新月物語 ー鬼伝説ー
せりなずな
第1話 春 山吹
角があり、眼光も鋭く、強靭な肉体を持つ。姿形が違えど、同じように笑い、泣き、家族を愛する。そんな鬼族は、村人たちと共に支え合いながら暮らしていた。
「荷車が、ぬかるみにはまってしまった。悪いが、ちょっと頼まれてくれんか」
雨上がりのぬかるんだ道で難儀していた村人が、そう声を掛けると、
「よしよし、わしがお手伝いしよう」
野良仕事の手をさっと切り上げると、額の汗を大きな手で拭いながら笑顔で駆け寄ってくる。
人が二・三人たばになっても、びくともしない力仕事でさえ、鬼が一人いればさっさと片が付く。
「さすが鬼族だ!鬼族がおらんようになったら、わしらの暮らしは、とても成り立たんわ!」
鬼族の肩を叩き、そう言って笑い合う。それが、村のどこにでも見られる風景だった。
元は、それほど豊かな土地ではなかったこの地に、数人の鬼族が住むようになった。当然、村人がすぐに鬼族を受け入れることは難しい。鬼族もそれを承知し、里から少し離れたところに、集落を作り、土地を切り開いた。家を建てるのも、田畑を作るのも、造作のないこと。収穫期を迎え、たわわに実る米を見て、村人たちは目を見張った。
「見事としか言いようがない収穫。なぜそのように、米が実るのか」
恐る恐る声を掛けたのは、村人の方だった。
「わしらの知恵と力、お貸ししようか」
笑顔の鬼族に、村人は緊張の糸がほぐれた。
「何のことはない。村のみなが、幸せになってくれれば、わしらも嬉しい。さぁ、共に働こうではないか」
力で勝る鬼族が、村人と力を合わせ更なる土地を開墾してきた。そのうえ鬼族は、水路を作り、水車をこしらえ、村の隅々に水が送られるようにした。その甲斐もあり、村の作物は豊かに実るようになった。米作りも年を追うごとに収穫が増え、村人の生活も豊かになった。だからこそ、村人は、鬼族に感謝こそすれ、
そんな鬼族が穏やかに住む村に、新たな地頭、
「まずは、田畑の視察に行くとしよう」と出かけた高峰の目に飛び込んできたのは、野良仕事に精を出す鬼の姿。初めてみる鬼族に、高峰は腰を抜かし暫く立ち上がれないほど恐れおののいた。
「お、鬼が、鬼がいるではないか!これが
家臣に両脇を抱えながら、やっと腰を上げた高峰の目に、村人と楽しそうに話す鬼族の笑顔が飛び込んできた。大きく口を開けて笑う鬼の顔が、高峰の目には村人を襲うように見えて仕方がない。
「あれを見てみろ、あの大きな口を。何とも恐ろしい」
「いえ、あれは談笑しているにすぎないかと…」
「何を言う!頭から人を喰おうとしているではないか!お前たち、よくも平然としていられるものだ」
村人に代わって、米俵を両肩に担いで運んでいると、
「米を盗んでおるぞ。捕えないのか!何をしておる!」
とまで言い出す。何を見ようが、鬼族を信用できない。
「今に見ていろ。きっと、いや必ずだ。あいつら鬼族は、人間を殺す。あの角で一突きされるかと思うと、考えただけで身震いする」
高峰は赴任して真っ先に、鬼族の土地を取り上げる暴挙に出た。村人が住む部落から遠く離れた山の麓を、鬼族が住む土地した。今まで住んでいた家を取り壊すように命じ、さらに、今まで丹精込めて作物を育てていた田や畑も、西条家の田畑として献上させた。
長年慣れ親しんだ土地を離れ、なおかつ僅かな農地しか与えられなかった。本来なら、暴動さえ起きかねない状況に置かれたにも関わらず、
「山に近いゆえ、狩りに出かける手間がたいそう楽になったわ。住む家くらい、すぐに
そう言う鬼族に、村人は驚嘆した。
「本当に、鬼族は人が良すぎるわ。なあに、心配することない。今まで、どれほど鬼族たちに助けられたか。この村は、鬼族たちのお陰で成り立ってるようなものだ。わしらの恩返しだ。ちょいと力仕事を手伝ってもらえりゃ、野菜でも米でも好きなだけ持ってかえってくれりゃいい」
そう笑って鬼族を見送ったが、地頭の暴挙には呆れ果てるしかなかった。
素直に地頭の命に従った鬼族を、まだ信じられない高峰は、鬼族の住む集落に見張りをつけた。
「鬼たちに何か不審な動きがあれば、すぐ知らせるのだ」
と命を下したが、その見張り役でさえ、いつしか鬼族とも心を開いて世間話に花を咲かせるようになった。
「地頭様も、いつか鬼族のことを認めてくださる日がくる。村の人たちでさえ、最初は我らのことを恐れていた。が、今ではこうして親しくしてもらえるようになった。大丈夫、きっと地頭様にも、わかってもらえる日が来る」
「そうさ、我らの良さをきっとわかってもらえる日が来る」
そう言う鬼たちの顔には、けっして不満の色はみえなかった。
鬼族の穏やかな性格は、人を憎んだり恨んだりすることは決してない。額の二本の太い角と鋭い眼光。大きな口からは、二本の牙が見え隠れする。そんな容姿とは似つかわない心優しい鬼族は、草花を心から愛し、争いごとは好まない。それどころか、村人のもめごとにも仲裁に入り、双方が納得するよう知恵を授けたりする。
文字の読み書きもでき、書物も好んで読んでいた。詩歌や楽器なども、たいそう上手だった。村の子どもたちに、文字や算術も教えていた。そのお礼に届ける米や野菜も、はじめはなかなか受け取ろうとしなかった。
「これくらいのことさせてもらわねば、こちらが気が引ける。頼むから、受け取ってくれんか」
そう言って、やっと受け取ってもらえるようになったと。
「何とも律儀なんだよ、鬼族は」
村人は、鬼族のことを心から信頼していた。
ところが、穏やかな鬼族の暮らしに、耐えがたい悲劇が訪れた。
その年は大変な冷夏で、鬼族のわずかばかりの田畑には、作物が実る気配がない。厳しい冬に向けての蓄えどころか、その日食べる物も不安な日々を送っていた。村人も鬼族を助けようにも、地頭からの厳しい年貢の取りたてに、自分たちのことで精一杯。
「申し訳ないが、こんな物くらいしか分けられない」
と、わずかな野菜を届けることしかできなかった。
鬼族の族長『
これから訪れる厳しい冬に耐え、また見事な花を咲かせてくれ。我が鬼族も、共にこの冬を耐え忍ぼうぞ。
「族長、そんなところで何をしておる?日が暮れると、一気に冷え込んでくる。風邪をひくぞ」
山吹を訪ねてきたのは、少し年長の『
「ああ、鬼風。今夜は、何用か?」
「少し話せるか?」
鬼風の表情から、何を言わんとするかは、山吹は既に感じ取っていた。
「酒は出せぬぞ」
「ああ、酒を飲みに来たわけではない。白湯で十分だ」
狭い家ではあったが、きれいに整えられ、小さな囲炉裏には、炎が揺らめいている。地頭に、この地に追いやられる前は、鬼族で一番の屋敷に住んでいた。
「族長の家だ。立派な方が良いに決まっている」
山吹の代になったとき、鬼族総出で建てた家は、今の家の数倍の広さはあった。亡くなった山吹の妻は、掃除が大変だと笑っていたことも、今は遠い昔の話。
惨めだと思えば、文句が出る。山吹は、そう言って決して愚痴を吐かない。だからこそ、山吹に忠言するのは自分の役目だと、鬼風は決めていた。
出された湯呑茶碗からは、湯気が立ちのぼる。飲み込んだ白湯がゆっくりと胃の腑へと流れていくのを感じながら、鬼風はゆっくり息を吐いて口を開いた。
「族長、このままでは我ら鬼族の命さえ危ぶまれる。冷夏ゆえ、山の獲物の数もおそらく減るに違いない。この冬は、何とか越せるかもしれないが、鬼族の行く末を考えると、田畑がもっと欲しい」
「わかっておる。わかってはおるのだ…」
鬼風の鋭い視線から、山吹は目を逸らすことができなかった。
「地頭に、もう少し土地を貸してもらうよう交渉できぬだろうか。我らが開いた土地なら、地頭も腹が痛むことはない。何も、田畑をくれと、言うわけでもないのだから」
鬼風の一言一言が、突き刺さる。握られた拳に、力が入る。更なる土地が、欲しい。これは誰もが願ってきたこと。豊かだった頃を知る者も、少なくなってきた。とはいえ、あの頃に戻れぬことを十分承知しているゆえに、誰も不平を漏らさずにきた。
たわわに実る米の穂が、風に揺らぐ壮観な風景は、山吹の脳裏に刻みついている。豊作を祝う村の祭りは、村に人たちと共に明け方まで呑んで唄って踊った。鬼族も、村の人たちも、みな笑顔だった。あの頃には、戻れない。豊作の祝いの唄も、もう忘れてしまった。
「あの地頭の、我らに対する不信感は尋常なものではない。嫌悪されているのだ。どう説得すれば良いものか。策や方があるというのか」
「では、このまま我慢すれば良いのか。族長と私は、生粋の鬼族ゆえ何とかなるやもしれぬ。が、年取った混血の者たちは命を落とすことも考えられる。族長!頼む!」
いつにもなく声を荒げた鬼風は、「すまぬ」と小さくつぶやいて頭を深く下げた。ここまで冷静さを失った鬼風は、今まで見たことがない。冷たい夜風が、粗末な家の隙間から吹き込んでくる。
家を建てる木材も、地頭は制限をした。
「鬼族など、馬小屋で十分だ」
住んでいた家の物置小屋を、移築するように命じた。
このような暮らしにも、鬼族は黙って耐えてきた。そのうえ、食べる物も十分ではないとなれば、鬼風が言うように、命を落とす者も出るかもしれない。病に伏している、年老いた者たちの顔が浮かぶ。
「族長よ、今が決断のときなのでは。皆の命が係っておる」
膝の上で握られた鬼風の拳が、微かに震えている。山吹は、一つ大きく息を吐きだした。
「わかった。地頭に直訴して参ろう」
山吹の返答を聞いた鬼風は、一瞬安堵の表情を表したものの、再び奥歯をぐっと噛みしめた。
「難儀を押し付けた。が、族長しか果たせぬこと。地頭から色よい返事がもらえるよう、族長よ、どうかどうかよろしく頼む」
再び頭を深く下げて、鬼風は山吹の家をあとにした。
わずかな月明かりさえあれば、鬼族は昼間のように夜道を歩ける。見上げた夜空には、一筆で描けそうな三日月が昇っていた。これからの鬼族の行く末を表すかのようだと、鬼風はつい考えてしまう。山吹に全てを任せてしまったことを悔やんだが、地頭に目通りができるのは、族長に限られていた。その目通りでも、地頭はなかなか首を縦に振らない。姿形が違うだけで、あれほど鬼族を忌み嫌うとは。
足元に転がる小石が、鬼風のつま先にあたりはじけ飛んだ。地頭にとっては、鬼族はあの小石のようなもの。邪魔な小石は、全て蹴り飛ばしてしまいたいのだろう。が、鬼族とて、そうやすやす地頭の思うがままにはさせてなるものか。鬼族の誇りは、決して失うものか。
「あの地頭の豆腐頭など、我一人で一瞬に握りつぶせる。が、一度でも人に危害を与えてしまったら、鬼族に明日はない」
鬼風の独り言は、冷たい秋風がかき消してくれた。
翌日、山吹は、山の様子を確かめに出掛けた。想像以上に、山の恵みにも、冷夏は大きな影を落としていた。木の実は実らず、山鳥はもちろん、ウサギやイノシシの足跡さえ見つからない。
「実りの豊かな里へと、獲物たちは行ってしまったのか…」
ため息が、山吹の口から洩れる。覚悟はしていた。が、ここまでの状況に山吹は、頭を抱えるしかなかった。狩りをしたり、自生する木の実やきのこを収穫することは、禁じられてはいない。鬼族にとって、山の恵みは、貴重な食料となってきた。その頼みの綱も、なくなってしまった。
「もはや限界か」
そのまま山吹は、地頭の屋敷に足を運んだ。重い足取りで地頭の屋敷の門の前まで来てもなお迷い、思案をしていた。見上げた空には、雲が低くたちこめている。重苦しい空は、山吹の心に重石をかける。「やはり無理だ。今日は出直そう」と
「まぁ、山吹様。今日は、どうなさったのですか?」
優しい声の主は、地頭の大事な一人娘『ゆり』だった。村の男衆の誰もが、その美しさにみとれてしまう。ただ、美しいだけではない。心優しいゆりは、鬼族に対していつも心を砕いていた。
「いや…実は…地頭様にお願いがあり、無礼を承知で…伺いました」
いつもの山吹とは思えない、歯切れの悪さと冴えない顔色を見て、ゆりは察した。さっと山吹の元に駆け寄り、背中に手を添えると、
「さぁ、こちらへ。私が、お父さまに口添えします。大丈夫です。今日は、朝からとても機嫌が良いようです。きっと山吹様のお願い事も聞いてくれますよ」
と、屋敷内に案内した。
「何?鬼族が…」
「ええ、お父さまにお願いがあるとのことです。お通ししてもよろしいですね」
他の誰でもない、ゆりの頼みとならば、聞かぬわけにはいかない。
「仕方がない。話を聞くだけならば」
「まぁ、良かった。私も同席させていただきます」
ゆりにそう言われると、拒むことのできない高峰は、ゆりの同席も許した。
高峰の周りには、刀を携えた者たちが眼光鋭く山吹を見張るように座っていた。高峰の指示が出れば、すぐにでも飛び出し、その刃が山吹の首を落とす。その張り詰めた空気が、山吹を後悔の念に陥れた。
無理な話だった。無謀であった。地頭が、聞き入れてくれるとは到底思えない。
が、鬼族の皆の顔が浮かぶ。その顔が、苦痛に歪んでしまわぬ前に。
床に頭を伏せたまま、山吹は迷いながらも口を開いた。
「地頭様にお話を聞いていただけること、この上ないことと感謝申し上げます。地頭様もご存知の通り、今年のこの冷夏で、我ら食べる物にも事欠く有様でございます。年貢さえ十分にお納めできません。せめて、もう一反でも土地をお貸しいただくことはできませんでしょうか。我ら、精一杯開墾いたします」
山吹の額には、汗がにじみ出ていた。
山吹が来たと聞いた時から、高峰はどうしたものかと考えていた。新たな土地を欲しいとの直訴に来たのだろうということはわかっていた。いつもなら「鬼族に貸す土地など、あろうはずがない」と追い返して、ことは終わる。ところが、ゆりが同席しているうえに、
「そんなお話でしたら、お父さま、たやすいことですね」
横から口を挟んできた。
「お前は、黙っておれ」そう言いたいところだが、ゆりの純真無垢な笑顔を向けられて、
「確かに、村の者たちも不作に嘆いておったが、新たな土地…」
高峰は思わずつぶやいてしまった。
むげに断ることも追い返すこともできない高峰は、しばらく頭を悩ませていた。が、妙案を思いついた。
「三本杉の地蔵堂を知っておろう。その裏手に三反ほどの手付かずの土地がある。そこを貸してやろう」
山吹は驚いた。そこは、だれも開墾しようなどと思わない荒地だ。一瞬言葉を失いかけた山吹だったが、一つ深呼吸した後、意を決した。
「ありがとうございます。早速、みなに伝えて参ります」
再度床にひれ伏した山吹に、不安が頭をよぎったことは言うまでもない。
「山吹さん、よかったですね。お父さま、ありがとうございました」
何も知らないゆりの無邪気な笑顔が、山吹の不安な気持ちを吹き消してくれた。鬼族の力を持ってすれば、何とかなるのでは。いや、立派な畑になるはずだ。山吹は、そう自分に言い聞かせた。
翌朝、山吹に声をかけられて集まった鬼たちは、目の前に広がる荒地を耕すという言葉に我が耳を疑った。地蔵堂に集まって欲しいと言われたが、まさか地蔵堂の裏手の、この土地を開墾するなどと誰が想像しただろうか。その手に握られた鍬や鋤が、わなわなと震える者さえいた。
そんな鬼たちの動揺は、山吹も覚悟のうえ。そのうえで、山吹は力強く訴えた。
「地頭様のご厚意で、何と三反もの土地をお借りすることができた。荒地ではあっても、我らの力を持ってすれば、必ず作物が実る豊かな地となろう」
山吹の
「そうじゃ!我らならできる。きっとできる」
まるで呪文を唱えるかのように、皆そう口にしながら鍬を振り上げた。
雑草さえ育たないような荒地を、「我らならできる」そう繰り返しながら、鬼族は日々開墾に力を尽くした。
ところが、いくら鍬を振り下ろしても岩にしかあたらない。鬼族の力をもってしても、荒地はいっこうに耕すことはできない。さらに作物に必要な水を得るためのため池も、掘らなければいけない。川からずっと遠いうえに、高台にある荒地に、水を引くよりも、山からの湧水を荒地までに引くほうがずっと容易いと考えたが、その池さえ思うように掘ることができない。
当初は、男衆だけでの仕事だったが、見るに見かねた女衆も、鍬や鋤を振るうようになった。年端もいかない子どもたちも、掘り出した岩を、
秋は、どんどん深まっていく。鍬を持つ手が、真っ赤に膨れ上がる。荒れた指先からは、血がにじむ。何度も息を吹きかけながら、手を温める。人間であれば、柄を握るこそさえできないような痛みに耐えながら、それでも鍬を振り下ろす。
古い綿入れの着物は、つぎはぎだらけになり、元がどんな布地だったかわからない。しかも綿入れの綿も、もうほとんど入っていない。そんな粗末な衣服は、吹きつける冷たい風は防げない。鬼族は、精も根も尽き果てようとしていた。が、山吹は皆の先頭に立って、鍬をふるった。
山吹の一人息子の
「父さん、あの土地を開墾するのは、やはり無理ではないでしょうか」
そう声をかけても、朝は、夜も明けきらぬ前から。夜は、日が暮れ月が昇ると、その月明かりを頼りに、ひたすら開墾を続ける山吹には、葵は何も言えなくなった。族長としての責任感だけではない。鬼族の意地と誇りを賭けて、作物を実らせたい。その思いが、鬼族たちにも伝わる。
鬼族は、雨の日も雪の日もひたすら荒地を耕すことを続けた。村人の力仕事を請け負うこともなくなり、ますます食べ物に窮するようになった。特に、山吹は満足に食事をとることもなく、自分の食べる物も、他の者に分け与えていた。
「大丈夫だ。私は、生粋の鬼族。そう容易く倒れることはない」
笑顔の山吹ではあったが、誰が見ても、山吹の衰弱は明らかだった。
そんな山吹を心配して、鬼風が山吹の元を訪ねてきた。
「族長よ、あえて言わせてもらう。あの土地、畑になると真剣に思っておるのか。どう考えても、無理な話だ。地頭の嫌がらせだとしか思えぬ。皆、心の内ではそう思おておる。そして、何より族長の体のことを、皆心配しておる。いつ倒れてもおかしくない。そう言う者もいる。どうだろう、開墾することは諦めないか。それよりも、狩りを…」
囲炉裏の炎に照らし出された山吹のやつれた顔に、鬼風は言葉に詰まってしまった。あの堂々とした山吹の体が、ひとまわり小さくなった気さえする。丸まった背中が、疲労の度合いを感じさせる。ここまでしてもなお、地頭への恩義に報わねばならないのか。
「鬼風の言うこともわかる。が、地頭様のご厚意を無にすれば、この先鬼族は、この地で暮らすことさえままならぬかもしれぬ。何がなんでも、畑にせねばならんのだ。そうだ。そばならば、育つかもしれぬ。もう少しだ。必ずそば畑にしてみせよう!」
やつれたとはいえ、鬼族の族長。強く握られた拳は、何がなんでも鬼族を守らねばならないとの思いが滲んでいる。嫌がらせであろうとなんであろうと、地頭から借りた土地を放棄することは、できない。地頭に一泡吹かせてやるのだ。「さすが鬼族」と言わせるのだと言う山吹に、鬼風は、何も言えなくなった。
山吹の家を後にした鬼風は、夜空を見上げ瞬く星に向かって祈るような思いでいた。
「頼む、族長よ!何が何でも、生き抜いてくれ」
人間の生き血を飲めば、妖力も増す。生粋の鬼族である山吹ならば、妖力をもってすれば、あの荒地でさえ、耕すことができるであろう。が、人間と共存する道を選んだ族長自ら、『人を
鬼族の中でも、純血を保っているのは、山吹と鬼風のみになってしまった。だからこそ、誰よりもその命を大切にしてもらいたい。が、鬼風は、その思いを山吹にぶつけることをためらった。遠い昔、鬼風に優しい笑みをかけてくれた人のことを思い出したからだ。
『山吹は、私たちと共に生きていく覚悟を決めてくれたのです。鬼風さん、どうぞ山吹を支えてあげてください』
鬼風の体に吹き付ける
来る日も来る日も荒地を耕し続ける鬼族の中で、次第に地頭への不満が高まってきた。いくら穏やかな鬼族といえども、心はすさんでくる。が、山吹が鍬を振り続ける限り、鬼族は決して開墾の手を止めることはなかった。
村人も、同情した。
「このまま開墾を続けて、本気であの荒地を畑にする気だろうか」
「地頭は、本当に酷なことをなさる」
日ごと寒さが厳しくなってくると、鬼族とはいえ病に伏せる者もでてきた。
梅の花がほころび始めても、荒地は、一向に荒地のまま。春の訪れを待ち望む気持ちも、鬼族の心には湧き起こってはこない。畑に必要な池を掘ろうにも、岩盤に阻まれ水たまり程度の深さしか掘ることができない。耕すことができた土地も、一坪、二坪と点々としている。
「荒地は、どうしたって荒地でしかない」皆そう思ってはいても、族長自ら鍬を決して手放そうとはしない。ならば、耕し続けるしかない。その思いが、山吹にも伝わってくる。
「そろそろ限界かもしれない」
これ以上、皆に無茶な開墾を強いることはできない。山吹は、決断した。
おぼろ月のきれいな晩。高峰の屋敷の庭に、ひれ伏す山吹の姿があった。
「なんと馬鹿なことを申す!あれほどの土地を貸してやったにも関わらず、更に土地を貸せと申すか!」
「この冬の間、開墾に精を出しましたが、我らの力及ばず、畑にすること適いませんでした。今一度、地頭様のご慈悲を、どうか我らに…」
「貴様ら!何様のつもりか!」
声を荒げる地頭に、山吹はただただひれ伏すことしかできない。高峰にいたっては、怒り心頭。長年にわたって腹にため込んでいた鬼族への憎しみが、
「ええぃ!貴様らに貸す土地など、一坪もあれはせぬわ!姿形の醜い鬼どもめ、そのまま野たれ死ねばよいわ!」
そのくらいの暴言、聞き流すことはいたって簡単。が、山吹が驚いたのは、その後の高峰の言葉だった。
「村人も、みな同じだ。お前らにいつ獲って喰われるかと、どれほど怯えておったか。知らぬとぬかすか!いい様に使えば、鬼族など、馬や牛と同じ。いや、それ以下じゃ。獣じゃ!」
高峰の口から次々と出る言葉が、山吹の心に突き刺さる。
「貴様らの顔を見るだけで、わしも村人も背筋が凍る思いだ!醜い鬼め!とっととこの村から出ていけ!」
高峰の屋敷から、転がるように出てきた山吹の顔からは、血の気が引いていた。高峰の言うことなど、信じるに足りない。いつもの山吹なら、冷静に受け止められた。が、心身共に疲れ切っていた山吹の心に、村人のことを疑う気持ちがふつふつ湧いてきた。
あの村人たちの笑顔の裏に、そんな思いが隠されていたのか。我らは、村人と心一つ。同じ村人として、共に生きてきた。そう思っていたのは、我らだけだったというのか。そんな思いに縛られると、村人たちの些細な言葉が思い出される。
「簡単に力仕事をやってのける。本当に鬼には敵わんなぁ」
あれは裏を返すと、鬼族を恐れての一言だったのかもしれない。
「こりゃぁ、鬼族には逆らえんぞ。なぁ、皆の衆」
我らは、村の人たちに我慢を強いてきたのだろうか。
皆に、何と言って説明したら良いものか…。しかも、村人たちとの交わりも絶たねばならないのか。それとも、この村から出て行かねばならぬのか。
新たな土地で、鬼族を迎えてくれる場所はあるのだろうか。ささやかな幸せさえも、鬼族は求めてはならぬというのか。
どこをどうやって歩いてきたのかさえ分からないまま、やっとの思いで家にたどり着いた山吹は、そのまま床に伏せってしまった。
「父さん、地頭様のお屋敷で、何があったのでしょうか」
葵の問いかけにも、山吹は口を閉ざしたまま、何も語ろうとはしない。
このまま何もしないわけにはいかない。ゆりの力を借りなければいけないのだろうか、葵は思い悩んだ。
西条高峰が地頭としてこの地に赴任した当時、幼かったゆりは、子犬のように葵の後をついてまわった。兄弟のいないゆりは、葵を「兄さま」と呼んで慕っていた。
子どものうちは、鬼の額の角は目立たない。高峰も賢い葵を、ゆりの遊び相手として認めていた。礼儀正しいうえに、村の子とは思えぬほど読み書きもしっかりできる。地頭の広い屋敷を走り回るゆりに、
「行儀が悪いよ。ほら、遊びたいなら、庭に出よう。ほら、ふすまは両手で閉めなきゃだめだよ」
と、行儀作法まで教える。
「葵は、ゆりにいろいろなことを教えてくれる。まことに、ゆりにとっては兄のようだ。葵よ。ゆりを頼むぞ」
まさか鬼族とは、思いもよらない高峰だった。
そんなある日、外で遊んでいた二人が雨に濡れて慌てて屋敷に駆け込んできた。
雨に濡れた葵を見て、高峰がどれほど驚いたことか。濡れた髪の毛の隙間から、わずかに角が見える。高峰の顔が、みるみる変わっていく。
「地頭様、申し訳ございません。ゆりが、少し濡れてしま…」
怒りに拳を震わせる高峰に、葵は言葉に詰まってしまった。
「葵!貴様、鬼族だったのか!よくも、このわしを騙してくれたな!」
「違います!だましてなどいません」
「ええい!言い訳するとは!」
高峰の怒りは収まらない。鬼族は、獣と同等。読み書きどころか、人としての徳もあろうはずがない。そう思い込んでいた高峰。葵が、鬼族などとは想像さえしなかった。
「とっとと、消え失せろ!」
高峰に足蹴にされ、雨の中転がっていく葵は、体中泥まみになる。
「兄さま!」
ゆりが飛び出そうとするも、高峰はゆりの体を抱き上げ屋敷内に引き上げていった。
「兄さま!」ゆりの泣き叫ぶ声が、葵の耳にも届く。なぜ、このようなことをされねばならぬのか、葵にもわからない。
雨の中、体中泥だらけになった葵は、家に着くなり山吹に泣いて訴えた。
「なぜ、地頭様はあれほどまで怒るのでしょうか」
「葵よ。それが鬼族に与えられた宿命なのだ。乗り越えろ!いつか必ず、わかってもらえる」
山吹は、泣きじゃくる我が子を抱きしながら、自分にもそう言い聞かせるしかなかった。
葵とゆりは、それでも互いのことを大事に想い続けてきた。そして、歳を重ねるごとに、互いへの想いは強くなり、将来を約束するようになった。とはいえ、高峰の鬼族に対する異様なまでの憎悪を知る二人は、人目を避けてしか会うことができない。その夜、いつもの村のはずれのお堂で落ち合うことになっていた。
お堂の周りは、葦が茂り人目につくこともなく、二人は夜が更けるまで語り合うことも、しばしばあった。その日起きた他愛のない話も、尽きることなく語ることができた。が、荒地の開墾が始まってからは、ゆりは葵の体のことが気にかかり、できるだけ会うことを避けてきた。
その日は、「話がある。お堂にて待つ。葵」と、小さな子どもがゆりの元に手紙を運んできた。高峰に見つかれば大変なことになるかもしれない危険を冒してまで、手紙を届けようとした葵のことを考えると、不安しかない。その不安な思いを抱えながら、ゆりはお堂へと足を速めた。
「ゆり、久しぶりだった。息災なかったか?」
「ええ、葵様こそ。ゆりは、ずっと心配しておりました。鬼族の皆さん、開墾にかなりご苦労されていると聞きました。でも、葵様のお顔を見ることができ、少し安心しました。少しお痩せになったようにも感じますが…」
「私は、大丈夫だ。それより、父上が地頭様の屋敷から戻ってくるなり、寝付いてしまった。私が声を掛けても、大事無いの一言しか返ってこない。あんな父上、初めて見た。食事にさえ手を付けないのだよ。まぁ、食事といっても、粗末な粥しかないゆえ、病になってもいたしかたないと言えばそうなのだが…。あの父上が、気力さえ失ったようなのだ。屋敷で何かあったとしか、それしか考えられない。ゆり、心あたりはないか」
葵の一言一言に、ゆりの心は痛んだ。
山吹が屋敷に訪ねてきたことを、家の者から聞いていたが、何があったか皆口をつぐんでしまう。
「お父さまたちの間に何があったかは、察しがつきます。ずいぶん酷いことを申し上げたのだと思います。本当に申し訳ございません。明日にでも、滋養がつく物をお届けしますね。父は、私が説得してみます。少し時をいただけますか。頃合いをみて、話をします」
葵は、ゆりの力に頼ることに不安はあった。が、ゆりが、最後の頼みの綱であることも事実。
「決して無理をしないでくれ。地頭様の意にそぐわないことを押し通すようなことだけは、頼むからやめてくれ」
「ええ、わかっています。葵様とこうしてお会いできなくなりますもの」
二人を包み込む優しい月明かりが永遠に続けばと、ゆりは叶わぬ願いを抱いて、葵との時間を慈しんだ。
「族長の代理は、やはり葵さんにしてもらわねば」との声に、初めは固辞していた葵だったが、鬼風の「皆の総意に従うべき」の一言で、腹を決めた。
「父、山吹には到底及ばぬが、精一杯やらせていただく。鬼族の存亡をかけた、この一大事。皆も、今まで通りどうか力を貸していただきたい。荒地の開墾、どうしてもなさねばならぬ」
葵の力強い言葉は、十分皆に伝わったが、山吹が病に倒れたことは、鬼族の心の支柱を失ったも同然。山吹に代わり葵も、今まで以上に開墾に力を尽くしたが、一人また一人と病に倒れ、荒地から鬼の姿は消えていく。
葵自身も、このまま開墾を続けて、本当に作物の実る豊かな土地になるのだろうか。我らは、全く無駄なことをしているのではないか。そんな不安な気持ちが、頭をよぎる。いや、違う。父が成し遂げようとしていたことに、決して無駄なことはない。葵は、何度もそう自分に言い聞かせた。
鍬を振り下ろすたびの、「ガツン」という音を打ち消すように、葵は叫ぶ。
「病に伏せる者や子どもたちが、待っているぞ!」
「そうじゃ!族長代理の言う通り!さぁ、我らならできる!」
「おう!そうじゃ!我らならできる!」
葵が留守の間は、ゆりが山吹の看病に当たっていた。高峰に見つからないよう、細心の注意を払っていた。が、小雨の降るなか出掛けようとしたゆりに、高峰が声を掛けた。
「ゆり、このような雨の日に、どこへ行くのだ?」
「あ!あ、あの…あっ、そうそう…おかねさんのお母さまが、ご病気だそうなので、お見舞いに…」
「そうか、気を付けて行ってまいれ」
ゆりを送り出した高峰は、ゆりの後をつけて、どこへ行くのか見定めてくるよう、家の者に命じた。
「このような天気の日に、しかも、あのように取り乱すとは、わしには言えぬところへ行くに決まっている」
「山吹様、どうか少しでもお食事をとってください」
ゆりが持参したおにぎりも、山吹は手をつけようとはしなかった。
「ゆり様、ここへは来てくださるなと、何度も申しました。このようなことをされると、地頭様のお怒りをかいます」
「わかっています。でも、葵様が安心して開墾に精をだせるよう、山吹様のお世話をしとうございます。せめて、お薬ぐらいは飲んでください」
ゆりが差し出した薬湯が入った茶碗を、山吹は初めて口にした。その山吹の腕を目にしたゆりは、心を痛めた。かつての力強い筋骨は姿を消し、やせ細った腕に無数の擦り傷や切り傷。我が父、高峰が鬼族を、ここまで追い込んでしまったことに、涙があふれて止まらなくなった。
「山吹様、父上がしたこと、いくらお詫びしても足りないくらいです。許してください。近頃は、私の言うことにも、耳を貸してはくれません。私は…ただ祈ることしかできません。鬼のみなさんが、この地で幸せに暮らせる日が来ると、信じています。ですから…どうぞお体をお大事になさってください。山吹様がお元気いてくださることが、鬼族の皆さんの励みになるのですから…」
泣きじゃくるゆりの背に手を差し伸ばそうとした山吹は、その手をゆっくり戻すとぐっと握りしめた。これ以上、ゆりを苦しめたくはない。
「ゆり様、もう二度とここに来てはいけません。ゆり様が、ここにいることは遅かれ早かれ地頭様の耳にも入りましょう。そうなれば、葵とも会うことができなくなりましょう」
葵とゆりが惹かれあっていることも承知していた山吹は、二人の行く末を何よりも案じていた。
ゆりは、泣く泣く山吹の家を後にした。雨がすっかりあがり、春の訪れを予感させる穏やかな日差しがこぼれていた。この先の鬼族にも、春のような穏やかな日々が訪れることを祈り、ゆりは開墾に精を出す葵のもとへと足を進めた。
ゆりが山吹の家を訪れたこと、そして葵と会っていたことを伝え聞いた高峰は、怒り狂った。
「何と!ゆりをかどわかすとは、鬼族め!決して許さん!良いか!ゆりは、決して屋敷から出すな!」
屋敷に戻ったゆりは、「地頭様のご命令です。決して奥の部屋から出ないでください」と、そのまま奥の座敷に閉じ込められてしまった。
「どうして、このようなことを。父上、ゆりの話をきいてください。鬼族の皆さんにもう少し情けをかけてあげてください!このままでは、あんまりです」
ゆりの必死の懇願も、今の高峰にとっては鬼族に言わされているとしか思えない。
「優しいゆりを騙して、良いように遣おうとする鬼族め!見ておれ!」
歯止めの利かない高峰の怒りは、家来たちに恐ろしい命令を下した。
「今夜、お堂でお待ちしています」ゆりにそう言われていた葵は、お堂の脇の岩に腰かけて、夜空を見上げていた。新月ではあったが、鬼族は夜目がきく。星明かりさえあれば、十分。その星空を、ゆりと共に見上げることが、葵はとても好きだった。星を見上げるゆりの横顔は、その星空に負けないほど光り輝いて見える。ゆりを待つこの時間さえ、愛おしく感じる。
「それにしても、今夜の冷え込みはきつい。ゆりは、早めに帰さねば…」
ところが、人間よりも聴覚にも優れている鬼族である葵の耳に届いてきたのは、ゆりの足音ではない。おそらく数人、いや数十人の人の足音。
「しかもこれは、帯刀した者たちだ。」
まっすぐ、こちらに向かっている。
「物盗りか…。これほどの者たちが…。いったい何が起きているのか。もしも万が一、ゆりと出会ってしまったら…」
「ゆりが、危ない!」
「ゆり!」そう飛び出していった葵だった。が、物盗りではない。高峰から鬼族討伐を命じられた、家来たちだった。
「鬼族だ!逆襲だ!」
突然飛び出してきた葵に、逆襲をかけられたと思い込んだ家来たちは、一斉に刃を向ける。
「違う!私は…」
葵の言葉は、届かない。鬼族の力を知る家来たちは、死に物狂いで襲いかかってくる。いくら鬼族とはいえ、たった一人で適う人数ではない。
「ゆり!」
葵の叫び声が、山吹の耳に届いた。事の重大さは、葵の声から十分感じ取れる。
「葵!」
そう叫びながら駆けつけた山吹だったが、すでに葵の息は絶えていた。
屋敷のあちらこちらから勇ましい声や、激しい足音、聞きなれない物音がゆりの耳にも届く。異常な空気を感じ取ったゆりは、体が震えた。我が娘を屋敷内に幽閉までして、何をしようとしているのか。高峰は、いったいどんな暴挙に出ようとしているのか。葵の身に迫る危険が、どれほどのものか。ゆりは、何としても葵の元へ行かねばならない。葵だけではない。鬼族の里にも大きな危害が及ぶかもしれない。止めなければならない。どうすれば、ここから出られるか。震える両手をぎゅっと握りしめ、ゆりは鬼族の無事を祈りながら考えた。
部屋の戸を少し開け様子をうかがうと、先ほどまでいた二人の見張りは、いつの間にか一人になっていた。今なら、大丈夫。今が、好機。大きく一つ息を吸ったゆりは、葵の名を心で叫びながら、見張りの者に訴えた。
「お願いです。お父さまにお詫び申し上げたいので、ここから出してください」
「そう言われましても、地頭様から決して出してはならぬと言われております」
「だからお詫び申し上げたいのです。お父様も、私が許しを請うことを待っているはずです。ゆりが心から詫びたいと、そう伝えてはくださいませんか。ここに閉じ込めておくことは、お父様の本意ではないはずです」
「そこまで仰るのでしたら…。承知つかまつりました。地頭様に、ゆり様がそう申し上げていることを伝えて参ります。しばしお待ちください」
見張りの者の姿が見えなくなると、ゆりは素足のまま屋敷から飛び出していった。小さな燭台を片手に、通いなれたお堂までの道。いつもは、高鳴る胸を押さえながら歩く道。が、今宵は葵の身を案じ、胸が押しつぶされる恐怖に耐えながら足を進める。素足に、小石が刺さる。
「葵様、どうぞご無事で!」
そう心で叫びながら、溢れ出そうな涙を堪え必死で走り続けるゆりの耳に、山吹の悲しい叫び声が届いた。それが何を意味するか。ゆりは、何度も何度も、葵の名を心で叫び続けた。
肩で息をするゆりの目に飛び込んできたのは、うずくまる山吹。そしてその腕の中の、葵の姿。燭台がゆりの手元から落ちると、辺りは一瞬で闇に包まれた。
「違う!葵様じゃない!」
そう叫びながら力なく
「ゆり様、どうぞ葵を抱いてあげてくだされ」
そう言って、抱きかかえていた葵を、ゆりの膝に預けた。膝に乗せられた葵の頬に、ゆりは震える手を伸ばした。その凍える指先には、葵の体温がまだ微かに温かく感じられた。両の腕で葵を抱きしめても、あの穏やかな笑みを見せてはくれない。
「葵様、目を開けてください。ゆりが来ました。葵様!」
ゆりが、いくら葵の名を繰り返しても、葵の目は開くことはない。
一足違いで駆けつけた鬼風も、言葉を失い立ちすくんでいた。自分の命と引き換えに母を失った葵だったが、その境遇にも負けず、素直な人柄は、鬼族に拘わらず、村人からも好かれていた。その葵が、なぜ命を落とさねばならないのか。人はこんな残忍なことが、なぜできるのだろうか。いったい、葵が何をしたというのか。
「私が、葵の代わりに死ねばよかった」
体を震わせながら山吹は、何度もそう呟いた。そんな山吹にかける言葉はない。鬼風は、ただ泣きじゃくるゆりと、苦しみの底に沈む山吹を見守るしかなかった。現実なのか、それさえも認めたくない。手塩にかけて育ててきた我が子を失った山吹に、何と声を掛けてよいものか。
見上げた空のまばゆい星は、こうなることを知っていたのか。ならば、なぜ私に、葵を救う手立てを教えてくれなかったのか!こうなる前に、地頭の頭を握りつぶしてやれば良かった。命を懸けて産み落とした葵の母親に、何と弁明すれば良いのか。自分の不甲斐なさを攻めていた鬼風の肩を、叩いたのは山吹だった。
「鬼風、ゆりを頼めるか?」
穏やかな声だった。さらに、山吹は、ゆりの手を取って告げた。
「ゆり様は、今すぐ鬼風と身を隠してください。何があろうと、鬼風から決して離れないと誓ってください。そして…これから起こるであろうことも、全てお忘れください」
「でも、山吹様、私の…」
「急いでくれ!鬼風!頼む!ゆり様を、守ってくれ。私は、皆を守らねばならぬ」
山吹の耳には、鬼族たちの叫び声が聞こえていたのだ。時は一刻を争う事態になっていた。
高峰の命令は、一人も残らず鬼族を殺すこと。その命に従って出された兵たちによって、鬼族の里は、まさに地獄のありさまと化した。ろくに食事も摂れてないうえに荒地の開墾で、疲れ果てていた鬼族は、みな深い眠りにおちていた。しかし、その眠りは、炎が裂いた。気が付くと、すでに家は炎に包まれ、その炎をかいくぐり、命からがら逃げだしても、その先に刃が待ち受けている。子供さえも容赦なく、刃が向けられる。
山吹が里に駆け付けた時には、すでに鬼族の里は炎に包まれていた。夜の闇に響き渡るのは、炎の音と鬼族の家が崩れ落ちる音だけだった。
「何ということを…これが人間のなせることか…。人間とは、何と残酷な…」
膝から崩れ落ちた山吹は、怒りを大地にぶつけるように、拳を何度も地面に叩きつけた。
そのまま泣き崩れていた山吹は、一つ大きく息を吐きだすと、強く握られた両の拳を震わせながら立ち上がった。その怒りに満ちた顔は、まさに鬼。
「ええぃ!地頭よ!怒りに狂った鬼の力を、我が力を思い知るがよい!」
どんなときも穏やかだった山吹の口は、大きく耳まで裂け、そこからは二本の鋭い牙が、長く伸びる。額の二本の角は、ぐっと太さを増す。目からは、真っ赤な血の涙が流れる。低いうなり声と共に、山吹が振り上げた両腕はどんどん太くなり、体の筋肉もぐんと盛り上がり、着物ははち切れた。振り乱した髪は、炎のようにうねる。
そして、そのままぐんぐんと天に昇り真っ黒な雲へと姿を変えた。その雲は更に大きくなり空を覆いつくした。その雲の隙間からは、恐ろしい山吹の顔が見え隠れする。
そのあまりに恐ろしい様子に、地頭の家来たちは、刀を持つ手が震え、腰を抜かす者もいた。上役の命さえ聞かず、這って逃げ出す者も現れた。
「我ら鬼族の本当の力を見せてくれようぞ!このまま、鬼族が絶えようとも、我ら鬼族の誇りを、人間どもよ、語り継げ!鬼族の恐ろしさと共に!」
天から轟くその怒りの叫びは稲妻となり、大地を揺るがすように鳴り続けた。と、ひときわ大きな雷鳴が轟いたと同時に、地頭の屋敷に
何度も何度も轟く雷鳴のなかに、地を這うような山吹の悲しい叫び声を、村人たちは耳にした。
しばらくすると、土砂降りの雨が降りだした。暗闇から降り続ける雨は、まさに山吹の涙。時々鳴り響く雷鳴は、山吹の悲痛な叫びにも聞こえる。村人は、戸を固く閉じ、ただ天にむかって祈りを捧げることしかできなかった。
三日三晩降り続いた雨がやみ、明るい陽の光が大地を照らした。驚くことに、地頭の屋敷跡には、雷にえぐられたのであろうか、池ができていた。
焼け野原となった鬼族の里に、村人たちは誰に言われるでもなく集まってきた。あれほど穏やかだった山吹を、怒り狂う雷神に変えたのは、人。皆、銘々に手を合わせて祈りを捧げていた。何もできなかった自分たちも、良心の呵責に責められる。地頭に、鬼族を助けるよう願い出なかったのも、事実。同じ村に住む同じ者として、なぜ鬼族を守ろうとしなかったのか。我らも、地頭と同罪かもしれない。そんな思いが、皆の胸の中にあった。
すると、一人が口を開いた。
「どうだろう、皆の衆。わしらで、鬼族を弔ってやろうじゃないか」
「そうだ、ここに
「鬼族によって里が豊かな土地になったんだ。その恩を、みな決して忘れないように、永く語り継いでいこうじゃないか」
「そうだそうだ。あの鬼族たちの優しい顔を思い出すと…」
と、涙を浮かべる者もいた。
村人たちは、鬼族の魂が慰められるならばと、鬼族の里に小さな祠を建てた。
全てなくなってしまった鬼族の里に、春一番が吹き抜ける。山吹が大事に育てていた桜の木も、焼けてしまった。
葵の弔いは、鬼風と二人、静かに執り行った。
心の中に生き続けるのだと、鬼風は何度もそう言ってゆりを慰めた。が、二度とこの手で触れられない葵を想うと、涙は枯れることない。
ところが、この惨劇を生んだのは我が父。鬼族の全てを奪った父の暴挙は、許されることではない。その娘であるゆり自身が、身をもって償うことも考えた。
「でも、私は生きていかなければいけないのです」
ゆりの背後に立つ鬼風が、黙ってうなずいた。
「鬼族の血は、私が守っていきます」
ゆりは、天に向かってそう誓った。
山吹の家の燃えてしまった桜の木の根元から、不思議なことに小さな枝が一本伸びていた。更に、その枝の先に、小さな花のつぼみが、わずかに膨らんでいた。
「山吹よ、おまえが咲かせたのだろう。葵の子ども、命を懸けて守っていく」
空を見上げた鬼風の目に、初めて涙が浮かんでいた。
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