第17話 対峙
僕はパソコンの前に座る。ワードを立ち上げる。その人へ感想を送るためだ。その人が迷っている、強み、も分かった気がしていた。その人の強み、それはあの作家だ。その人の後ろに立っている文豪。ドン・キホーテの僕には、その作家にすがるよう、膝をついて、その作家を愛し、慕っているその人の姿が見える。顔は知らないけれど。でもそんなイメージ。熱心な信者が教祖を信じてやまないように。喫茶店とかで二人だけの空間を作って、他の人がそのスペースに立ち入ることを許さない夢見がちなバカップルみたいに。それは僕の悪意に満ちている。苛立ちを覚える。なんで僕がこんなことを。虚しさを覚える。こんなことをして僕には何になる。自分で自分が嫌になる。つけこんで、僕だけは気付きましたよ、って。そういう狡さも気にしない。パソコンに向かった僕は止まらない。ワードに文字を打ち込む。文章を打ち込む。僕のブランドタッチは職安の夜間専門学校、無料の学校で身に着けたもの。あの時はパソコンではなくタイプライターだった。渋谷の道玄坂を上がったところにあった学校。ブラインドタッチは一行ずつ覚える。FとJの位置に両手の人差し指が自然とくっつく。数字だけは目で見る。あの学校では一番の成績だった。タイピングのスピードと正確さは誰にも負けなかった。僕があの学校に通ったのは、職安では仕事を紹介出来ないと言われたから。高卒で、車の免許もなくて。そうなると自然と正社員の枠なんかなくて。でも、その学校を卒業したら就職を斡旋して貰えると約束したのに。半年通った職安の夜間専門学校、貿易実務科。FOBとか必死で覚えた。一生モノのブラインドタッチ技術もそこで身に着けた。でもトップの成績でその学校を卒業した僕に、就職の枠はなかった。
学歴がないから。あと車の免許もないから。
だったら最初から言ってくれればいいのにと思った。情けない声で不満も漏らした。でもクラスの皆は大卒であり、僕は高卒だから。ブラインドタッチでカタカタしてるといつもそれを思い出す。ブラインドタッチに罪はない。あの時、あの学校で学ばなければ。僕はそう考えるようになった。たまに、一時間でどれぐらい書けるか、との話題をSNSで見る。日本でも速い人は時速二千四百文字ぐらいとか、と。これって数字のマジックだと僕は思う。文章は、校正時間も入れて、一時間だと思う。誤字脱字チェックもしないでいいなら時速三千文字は可能であると思う。打ちやすい文章で一秒十文字、打ちにくい文章で一秒一文字。これを平均にすると比較的二千文字は、三十分から五十分で書ける。あとは校正。声に出して二度。紙芝居のように。一人何役にもなって。それが楽しい時もある。そうやって丁寧に綴った文章にはあまり誤字脱字は出ない。そして、プロでも防げないのがまた、誤字脱字であって。現代の書き手は、意外と誤字脱字よりも、変換ミスの方が多いと思う。これはもう、ワードさんとか、予測変換さんの機能の担う部分だと思う。無心で思ったことを打ち込む。心が乱れても、打ち込むことは忘れていない。箇条書きのメモ帳をチラ見しながら画面を食い入るように見つめながら、打ち込む。その人の過去の長編を読んでみようと思った理由、その人の強み、強み…。一瞬止まるキーボードを打つ手。でも僕はその手を再度動かす。あなたの強みはその作家さんだと思います、と。多くの書き手からその人を選んだこと、それが偶然なのか、必然なのか、それはあなた自身の中にあるはずと。その答えは、言われて分かることなのかもしれません、もしくは、いつか将来、それを振り返った時に気付くものかも、と。非情になれ。感情は入れるな。過去作は二作とも読んだ。一作は光るものなし。でも、もう一作からは、垣間見られた。筆を菩薩のように振るうその人の姿。書くを苦としないその人の姿。書くを楽しむその人の姿。光る文章が一行でもあれば、ページが一ページでもあれば、それは名作といっていいと思っている。マークトゥエインを思わせる書き出しから始まる物語。その人にとっては珍しいファンタジーもの。でも全然今風じゃないファンタジー。読むことで、どんどんと、そういうもんなんです、が強くなってきたファンタジー。僕はファンタジーや哲学的な物語は細かい設定など気にしなくていいと思っていた。設定が饒舌過ぎると、そういうもんなんです、が薄くなる、と。黙って、そういうもんなんです、が正解だと思っていた。過去の文豪もそうやって書いてきた。桃太郎も、鬼なんかいないと言い出したら物語は成立しない。だから、そういうものなんです。その人のファンタジーは、その人の武器であるはずの、くどさ、が、脂肪になり。そういうもんなんです、と割り切れずに、読者を置いてけぼりにしまいと説明を入れる。くどさと脂肪は別物であり。上から目線ではない。認めているから。尊敬しているから。この世界で勝って欲しいから。だからここまで書く。その人には勝つ権利がある。世に出る権利。商業として。僕だけはそう思っていた。僕は心の隅っこに、好きだから、という感情を追いやって、書く。
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