無駄なこと

AZUMA Tomo

1

 人生で初めてまともな握り拳を作り、よもやそれを振り抜く時が来るとは思いもしなかった。護身術を学ぶことはあれど、それはあくまでも防衛したり危険を回避するための手段を学ぶものであるため、人を攻撃する技を学ぶわけではない。だから、こんな風に自分の体重を拳に込めて、愛おしく感じた人の頬を殴りつけることなど想定もしなかった。

 拳の皮膚が焼けるように痛み、力みすぎた腕は衝撃を受け流せずに筋がビリビリと震える。これは私――高梨千秋(たかなし・ちあき)が初めて経験する暴力の痛みだった。

 私の想定していた以上に相手にはダメージが入ったらしい。小さな呻き声を上げた後、数歩後ろへよろめく。男は殴られた頬に触れながら、普段はまんまるの目を痛みに細めて私の方を眺めていた。

「いった……いい拳持ってるやん、千秋ちゃん」

「そうやって私のことをいつまでもバカにして……」

「バカになんかしてへん……俺のスタイルやってわかってるやろ」

 その男の表情は無様であるのに、整った顔立ちのせいで様になっているように思えるのは卑怯だと感じた。彫りの深い顔が痛みに歪んでいても、映画のワンシーンを切り取ったように見えるだけだ。こんなに憎たらしいのに、それでも彼の表情と声にときめきに似たものを覚えるのは理不尽だと思う。

 男の様子が一層私の感情を逆撫でする。しかし、一方でこれ以上私たちの関係が進展することはないという相反する冷静な思考が私の心を宥めていた。元はと言えば欲をかいた私が悪いのだ。そのようにすら感じ始めている。

「スタイル? 笑わせんな。あんたの中途半端な態度が私を惑わせたってわからない?」

 もはやこれも言い訳で責任転嫁なのかもしれないと思うが止めることもできない。止めてしまえば、誰が私の味方をするのだろう。私がこの男に抱いた思いは真実であったと誰が認めてやれるのだろう。

 淡い期待を抱くことについて、誰が責められようか。誰も責められるわけがない。あわよくばこの男の唯一の存在になれればと胸に秘めることの何が悪いのか。この男の思わせぶりな態度が元凶だろう。

「……千秋ちゃんが、俺にそういう振る舞いを求めたからや」

「遊びだって言ったのはあんたでしょ! 遊びならそれ相応に振る舞えば良かった! ――どうしてそうしてくれなかったの? 私……私は!」

「――せやな。俺が間違ってたかもしれん」

「……今更、何」

「最初から君に手ぇ出さんかったら良かった」

 痛みに左頬を引き攣らせながら、目の前の男が微笑む。情事の汗で乱れた頭髪をガシガシと掻き上げ、男は私を見下ろした。微笑んでいるのにまったく感情の乗らない明るい茶色の目。


 ――このように追い詰めれば、男がそう答えることも予想できていたはずなのに。どうして私は悲しい思いを抱えているのか。おそらく、まだ。私はこの男との未来を信じていたかったのかもしれない。

 女々しい自分の思考が嫌になる。

 男は目の前にいるのにどんどん遠ざかっているように感じ、耳鳴りが止まない。現実が自分から離れていっているような感覚だった。

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