6

 ――こんなところ、いつぶりだろうか。

 最近別れた男とはこのような施設を訪れることも少なかったし、大体は私の家で事に及んでいたから用事もなかった。そもそも最近は私がそういった行為に及ぶことを避けていた部分もあった。別れる間際には体に触れられるのも嫌なくらい、前の男に冷めていた。

 レジャーホテルならではの受付に設置された煌々と光るたくさんのパネルと、入浴剤やシャンプー類などの各種アメニティを視界の端に捉えながら、千葉恵吾の背後に隠れるように立っていた。男は慣れた手つきでパネルを操作し、あっという間に受付を済ませたらしい。腕につけたデバイスを受付パネルに認証させると、画面には部屋への案内が表示された。しかし、千葉恵吾は特にその画面を確認することもなく、握ったままの手を引き寄せて、私の腰に手を添える。

「こっちおいで」

 呼吸がまともにできているかわからないくらい、思考が上手く働かない。握られていたはずの手は指先がとても冷たくなり、手を添えられた腰は過剰に千葉恵吾の温もりを受け取って背中が敏感になったように感じる。

 千葉恵吾に促されるがまま、適度に照明が落とされた廊下を歩いていくと、ある扉の前で男が立ち止まる。部屋番号が印字された照明がチカチカと点滅していた。千葉恵吾は自然な手つきでその扉を開くと、ゆっくりと私の腰を部屋へ導くように押す。

「お先にどうぞ」

 取り澄ました低い声が私の耳元で入室を促す。耳がビリビリと熱い。その声はずっと聞いていたいと感じさせるものなのに、距離を取らないと今度は私が壊れてしまいそうだと思ってしまった。少しでもその魅惑から離れたいがために、促されるままに部屋の玄関に足を踏み入れる。

 暖色系の自動照明に照らされたそこは埃ひとつない綺麗なものだった。仕事使いのパンプスを脱ぎ、玄関の隅に揃えようと屈み込む。靴へ手を伸ばそうとすると大きな手が視界を横切り、あっという間に私の靴を玄関の隅へ移動させ、その手は私の手を掴んだ。男は手を掴んだまま私の目の前にしゃがみ、私の顔を覗き込んだ。

 彫像のように綺麗な造形の顔。ダイヤモンドに見紛う輝く目は太陽のような純粋な光ではなく、肉欲を呼び起こさせる妖しい光輝を放っている。猛獣に睨まれた獲物の気分で、私はその瞳から目を逸らすことができない。

 男は手を掴んでいる方とは逆の手で、私の頬へ指を添える。するりと顎の先まで指が滑り下り、私の頭を少し上向かせて固定した。

「……目、瞑った方が負けな」

「えっ……?」

 千葉恵吾の発言を理解するよりも先に、その美しい瞳が私の視界いっぱいに迫ってくる。艶かしい輝きに目が灼かれるかと思い、他のことを考える間もなく私は瞼を固く閉じてしまった。鼻に熱を感じると、息を詰める音が聞こえてきて、唇に柔らかい肉の感触がした。

 獰猛な目の光とは対照的な優しく触れるだけの口づけだった。男は私に口づけたまま、堪えられないように「ふふふ」と笑い声を漏らす。その息遣いがくすぐったくて、男の手を強く握ってしまった。力のこもった手を解すように男は手を一度放し、次は指を絡めて手を繋いでくる。私よりも大ぶりな指が、私の指の股をするりと繊細に撫でるような動きに思わず身じろぎをしてしまう。

 ちゅ、と音を立てて軽く上唇を吸い上げられたかと思えば、唇から熱が離れていくのを感じる。そろりと目を開けるとあの意地悪な表情でニヤリと笑う男がそこにいた。

「千秋ちゃんの負け」

「……フェアじゃないですよ」

「ちゃんとルール説明したからフェアやろ」

 繋いだ手をそのまま上へ引き上げられるとその場に立たされる。ふたりしてそこまで長くない部屋の廊下を進み、男は寝室のドアと思われるものを押し開いた。

「ま、千秋ちゃんがルールを理解してても、俺が勝つのは確定してたみたいなもんやけど」

「どうして?」

「それは教えられへんかな」

「……ズルい……」

「なんとでも」

 薄暗い照明の中に豪奢で清潔感のある大きなベッドが置かれており、ベッドの向かいには壁を覆い尽くすかと思うほどの大きな壁掛けのテレビが設置され、僅かな音量で有線放送の音楽が奏でられていた。かなり雰囲気が演出されているが、ここまで来た男女が為すべきことは所詮ひとつだ。何も取り繕うことなどないだろうと冷めた自分が言う。一方で部屋の雰囲気が、今後の期待感を高めていることにも気づいて心中が複雑だった。

 手を引かれるままベッドの縁に座らされ、その隣に男も腰掛ける。バーよりももっと暗い場所で、千葉恵吾の顔を見るのは勿論初めてのことだった。薄暗い照明とテレビのバックライトに照らされた男の顔はいつもよりも影が落ちていて、その凹凸がはっきりわかった。見れば見るほど男らしいのに甘さを感じさせる顔だと思う。

 腰を落ち着けると、千葉恵吾は黙ったままベストを脱ぎ、ベッド横に安置された一人掛けのソファに放り投げた。ベストの下に着用しているホルスターには拳銃が装備されており、本当に警備員だったのかと意外な気持ちになった。ホルスターは使い込まれている形跡があり、普段は見ることのない千葉恵吾の一面がそこからも垣間見えたような気がした。男はホルスターのベルトを順番に外していく。その様子がやけに色を含んでいるように感じて、堪らず目を逸らす。

「……本当に用心棒だったんですね」

「えー、俺のこと疑ってたん?」

「だって、そんな風には見えなかったので……」

「あんだけマスターにこき使われてたら頼りなくも見えるか」

「いや、頼りないって話ではないですけど……」

 ベッドの正面に存在するテレビをじっと見つめていた。テレビの画面には何やら様々なメニューが表示されていたが、もう何を書いてあるのか理解することは難しかった。装備を解除していく千葉恵吾の様子が視界の隅に映って気になるからだ。しかし彼の姿を真正面から観察することも無粋な気がして目を逸らし続けたまま。

 男が立ち上がり、重さを失ったベッドが少し浮いた。千葉恵吾はソファの方へ移動したのだろう。重みのある物体がテーブルに置かれる音がする。

 ――どうすればいいんだっけ……。

 私の欲と勢いで千葉恵吾についてきたのはいいが、こういったことが久しぶりだったためどのように振る舞えばいいのか忘れてしまっている気がする。逸らしたままだった視線をチラリとソファの方へ向けると、千葉恵吾もこちらを見ていたのか視線がかち合った。男は私の顔を見て、少しだけ困ったような笑みを浮かべた。

「……そんな緊張することないやろ?」

「いや、いやいや。緊張なんてしてませんよ」

 装備を整頓し終えた男はテレビ下の戸棚を開け、その中に隠された冷蔵庫の中から水のボトルを二本取り出した。まるで自分の家にいるかのような迷うことのない動きだ。

 千葉恵吾から差し出されたボトルを受け取る。男は私のそばに立ったまま、ボトルの蓋を開けて中身を豪快に飲んでいた。均整の取れた肉体を下から見上げる。上下する喉仏を眺めていると再び視線が交わった。

「喉渇いてへんかった? ――それとも飲ませてほしいとか?」

「……ちょっと、やらしすぎませんか」

「千秋ちゃんはこういうとこ、慣れてないん?」

 いつもと違い、ドレスシャツだけとなった上半身。胸板が厚いだろうことはわかっていたのに、想定通りの逞しさを間近に見て取れて、好奇心が刺激される。

 その胸や腕にもっと触れてみたいと思った。

 余裕を浮かべた笑顔の仮面を剥がしたら、どんな表情をするのか。快楽に追い詰められた男の顔を見たいと思った。

 ――そんな考えを抱く人間が『慣れていないのか』だって?

「……慣れていないかどうか、試してみればどうですか」

「――そう?」

 千葉恵吾はボトルを床へ放り投げると、ベッドの縁に左膝を掛けた。体重のかかったマットレスが沈み込み、私の体も僅かに傾く。体が傾いたままに右肩を軽く押されて、私の上半身がベッドへ倒される。男の顔は半分以上が影となっていたが、どんな顔をしているのかわかった。まさしく悪役の微笑み。高い位置から私を見下ろして、今から繰り広げられる展開はすべて自分の意のままという表情だ。

 千葉恵吾はドレスシャツのボタンをひとつひとつ外し、ゆっくりと前を寛げていく。わざと時間をかけているのではないかと思うほど、男の行動に焦らされる。肌が露わになっていくごとに、私自身の呼吸も興奮で少しずつ浅くなっていくのを感じていた。

 ボタンを外すその指で早く触れてほしい。その肌に早く触れたい。

「……ご要望通り、そうさせてもらおうか」

 千葉恵吾はシャツを文字通り脱ぎ捨てると、私の体に跨る。男はすべての表情を掻き消して、冷たい炎の灯った目を私に向けた。

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