10
全身に冷や水を浴びせられた感覚。怒りが湧くことはないが、何か面倒ごとが起こりそうな予感に心底うんざりした。
デバイスから聞こえてきた声は二週間前に別れたクズ男――優弥の声だった。
このまま通話終了のボタンを押すこともできたが、別れを告げた時は直接対面していたわけではない上、荷物を私の裁量で着払いで送っている。荷物の中身が足りないとか大切なことを伝えそびれているとか――そういう話だという可能性を否定できなかった。
「――どうしたの?」
『ちょっとね……今から話がしたいんだ』
「今から? 直接会うつもり?」
テーブルを振り返り、声には出さず「優弥から」と告げると、友人らはギョッとした顔で通話を切るように指示を出してくる。千葉恵吾だけがその空気感に取り残されて不思議そうな表情で私の様子を見ていたが、やがて何かを察したらしい。男は立ち上がってゆっくり私との距離を詰めた。その男が何をしたいのかさっぱり検討がつかず、ああでもないこうでもないと話している優弥の声を聞きながら呆然としていた。すると千葉恵吾の手がデバイスをつけた左腕に伸びてきて、優しく掴まれる。男の表情はこれまでに見たことのないくらい慈しみと優しさが込められた微笑みだった。
「――千秋ちゃん、誰と話してんの?」
「えっ、これはその」
千葉恵吾の声がマイクに乗ったらしい。スピーカーの音が一瞬止む。そしてこれはおそらく怒号だ。今までと比べ物にならない声量がスピーカーを通して私の耳をつんざく。
『千秋! 今の声はなんだ! 誰といるんだ!』
「優弥、ちょっと待って。なんでそんなに怒ってんの? 私たちはもう――」
私たちはもう別れたでしょ。そう言いたかったのに、優弥は通信機器越しに怒鳴り続けている。この人間はクズで男女関係にだらしなかったが、今までこんな風に理不尽に怒鳴ることなどなかった。成人男性から威圧的な声でこれほどまでに怒鳴られる経験はほとんどなかった。あらゆる意味で衝撃で言葉を失ってしまう。
ふらふらと足元が不安定に感じてくる。しっかり立っているはずなのに、この状況が恐ろしかった。
「千秋ちゃん」
頭上から、低くて穏やかな声が降ってくる。デバイスに表示されている『優弥』という文字から目を離し、声の方へ視線を向けると、温かな眼差しの優しい面立ちの男がいた。先程と同じく慈しみの微笑みで私を待ち続けてくれている。千葉恵吾の眩しい瞳を見つめ返すと、そんな風に感じて胸が詰まった。熱い何かが込み上げてくる。そして私は、この男の腕に抱かれて安心を得たいと思ってしまった。
「それ、切ったら?」
その言葉に頷いた時だ。
『千秋、お前がどこにいるか検討がついてるんだ。もうそばにいるぞ』
怒鳴り声が一変する。突如として静かな声で冷静に告げられる。生温い生き物の舌が私の首筋を舐めたような不快感と絶望感を私に与えるものだった。
『お前、今日は楽しそうだな……渚たちを巻き込みたくないならひとりで店の外へ出てこい』
優弥の言葉にバーの扉をすぐに確認する。扉の窓ガラス越しには不審な影は見当たらない。しかし、優弥が近くにいないという保証もない。
「――わかった」
「わかったって何が?」
千葉恵吾の疑問を挟む余地もなく、通話は既に終了していた。自由の効く右腕を持ち上げて、額に手を当てる。優弥の豹変ぶりに驚き、まともに物を考えられているか自信がなかった。
「……優弥、なんて?」
通話内容の聞こえていない朱莉は私の表情を見て困惑しているようだった。こんなに心配してくれているのが本当に申し訳なかった。私は自分でも無理やりだと思えるほど歪に笑顔を作って、三人の方を向く。
「えーっと……近くまで優弥来てるみたいで……直接話したいって」
「話したいって……千秋には話すこともないでしょ」
「私には用事はないけど――アイツにとってはそうじゃないみたい。大丈夫、少し話してくるだけだから」
千葉恵吾は私の左腕を掴んだまま、上体を少し屈めて顔を覗き込んできた。親しみを感じさせる柔らかな面立ちに温かい視線。しかし先程までよりも鋭い光が感じられる。
「ユウヤってやつ、誰? 元カレかなんかか?」
「……そうです」
「すごい顔してんで。会いたくないんちゃうん?」
「でも、私の問題なんで」
「……そっか……」
千葉恵吾の瞳の中に映り込んだ私の表情は笑えるくらいに奇妙だった。
――自分のことを自分で解決するのは当然だ。優弥ともただ話すだけだし……。
私の発言に目の前の男が引き下がってくれたのはありがたく感じたが同時に不安もあった。
左腕を掴んだままの千葉恵吾の手をそっと払い、店の扉の方へ向かう。
――大丈夫、話をするだけ。
呼吸を整えながら進んでいくと再び左腕が引っ張られ、引き止められた。振り返れば千葉恵吾がいつもの人懐っこい笑顔でこちらを見ている。
「やっぱり千秋ちゃん変やで……俺と通話繋げといてや」
「え?」
「その方が安心やろ?」
「大丈夫ですよ……」
「ええやん、ええやん。ちゃっちゃと終わらせてさっきの続きしよ?」
――この輝く瞳に誰が抗えるだろうか。
私がそっと頷くと、千葉恵吾は私のデバイスと自分のデバイスをリンクさせると素早く連絡先の交換を済ませる。そして通話を開始させた。
「『聞こえる?』」
目の前の男の声が半指向性スピーカーからも聞こえた。低くて落ち着くその声は恐ろしさで冷えた内臓を温めてくれる感覚がするものだった。もう一度頷いて千葉恵吾の顔を見上げると、男もその整った顔で小さく頷いた。その様を見て、こんな状況にあっても美しいものに変わりはないのだと考えてしまう。そんなことを考えられるくらいに、男の声が私の心を平常に近しいものにしてくれた。
男は私の肩を撫でるように軽く叩いた。温かみを感じる優しい手つきだ。
「ありがとうございます」
その行動に励まされて、私は再び店の扉へ歩き出した。
無駄なこと AZUMA Tomo @tomo_azuma
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