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 全身を包み込むふわふわした満足感と真逆の胃の中に留まっているどろどろした不快感。その奇妙な身体感覚に頭が上手く働かず重い。するすると肌を撫でる摩擦の少ないシーツの触り心地。いつまでもこのまどろみの中に漂っていたいと思わせる。一方で私の体が水を欲しがっているのもわかっていた。そのためには身を起こすしかない。だが動けない。動きたくない。

 怠惰な思いに支配された肉体は徐々にまともな意識を取り戻していく。

 ――そうだ、ここは……千葉さんと来たんだった。

 昨晩の情交の記憶がふと蘇る。体内にじわりと熱が広がり、背筋が甘やかに痺れた。ふたりの間を阻むものはもはや互いの皮膚くらいのもので、男の熱も息遣いもすべてを飲み込む肉体の重なり合いだった。支配と隷属の狭間を揺れ動く性交渉に久しぶりの充足感を覚えた。

 そんな昨晩の熱を思い出すと、次に気づいたのは隣にあるはずの温もりがないことだった。千葉恵吾にとって私は、幾千ある夜伽の、取るに足らないひとりでしかないのかも。そんな可能性はとっくに気づいていたためそこまでの衝撃はない(と思いたい)。実際、男が部屋にいなくても何も慌てることはないと思っていた。今日は休日で、時間に追われる必要もない。ゆっくり身支度を整えてからホテルをチェックアウトすれば良い。

 まだまだ眠っていたいが、時間を確認しなければどれほどぐうたらしていても大丈夫なのかわからないため、重すぎて開きづらい瞼を僅かに押し上げた。視界がはっきりしない。しかし焦ることもない。僅かに目を開けたままぼんやりと部屋の様子を眺めていると、ベッド傍に設置されていたソファに人影があることがわかった。私の予想とは裏腹に千葉恵吾はまだこの部屋に滞在を続けていたらしい。

 その時、驚愕と恐怖が私の臓腑を一気に冷却した。私が驚いたのは千葉恵吾が部屋に留まっていたことではない。男のその表情にゾッとしたのだ。

 視界がぼんやりとしているせいで見間違えたのかと思ったが、そうではなかった。

 千葉恵吾はガウンから素足を曝け出したまま足を組んでいつものタバコをふかしていた。ソファの肘掛けに疲労困憊といった具合で肘をつき、顎を支えている。そこまでは何の異常もない。問題は彼の瞳だった。彫りの深い眼窩に埋まる綺麗な眼球が、まるでガラス玉のように何も映さない様子だった。傷のないまっさらなガラス玉には思惑も感傷も何も浮かばない。感情のない容れ物だけの人形が座っている。昨夜まではあんなに熱を感じた男なのに今はまったく違うもののように思えて、根源的な恐ろしさを覚えた。

「……千葉さん……?」

 目の前の現実を否定したくなり、体を横たえたまま呼びかける。酒で焼け、嗄れた声。普段なら羞ずかしいと思えるものだったが、それよりも男の様子が気に掛かり、自分のことなど構っていられなかった。

 そんなに音量のない私の声だったが、千葉恵吾の耳には届いていたらしい。呼びかけた瞬間、ガラス玉の瞳がさっと色を取り戻す。

「――おはよう。千秋ちゃん、目ぇ覚めてたん?」

「……今、目が覚めました」

 明るい宝石の瞳が暖かな色を取り戻して私に微笑みかける。テーブルに安置された武装の隣へ電子タバコを置くと、千葉恵吾はベッドへ移動して無遠慮にシーツを引き上げた。何も身につけていない私の裸体が晒される形となり、とっさに体を丸めて男を睨み上げる。

「……寒い……」

「体冷えてもうたから、あったまろうと思って」

 そう言うと男はベッドに横たわる。一枚のシーツの中にふたりで潜り込むことになった。

「冷えた冷えた……手ぇ貸してや」

 千葉恵吾は私の返事など聞くこともなく素早く私の左手を取る。私の左手を包み込む男の大きな両手は外出していたのかと思うほど、確かにかなり冷えている。ソファに座っていた時とは違う随分明るい微笑みで「温かい」と繰り返し呟いている。向かい合う形となっていたため、男の瞳を間近で見つめることとなったが普段と変わらない美しい形の目をしていた。

 千葉恵吾が吸っていたタバコのにおいが私の鼻をくすぐる。男の愛煙している銘柄は電子タバコの構造上、あまりにおいの気にならないものだったが、ここまでの至近距離であれば話は別だった。千葉恵吾から感じるほのかに甘いベリーの香りはこの距離感だからこそ嗅ぎ取れるものだった。その事実を昨晩、散々味わったし、思い知らされた。

「シャワーでも浴びればよかったんじゃないですか? すごく、冷えてますね……」

「ほんまそれな。ぼーっとしてたわ。ま、でも千秋ちゃんいるし」

「意味がよくわからないんですけど……」

「だって一緒にお布団入ったらあったかなるやろ?」

「えええ……いや、まあ……」

 千葉恵吾の無邪気な発言に意図を図りかねて、たじろぐ。おそらくこの男はそんな私の様子ですら織り込み済みなのだ。千葉恵吾は楽しげに笑っている。私の手を包んでいた右手がそっと視界をよぎり、頭を撫でられた。質感を楽しむように私の髪の毛を指先で弄んでいる。そして髪の流れに沿って顔の輪郭がなぞられ、私の首筋を男の指が辿っていく。鎖骨あたりでぴたりと動きが止まったかと思えば体を仰向けにされて、両の手首がマットレスに深く縫い留められた。天井を背にした千葉恵吾。美しい男の顔が欲に塗れているのが見える。その表情に、私の心臓がぐずりと不穏に跳ねた。

「シャワーも魅力的やけど、女の子の方がもっと魅力的かなあって」

「どういう理屈ですか、それ」

「『慣れて』るんなら、千秋ちゃんにも俺が何を言いたいかわかるやろ?」


 私は見てはいけないものを見てしまったのだと思う。彼のこの行動はおそらく目眩しのような何かだった。優しく穏やかに私の目を覆って、記憶に蓋をしようとしていたのだろう。

 一番強烈で分かりやすい快楽を用いて、私の記憶を上塗りしている。

 千葉恵吾という人物はズルい男なのだ。

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