとはそれをお父様やイサベラが見てくださればいいのだけれど……)
ド・ブロイ家に
(最後の手紙で冬の
それ以降マルグリットは結婚して経営から退くことすら役人たちに伝えられず、苦肉の策として
ルシアンとマルグリットの婚礼は、
本来貴族同士の結婚といえば、
王家の代表者と内務長官、司祭の前で、ド・ブロイ
ルシアンはイサベラの言ったとおりの人物だった。整った顔立ちに、深海を思わせる
ただし、王家の代表者はすこぶる
(この方が、かのエミレンヌ王妃……)
シンプルなドレスを
新郎新婦よりも高い位置に座るエミレンヌは列席者たちを
「このたびは、ド・ブロイ公爵家とクラヴェル伯爵家の結びつき、非常に
はきはきとした声で名を呼ぶやいなや、
直立の姿勢で話を聞いていたルシアンとマルグリットも急いで礼をした。そのふたりの
「仲睦まじくね、な・か・む・つ・ま・じ・く」
「承知いたしました」
「さあ! 若いふたりの
グラスを
だが、拍手がまばらになり、王族が退出すると、結婚式はあっさりと終わった。
ド・ブロイ家とクラヴェル家の面々は、
エミレンヌは仲睦まじく、と強調したが、この式はそうとは受けとれない。内輪のみであり、儀式も省かれている。
仲睦まじくしなければならない──ただしそれは、人前では、の話。人の目のないところでは、それほどすぐには変わらなくてもよい、という
ちらりと
しばらく
少ない列席者の中でも、帰る家が変わるのは、マルグリットだけだ。
*****
王都にある
とくにマルグリットの心をつかんだのは、室内
(なんて美しいの……!)
夢中になっていたマルグリットは、先導するメイドがむっつりと
(図書室だわ! おまけに、標本もそろっているじゃない)
「こちらがマルグリット様の寝室になります」
とても次期当主の妻に
マルグリットが
だが、マルグリットはなにも言わない。実家のクラヴェル家ではもっとひどい場所に住まわされていたのだから当然である。
「ええ、ありがとう」
(問題は、夕食の場に出るためのドレスすらないことなのだけれど……さすがに非礼がすぎるわ)
エメラルドのブローチはクラヴェル
どうしたら、と考えていたマルグリットの
夕食だと呼ばれてマルグリットが通されたのは、キッチンの一角。夫であるルシアンも、義理の両親となった公爵夫妻もいない。
目の前ではコックたちが金模様の皿に
「どうぞ」
運んできたメイドはそう言うだけで立ち去っていく。先ほど案内をしたメイドと同じ人物だ。若奥様であるマルグリットに飲み物を
ぽつんと取り残されたマルグリットを無視して、コックやメイドたちは
彼らもやはり待っていた。〝使用人
王命に逆らうことになるため、ド・ブロイ家から離縁したいとは言えない。だからこうして遠まわしな嫌がらせを、立場の弱いマルグリットに
だが、マルグリットは離縁を口にしたりしなかった。
キッチンの
食べないことで
「ああ、やっと仕事が終わったのね。お
マルグリットは明るい笑顔を見せた。
「それではみんなで食べましょう。わたしのスープは冷めてしまったけれど問題ないわ。十分においしそうだもの」
言って、使用人たちにテーブルにつくようにうながす。
「……はい?」
きつい視線を向けてきたのは先ほどのメイドだった。まだ若いメイドで、古株とは思えないのだが、どうやらキッチンを
「おっしゃる意味がわからないのですが、若奥様?」
「待っていたのよ。食事はみんなでしたほうがおいしいじゃない。せっかくここに席を用意してもらったのだから、いっしょに食べたいの。名前も覚えたいし」
ぴき、とメイドのこめかみに青筋が立った。
「なにを考えていらっしゃるのです!! あなたはルシアン・ド・ブロイ夫人なのですよ。こんな扱いをされてへらへら笑っているなんて、プライドというものがないのですか!!」
バンッと
(……ホームシックにはならなくてすみそうね)
実家での父モーリスや妹イサベラを思い出し、マルグリットは心の中で
この程度の
「あら、それならルシアン・ド・ブロイ夫人の扱いをしてくださいな」
「……!」
にこりと笑うとメイドはぐっと言葉を
実家ではただの姉であったマルグリットは、この家では彼女の言うとおり
「それができないのなら仲間にしてちょうだい」
メイドはわなわなと
「公爵家から出された指示はわたしを使用人のように扱うことなのではなくて?」
「……」
無言は
「なら、命令に従ったほうがよいのではないかしら。わたしのお願いとも食い違わないことだし」
*****
一週間がたった。
あいかわらず夫とは顔をあわせていないし、食事はキッチンの
図書室のある
(そう思えば、なんと
あまりにもそれが当たり前になってしまっていた。
口答えをすれば報復があるから、
(ここへ来てからわたし、明るくなった気がするわ)
図書室にはマルグリットの感性を
ちりひとつない書き物机でせっせと刺繡に
大きくのびをし、いつものドレスを身につける。
キッチンへ出向くと食事の支度がされていた。ほかの使用人たちも席につき始めたところである。根負けしたメイドは、マルグリットの要求を聞き入れ、皆でそろって食事をしている。もとから使用人のような服装のマルグリットに、彼らはすぐに慣れた。
かしずかれたいなどとは最初から思っていない。がやがやと活気のあるテーブルで、
(やっぱり嫁いでよかった)
あたたかなスープを口にしながら、マルグリットは心からの笑顔になった。
****
図書室の扉を開け、室内に
マルグリットがルシアンの入室に気づく様子はない。それもそのはず、彼女はテーブルにつっぷして安らかな
テーブルに広げられているのは海洋学の博物誌だ。
無言でマルグリットのそばを通りすぎ、ルシアンは目当ての本のある
しばらくして、調べものを終えたルシアンはマルグリットをふりかえった。
嫁いで一週間がたつというのに、まだ言葉すら交わしていない妻。
(……あどけない
婚礼の場で初めて顔をあわせたとき、マルグリットは表情の抜け落ちたような顔をしていて、それほどド・ブロイ家に嫁ぐのが嫌なのかとルシアンも怒りを
「あの厚かましい娘が出ていきたくなるように、自分の立場をわからせてやるのよ」
使用人たちに命じる母ユミラの言葉を聞いても、止めようとは思わなかったものだ。
だが今のマルグリットは、冷酷な仕打ちを受けているというのに
マルグリットの口元にはうっすらとほほえみが
美しい、と
なのに、不思議と視線が
(いったいなにを考えているのだ……)
ばさりという音に目を覚ます。
ふと顔をあげると、テーブルの向こうにルシアンが立っていた。
「ルシアン様!?」
慌てて立ちあがる。どうやら本を読みながら
「も、申し訳ありません。どこでも
妙な謝罪を口走りつつ、ばつの悪さに頭をさげる。
ルシアンの反応はない。怒っているというよりも、驚いているようだった。
足元には本が落ちている。しっかりとした
「どうぞ」
やはりルシアンの反応は
ルシアンの背後には本が抜かれたあとがある。そこへ
「あの、中を
尋ねるとルシアンの目つきが
「なぜだ」
「破損などないかを確認したほうがよいかと思いまして……どなたかの手記なのでは?」
だとしたら大切なものだが、勝手に中を見るのはためらわれる。
「……どうしてわかる?」
「その棚の本はド・ブロイ家の
マルグリットがモーリスに
「ですから、許可なくわたしが中を見るわけには……」
その推測は当たっていたらしい。ルシアンの視線がいよいよ鋭くなる。
(余計なことを言って、怒らせてしまったかしら)
──お姉様の
(おまけにわたしを追い出したいのにうまくいっていないし……)
怒るのは当然だ、と申し訳なくなる。
「ド・ブロイ家の皆様のために、少しでもお役に立てることがあればいいのですが──」
「しおらしい態度をとって、
言葉を
「はじめに言っておく。お前を愛するつもりはない」
告げられたのは、明らかな
図書室は重たい
「──はい!」
顔をあげたマルグリットが、ぱあっと表情を
先ほど夢を見ていたときと同じ、花のほころぶような笑顔が、まっすぐにルシアンを見つめ返す。細くしなやかな手の
「わたしもあなたを愛する気はありませんので、どうぞご心配なく!」
満面の笑みのまま、マルグリットはそう言った。
「……!?」
一瞬
首をかしげるマルグリット。
「あら、なにか変なことを言ったでしょうか?」
マルグリットからしてみれば、ルシアンの一言は、重要な疑問を解消してくれた。
(そうなのね。ルシアン様は、そのことを不安に思われていたのだわ──わたしがド・ブロイ家に取り入ろうと、ルシアン様にまとわりつくことを)
その不安ならば、すぐに払拭してさしあげることができる、というよろこびの表れがあの笑顔であり、愛するつもりはないと言われたから、自分もそれに同意したことを伝えただけ。
「この結婚は、王家からの命によるもの。ルシアン様とわたしは愛しあう必要はございません。これまでの両家の関係を考えれば好意を持てというほうが難しいでしょう」
マルグリットの言うことは正しい。
正しいゆえに、
実際、ド・ブロイ家の者たちがマルグリットに好意を持つことができないゆえに、マルグリットはこのような格好でこのような場所にいるのだ。
「愛のない結婚なのですから、愛していただかなくて結構です。もちろん式典などの場では王妃様のおっしゃったとおり、仲睦まじくすごすようにいたします。マナーなども、ひと通りは修めておりますのでそちらについてもご心配なく」
マルグリットはにっこりと笑った。
「現在の暮らしを保証していただければ、ド・ブロイ家の体面を傷つけるようなことはいたしません」
「……ルシアン様?」
ようやくマルグリットは、ルシアンの反応がないことに気づく。
思いがけぬ言葉の連続に
「──戻る」
「はい。お話しくださってありがとうございました」
素っ気なくそれだけ告げるルシアンにもマルグリットは
「……礼を言うとは、皮肉か」
「いいえ。価値観のすりあわせというのは、夫婦にとって大切なことですもの」
たとえそれが仮面夫婦でも──
それに、冷たい態度をとろうとしてはいるが、ルシアンは他人を無下にする人間ではないとマルグリットは思った。
(お父様やイサベラならこの長さの会話は不可能だわ)
マルグリットの対応にルシアンは
身近にいた家族が人でなしであったせいで、マルグリットの守備
扉の前で、ルシアンはマルグリットをふりむく。マルグリットはルシアンを見送るために立ち、ほほえんでいた。
「ごきげんよう、ルシアン様」
ルシアンからの返事はない。
扉は音もなく閉まり、マルグリットを
「──あっ、海へ連れていってくれるよう、お願いし忘れたわ!」
ひとりになった
「まあ、いま言ってもだめでしょうから、仕方ないわね。ルシアン様とはうまくお付き合いしていけそうな気がするし、次期当主の妻として領地に顔を出す必要もあるはず」
何度か外に出て、マルグリットがきちんと妻としての役割を果たすとわかってもらえれば、ド・ブロイ領へも連れていってくれるだろう。
マルグリットにとって現状は、あいかわらず順風
一方のルシアンは、図書室を出て足早に歩きつつ、自分の言動に
(なにを言っているんだ、俺は)
なのにマルグリットは、
マルグリットのほうがよほど冷静に事態を見ている。王妃の命令で離縁することができないのならば、互いに割りきって
それでも心にわだかまりがあれば、つらい暮らしのはずなのに。
(どうしてあんなふうに笑える?)
その答えは一つしかない。
マルグリットはド・ブロイ家に敵対心を
*****
使用人たちの無礼な態度は、ド・ブロイ家の誰かが指示したものである。マルグリットから離縁を言い出させるために。だが
「今日という今日こそははっきりと言わせていただきます。ルシアン様にあなたはふさわしくない!」
夕食時にキッチンを訪れたマルグリットを迎えたのは、例のメイドの
彼女の名がアンナであるということを、マルグリットは別のメイドから聞き出していた。なぜアンナがここまで
アンナの背後にいるのはルシアンの母、ユミラ夫人。
「ユミラ奥様は一人
どうせ
彼女に
(わかる。気持ちはわかるわよ、アンナ……!)
マルグリットは心の中で頷いた。
(ルシアン様に
先日の図書室で、久々に間近で見たルシアンは、黒髪にダークグレーのジャケットという落ち着いた
「聞いているのですか!?」
バンッとテーブルを叩く音が
アンナの頰は紅潮し、眼差しはきつく、寄せられた
「聞いているわ。ルシアン様にわたしはふさわしくないという話でしょう。たしかに家格も上だし、やさしい方だったし、わたしよりも美しいお顔をされていたわ。だからあなたの言うこともわかるなあって考えていたのよ」
妻とは思えない
「やさしい方、だった……?」
訝しげな顔になるアンナの手をマルグリットはとった。
「……!?」
アンナはマルグリットよりも一つか二つ年下、イサベラと同じくらいだ。
ただマルグリットを見下し、どんな扱いをしてもいいと信じ込んでいるイサベラと違って、ひそかに
やり方は
「なにを
「ごめんなさいね、最近暮らしが楽しいものだから、すぐに感情が高ぶって……涙もろくなってしまったの」
うっすらと滲んだ涙をハンカチで押さえ、マルグリットは首を
「気持ちを押し隠し、主人がふさわしい相手と結ばれるのを見守っていこう。そう思っていたのに、やってきたのは
「な!? なにを言っているのですか!?」
「自分が隣に並びたいなどとは思っていない、ただあの人が幸せでいてくれれば……なのにあの人の表情は
あふれそうになる涙を拭いながら言えば、アンナの顔が真っ赤になった。
マルグリットを泣かせてやりたいとは思っていたが、そういう意味じゃない。
「わかる。わかるわよ。なんて純真な心なの」
「違います! 違いますうう!! 図書室にこもって変な本の読みすぎじゃないですか!?」
「あら、そうかもしれないわ」
離れのほとんどを
本の内容も
ドキドキワクワクさせてくれる小説は、クラヴェル家で
代わりに、アンナの言うとおり、ちょっと
「もっ、もう、いいです!!」
アンナは手を振り払うとキッチンを去ってしまう。
あとに残された使用人たちは、なんともいえない顔で食事を始めた。
*****
翌朝、キッチンへ向かおうとしていたマルグリットのもとへ、アンナがやってきた。
「ド・ブロイ家の皆様がお待ちです」
「……えっ」
さすがのマルグリットも声をあげた。
今朝は食堂へおもむき、ド・ブロイ家の面々と食事をしろということらしい。あまりにマルグリットが平然としているので、使用人たちでは手に負えないと判断したのだろう。
(それはなんとも言い訳のしようがございません……)
自分の態度がド・ブロイ家の求める態度でないことはマルグリットにも理解できている。
(皆様から直々に
モーリスやイサベラに比べれば生ぬるい叱責だろうが、せめてしおらしい態度で受けとめよう、と
食堂にはルシアンと、ユミラ夫人が席についているだけだった。ド・ブロイ公爵であるアルヴァンは領地に戻っているそうだ。
ルシアンの表情は
「おはようございます、ユミラお
マルグリットは
すぐさま、ユミラの持つ
「遅れてきたうえになんなの、その格好は! わたくしたちを
「いえ、めっそうもございません!」
マルグリットは慌てて顔を
ドレスについてはド・ブロイ家、クラヴェル家の両家ともマルグリットのための
「ド・ブロイ家は歴史あるお
(お義母様、それでは歴史の
声は大きくてたしかに
皿を投げつけるとかスープをぶっかけるという
「
ユミラは王家の出身で、国王の
(ご自分の次に公爵家へ嫁いできたのがわたしでは、腹が立つのは当然よね……)
しかもまともなドレスすら持っていないときた。マルグリットからしても、(それはそう)以外の感想はない。
「少しでも良心というものがあるのなら、こんな
マルグリットは黙り込んだまま、うなだれるように肩を小さくした。
ここで重要なのは、
それで少しでも
(しおらしい顔、しおらしい顔……つらそうな顔、悲しい顔…………って、どんなのだっけ?)
伏せた顔をあげることができず、マルグリットは真顔になった。
クラヴェル家で
だからマルグリットはいっさいの感情を表に出さなくなった。表情も忘れてしまった。
(笑顔を思い出せたのはすばらしいことだわ)
ド・ブロイ家に来てから、マルグリットは自然に笑えている。つらそうな顔や悲しい顔ができないのは、そういった感情ではないからだ。表情の作り方は忘れてしまったが、感情はまだ生きている。人と接しながら、笑い、楽しみ、感動の涙だって流せるのだ。
マルグリットの脳裏をド・ブロイ家での満ち足りた生活がよぎった。
自分はなんと幸せなのだろうと思わず口元がゆるむ。
胸いっぱいに
「……っ!! あなた、わたくしをバカにしていて!?」
「あっ」
ここがユミラ夫人の
(失敗したわ……)
図書室わきの自室で、マルグリットは反省していた。
ユミラの鬱憤を晴らすどころか、ますますストレスをためさせてしまった。
イビりの目的はマルグリットが離縁を口にすることか、もういなくなってしまいたいと思うほどつらい気持ちになることだからだ。
(泣きはしたんだけど……)
使用人たちといっしょの食事ももちろんおいしかったが、今朝はルシアンやユミラと同じものがマルグリットにも供された。母が
あまりのおいしさに、涙ぐみながら完食してしまったのである。
クラヴェル家では、マルグリットに与えられるスープはわざわざ冷やした上に水を入れて
(あの人たち、ものすごく
自分たちの食べるものを
けれどもユミラは違いそうだ。ルシアンはマルグリットの幸せいっぱいの笑顔を見て微妙な顔つきになったあとは終始こちらを見ず、
窓の外を眺めてため息をつく。部屋の窓は母屋の通用口に面していて、食材や日用品を運び込む使用人たちの姿が見えた。そばに立って取りまとめ役の商人と話をしているのはルシアンだ。
(どうしたら皆様に気持ちよく暮らしていただけるのかしら)
ド・ブロイ家に不快感を与えておきながら、自分だけが幸せに暮らすのは申し訳ない。
そう思って考えてみても、答えは見つかりそうになかった。
昼食もアンナが呼びに来たが、「もうお許しください、キッチンに戻りますとわたしが泣いていたと伝えてくれない?」とお願いすると
しばらく待ったがふたたびの迎えはなかったので、ユミラ夫人も納得してくれたと思うことにした。
*****
マルグリットへの対応はふたたび使用人たちの手に戻された。
「聞いていますか!? あなたはこの家にふさわしくない!! ド・ブロイ家は歴史あるお家柄です。その起源は王国建国のきっかけとなった白百合の合戦までさかのぼり──」
アンナの
(イビられている……けれど、食事をとらせてくれるあたり、やさしいわ)
ユミラに対面したマルグリットには、怒鳴り声と
(毛を逆立てている
と、ついほんわかしてしまうのだった。
食事を終えて部屋に戻るとドレスや
隠されたのか、捨てられたのか。どちらにせよ、マルグリットの部屋に
マルグリットにとって大切な本や刺繡道具は、意味がないと思われたのか、そのまま残されていた。
(さて、ドレスや靴をさがさなければならないわね)
今度こそ必死にさがし、見つからずに悲しみ、うらぶれてみせようとマルグリットは決心した。
しばらくしてマルグリットは、一応ユミラの意に添えたことを知った。
北の離れから母屋へ顔を出した彼女を、待ち構えていた使用人たちが寄ってたかって
「まあ、なんてひどい姿なの! ドレスがぼろきれのよう!」
「こんななりでよくド・ブロイ家に嫁げたものだな」
「せめてお
棒読みの台詞を
バシャーン! と景気よく水がぶちまけられる。
「おほほほ! ご自分の立場がおわかりになりまして!」
よろめいて力なくその場にうずくまり、
「……」
彼らの声が聞こえなくなったことを確認するとマルグリットは真顔に戻った。
もちろん、まったく傷ついたりはしていない。
(
ぐっと
(まず、水が、
おそらく彼らは
だが置き去りにされたということはこれ以上の意地悪は続かないことを示しており、マルグリットのような上級者(?)にとっては
両手のこぶしを
「こんなところでなにをしている?」
かけられた声にマルグリットは顔をあげた。
見れば廊下のあちら側からルシアンが歩んでくる。ルシアンはマルグリットのそばまで来て、彼女とその周囲がびしょ濡れであることに気づき、
「なんだその姿は」
「いえ……」
「母上の命令か?」
たぶん、と言いたいところだがわからない。黙り込むマルグリットの態度はルシアンの目には
「母上を
「
「は?」
「いえ、なんでもございません。わたしの態度が悪かったのだと思っております」
「……そうか」
「どうしたら皆様のお気に
眉をさげて肩を落とし、
(あっ! これが悲しい顔じゃない!? 覚えておかなくちゃ)
マルグリットの顔に力が入る。
暗い表情で唇を引き結ぶマルグリットにルシアンは視線を
「晩餐会だ」
「え?」
「二週間後、母上がこの屋敷で晩餐会を
「はい」
マルグリットは頷いた。王家の命令を守っていることを見せるためなのだろう。ルシアンの妻として問題のない行動ができれば、ユミラにも認めてもらえるかもしれない。
ユミラの苛立ちの理由もわかった。晩餐会の準備は女主人の仕事。現在ユミラは
考え込むマルグリットにルシアンはほっと息をついた。
「もとの顔に戻ったな」
「えっ、あ、申し訳ありません」
ルシアンに言われ、悲しげな顔を忘れていたことに気づく。
「なぜ謝る」
「えっと……」
(わたしがつらい目に
むしろルシアンはマルグリットに手をさしだした。濡れた手で触れることに
「晩餐会までに体調を
「それが、服が、ありませんので……」
「……それも母上か?」
ルシアンの表情が曇っていく。どうしてだろうかとマルグリットは考えた。マルグリットを追い出そうとする公爵家の行為を、苦々しく感じているようにすら見える。
「このままでも、体調を崩すことはありませんので……わたし、寒さには強いのです」
「来い」
頑丈アピールはあっさりと無視された。
手を引かれたまま、向かった先はランドリーだった。次期当主とびしょ濡れのその妻の姿に使用人たちがぎょっとする。ルシアンはタオルをとってマルグリットへ与えた。
「彼女の服のありかを知らないか」
いつもより
「これでも着ていろ」
渡されたのはルシアンのローブだ。厚手のもので、マルグリットの全身をすっぽりと
濡れたドレスの代わりにローブを着て
なぜかはわからないが、ルシアンはマルグリットを苦境から救いだしてくれたようだ。
「ありがとうございます、ルシアン様」
「……礼を言うとは、皮肉か」
「えっ、いえ、本心です」
以前と同じ言葉を投げかけてランドリーを出ていこうとするルシアンに、マルグリットは
(本当に感謝していることを伝えたいのに)
なにかお礼になることは、と考え、「あ」と手を打つ。
「イグリア商会の者たちは、屋敷の中で休息させてあげるとよろこびますよ」
「なんだと?」
マルグリットに背を向けていたルシアンがふりむく。
イグリア商会は南方の調度品や食材に精通している。クラヴェル家は領地でも王都でも密接な関係を持っていた。ド・ブロイ家もそうなのだろう。
「彼らは根っからの商人で、それだけに商売を抜きにした付き合いが大好きなんですよ。ぶっきらぼうに見えますが話してみると気さくで……」
「話したことがあるのか? やつら、いつも黙って商品を置いていくだけだ」
「お茶とお
先日、自室から見た商品の引き渡しは、黙り込んだルシアンと、そんな彼と睨みあうようにして書類のやりとりだけをしている商会長といった様子だった。
「仲よくなると王都流通前の商品を見せてくれたりしますよ」
「……参考にしよう」
「ユミラお義母様のお手伝いができればよいのですけれど」
クラヴェル家での晩餐会を取り仕切っていたのはマルグリットだ。商会とのつながりもそのときに
「まずは晩餐会で認めていただくことですね」
自分を
マルグリットの表情がほころぶ。
「やっぱりルシアン様は、やさしいお方です」
「……!」
息を吞んだルシアンは、応えることもなく
その頰がわずかに赤く染まっていたことを、マルグリットは知らない。
(晩餐会のお手伝いができないなら、少しでもユミラお義母様のストレス解消に役立ちたいわ……!)
いつもどおり、明後日の方向に決意を固めていた。
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