そらからそらに(5/9)
ぼくは、つのしかさんの名前は、つのしかさんだと知っている。
彼女かつけているエプロンには名札がつけてあって、それで知った。名札には、店長、とも書いてある。それで、彼女がこの店の店長であることも知った。それから、彼女が高校生で、ぼくと歳が同じであると知った。
高校生で、同い年で、このカフェの店長。
そのことを知ったとき、小さな衝撃を受けた。ぼくとちがって、未来へコマを数個先まで進めてしまっているひとに思えた。
ただ、その後、来店のつど、つのしかさんから放たれる、もてあそびとか、軽度の愚弄によって、そのあたりの彼女に抱いた未来感の印象は、ほぼ絶滅した。
で、彼女はぼくの名前を知らない。名乗ってなおし、そもそも、カフェ側の人と、そこに来るだけのお客さんでしかなく、つまるところ、お客さんの名前を知らなくてもカフェ側の人は困らない。
彼女がぼくの名前を知らないのは、正常な世界の設定だ。
というのが、ずっと、ぼくにあった。
でも、ある日のこと、つのしかさんが、急に言い出した。
「そういえば、名前を知らない関係性ですね」
「え」ぼくは、唖然とした。「ああ、でも、ぼくは知ってます、つのかさんが、つのしかさん、って名前だって、だって、名札が」
視線で名札を示すと、つのしかさんも名札を見る。
「見たんですね」と、彼女はいった。
名札はエプロンにつけてある。
名札に書き、それをもし、見てはならないというルールがあったとしたら、クレームをつけていいはずだった。
「だめ、だったんですか」
「答えは、こころの中に」
「ないと思います、こころの中に、答え。このやりとりの答え」ぼくはそう答え返した。続けて後半は「あと、それはぼくとつのしかさんの、どっち心なんだろうか」と、自問自答を寄せた。
「ご注文はいかがいたしましょうか」
そこへ容赦なく、彼女が注文を取りに来る。つのしかさんの間合いだった。
そして、なんだかんだ、つのしかさんの接客のコア部分は、どういう流れからでも丁寧だった。プロだった。
「あの、珈琲をお願いします」
その丁寧な接客で、ぼくも、だいたい、ここまでの愚弄を忘れてしまう。いつも通り注文してしまう。レギュラー珈琲。
彼女は丁寧にお辞儀をして、カウンターへ向かってゆく。
珈琲を待つ間に、ぼくはスマホを取り出した。けど、ふと、店内を見ていた。
このマンションの七階は、もともとこのマンションの大家さんがまるまるひとフロアを住居にしていた。ぼくは、小学校の頃からここに住んでいるので、たまに大家さんとエレベーターへとかで出会うことがあった。ふわふわした白い髪のおばあさんだった。両親の話では、大家さんはここに、ひとりで住んでいたらしい。
七階のひとフロアを、すべて住居として使っているんだから、かなりの広いはず。
と、父さんは予測していた。そして、たぶん、砦のような感じの家だ、と言っていた。それに対して、母さんは、ねえ、それはいったいどの時代のどの武将の感じの砦だといっているの、と、問い詰めた。
そこを問い詰める必要はあったのだろうか、母さん。
家庭問題はさておき。
ぼくは店をあらためて見渡す。
玄関扉はふつうの家の扉のままだった。うちよりは、大きい。でも、簡素だった。
玄関扉を抜けると、そのまま一段のぼって、そのまま土足であがる。長い廊下があって、途中でスタッフルームと描いた扉あがり、その先を進むと、あらかじめ扉が取り外されている部屋がある。その部屋はがらんどうだった、何もない。はじめは、イベントスペースかと思っていたけど、いまのところをイベントが発生する気配はなかった。
廊下を抜けると、広い空間に出る。もとはリビングだった場所のようだった。壁のいくつかは取り払われたのかもしれない。四人掛けのテーブル席が三つあって、奧に対面のソファ席が二つある。中央には、六人掛けのテーブルがあって、カウンターにも座れる。
壁には本棚がある。そこには新刊と、古本が、無造作にさしてある。つのしかさんいわく、ブックカフェの気配も捨てがたく、でも、品揃えにこだわると、メンテナンスの手間が増えるので、ほどほどにとどめたラインナップ、ということらしい。あとは、売り物なのか不明な、雑貨とか、木彫りの鳥みたいなのが何点かある。でも、ごちゃごちゃしか感じはない。店の中は、プラス算で、飾られたというより、マイナス算で飾られた印象を受ける。
そして、テラスがある。リビングの一面を支配する、大きな一枚ガラスの向こうに、店内の客席より広いテラスがあった。つまるところ、七階は、ひとフロアまるまる家ではなく、敷地の半分は、この広大なテラスになっていた。
広いテラスにも席はある。けど、ふたつ席しか用意されていなかった。つのしかさんに直接聞いたわけじゃないけど、たぶん、外の席まで接客へ向かう労働力をおしんでいるからだろう。
それから、いつ来ても、この店の店員さんは、店長であるつのしかさんしかいない。
いや、ぼくがいつも来る時間帯のせいの可能性もある。でも、とにかく、ぼくが来ると、つのしかさん以外、接客する人はいない。彼女以外から、珈琲を出されたことがない。
お客さんも、まずいない。でも、もしも、この店いっぱいにお客さんがいたとすると、つのしかさんひとりで接客は不可能そうだった。
きっと、不人気だからこそ、彼女ひとりでやっていけている。
勝手にそう思っていた。そして、その彼女の発言だった。
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