第一話 間借り一軒家2――ピントの合う視界




 楼香の体内は医者なら誰が見ても健康体であるのに、入退院を繰り返していた。

 医師には匙を投げられ、サードオピニオン以上廻ったが原因が見つからず。お祓いも向かったが、

 苦しかった時期だった。入院し、二週間苦しかった後に、体がやけにすっきりとし。熱が冷めたし、具合も悪くなくなった。元からデータ上は健康体なのだから、楼香は退院できたが検査入院し。母や父の姿が一向に現れない一週間前に見舞いに来てからそれっきりだ。魘されてから見えなくなって、楼香が退院する日には二人は仕事上の都合でギリシャに行っていたと判ったのが、退院してからだった。それまで看病に来ていたのは、仕事上にも付き合いがあった父親の弟である叔父さんだけだった。それも祖父に言われてきていたらしいと年齢を経てから知った。何故ギリシャなのかと判ったのは、電話があったのだ、帰国する飛行機が墜落したという電話が。


 元から楼香の父はこれから売り出す大きな契約をとれたばかり。螺旋工場の社長で、小さな会社といえども商標登録が多く。職人も多く存在していた上に飛行機会社やロケットの大事な螺旋を作っていたので売れ行きや生活に困ることなど一切無く。財産は大きかった。遺産とともに、事故からの多額の保険金、損害補償額。とにかく山ほどお金が楼香に降ってきた。不思議なことに両親は、こうなることが判っていたように保険金をやたらとかけていた上に、受取人を楼香にしていた。親戚は楼香をこぞって取り合い。身元の引き取りを望んだが、楼香は意固地になって家に拘り続けた。

 楼香は大きな家を相続する意向となり。法定代理人には唯一自分を可愛がってくれていたと確信できる祖父にお願いした。会社は悲しかったが叔父に任せた、経営のことなど何も判らない状態だったし、螺旋にも詳しくない。

 祖父は老い先が短いことも懸念していたが、そのときは祖父の指名者に従うと約束していた。

 劇的な日々は楼香に重い足枷を敷いた。何のために生きているのか判らない。死んでしまいたかった。何故自分は両親と一緒にあのとき行けなかったのか。病だからというのなら、あのとき一緒に病で死んでしまえばよかったとすら感じた。

 そんな楼香を見かねて祖父は友達を「作ろう」としてくれていた。祖父に紹介されてやってきた年頃の少年少女は楼香のご機嫌伺いをしていく。

 楼香は祖父が死ぬまでの間は、元気な少女を演じて良いと感じた。父と母に負けないくらいの愛情を祖父からは感じていたからだ。ご恩返しのつもりだった、幼い子供が一生懸命産みだした祖父を安心させる案だった。

 やがて楼香は、傲慢で愚かな我が儘令嬢になっていく。

 とはいえ、お金がらみで言うことを聞いてくれるのは、精々小学校を出るまでの二年間くらいだった。二年間の間にしっかりと我が儘になっていった。

 楼香の我が儘さを祖父に知らしめて、この子はもう大丈夫だと見せかけることが出来たのは、近所で楼香をなじるガキ大将を返り討ちにしたときだ。大人が駆けつける頃にはガキ大将の背に馬乗りし、大笑いでお尻ペンペンをしていた姿を見てからだった。

 あまりのお転婆さに祖父はやっと両親が死んでから大笑いしてくれたので、楼香は酷く安心したのを覚えている。

 楼香は祖父は、同じくらい大事な物を失った唯一の同胞なかまだと感じていたので。楼香は祖父の大笑いを見て、このお転婆でいこうと決めた。


 年月が経ち、祖父の葬式を二十歳の頃に行った。相続を受けしっかりと管理していく姿に安堵したかのようなタイミングだった。

「楼香、お友達をたくさん作るんだよ、お前のお転婆を笑い飛ばしてくれる人を大事にしなさい。頷くだけも駄目だ、否定するだけもだめだ、お前を大事にしてくれる人を見つけろ」

 祖父から最期に見た笑顔だった。

 祖父はお転婆を見せた日から我が儘になっていく楼香を心配どころか、好んでいた。悲劇の遺族ではない、元気な振る舞いを気に入ってくれていた。


 楼香はお葬式の帰り道、何をしようかぼんやりとしていた。

 大事な人が死んで、目標も失い。またしても分けられた遺産。お金も腐るほどあるので、働かなくても生きていけるくらいには持っている。生きていく指針が見つからない。

 楼香は友達を引き連れて遊び回りたい気分だったが、この時期は流行病などで非常に鬱憤を晴らしづらく。飲み屋ですら早めの閉店だった。

 早めの閉店で締め出しを食らった楼香はふらふらと、道を歩いて行けば庭園に近いほどの敷地もある公園。梅が咲いているのを思い出した。

 楼香は桜より梅が好きだった。見た目や色味の話ではなく、桜と梅の寿命や。延命の問題でもあった。梅は三百年ほど生きることが出来、桜は百年で死ぬのに色素がなくなるほど無理矢理生かされているように感じた。両親のことを思い出すなら無理矢理にでも生きて欲しいが、祖父のように沢山生きて寿命がきたと受け入れたいと思案が巡る。桜と梅を見る度巡る思いだ。

 梅が綺麗に何百本も植えられている庭園があるので、ひっそりと見に行く。門は閉まっている。こんなときですら遊ばせてくれないのかと楼香はやけくそになると、門をよじ登って中へ入っていった。


 ライトアップのされてない梅は真っ暗な中に、ブラックライトを浴びたような薄い白さで空に雪のように揺れていて。

 楼香は梅の香りを満喫しながら空を見上げれば、この日は深い深い真っ青な空に、真っ黄色の満月だった。

 ちょうど月を見上げた頃に、梅と違う香りが漂ってきて、おかしな声も聞こえた。

「ああ……いなり寿司食べたかったな」

 男性のくぐもった声がする。血のにおいを感じ取ったので、辿って探せば梅の木の下で体を折り曲げ倒れている男がいた。風の強さに梅の花弁が男に降りかかっていく。

 狐面がずれ落ちる皮膚は火傷で爛れていて、それなのに何処か凜として美しさやたおやかさを感じる不思議な男だった。銀色の髪はべったりと汗にまみれ、腹には真っ赤な薔薇を咲かせて、茎はナイフの柄だった。フライトジャケットの中は血まみれで、トラッキングシューズもスキニーパンツも泥で汚れている。

 楼香は目を見開くと、男に駆け寄る。あたふたとしながら、市松に触れて良いのかどうか思案した。流行病も根強い時期だったというのに、そんな現実ですら頭から抜けて、楼香はゆっくりと市松を抱えた。

「大丈夫!? えっと、救急車よばないと!」

「おやあ、どなた? これはこれは、また僕は異形に呪われた人に縁がありますね。救急車はよして。僕ね、お医者さん嫌いなの怖いの、注射の針は嫌いよ。このお腹のナイフよりきらあい」

「そんなこと言ってる場合じゃ!」

「いやよ、病院の消毒液だってまっぴら。貴方はそういう思い経験無い? 待ち疲れてお腹ぐーぐー空いちゃって、呼ばれる頃にはげっそり」

「判るけど、あれほど嫌なものはねえよ、確かに待ち時間は疲れるし。この辺の医者は藪だし! それでも行った方がいいにきまってる!」

「いやよ、このまま倒れて僕は悲壮を背負って、飽きた頃に帰るの。事件に遭った人間ごっこ、案外退屈ね」

「そんな真っ赤な腹で言っても説得力ねえよ、まだ血が滲み続けてる!」

「そうまで仰るならねえねえ貴方のおうちって近い? 綺麗なお風呂と、裁縫箱があればどうにかなるよ。貸してくれない? あ、お返しはできないか、お風呂のお湯と糸なら。日本語って難しいよね、貰うのに貸してという」

「えええ!? そんなの死んじゃうだけじゃん! こんなに血が流れていて、それだけで治るわけが……」

「こうすれば、少し。真実味でるかしら。僕のお話が嘘みたいでも、お伽噺みたいでもきっと何とかなるって貴方も何処かで想うはず。だって、人じゃないもの僕は」


 銀髪の男は狐面を一回つけてから、顔を隠し。顔を隠した後にまた顔を現し。また隠して、二回目に顔を見せた。その動作を何回か繰り返す。お粗末なかくれんぼのような仕草だった。

 それだけならこの緊急時に何を巫山戯ふざけているのかと怒鳴りたくもなる。けれども、男の行動は確かに、提案が大丈夫のような気持ちにさせた。


 男の顔は、仮面をつけるごとにまるっきり人相を一瞬で変え続け、人間ではないのだと示した。


「うそ、こんな……」

「それでも尚、貴方は関わるというの? 今なら引き返せるよ」

「……関わるよ、見逃せないから。痛そうだし、青ざめている顔色は変わってねえもの」


 自分の幼なじみに化けた顔は、にこりと微笑み親密性をそそる。楼香は言葉を失うも、顔の効果からか見棄てる気持ちすらおきなかった。幼なじみの顔は仲が良いからこそ判る、腐れ縁だからこそわかる、ウブ毛ですら同じに見えるほど似ている。

 気味悪さより、親しみが先に浮かぶ。どんな顔に弱いのかを判っているような気がした。が、意図的には思えない。たまたま、この顔だった様子だ。



「僕ね、顔を集めているのっぺらぼうの亜種たる一族なの。貴方の思い入れのある顔に似たものを一つを浮かべたよ」

「……貴方、いったい……」

「ほんとに関わるならお風呂代代わりに名乗りますよ、市松文字いちまつもんじと申します。妖しに取り憑かれたレディ、貴方は? ブラックリストに間違っても書いたりしないから教えてくれない?」


 市松の脂汗で滲んだ笑みに、楼香はざああと吹く風の寒さをやっと思い出した。梅の花弁が少しだけ散りゆく。



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