第2話 夏 桔梗



 緑豊かな山間の里は、古くから雷神に畏敬の念を抱き、里のあちらこちらにほこらこしらえて、まつっていた。里の人々は、野良作業に出る前に必ず雷神に五穀豊穣を祈ることが習慣になっていた。

「雷神様のおかげで、里の実りは豊かだ」と、誰もがそう口にし、幼い子どもでさえ、祠の前を素通りすることはなかった。


 その里を治めていた浅倉知之進あさくらとものしんには、二人の息子と三人の娘がいた。その末娘は、友之進が高齢になってから授かった子のため、友之進にとって目の中に入れても痛くないと言うほどのかわいがりようだった。その名は、萩姫はぎひめ。名前そのままの可憐な萩の花のようで、里の者たちに対しても気軽に声をかける心優しい姫様だった。

「殿様、そろそろ萩姫様にご縁を結ばれてはいかがなものか」

そう言われても、なかなか首を縦には振らない友之進に、家臣も呆れるしかなかった。


 萩が十七歳を迎えた、ある夏の満月の夜のこと。

「まぁ、なんてきれいなお月様」

そのあまりにも美しい月夜に魅せられ、萩は、庭へと足を進めた。お付きの者に、「少し庭で涼むから」と告げ、下がらせた。一人で、ゆっくり月を眺めていたい。それほど、美しい月夜だった。

 と、どこからか、美しい琵琶の音が響いてきた。月夜に染みていくかのようなその音に、萩は心奪われる思いがした。

「どなたが、奏でていらっしゃるのかしら」

萩は琵琶の音色に誘われるまま、城を抜け出した。


 どのくらい歩いたのか、萩は大きな池までたどり着いた。その池の淵の大きな石に腰かけた者が、琵琶を奏でていた。夜空に響き渡る美しさと、それでいて深い悲しみを感じるその琵琶の音色は、萩の心を鷲掴みするかのようだった。

 演奏の邪魔をしないようにと、萩は少し距離を置いて琵琶の音色に耳を傾けていた。この里に、このような琵琶を奏でる者がいたなんて。と、その者がどんな人であるのか、確かめたい衝動にかられた。少しずつ歩みを進め、琵琶奏者との間を縮めていくと、月明かりからそれが若い男であることが察せられた。「着ている物から見ると、お武家さま」そんなことを考えていると、萩の気配に気が付いたのか、琵琶の音がぴたりと止まった。

「申し訳ございません。私が邪魔をしてしまったのでしょうか。どうぞ、そのままお続けください」

 しかし、その男は逃げるように立ち去ろうとした。が、あまりに慌てていたのか胸元に挟んであった袱紗ふくさが落ち、風に吹かれて萩の前まで飛ばされ、池に落ちてしまった。

 萩は、とっさに袱紗を拾おうと池に手を伸ばした。が、思った以上に袱紗は遠くに飛ばされていた。それでも何とか袱紗を拾い上げようと思い切り手を伸ばした瞬間、体勢が崩れた。

「あっ!」

池へ落ちる寸での萩の腕を引き寄せたのは、琵琶を奏でていた男だった。勢いよく引き寄せられた萩は、その男の胸に倒れ込んでしまった。「申し訳ございません」慌ててその男から、体を離そうと顔を上げたその瞬間、その男の瞳の美しさに息を飲んだ。澄み切った泉の底のような輝きを放った瞳だった。

「袱紗など、惜しうない。池に落ちてしまったら、どうされる」

そう言われて、萩は我に返って、男の胸から身を離した。

「お気持ちだけ感謝する」

そう言い残して、男は立ち去ろうとした。萩は、高鳴る胸を押さえながら、声をかけた。

「お、お待ちくださいませ。今、一度琵琶の音をお聞かせ願えませんか。私は、萩と申します」

男は、驚いたように振り返ると、優しく微笑んだ。

「私は、桔梗と申す。もう遅い。早く帰った方が良いのでは…」

「では、明日の夜のもう少し早い刻限に、またここに参ります。是非、琵琶の音をお聞かせください」

萩の言葉に、桔梗は笑みを返すだけだった。


 その夜を境に、萩は毎夜、お付きの者の目を盗んでは池へと出かけた。桔梗もまた、毎夜池のほとりの石の上で琵琶を奏でた。二人に会話はない。ただ琵琶の音が、二人の間を繋いでいた。

 ところが、ある日突然桔梗が萩に告げた。

「明日の夜は、こちらには来られません。新月の夜は、出歩くのは危ない」

始めて見せる厳しい表情に、萩はただ黙ってうなずくしかなかった。


 新月の夜は、草木も眠りについたかのような静寂をもたらす。そんな静かな寂しい夜こそ、琵琶の音で心を慰めたいものだと、萩は、迷いはしたものの、行灯を頼りに、池へと足を運んだ。

 夜風が、心地よく感じられる夏の夜。道中、一軒の家の戸が半分ほど開いていることに、萩は気が付いた。

「あそこは、確か…おすみさんのお宅だったはず。家の明かりも見えないし…どうして…」

萩の身の回りの世話をしているおすみは、昨年病気で亭主を亡くしていた。子供もいない一人暮らしのおすみに、何かあったのではと、萩は、声をかけた。

「おすみさん、何か…」

玄関前から家の中を見ようと、行灯を差し出そうとしたその瞬間、家の中で大きな物音が響いた。驚いて落としてしまった行灯を急いで拾い上げようとした萩の目の前を、二つの影が、ものすごい速さで駆け抜けた。

 一瞬の出来事で、何が起きたのか萩は全く分からなかった。が、ただならぬことを感じた萩は、急いでおすみの家の中へ足を運んだ。行灯の明かりを頼りに、家の中をあらためると、目の前におすみが倒れている。

「おすみ!」

思わず駆け寄ったが、すでに息絶えたおすみの血の気のなくなった顔を見て、そのまま萩は気を失ったしまった。が、遠ざかる意識の中に、覚えのある香の微かな匂いが残った。


 翌朝、城が大騒ぎになったのは、当然のこと。

「姫様がいない!すわ、一大事!」

それだけでも大事であるのに、死体のそばで萩が気を失っていたのだから、屋敷内がひっくり返るほど大騒動になった。

 おすみは、野犬か狼に襲われたらしいとのことだった。そういう無惨な死を迎える娘は、この村でたびたび起こっていたため、愛おしい我が娘が襲われなかったことが、奇跡だったと友之進は、胸をなでおろした。が、

「夜間、姫が屋敷から出歩かぬよう、しっかり監視をしておけ!」

お付きの者の数が増え、城の警護もより厳重になった。


 それから二日ほど萩は、床に臥せっていたが、具合がよくなり夜になると想いをはせるのは、桔梗のこと。が、厳重な監視をくぐり抜けて池まで行くのは、至難の業。城の者が寝静まると、微かに聞こえるのは琵琶の音色。その音は、悲しげにまた情熱的に萩を包み込んだ。


「やはりあの女は、我らの正体を知ってしまったに違いない。それゆえ、若に会いに来ぬではないか。あの時、首をかっ斬っておけばよかった」

池のほとり、琵琶を奏でる桔梗の背後から、音もなく現れた一人の男。その額にはまぎれもなく二本の角。

「いや、あの状態で、私たちの顔を見たとは思えぬ」

そう答えた桔梗の額にも、二本の角が出ていた。そう、二人は鬼。

「若は甘すぎる。人間は、我らの正体を知れば、間違いなく殺しに来る。我らが最後の鬼族の生き残り。何として生き延びねばらぬ。さぁ、角をしまって帰りましょうぞ」

「わかっておる、鬼風。だが、もう少し琵琶を弾かせてくれぬか」

三日月の夜空は、星の輝きと相まって一段と美しい。桔梗の奏でる琵琶の音色が、夜空に溶け込んでいく。桔梗の傍に立つ鬼風は、その空を見上げ、遠い昔を思い出していた。



 何度も眠れぬ夜を明かした萩は、お付きの者を連れておすみの墓参りに出かけることにした。

「おすみの好きだったリンドウの花は、まだ咲いていないかしら」

道中、萩は、お付きの者にリンドウの花を摘んでくるように頼んだ。

「私は、ここで待っていますから。お願いね」

「承知いたしました。必ずここでお待ちください。リンドウがたくさん咲いているところに、覚えがありますから」

そう言って立ち去ったお付きの者の姿が見えなくなると、萩は急いで池へと足を進めた。

「いらっしゃるわけないわよね」

池には桔梗の姿はない。わかっていたこととはいえ、時折さざ波がたつ池は、萩の寂しさを一層深くする。もう二度と、桔梗には会えないことを確信した萩は、お付きの者と別れたところまで戻ろうと、重たい足取りで引き返そうとした時だった。見慣れない屋敷の門が、開いていることになぜだか足が止まった。

「まさか、桔梗様のお屋敷なんてこと…」

何の根拠もなかったが、桔梗の住む屋敷のように思えて仕方がない萩は、無礼を承知で屋敷内へと進んだ。

 きれいに整えられた庭に、掃き清められた玄関前。すがすがしさも感じられる。と、その庭の隅にあった小屋から出てきたのは、薪を抱えた鬼風だった。その鬼風の鋭い視線に、一瞬たじろいだが、

「勝手に申し訳ございません。こちら、もしかしたら桔梗さまのお屋敷ではございませんか」

鬼風の眼光に決して臆することなく、萩はそう言った。その真っ直ぐで純粋な瞳に、

「若が惹かれたのも、無理ないことかもしれん」そう思いつつ、二人を引き合わせることにためらっていた鬼風だった。


「よくぞおいでくださいました」

その声に振り返った萩の目に飛び込んできたのは、優しい笑顔の桔梗だった。月の光の下の桔梗も美しいが、陽の下の桔梗の輝くような笑顔に、萩は思わず目を伏せてしまった。

「突然お訪ねしましたこと、どうぞお許しください」

その声は、微かに震えていた。

「ようお出でくださいました。どうぞお入りください。鬼風、お茶を頼む」


 静かな時間が、ゆっくり流れる。聞きたいこと言いたいこと、互いに山ほどあった。が、お茶を飲み庭を眺めながら、そのゆっくりとした時間が、この上なく幸せに感じた。いつまでもこうしていたいと思う萩だったが、お付きの者がどれほど困っているか、姫を見失ったことで、友之進から厳しいおとがめをうけてしまうかもしれない。城でも、大騒ぎになっているかもしれない。

「桔梗さま、今日はお暇させていただきます。実は、父上から夜に出歩いていたことが見つかり、もう夜に出歩くことは難しくなりました。また、こちらにお邪魔させていただいてもよろしいでしょうか。この次は、琵琶をお聞かせください」

「承知しました。では、鬼風に送らせることにしましょう」


 鬼風を伴にし、萩は城へと急いだ。

「屋敷は、その目と鼻の先。ここまでで結構でございます」

鬼風を伴っていれば、鬼風に迷惑が掛かるかもしれない。しいては、桔梗にも害が及ぶかもしれないと、鬼風を帰らせた。

 その直後だった。萩姫と知ってか知らぬか、数人の賊が襲いかかった。

「ほほう、これはこれは上玉だ。高く売れるぞ」

萩の叫び声を耳にした鬼風は、急いで駆けつけてきた。

 が、賊の多さに一瞬迷った。一人で適う人数ではない。萩を見捨てるか。

「若が悲しむことだけは、できぬ」

大きな唸り声をあげると、鬼風の額からは、二本の角。口は大きく裂け、鋭い牙がのぞく。上肢の筋肉が盛り上がり、着物がはちきれたかと思うと、逃げ惑う賊の頭を片手で掴み、放り投げる。中には、鋭い爪が頭に食い込んだ者もいる。萩は、目の前の惨事に、ただ震えるだけだった。

 たくさんの死体が転がるところに、桔梗がやってきた。呆然とする萩に駆け寄った桔梗は、肩に優しく手を添えて告げた。

「ご覧になった通りです。我らは鬼族。妖力を使えば、これくらいの者たちは、目の前の塵。いいですか、あなたは何も見なかった。このままお屋敷にお帰りください。もう二度とお目にかかることはありません」

姫さまの返事を聞くことなく、桔梗と鬼風は砂嵐のなかに消えてしまった。



 二度と桔梗に会えない。風に揺れる木々の枝の音さえ、琵琶の音色に聴こえてしまう。小鳥のさえずりも、心をかき乱す。ただ泣きくれる日々。食事ものどを通らぬようになり、床から体を起こすことさえできなくなった萩の目は、そこにはいない桔梗を見ていた。

 友之進は、方々から医者を呼び集めたり、加持祈禱を頼んだり、果ては自ら薬草を探しに山にわけいったり、萩の回復に力を尽くした。が、萩はいっこうに良くなる兆しが見えない。

 そんな萩のことを、村人たちはいろいろ噂するようになった。

「何でも、物の怪にりつかれて、生きるしかばねだそうだ」

「いやいや、お気がふれて、自分の名前さえわからんようだ」


 桔梗も、心を痛めていた。苦しむ桔梗の心を慰める琵琶を、鬼風は心を鬼にして取り上げた。

「今しばらくの辛抱です。人間の心は移ろいやすいもの。若のことも、きっと忘れるときが来るでしょう。それまでどうぞ琵琶を手にすることも、我慢なさってください」


  満月の夜。鬼風が深い眠りについたのを見計らって、桔梗は池までやってきた。その手には、琵琶が握られていた。月夜を見上げて思い出すのは、萩の美しい微笑み。その笑みを思い出すと、胸がかきむしられるようだ。その苦しい思いをぶつけるように、琵琶を奏で始めた。狂おしいほどの音色が、月夜に響き渡る。

 その微かな音色を、眠れぬ夜を過ごしていた萩は確かに聞き取った。

「間違いない。桔梗さまの琵琶の音」

 萩が病に伏せているため、以前のような城の強固な警護はなくなっていた。おぼつかない足取りで屋敷を抜け出すと、やっとの思いで萩は池にたどり着いた。その池の岩の上に、懐かしい桔梗の姿を見つけた。

「桔梗さま…」

ふり絞るように出した萩の声を、桔梗は聞き逃さなかった。振り返った先に、愛おしい萩が力なく歩んでいる。慌てて駆け寄ろとした桔梗の姿を見て、萩はその両手を差し出した。その瞬間、力尽きて倒れかかった萩の体を桔梗は、しっかり抱きとめた。そして、その萩のやせ細った体に驚いた。

「あなたさまが鬼であろうと何であろうと、この命を懸けてもお慕い申し上げます」

そう呟くと、萩は桔梗の腕の中で気を失った。

 片手でも抱きかかえられそうなほど、やつれた萩を抱いて、桔梗は屋敷に戻った。屋敷の門前には、鬼風が不安そうな顔で桔梗の帰りを待っていた。

「やはりお連れでしたね。萩様の床を準備しましょう」

 萩の寝顔を見ながら、桔梗は意を決して言った。

「鬼風。私は、このまま萩とここで人間として暮らしたい」

「何をおっしゃるか!我ら鬼族は、月に一度、新月に人の生き血を飲まねば、妖力を失うどころか、人間と同じように歳を重ねる。かつて鬼族は人間と共存するために、人の血をすすることを禁じたときもあったが、その結果がこのありさま。我らたった二人しか生き残らなかった、あの凄惨な過去を何度もお話したはず。よもやお忘れか!」

「忘れてはおらぬ。我が母も人間だ。…私も、萩と共に人間として生きる。二度と…人間の血は飲まぬ。鬼風に、それを強要できぬ…。どこへでも、行けばよい…。鬼風は、鬼族の誇りと共に生き抜いてくれれば良い」

嗚咽を堪えながら、必死に訴える桔梗の瞳の中に、遠い昔の愛おしい人の瞳を観たような気がした鬼風は、族長との誓い…もはやこれまでかと、覚悟を決めた。

「若をお守りすると、若の母さまとお約束した鬼風です。死ぬまで若に尽くさせていただきます」


 さて、夜が明け萩がいなくなったことで、屋敷は天と地をひっくり返したような騒ぎとなっていた。

「もはや一人で歩けそうもない姫さまだ。物の怪に連れ去られたに違いない」

とか、

「鬼に喰われたんじゃないか」

とまで言う者もあらわれた。

「ええい!誰でもよい!姫を連れ帰ったも者に、姫を嫁にくれてやる」

友之進は、正気とも思えないお触れを出した。

「天下一の器量よしの姫さまを、嫁にもらえるそうだ。誰でも構わぬと言うなら、わしらでも良いのか。たんまり持参金ももらえるぞ」

と、村人までもが、萩姫探しに躍起になった。


 萩は、桔梗と再会して以来、すっかり気力も体力も回復し、以前の輝くような美しさを取り戻していた。桔梗との生活に、萩はこの上ない幸せを感じていた。慣れない家事も、鬼風に教えてもらいながら桔梗のためにと健気に尽くす姿に、桔梗も幸せをかみしめる毎日だった。

 ところが、友之進が出した『姫さま探し』のお触れが、鬼風の耳に入った。

「誰でも良いから嫁にやるなどと、気がふれたとしか思えん。姫さまを何だとお思いだ!」

「鬼風さん、実は…。その気がふれたとしか思えないお触れを出したのは、我が父上です。私は浅倉友之進の娘です。そのようなお触れが出てしまった以上、もう二度とこの屋敷から出ることはできなくなりました」

萩の告白に、桔梗も言葉を失った。

「気がふれたとは、言いすぎました。どうぞご勘弁ください」

「いいえ、父上は私のことになると正気を失うのです。いつもそうでしたから。そろそろ夕餉の支度にとりかかりますね」

そう言ってほほ笑んだ萩だったが、その顔には明らかに寂しさを隠していると桔梗は感じとっていた。


「萩姫のことで、殿様は心を病んでいるということだ。そう思わないか、鬼風」

「人間の考えることは、よくわからないものです。誰にでも嫁にやると言って、その約束さえ簡単に反古することもやりかねません」

我が子を失った苦しみは、桔梗でも推察できる。このまま萩と暮らすことで、他の者が苦しい思いをすることに、桔梗は深く悩んだ。

「鬼風、私はとんでもない間違いを犯したのだろうか…。私も十分すぎるほど幸せな時を過ごすことができた。短い日々であったが、普通の人としての暮らしも堪能できた」

萩が、かいがいしく夕食の準備を整える後ろ姿を見つめながら、桔梗は一つ大きく息を吸い込んだ。そして、萩を呼びよせると、優しく微笑みながらこう告げた。

「一度お屋敷に戻られたらいかがか。私の方から、改めて城に出向いて、姫さまを嫁にもらいたいと殿様にお願い申し上げたいと思う」

「嬉しいお言葉ですが、父上がそうやすやすとお許しくださるかどうか。私は二度と桔梗さまから離れとうございません」

萩の決意の固さは、その言葉からあふれていた。

「必ずお迎えに参ります。これは、母の形見です。これをあなたにお預けします」

そう言って、萩の手に古い櫛を握らせた。

「そこまで仰るなら。承知いたしました。今度お会いするまで、大切なお母さまの形見、預からせていただきます」


 翌朝、萩はただならぬ物音に目を覚ました。何事かと急ぎ障子戸を開けると、武装した者たちが刀を振り上げて屋敷を取り囲んでいた。

「姫さま、よくぞご無事で!」

そう叫んだのは、武勇に秀でた家臣の阿門あもんだった。

「何事ですか!このような無礼、許されるとお思いか!」

萩の𠮟責に、みな一瞬たじろいた。

「何をおっしゃいますか。姫さまが捕らわれておるとの知らせを聞きつけ、我ら助けに参った次第」

「捕らわれている?何という戯言!桔梗さまは?」

振り返って部屋をみた萩は、その変わりように言葉を失った。萩が眠っていた部屋を残して、それ以外は荒れ果てた屋敷。お化け屋敷かと見間違うほどの荒れよう。桔梗の姿はもちろん、鬼風もいない。

「桔梗さま…」

萩は、力なくその場に座り込んでしまった。


 お屋敷に戻った萩は、桔梗から預かった櫛を握りしめ、ただただ桔梗が迎えに来る日を待ち望んでいた。が、姫さまを探し出した阿門は、友之進から褒め称えられ、

「阿門が、婿ならこれ以上はない。さぁ、婚礼を急ぎ執り行おう。姫が、また物の怪に連れ去られぬよう阿門ならば、安心して任せられる」

と、あっという間に婚礼の日取りが決まった。


「私たちの幸せを、人の不幸の上に築くことはできない」

と、桔梗は鬼風と共に旅に出た。悩み抜いた挙句、鬼族として生き抜くことを、決意した。最後の生き残りの鬼族として、その血を絶やすことは、亡くなった母の意にそぐわないと思い直したからだった。

『あなたの父上は、人間よって命を奪われてしまった。が、決して人を恨んではなりません。憎しみは、更なる憎しみを生んでしまう。いつか人と手を携えて、生きられる日が来る。そのときまで、鬼族の血を絶やしてはなりません』

そう言い続けていた母。鬼族ならば、何百年も生きられるというのに、人間とは何とはかない命なのだと、亡くなる母の手を握りしめて悔しい思いをしたが、桔梗もまた、人間の血が混ざっている。そのため、純血の鬼風に比べ、その何倍もの人の血が必要だった。

「人の血を欲するあまり、錯乱して萩姫を手にかけることがあるやもしれません」

鬼風にそう諭されたのも、一つの理由だった。

 萩も、桔梗が何も告げずに立ち去ったその心を察し、阿門に嫁ぐ覚悟を決めた。


 月日は流れ、萩は子を授かった。『藤乃』と名付けられた子は、萩に似た、美しい姫さまだった。ところが、不思議なことに、藤乃は父親の阿門に抱かれると、泣いてぐする。それどころか、父に抱かれることを嫌うそぶりさえする。おまけに、周りの者も、

「娘は父親に似るというのに、阿門さまには似ておらぬ。誰のお子だろう」

と、陰口を囁く。

 そういう噂は、すぐに広まるもの。当然、友之進の耳にも入ってしまう。真偽を確かめるため、萩に尋ねた。

「そなたの耳にも入っておろう。藤乃は、阿門の子どもではない、という噂。まさかとは思うが、念のためだ。萩の口から聞かせてもらいたい。藤乃は、間違いなく阿門の子じゃな」

乳を飲む愛おしい我が子。それが例え鬼の子であろうと、蛇の子であろうと、愛おしさに変わりはない。萩は、友之進の目を真っ直ぐ見つめて言った。

「藤乃は、桔梗さまの子でございます。どうぞ、私をご処分ください。ただ、藤乃には何の罪もございません」

「何ということを…。すべて隠しておけぬ萩らしいといえば、それまでだが、阿門に顔向けができぬ。萩、お前には城から出て行ってもらねばならぬ」

萩姫は、藤乃と共に尼寺へ幽閉されてしまった。


 一方、萩が子を産んだこと。そして、尼寺に幽閉されたという噂が、桔梗の耳にも入った。

「おそらく若のお子です。だから、尼寺などに出されたのでしょう。鬼族の血をひく子ならば、迎えに行かねばなりません」

鬼風にそう言われても、なかなか首を縦に振らないのは、萩を思ってのこと。

「萩の子だ。私の子ではない」

そう自分に言い聞かせても、親の情はふつふつと湧いてくる。


 乳をせがんで力んで泣くと、我が子の額に微かに角が出てくる。まさに、桔梗の子。鬼の子である証。

「桔梗さまに藤乃を抱いてもらいたい」

と、月夜にそう願うことしかできない萩。

 ところが、納得できないのは阿門だった。あの子さえいなければ、そう思う。愛しい萩を、何としても我が手元に置きたい。邪魔なのは、藤乃だけ。赤子一人処分するのは、容易いこと。だが、我が子に手をかけた者を、夫として認めてはもらえないだろう。阿門は、思案を重ねた。


「萩姫さま、お殿様からの使いでございます。急ぎお城に、お一人でお戻りくださいとのこと」

「すでに日も暮れかかっております。急ぎと申されても」

殿様からと言われれば、戻らねばならないのは当然のこと。とはいえ、間もなく日も暮れる。ススキの穂がゆるゆるなびいているのが見える。嫌な予感がしてならない萩は、藤乃を一人残して行くことをためらった。

「この子は、誰にも懐いておりません。私がいないと、火がついたように泣き続けるのです。どうか、この子も一緒に…」

藤乃は、萩の腕の中で、すやすや眠っている。

「しかし…赤子を夜風にさらすのは…」

使いの者は、どうしても姫様一人でと言う。そう言われると、ますます藤乃を一人にする訳にはいかない。

「ならば私は、屋敷には参りません」

その一言で、使いの者は藤乃と共に出ることをしぶしぶ承諾した。


 藤乃を抱いた萩の籠に、冷たい秋風が吹きつける。萩は、外の物音に耳を澄ませていた。少しでも不審な物音がすれば、懐刀にすぐ手が伸ばせるよう籠の中にひそませておいた。と、それまで鳴き続けていた秋の虫の声が、ぴたりと止んだ。萩の胸の鼓動が、どくどくと高鳴ってくる。すると、どうしたことかそれまですやすや眠っていた藤乃が、突然ぐっと大きく目を見開いた。と同時に、籠がぴたりと止まった。姫さまは、懐刀に手を伸ばした。そして、籠からゆっくり外をのぞくと、いつの間にか使いの者の姿はなく、代わりに数人の盗賊が籠を囲んでいた。

「さあさあ、籠から降りてもらおうか。命が惜しくば、金目の物を出せ!」

と言う賊の視線の先は、姫さまの胸に抱かれた藤乃。この者たちは目的は、金品ではない。藤乃だ。誰の差し金か…。物取りと見せかけて、藤乃を奪おうとしている。この命に代えても、藤乃は守る!萩の背中に、冷たい汗が一筋ながれた。


 辺りはすっかり日が暮れて、月明かりしか頼りにはならない。萩は懐刀を握りしめ、藤乃をしっかり抱きしめ、ゆっくりと籠から降りた。

 その瞬間、突風が吹き抜け砂埃が大きく舞い上がった。みな、一瞬目を閉じた、そのわずかの間に、萩の目の前に現れたのは、桔梗だった。あまりの突然のことに、萩は言葉を失った。

「き、貴様…」

驚いた賊たちは、月明かりでもわかる桔梗の眼光の鋭さにじりじりと後ずさりをするほど。が、赤子の命を奪うことで、一生遊び暮らせる金を約束されている。簡単に怯むわけにはいかない。

「邪魔だてするなら、貴様もまとめて命をもらう!」

「萩、赤子と逃げなさい。ここは、私に!」

目の前には、夢にまでみた桔梗。できるものなら、離れたくない。が、胸の中には命より大切な藤乃。

「わかりました。桔梗さま、必ず私たちを迎えにきてください!必ず!」

そう言って走り去ろうとする萩の行方をさえぎろうと、賊が立ちはだかった。

「赤子さえ渡してくれりゃあいいんだ。姫さまには指一本触れるなとのお達しだからな」

そう言って賊が、藤乃に手を差し出そうとした。その言葉が、桔梗の怒りに火をつけた。大きな唸り声をあげた桔梗の額からは、二本の角が。口からは、鋭い牙が伸び、逆立つ髪の毛が、まるで生き物のようにうねった。その姿にみな恐れおののき、腰を抜かした。

「この化け物め!みな、逃げんじゃねえぞ!数は、こっちの方が上だ!やっちまえ!」

わなわな震えながら刀を手にする賊たちだった。


 萩から何としても藤乃を奪おうとする者たちと、桔梗に襲いかかる者たちを、一人二人倒していく桔梗だが、体中に刀傷をうけてしまう。藤乃の泣き声が、桔梗の闘志を奮い立たせていたが、最後の一人を討ち取ったときには、桔梗の命は消えようとしていた。

 膝から崩れ落ちていく桔梗の元に駆け寄って萩は、

「桔梗さま、藤乃です。あなたのお子です。どうぞ抱いてあげてください」

右手で桔梗の頭を自分の膝の上に乗せると、藤乃を桔梗の胸元へと差し出した。最後の力を振り絞って藤乃を抱こうとした両腕は、力なく宙をおよいでいった。そして二度と、動くことはなかった。その閉じられた両目から一筋の涙が流れ落ちると、鬼の形相は消え、穏やかな桔梗の顔に微かな笑みが浮かんだ。萩の悲しい泣き声が、夜空に溶け込んでいくようだった。


「遅かった…」

いつの間にか、鬼風が桔梗の足元にひざまずいていた。肩を震わせて嗚咽を堪える鬼風だった。

「獣の血では、十分な妖力を使えないと、あれほど人の血を飲むようにと…」

その鬼風の姿を見て、萩は決意した。我が胸で、何事もなかったかのようにすやすやと眠る藤乃の寝顔をしばらく見つめた萩は、大きく一つ深呼吸をして立ち上がった。

「鬼風さま。お願いがございます。藤乃を、桔梗さまの子を、育ててはくださいませぬか。この子と離れるということは、命を奪われるようなもの。ですが、このまま我が手元にいては、いつ何時、命を狙われるか…。この子は、鬼族の血を引いています。どうか、鬼風さまの手で、この子を育ててください。そして、この櫛も…」

そう言うと、萩は鬼風の腕に藤乃と、そして桔梗から預かった櫛を手渡し、鬼風の返事を待つことなく走り去っていった。


 鬼風の腕の中で、小さな寝息を立てる藤乃。

「若に、よう似ておる。お前は、必ず幸せになるのだ。母の思いを決して無駄にはせぬように」

鬼風は、我が身に言い聞かせるようにそう言うと、横たわる桔梗の体を右肩に担ぎ、左手で藤乃を抱くと、一陣の突風の中に姿を消した。


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新月物語 ー鬼伝説ー せりなずな @haruno-nazuna

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