5

 ――どうして、どうして、どうして!

 何度数えても私のカードは千葉恵吾の持ち札よりも少ない。

 既に四ゲームを終え、五ゲーム目の結果を集計していたところだった。これまでの結果は引き分け、負け、負け、引き分け。そして今回も負け。この負けは言わずもがな私の敗北である。確率論とほんの少しの運任せの勝負なのに、こんなにも勝敗に差が出るのは流石におかしいのではないか。目の前の男は高笑いをしだすのではと思うほど愉悦に満ちた表情でカードを整えている。

「こんなの絶対におかしいですよ!」

「ん? 何が?」

 男は勝ち誇った眩しい笑顔だ。酔いが回っているとはいえ、明らかなイカサマであれば見抜くこともできるはずなのに、カードの枚数も柄もおかしなところはない。千葉恵吾が巧みにカードを操作をしているのかもしれないが、決定的な場面を抑えることもできず、男がイカサマをしているかもしれないという憶測の域を出ないもどかしい状態だった。

「こうなったら勝つまでやりますよ」

 息巻くとはまさしくこのことだと思った。イカサマの現場を抑えるか、己の実力で勝利を掴むか、そのどちらかを果たさなければならない。そんなことを考えながら千葉恵吾の手元にあるトランプを回収しようと手を伸ばす。

 カードに手が届いた瞬間、私の手を覆うように男が手を重ねてきた。思いもよらぬ人肌の温度に自分の時間のみがピタリと止まったかのように思えた。そして重ねられた手の角張った骨と私のものよりも幾分固さのある肌を脳が認識した瞬間、私の心臓が途端に動き出し、早鐘を打つ。全身に血液が急激に駆け巡り、熱い。

「まあまあ、ちょっと冷静になって。言うてる間にもう閉店の時間やで」

 千葉恵吾は涼しげに囁く。低く落ち着きのある声が鼓膜を震わせ、囁かれた耳元がさらに熱を持つ。触れられた手と耳が火傷するかと思うほど熱い。ギクシャクと千葉恵吾の顔を見上げると、ごく至近距離に美しい形の目が存在していた。吸い込まれそうな輝く瞳とその縁から伸びる長い睫毛。その華やかさにフリーズしそうになる思考をなんとか動かし、姿勢を元に戻した。姿勢が戻れば自然と手が離れるはずなのに、未だ手の甲に男の大きな手の温もりを感じたままだ。

 思考が混乱する。しかし、何か、言わなければ。

「――まだ、ゲームしたいです」

「千秋ちゃん、我儘を言うたらあかんで」

「だって千葉さん、絶対ズルしてる……まだ千葉さんとゲームしたいです」

「あかん。もう他にお客さんもおらんし、千秋ちゃんも流石に帰ろ?」

 優しく語りかけられるのに意地悪を言われている気分で、焦れた思いが胸の中を埋め尽くす。千葉恵吾の語る通り、既に他の客は退店し、マスターは閉店作業として掃除を始めていた。勝ちたいという思いと、目の前の男と過ごした時間が終わりを迎えることへの寂しさが一気に募る。そんな幼稚な思いを自覚した冷静さとの間で、どうすれば良いかわからなくなり、沈黙を選択することとなった。

 覆い被さった手の親指が、私の手の甲をそっと撫でる。その優しい温もりが心地良く、さらに離れ難い思いがした。

「……だいぶ遅いし危ないから、帰り道送っていくし、そんな顔せんといて――マスター、ちょっと外出てくるわ」

 手の甲から男の手が滑り、私の手首を軽く握る。腕を引かれるがままに立ち上がり、千葉恵吾の後をついて扉へ向かって歩みを進めた。

「はいはい」

 マスターの返事を聞く前に、男は既に店の扉を開いていた。

 深夜であるのにネオンに照らされた明るい街並み。私たちはその喧騒の中に飲み込まれていった。


「千秋ちゃんの家は割と近かった記憶あるけど……どっち方面やっけ?」

「……あっちです」

 名残惜しさのために、本当は答えたくないのに、それは子供っぽすぎると思って渋々帰路を指差す。いつもより自分の欲望の部分が顔を出しているのはアルコールが原因だろうか。

 千葉恵吾は指差した方向へ視線を向けると頷いて、店から出てきた時のまま私の手を引いて歩き出す。

 私の手は夜風に曝されてどんどん温度を失っていくが、厚みのある手に包まれた部分は温もりを保ったままだった。ベストに覆われた広い背中を見つめながら黙って後ろをついていく。頼り甲斐のある男の背。逞しい肩と引き締まった腕。この腕に抱かれればどんな心地がするのだろうとぼんやり考える。

「――あれ、恵吾くんじゃない? また違う女の子連れて歩いてる……――」

 アルコールでぼんやりした思考・感覚の中、その声だけがやけに鮮明に私の耳に届いた。どこから聞こえたのか一瞬判断しかねたものの、今し方すれ違った女性グループの囁き声のようだった。

 ――『また』違う女の子……?

 そのグループはいかにも夜の街に慣れた女の子たちだった。綺麗に着飾った娘たちは今夜の遊び場を物色している様子だ。嫌悪するでもなく、しかしゴシップを楽しむわけでもない視線が私に向けられていることを感じ取る。彼女たちにとって、千葉恵吾が様々な女性を連れて歩いているのはそれほどの日常ということなのだろうか。

 その事実に思い至った瞬間、私の足は棒のようになり動かなくなった。握られた手を引っ張るようにしてその場に立ち止まる。

 私の異変に気づいた千葉恵吾も歩みを止めると、手を握ったまま振り返り、いつもの微笑みを浮かべていた。人好きのする穏やかな笑顔だ。

「千秋ちゃん、どうしたん? 気分でも悪い?」

 女の子たちの囁きに気づいていないのだろうか。私に聞こえたのだからそんなはずはないのに、千葉恵吾はいつもと変わらない。だからこそ先ほどの囁きに真実味が増す。

「……あの、さっきの女の子たち……」

「……どうしたん?」

「また違う女の子連れてるって……」

「そういうこともあるかもしれへんし、ないかもしれへんなあ……」

 いつもの笑顔に、曖昧なセリフ。はぐらかされるのだろうかと思った次の瞬間だ。握られた手が強引に引っ張られて、体勢を崩しかけた。なんとか姿勢を留めるものの、私たちの距離はほぼゼロとなり、間近から男の囁く声が聞こえた。

「……気になる?」

 その囁きに甘い衝撃が背筋を走り、腰あたりがじんと温かくなる。あまりのことに男の顔を見上げることも叶わない。

 どうにでもなれと思った。私は兎角、この男との時間を長らえさせたい。そういった思いだった。ならば私にできることといえばひとつしかない。

 そのような逡巡ののち、男の目も見ずに私はこくりと頷く。千葉恵吾の反応を見るのが恐ろしく地面を見つめていたが、頭に優しく手を置かれた感覚がした。そしてその手がゆっくりと首筋にまで下がると指先で顎を撫でられ、自然に頭を上げさせられる。

 穏やかな微笑みを保ったまま男は美しい眼球をネオンの光にギラつかせて、私に告げた。

「じゃ、千秋ちゃんのお望み通り……ゲームの続きをしにいこか」

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