回る 作:淵瀬このや

 錆びた鉄の匂いが控えめに鼻を通り抜けていくのを感じるのは、いったい何年ぶりだろうか。血によく似て、でも少し土の匂いの混ざった懐かしさを感じさせる匂いを大きく吸って、腰の高さほどしかない鉄棒をそっと撫でた。

 その公園を見つけたのは、最近あまりに重い身体をどうにかするために始めた夜の走り込みの途中だった。大学生になって、めっきり身体を動かさなくなった。布団から出ないで終わる休日が増えた。それを自覚したら、走りださずにはいられなかった。寝ころんだまま柔らかく死ぬのは、赦せなかった。アスファルトを打つ足裏が、衝撃を受ける膝小僧が、ひどく痛んで軋む。引っ張り出してきた高校の野暮ったいジャージのジッパーを限界まであげれば、汗をかく喉が痒く赤く腫れていく。喘息でうまく寝付けなかった幼いころみたいに息ができなくて、苦しくて、心地いい。足がうまくもつれてくれたら、死ねる気がした。たいしたこともできずに生きているのに、死ぬ時くらい苦しくなかったら私の生まれてきた意味がないじゃないか。そんな軽い自傷みたいな走り込みの途中で見つけたのが、その公園だった。

 裏路地にある、小さな公園だ。夜八時、まともな人間なら公園に近づかないような時間帯。そこはひどく静謐だった。先ほどまで心地よかったあがりきった息が急に煩わしい。静かな公園に、私だけがノイズだ。それでも幼い子の背丈に合わせて小さく積み上げられたレンガに挟まれた入口から、そっと侵入してしまった。呼ばれてしまった、何年も触れていなかった遊具たちに。ブランコと、滑り台と、鉄棒だけがあった。他にあるのは静寂だった。散りきった桜に緑が息づいている。私はふらふらとブランコに近づいた。

 四つの黄色いブランコが、青の支えにぶら下がっている。暗くてよく見えないが、鎖はきっと錆びついているだろう、地元の公園のブランコがそうだった。四つのブランコの下には、小学二年生くらいの子が寝ころんだらこれくらいの大きさだろうというくらいの水溜りができている。昨日雨は降っていただろうか。最近そんなことも思い出せなくなった。ブランコか、小学生のころはどんな風に遊んでいただろうか。一番端のブランコの、一番手前の鎖をつかんで揺らせば、存外静かにきい、きい、とブランコが前に後ろにゆらゆらする。ブランコは皆好きだから、競争率が高かった。でも、その皆の顔も、名前も、思い出せない。よく遊んだ友人たちは、私の記憶の中で、英単語や数学の公式に殺されてしまったらしい。悲しいことだ。真っ白な空間に、スウガクテキキノウホウだとかキンゾクノイオンカケイコウだとかフランスカクメイなんかがぎっしりと詰まっている。一人私がその真ん中に立っている。小学生時代の友人たちが公式に命乞いしているのを、無表情に見つめている。数秒後には、見ていたことも忘れて。

 ああでも、その空間に一人だけ他の人間が佇んでいるのが見える。あれはそうだ、ハルじゃないか。本名は、少し思い出せないけれど。ハルと呼んでいたその子の顔だけはなぜか鮮明に思い出せる。そういえば、ハルはブランコがうまかった。二人乗りの立ち漕ぎを任せたら、どこまでものぼっていけるみたいだった。どうやっても視界に入る薄緑のキュロットが気恥ずかしくて、ああそうだ、それでずっと首をあげてハルの顔を見ていた。ぐんぐんとブランコを高く高く持っていくハルはキュロットなんてまるで気にしていなかった。なんだ、私も案外覚えているじゃないか。友人の顔くらい、普通の子はもっと覚えているものなのかもしれないけれど。

 気をよくした私はブランコの鎖から手をはなす。ズボンの尻ポケットに突っ込んだスマホが二回震えて、取り出す。大学の友人からのメッセージらしかった。アイコンは彼女とその友人とのツーショットだった。それを見れば、返信するどころではないところまで心が落ちていった。大学の友達は、先ほど思い出したハルの顔にどこか似ていた。彼女の友人も、そう考えれば私に顔立ちが似ているのかもしれなかった。さっきの真っ白な空間をもう一度覗いてみれば、友人によく似た他人が大量に存在していた。数学の公式たちは、似ている顔面の人間を区別できないみたいだった、私たちが動物園のシマウマの個体差を見抜けないのとちょうど同じで。もしかしたらこんな風に似たような人間とばかり友達になることで、私は旧友を消費しているのかもしれない。気持ちが悪い、気持ちが悪いや人間なんて。選ばれる価値があるかすらもわからないのに選ぶ側の気持ちでいるんだ私たち。

 近づいた時と同じようにふらふらと、今度は打ちのめされてブランコから離れる。すると鉄棒が近づいてきたので撫でてやる。錆びた鉄の匂い。枯れた血の匂い。手に染み込んでいくのを感じると、その匂いが私の手から入りこんで血管を通って全身に回るようだった。回った匂いはやがて心臓に辿り着いてそこを枯らすだろう。良くない。それは受動的な死だった。

 逆上がりはまだできるだろうか。二番目に低い鉄棒はちょうど私のへその位置だった。逆手に掴み、前後にステップでリズムをとる。タン、タッ。違う。タッタタッ。違う。タン、タン、タタッ。あ、これだ、思った瞬間身体が勝手に鉄棒を引き寄せていた。腕にぐっと力が入る。右足が鉄棒を飛び越えようと真っすぐに伸びる。

 それでも、昔の感覚だよりの身体は今の重さに耐えられなかった。腕が弛緩する。どさっ、と音がしたかと思えば、両足はしっかり地面を踏んでいた。それでようやく、私は逆上がりに失敗したらしい、と気がついた。人生と同じだなとぼんやりと思った。失敗した、ってわかった時にはとうに失敗していて、どこからが明確に間違いだったなんてわからない。だって、できると思って、できる想定しかせずに、私は回ったんだから。私だけ他の子とは違って回れないんですよなんて、事前に聞いていないんだこっちは。

「うまくいかないものね」

 この日初めて声が出た。かすれきっておじいさんみたいだったけれど、おじいさんはきっともう少し可愛げのある声をしている。逆上がりは諦めた。溜息と共に鉄棒を握りなおして、ぐっ、と腕に力を入れて鉄棒に乗り上げる。何となく、くらっと重心の位置をずらしてみた。そのままふっと身体は前に傾いた。

 くるんっ、ざっ。

 一回転して、着地した。ほとんど落ちたみたいなものだった。前回りには成功したらしいと、こちらも後から理解が息を切らして私に追いついてきた。いきなり大量の血を注ぎ込まれた頭が、がんがん鳴る。思わず変に笑いがこみ上げる。ふ、ふはっ。肺が空気を押し出す。

 今、私、回った。今は背の方にある繊月が、くるっとひっくり返って見えたんだもの。私、回った。

 ふへ、ふへへへと意味のない笑いが止まらなくなる。誰かが公園を通りかかったら、通報されてしまうのではないだろうか。捕まったら言ってやろう、「私、回ったんです!」って。お茶の間に一瞬だけ映る狂人に今ならなれる。でもきっと、誰も通報なんてしない。だって、誰も私を観測できていないから。きっと今さっきの一瞬、世界をひっくり返したのは、地球上どこを探したって私だけだ。あまりに鮮やかだったから、世界は自分が一瞬ひっくり返されたことにてんで気がついていない。なんて愉快だろう!

 笑いが止まらなくて、涙がこぼれてきた。だらしのない顔だ。よだれだって垂れている。例えば憧れの先輩なんかに見られたら確実に舌をかみちぎって死ねる顔をしている。

 これでいいんだ。言い聞かせた。

 逆上がりができなくたって、前回りはできるんだから。前回りだけして生きていけばいいんだ。他の皆がみんな、逆上がりできるとも限らないし……。

 相変わらず血の行き届きすぎた頭がぐわんぐわん鳴っていた。あんまり痛いから、ほんの少しだけ涙が出た。これ以上惨めにならないように、唇を噛んで嗚咽を耐えた。

 ああ、それでも。

 それでも、逆上がりのできる人間に生まれたかった。

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