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 漆黒の天幕が空から下りた街の一角で、一際賑わいを見せているバー『ユートピア』。大柄で強面の店主が旅の途中で蒐集したというボードゲームをプレイしながら酒を嗜めるコンセプトバーであり、界隈では名の知れた店だ。ボードゲームやTRPGを複数人で楽しめるような広めのテーブルが六卓あり、店内奥には店主が自らカクテル等を振る舞うためにバーカウンターが設置されている。ゲームをするためにテーブルは明るく照らされているが、店内の隅やバーカウンター付近は落ち着いた雰囲気を演出するためか目立った照明は設置されていない。ボードゲームバーという店の性質と店主の強面具合でなかなか人を寄せ付けない印象を持たれがちである。しかし意外なことに一部マニア以外の客も多く訪れる場所でもあった。

 多くの人からマスターと呼ばれる店主の人脈の広さが客を呼ぶというのは大きな要因だ。それと共にあまりボードゲームに興味のない人間、その中でも特に女性を惹きつける要素がひとつあった。千葉恵吾(ちば・けいご)の存在である。


「いらっしゃいませ、ご注文は?」

 扉を開けるとテーブルでゲームに興じる客たちがまず視界に飛び込んでくる。ドアのベルが鳴ったことなど皆お構いなしでテーブル上のボードを一生懸命に見つめていた。ベルに気づいたマスターの視線を受けながら、カウンターの椅子に腰をかけると早速ドリンクの注文を尋ねられる。髭を蓄えた威厳に満ちた表情は初めて見た日は恐怖を覚えるほどだったがマスターの人となりを知った今となってはその感覚も懐かしい。

「シャンディガフをお願いします」

「畏まりました」

「あれ? 千秋ちゃん、今日はひとり?」

 バーカウンター奥のバックヤードから男がひとり顔を覗かせていた。この男こそが千葉恵吾である。

「千葉さん、こんばんは。明日はせっかくの休みなので、少し飲みに」

「他の子らは? みんな用事?」

「特に集まる予定もなかったので、私だけです」

「そっかあ。ゆっくりしてってな」

 にっこりと笑ってバックヤードに引き下がると、フード類を盆に乗せて再び表に姿を見せる。カウンターから外へ出ると、男はもう一度私に微笑みかけて、テーブル席へ向かっていった。

 この地域には珍しい関西弁の男。その物珍しさもあるが、客が何より惹きつけられるのはその容姿と振る舞いだった。

 

 まず特徴的なのは大きく丸い目だ。明るい茶色をした瞳は人懐こくて穏やかだ。くっきりとした二重と長く伸びる睫毛がその目を縁取り、印象を強くする。くるくると緩く波打つ黒髪は彼の柔らかな物腰を演出している。鼻筋もスッと通って凛々しいのに、その瞳と同様、柔らかな表情をする頬はいつも微笑みを浮かべていた。端正な顔立ちの男だ。目の下の隈が濃すぎるという欠点を除けば、だが。

 誰もがその男のことをこの店のウェイターだと思っている(し、実際にウェイターの仕事もこなす)が、本人曰く「この店の用心棒」とのことだった。あの強面のマスターが店主を務める以上、警備員が必要なようには感じられなかったが、千葉恵吾の発言にも一定以上の真実味はあった。平均以上の身長。衣服越しからもわかるウェイターというには鍛え上げられた肉体。堂々とした立ち姿。話術も巧みで、問題が起こりそうならすぐに対応をする力もあるし、実際に問題が起これば実力行使に出ることもある、らしい。

 何せ物騒なこの世の中で、諍いらしい諍いが起こらない方が珍しかった。目立ったトラブルが起こらないというのは何らかの抑止力を店側が持っているということであり、その抑止力の一部を千葉恵吾が担っていることは想像に難くない。


「どうぞ、シャンディガフです」

 千葉恵吾はベストを身につけている。その背のアジャスター部分をぼんやりと眺めていると、カウンターにカクテルが置かれる。店のロゴが印字された紙のコースターの上に黄金に輝くシャンディガフ。一日の労働で渇いた喉を潤すには魅力的すぎる煌めく微細な泡に思わずうっとりした。

「いただきます」

 グラスの縁に唇をつけて一口その液体を飲み込むと、急激に喉の渇きが癒える。その爽快感に中身をどんどん煽っていく。


 ――たまには酒に頼る日があってもいいでしょ。

 注文時、千葉恵吾に指摘されたように、私は普段この店を訪れる際は必ず友人を連れ立っていた。気心の知れた女友達と物珍しいゲームに興じながら、日頃の鬱憤を晴らす。店が落ち着くと稀に千葉恵吾も私たちの輪に混じって一緒にボードゲームをしたり、TRPGに慣れていない私たちのためにキーパーをしてくれたり、はたまたどうでも良いことを話して、笑って。

 自分の恋人との関係に翳りが見えていたため、見目の麗しい男に心を癒されていた部分もある。女友達と過ごすだけでも楽しいのに、この男の柔らかな話し声や微笑みはそれ以上の高揚を私に与えてくれる。この店は私にとって逃避の場所だ。

 つい最近、恋人に感じていた不信が確信に変わったため、とうとう関係を解消することとなった。柄にもなく落ち込んでいた私は仕事の疲れも手伝って少しでも気晴らしをしたくなり、目の前の酒をどんどん胃の中へ流し込んでいた。友人にも付き合ってもらおうと思ったし、実際に誘おうとしたが、そういう気分になれなかった。このバーなら安全で、それでいてほどよく賑やかで、孤独だけど寂しさは感じない。女友達の慰めを今は欲してはいなかった。

 喉や食道がカッと熱くなる。鼻を抜ける生姜とビールの苦い香りは私の気持ちにぴったり寄り添ってくれるようだった。このビアカクテルを選んで正解だった。この爽快感を味わう瞬間の私はまさに無心とも言えた。いつの間にかグラスが空になっており、物足りなさにムッと唇を結ぶ。次は何にしようか。

「……マスター、もう一杯」

「畏まりました」

 迷うのも勿体無いように感じて、おかわりを注文する。酒に弱くもなければ強くもない。酒を喰らい続けるのも体に良くない。ただ、あまりに喉が渇いていた。本当に渇いているのは喉ではないのだろうと思うが、その渇望を直視しないためにも酒が必要だった。

 マスターは黙ったまま二杯目のシャンディガフを作り出す。ビールにジンジャーエールを注いでステアするだけのシンプルなカクテル。あっという間にカクテルが出来上がり、空となったグラスと引き換えにコースターの上へ置かれた。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

「何かつまむものはいかがですか? お酒だけでは胃に悪いですよ」

 マスターの提案は常識的で優しいものだった。空きっ腹にビールを流し込んだおかげで胃と首元が熱い。このまま酒を飲み続ければ時間を待たずに酔いが回るのは明白だった。しかし、私はその感覚を求めてこの店を訪れたのだ。そのためこの提案は受け入れがたいが、親切からの発言であることもわかっているため無碍にするのも難しい。

「うーん……どうしようかな」

「古くからパブで親しまれてきたシャンディガフと組み合わせるなら、イギリスフードの鉄板・フィッシュアンドチップスは? 俺のオススメ」

 思ったよりも近くで男の声が聞こえてきたことに驚いて隣を振り向くと、配膳を終えた千葉恵吾が空の盆をマスターに手渡し、隣の席へ腰を掛けていた。椅子の高さには余る足を投げ出し、肘をカウンターにつきながら私の顔を覗き込むように微笑みを浮かべている。薄暗い照明の中できらりと輝くブラウンダイヤモンドの瞳に真っ直ぐと見据えられる。頬が異様に熱いのはアルコールのせいだろうか。

「揚げ物、結構好きやろ?」

「確かに、フィッシュアンドチップスは好きですけど」

「気分じゃないん?」

「そういうわけでは……迷ってただけなので。お願いしようかな」

「オッケー。マスター、フィッシュアンドチップスをひとつと俺もシャンディガフで!」

 千葉恵吾は悪戯っ子の笑顔で元気良くオーダーをする。私たちの会話をじっと聞いていたマスターはその発言に眉間を揉んで溜め息をついた。

「まだ勤務時間中だろうが、お前は」

「別にええやろ、マスター。他のテーブルはだいぶ空気落ち着いてきてるし、お客さんも今夜はあんまり来おへん感じやん」

「高梨さんのご迷惑になるって言ってんだ、わからんか」

「わっ、私は大丈夫ですよ」

 まさか話題の中心が自分になるとは思わず、慌てて否定する。実際に迷惑とは思わないし、マスター自身も迷惑になるという方便を使っているだけのような気がした。

「ほらあ、千秋ちゃんも大丈夫やって言ってるし」

 千葉恵吾の得意げな顔にマスターは顔を顰めるもののその後は特に咎めることもなく、私の方へ向き直った。

「では、フィッシュアンドチップスをお作りしますね」

「シャンディガフも忘れんといてな」

「……作ってやるが、新規のお客様が来たら対応しろよ」

「わかってるって」

 企みが成功して嬉しそうな男は視線を再び私の方へ向けて、頬杖をつき首を傾げた。

「よかったら俺とゲームしようや」

 いつもと変わらぬ微笑みなのに、その目が妖しく光った気がしたのは私の勘違いだろうか。

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