新月物語 ー鬼伝説ー

せりなずな

第1話 春 山吹

 額から生える二本の角は、けっして恐ろしいものではない。鬼族が住む村の人間たちは、誰もがそう思っていた…かつては。


 角があり、眼光も鋭く、強靭な肉体を持つ。姿形が違えど、同じように笑い、泣き、家族を愛する。そんな鬼族は、村人たちと共に支え合いながら暮らしていた。

「荷車がぬかるみにはまってしまった。悪いが、ちょっと頼まれてくれんか」

「よしよし、わしがお手伝いしよう」

人が二・三人たばになっても、びくともしない力仕事でさえ、鬼が一人いればさっさと片付く。

「さすが鬼族!鬼族がおらんようになったら、わしらの暮らしは成り立たんわ!」

鬼族の肩を叩き、そう言って笑い合う。それが、村のどこにでも見られる風景だった。


 元は、それほど豊かな土地ではなかったこの地に、鬼族が住むようになり、力で勝る鬼族が、村人と力を合わせ土地を開墾してきた。その甲斐もあり、村の作物は豊かに実るようになった。米作りもできるようになり、年貢を納めても何とか食べていけるようになった。だからこそ、村人は、鬼族に感謝こそすれ、疎ましく思う者など、だれ一人いなかった。


 そんな鬼族が穏やかに住む村に、新たな地頭、西条高峰にしじょうたかねが赴任してきた。

「まずは、田畑の視察に行くとしよう」と出かけた高峰の目に飛び込んできたのは、野良仕事に精を出す鬼の姿。初めてみる鬼族に、高峰は腰を抜かし暫く立ち上がれないほど恐れおののいた。

「お、鬼が、鬼がいるではないか!これがうつつだと!」

家臣に両脇を抱えながら、やっと腰を上げた高峰の目に、村人と楽しそうに話す鬼族の笑顔が飛び込んできた。大きく口を開けて笑う鬼の顔が、高峰の目には村人を襲うように見えて仕方がない。

「あれを見てみろ、あの大きな口を。何とも恐ろしい」

「いえ、あれは楽しく談笑しているにすぎないかと…」

「何を言う!頭から人を喰おうとしているではないか!」

村人に代わって、米俵を両肩に担いで運んでいると、

「米を盗んでおるぞ。捕えないのか!何をしておる!」

とまで言い出す。何を見ようが、鬼族を信用できない。

「今に見ていろ。きっと、いや必ずだ。あいつら鬼族は、人間を殺す。あの角で一突きされるかと思うと、考えただけで身震いする」


 高峰は赴任してすぐ、鬼族の土地を取り上げる暴挙に出た。村人が住む部落から遠く離れた山の麓に、鬼族が住む土地を与えた。田や畑も取り上げられ、僅かな農地しか与えられなかった。が、

「山に近いゆえ、狩りに出かける手間がたいそう楽になったわ。住む家くらい、すぐに拵える。新しい家に住めるとは、ありがたいくらいだ」

そう言う鬼族に、村人は驚嘆した。

「本当に、鬼族は人が良すぎるわ。なあに、心配することない。今まで、どれほど鬼族たちに助けられたか。わしらの恩返しだ。ちょいと力仕事を手伝ってもらえりゃ、野菜でも米でも好きなだけ持ってかえってくれりゃいい」

そう笑って鬼族を見送ったが、地頭の暴挙には呆れ果てるしかなかった。


 素直に地頭の命に従った鬼族を、まだ信じられない高峰は、鬼族の住む集落に見張りをつけた。

「鬼たちに何か不審な動きがあれば、すぐ知らせるのだ」

と命を下したが、その見張り役でさえ、いつしか鬼族とも心を開いて世間話までするようになった。

「地頭様も、いつか鬼族のことを認めてくださる日がくる。村の人たちでさえ、最初は我らのことを恐れていた。が、今ではこうして親しくしてもらえるようになった。大丈夫、きっと地頭様にも、わかってもらえる日が来る」

「そうさ、我らの良さをきっとわかってもらえる日が来る」

そう言う鬼たちの顔には、けっして不満の色はみえなかった。


 鬼族は、人間のことを悪くは思わない。額の二本の太い角と鋭い眼光。大きな口からは、二本の牙が見え隠れする。そんな容姿とは似つかわない心優しい鬼族は、草花を心から愛し、争いごとは好まない。それどころか、村人のもめごとにも仲裁に入り、双方が納得するよう知恵を授けたりする。

 文字の読み書きもでき、書物も好んで読んでいた。詩歌や楽器なども、たいそう上手だった。村の子どもたちに、文字や算術も教えていた。そのお礼に届ける米や野菜も、はじめはなかなか受け取ろうとしなかった。

「これくらいのことさせてもらわねば、こちらが気が引ける。頼むから、受けてってくれんか」

そう言って、やっと受け取ってもらえるようになったと。

「何とも律儀なんだよ、鬼族は」

村人は、鬼族のことを心から信頼していた。

 

 ところが、穏やかな鬼族の暮らしに、耐えがたい悲劇が訪れた。


 その年は大変な冷夏で、鬼族のわずかばかりの田畑は、作物が実る気配がない。厳しい冬に向けての蓄えどころか、その日食べる物も不安な日々を送っていた。村人も鬼族を助けようにも、地頭からの厳しい年貢の取りたてに、自分たちのことで精一杯。

「申し訳ないが、こんなものくらいしか分けられない」

と、わずかな野菜を届けることしかできなかった。


 鬼族の族長『山吹やまぶき』は、小さな庭に植えられた1本の桜の木を見上げ、これから訪れる冬を思い頭を悩ませていた。

「族長、そんなところで何をしておる?冷え込んできた。風邪をひくぞ」

山吹を訪ねてきたのは、少し年長の鬼風おにかぜだった。鬼族の子どもたちに、学問を教える役割を担っていた鬼風は、鬼族一の知恵者でもあり、山吹が誰よりも頼りにしていた。

「ああ、鬼風。今夜は、何用か?」

「少し話せるか?」

鬼風の表情から、山吹はすべて感じ取っていた。

「茶は出せぬぞ」

「ああ、茶を飲みに来たわけではない」

 狭い家ではあったが、きれいに整えられ、小さな囲炉裏には薪が赤々と炎を揺らしていた。

「族長、このままでは我ら鬼族の命さえ危ぶまれる。冷夏ゆえ、山の獲物の数もおそらく減るに違いない。この冬は、何とか越せるかもしれないが、鬼族の行く末を考えると、田畑がもっと欲しい」

「わかっておる。わかってはおるのだ…」

鬼風の鋭い視線から、山吹は目を逸らすことができなかった。

「地頭に、もう少し土地がもらえないか交渉できぬだろうか」

鬼風の一言一言が、突き刺さる。握られた拳に、力が入る。更なる土地が、欲しい。これは誰もが願ってきたこと。

「あの地頭の、我らに対する不信感は尋常なものではない。どう説得すれば良いものか」

「では、このまま我慢すれば良いのか。族長と私は、生粋の鬼族ゆえ何とかなるやもしれぬ。が、年取った混血の者たちは命を落とすことも考えられる。族長!頼む!」

頭を深く下げる鬼風に、山吹は返答に困った。冷たい夜風が、粗末な家の隙間から吹き込んでくる。このような暮らしにも、鬼族は黙って耐えてきた。そのうえ、食べる物も十分ではないとなれば、鬼風が言うように、命を落とす者も出るかもしれない。

「わかった。地頭に直訴して参ろう」

山吹の返答を聞いた鬼風は、再び頭を深く下げて帰っていった。


 翌日、山吹は山の様子を確かめに行った。山の恵みにも、冷夏は大きな影を落としていた。木の実は実らず、山鳥はもちろん、イノシシの足跡さえ見つからない。

「もはや限界か」

 山吹は、地頭の屋敷に足を運んだ。重い足取りで地頭の屋敷の門の前まで来ると、山吹に声をかける者がいた。

「まぁ、山吹様。今日は、どうなさったのですか?」

優しい声の主は、地頭の大事な一人娘ゆりだった。村の男衆の誰もが、その美しさにみとれてしまう。ただ、美しいだけではない。心優しいゆりは、鬼族に対していつも心を砕いていた。

「今日は、地頭様にお願いがあり、無礼を承知で伺いました」

山吹の冴えない顔色を見て、ゆりは察した。さっと山吹の元に駆け寄り、

「さぁ、こちらへ。私が、お父さまに口添えします。大丈夫です。今日は、朝からとても機嫌が良いようです。きっと山吹様のお願い事も聞いてくれますよ」

と、屋敷内に案内した。


「何?鬼族が…」

「ええ、お父さまにお願いがあるとのことです。お通ししてもよろしいですね」

他の誰でもない、ゆりの頼みとならば、聞かぬわけにはいかない。

「仕方がない。話を聞くだけならば」

「まぁ、良かった。私も同席させていただきます」

ゆりにそう言われると、拒むことのできない高峰は、ゆりの同席も許した。


 高峰の周りには、刀を携えた者が何人も、眼光鋭く山吹を見張るように座っていた。そのものものしさに、山吹は後悔の念に襲われていた。無理な話だった。地頭が、聞き入れてくれるとは到底思えない。床に頭を伏せたまま、山吹は迷いながらも口を開いた。

「地頭様にお話を聞いていただけること、この上ないことと感謝申し上げます。地頭様もご存知の通り、今年のこの冷夏で、我ら食べる物にも事欠く有様でございます。年貢さえ十分にお納めできません。せめて、もう一反でも土地をお貸しいただくことはできませんでしょうか。我ら、精一杯開墾いたします」

高峰にしてみれば、そうやすやすと土地など貸してやるものか、と言いたいところだったが、

「そんなお話でしたら、お父さま、たやすいことですね」

ゆりが横から口を挟んできた。

「確かに、村の者たちも不作に嘆いておったが、新たな土地と言われても…」

ゆりの手前、むげに断ることも追い返すこともできない高峰は、しばらく頭を悩ませていた。が、妙案を思いついた。

「三本杉の地蔵堂を知っておろう。その裏手に三反ほどの手付かずの土地がある。そこを貸してやろう」

山吹は驚いた。そこは、だれも開墾しようなどと思わない荒地だ。一瞬言葉を失いかけた山吹だったが、一つ深呼吸した後、意を決した。

「ありがとうございます。早速、みなに伝えて参ります」

再度床にひれ伏した山吹に、不安がよぎったことは言うまでもない。が、鬼族の力を持ってすれば、何とかなるのでは。山吹は、そう自分に言い聞かせることしかできなかった。


 翌朝、山吹に声をかけられて集まった鬼たちは、目の前に広がる荒地に言葉を失った。地蔵堂に集まってほしいと言われたが、まさか地蔵堂の裏手のこの土地を開墾するなど、だれも思ってもみなかった。その手に握られた鍬や鋤が、わなわなと震える者さえいた。そんな鬼たちを前に、山吹は力強く訴えた。

「地頭様のご厚意で、何と三反もの土地をお借りすることができた。荒地ではあっても、我らの力を持ってすれば、必ず作物が実る豊かな地となろう」

その声に後押しされた鬼たちは、族長が言うならそうかもしれない。いや、そうに決まっている。そう思えた。

「そうじゃ!我らならできる。きっとできる」

まるで呪文を唱えるかのように、みんなそう言い続けた。


 雑草さえ生えそうもない荒地を、いくら鬼族とはいえ一朝一夕に畑にできるものではない。「我らならできる」そう何度も繰り返しながら、鬼族は開墾に力を尽くした。

 ところが、いくら鍬を振り下ろしても岩にしかあたらない。鬼族の力をもってしても、荒地はいっこうに耕すことはできない。さらに作物に必要な水を得るためのため池も、掘らなければいけない。秋は、どんどん深まっていく。鬼族は、精も根も尽き果てようとしていた。それでも、山吹は皆の先頭に立って、鍬をふるった。


 山吹の一人息子のあおいは、そんな山吹の体を心配した。

「父さん、やっぱりあの土地は無理だよ」

そう声をかけても、朝は、夜も明けきらぬ前から。夜は、日が暮れ月が昇ると、その月明かりを頼りに、ひたすら開墾を続けた。葵も、その父を助け、力の限り鍬を握り続けた。

 その山吹の姿に励まされるように、鬼族は、ひたすら荒地を耕すことを続けた。そのため、狩に出かけることも、村人の力仕事を請け負うこともなくなり、ますます食べ物に窮するようになった。特に、山吹は満足に食事をとることもなく、自分の食べる物も、他の者に分け与えていた。

「大丈夫だ。私は、生粋の鬼族。そう容易く倒れることはない」

笑顔の山吹ではあったが、誰が見ても、山吹の衰弱は明らかだった。


 そんな山吹を心配して、鬼風が山吹の元を訪ねてきた。

「族長よ。本気であの土地を耕して畑にする気なのか。どう考えても、無理な話だ。それより、この冬食いつなぐ米を借りるよう、地頭に頼むことはできぬものか」

そう言いながらも、あまりにやつれた山吹の姿に、鬼風は驚いた。

「鬼風の言うこともわかる。が、地頭様のご厚意を無にすれば、この先鬼族は、この地で暮らすことさえままならぬかもしれぬ。何がなんでも、畑にせねばならんのだ。そばならば、育つかもしれぬ。もう少しだ。必ずそば畑にしみせ!」

やつれたとはいえ、鬼族の族長。山吹の力強い決意は、鬼風をも圧倒した。


 山吹の家を後にした鬼風は、夜空を見上げ瞬く星に向かって祈るような思いでいた。

「頼む、何が何でも生き続けてくれ」

 人間の生き血をすすれば、妖力も増す。生粋の鬼族である山吹ならば、あの荒地でさえ、容易に耕すことができる。が、人間と共存する道を選んだ族長自ら、「人をあやめてはならぬ」という鬼族のおきてを破ることはできない。自分の命に代えても、鬼族の暮らしを守ろうとする山吹の覚悟が、鬼風も痛いほどわかった。しかし、鬼族の中でも、純血を保っているのは、山吹と鬼風のみになってしまった。だからこそ、誰よりもその命を大切にしてもらいたい。が、鬼風は、その思いを山吹にぶつけることをためらった。遠い昔、鬼風に優しい笑みをかけてくれた人のことを思い出したからだ。

 鬼風の体に吹き付けるおろしは、心にまで突き刺さる冷たさだった。


 来る日も来る日も荒地を耕し続ける鬼族の中で、次第に地頭への不満が高まってきた。村人も、同情した。

「このまま開墾を続けて、本気であの荒地を畑にする気だろうか」

「地頭は、本当に酷なことをなさる」

 日ごと寒さが厳しくなってくると、鬼族とはいえ病に伏せる者もでてきた。


 梅の花がほころび始めても、荒地は、一向に荒地のまま。春の訪れを待ち望む気持ちも、鬼族の心には湧き起こってはこない。畑に必要な池を掘ろうにも、岩盤に阻まれ水たまり程度の深さしか掘ることができない。耕すことができた土地も、一坪、二坪と点々としている。荒地は荒地でしかない。皆そう思ってはいても、族長自ら鍬を決して手放そうとはしない。ならば、耕し続けるしかない。

 そういうみんなの思いが、山吹にも伝わってくる。そろそろ限界かもしれない。山吹は、決断した。


 おぼろ月夜のきれいな晩。高峰の屋敷の庭に、ひれ伏す山吹の姿があった。

「なんと馬鹿なことを申す!あれほどの土地を貸してやったにも関わらず、更に土地を貸せと申すか!」

「この冬の間、開墾に精を出しましたが、我らの力及ばず、畑にすること適いませんでした。今一度、地頭様のご慈悲を、どうか我らに…」

「貴様ら!何様のつもりか!」

声を荒げる地頭に、山吹はただただひれ伏すことしかできない。高峰にいたっては、怒り心頭。長年にわたって腹にため込んでいた鬼族への憎しみが、堰をきって湧き出てきた。

「ええぃ!貴様らに貸す土地など、一坪もあれはせぬわ!姿形の醜い鬼どもめ、そのまま野たれ死ねばよいわ!」

それだけではない。山吹が驚いたのは、その後の高峰の言葉だった。

「村人も、みな同じだ。お前らにいつ捕って喰われると、どれほど怯えておったか。知らぬとぬかすか!」

高峰の口から次々と出る言葉が、山吹の心に突き刺さる。

「貴様らの顔を見るだけで、わしも村人も背筋が凍る思いだ!」

 

 高峰の屋敷から、転がるように出てきた山吹の顔からは、血の気が引いていた。高峰の言うことなど、信じるに足りない。いつもの山吹なら、冷静に受け止められた。が、心身共に疲れ切っていた山吹は、村人のことを疑う気持ちがふつふつ湧いてきた。

 あの村人たちの笑顔の裏に、そんな思いが隠されていたのかと思うと、村人たちの些細な言葉が気にかかる。「簡単に力仕事をやってのける。本当に鬼には敵わんなぁ」と言った言葉まで、裏を返すと鬼族を恐れての一言だったのかもしれない。そう思えてしまう。皆に、何と言って説明したら良いものか…。しかも、村人たちとの交わりも絶たねばならないのか。

 やっとの思いで家にたどり着いた山吹は、そのまま床に伏せてしまった。何があったのか、山吹は口を閉ざしたまま、何も語ろうとはしない。が、葵もこのままではいられない。ゆりの力を借りなければいけないのだろうか、葵は思い悩んだ。



 西条高峰が地頭としてこの地に赴任したころ、幼かったゆりは、子犬のように葵の後をついてまわった。「兄さま」と言って葵を慕っていた。葵も、そんなゆりを愛おしく思っていた。そして、歳を重ねるごとに、互いへの想いは強くなり、将来を約束するようになった。とはいえ、高峰の鬼族に対する異様なまでの憎悪を知る二人は、人目を避けてしか会うことができない。その夜、いつもの約束の場所、村のはずれのお堂で落ちあうことになっていた。

 お堂の周りは、葦が茂り人目につくこともなく、二人は夜が更けるまで語り合うことも、しばしばあった。その日起きた他愛のない話も、尽きることなく語ることができたが、荒地の開墾が初まってからは、ゆりは葵の体のことが気になかかり、できるだけ会うこと避けてきた。が、今夜は、葵からどうしても話がしたいと、小さな子どもがゆりの元に手紙を運んできた。地頭に見つかれば大変なことになるかもしれない危険を冒してまで、手紙を届けようとした葵のことを考えると、不安しかない。その不安な思いを抱えながら、ゆりはお堂へと足を速めた。

「ゆり、久しぶりだった。息災なかった?」

「ええ、葵様こそ。ゆりは、ずっと心配しておりました。でも、お顔を見て安心しました」

「実は、父上が地頭様の屋敷から戻ってくるなり寝付いてしまった。私が声を掛けても、大事無いの一言しか返ってこない。あんな父上、初めて見た。食事にさえ手を付けないのだよ。まぁ、食事といっても、重湯しか食べる物もないゆえ、いくら父上でも体力の限界かもしれないが。屋敷で何かあったとしか考えられない。ゆり、心あたりはないか」

葵の一言一言に、ゆりの心は痛んだ。

 山吹が屋敷に訪ねてきたことを、家の者から聞いていたが、何があったか皆口をつぐんでしまう。

「お父さまたちの間に何があったかは、察しがつきます。ずいぶん酷いことを申し上げたのだと思います。本当に申し訳ございません。明日にでも、滋養がつく物をお届けしますね。父は、私が説得してみます」

葵は、ゆりの力に頼ることに不安はあった。が、今は鬼族のため、ゆりが最後の頼みの綱であることも事実。

「決して無理をしないでくれ。地頭様の意にそぐわないことを押し通すようなことだけは、頼むからやめてくれ」

「ええ、わかっています。葵様とこうしてお会いできなくなりますもの」

優しい月明かりが、二人を包み込むような夜だった。



 山吹に代わって開墾の陣頭指揮を執ったのは、葵だった。わずかな手勢で、しかも満身創痍の鬼族たちに、ただ「我らならできる」としか、葵も声を掛けることができない。その葵自身も、このまま本当に開墾を続けてもいいものかという不安がないといえばうそになる。しかし、病に伏せる者たちに、少しでも野菜でも米でも食べさせてあげたい。それだけが、鍬を振るう力となっていた。

 留守にする葵に代わって、山吹の看病に出かけようとしたゆりの姿を、高峰が見咎めた。

「ゆり、どこへ行くのだ?」

「あ!あ、あの…あっ、そうそう…おかねさんのお母さまが、ご病気だそうなので、お見舞いに…」

「そうか、気を付けて行ってまいれ」

そう言ってゆりを送り出した高峰は、ゆりの後をつけて、どこへ行くのか見定めてくるよう家の者に命じた。



「山吹様、どうか少しでもお食事をとってください」

ゆりが持参したおにぎりも、山吹は手をつけようとはしなかった。

「ゆり様、ここへは来てくださるなと、何度も申しました。このようなことをされると、地頭様のお怒りをかいます」

「わかっています。でも、葵様が安心して開墾に精をだせるよう、山吹様のお世話をしとうございます。せめて、お薬ぐらいは飲んでください」

ゆりが差し出した薬湯が入った茶碗を、山吹は初めて口にした。その山吹の手をみてゆりは心を痛めた。かつての力強い筋骨は姿を消し、やせ細った腕に無数の擦り傷や切り傷。我が父、高峰が鬼族を、ここまで追い込んでしまったことに、涙があふれて止まらなくなった。

「山吹様、お父さまがしたこと、いくらお詫びしても足りないくらいです。許してください。近頃は、私の言うことにも、耳を貸してはくれません。私は…ただ祈ることしかできません。鬼のみなさんが、この地で幸せに暮らせる日が来ると、信じています。ですから…どうぞお体をお大事になさってください。山吹様がお元気いてくださることが、鬼族の皆さんの励みになるのですから…」

泣きじゃくるゆりの背に手を指し伸ばそうとした山吹は、その手をゆっくり戻すとぐっと握りしめた。これ以上、ゆりを苦しめたくはない。

「ゆり様、もう二度とここに来てはいけません。ゆり様が、ここにいることは遅かれ早かれ地頭様の耳にも入りましょう。そうなれば、葵とも会うことができなくなりましょう」

葵とゆりが惹かれあっていることも承知していた山吹は、二人の行く末を何よりも案じていた。

 ゆりは、泣く泣く山吹の家を後にした。春の訪れを予感させる穏やかな日差しを感じながら、この先の鬼族にも、春のような穏やかな日々が訪れることを祈り、ゆりは開墾に精を出す葵のもとへと足を進めた。


 ゆりが山吹の家を訪れたこと、そして葵と会っていたことを伝え聞いた高峰は、怒り狂った。

「何と!ゆりをかどわかすとは、鬼族め!決して決して許さん!良いか!ゆりは、決して屋敷から出すな!」

ゆりは、屋敷内に閉じ込められてしまった。



「今夜、お堂でお待ちしています」ゆりにそう言われていた葵は、お堂の脇の岩に腰かけて、夜空を見上げていた。新月ではあったが、鬼族は夜目がきく。星明かりさえあれば、十分。その星空を、ゆりと共に見上げることが葵はとても好きだった。星を見上げるゆりの横顔は、その星空に負けないほど光り輝いて見える。ゆりを待つこの時間さえ愛おしく感じる。

「それにしても、今夜の冷え込みはきつい。ゆりは、早めに帰さねば…」

 ところが、人間よりも聴覚にも優れている鬼族である葵の耳に届いてきたのは、ゆりの足音ではない。おそらく数人、いや数十人。

「しかもこれは、男たちの足音」

まっすぐ、こちらに向かっている。

「物盗りか…。もしも万が一、ゆりと出会ってしまったら…」

 物盗りからゆりを守りたい一心で、飛び出していった葵だった。が、物盗りではない。高峰から鬼族討伐を命じられた家来たち。

「鬼族だ!」

一斉に、葵に刃を向けてくる。葵は、我が身一つで身を守らなければいけない。いくら鬼族とはいえ、たった一人で適う人数ではない。

「ゆり!ここに来るな!逃げろ!」

葵の叫び声が、山吹の耳に届いた。事の重大さは、葵の声から十分感じ取れる。

「葵!」

そう叫びながら駆けつけた山吹だったが、すでに葵の息は耐えていた。


 屋敷の物々しい空気に、ただ事ではないことをゆりは察した。父親が、どれほどの暴挙に出るか、我が娘を屋敷内に幽閉までして何をしようとしているのか。ゆりは身が震えた。

「お願いです。お父さまにお詫び申し上げたいので、ここから出してください」

見張りの者に、そう訴えた。

「そう言われましても、地頭様から決して出してはならぬと言われております」

「だからお詫び申し上げたいのです。お父様も、私が許しを請うことを待っているはずです」

「承知つかつりました。地頭様に、ゆり様がそう申し上げていることを伝えて参ります。しばしお待ちください」

見張りの者の姿が見えなくなると、ゆりは素足のまま屋敷から飛び出していった。月明かりもない夜道ではあったが、通いなれたお堂までの道。素足に小石が刺さるが、その痛みさえ、今のゆりにとっては何でもない。それよりも、葵の身を案じ、胸が押しつぶされるような痛みの方ががどれほど大きいか。

 「葵様、どうぞご無事で!」そう心で叫びながら、必死で走り続けるゆりの耳に、山吹の悲しい叫び声が届いた。それが何を意味することか、ゆりは恐怖に耐えながら、何度も何度も、葵の名を心で叫び続けた。


 肩で息をするゆりの目に飛び込んできたのは、うずくまる山吹。そしてその腕の中には、葵の体。暗闇であろうと、見間違えることない葵ではあった。

「違う!葵様じゃない!」

そう叫びながら力なくひざまずいたゆりに、山吹は

「ゆり様、どうぞ葵を抱いてあげてくだされ」

そう言って、抱きかかえていた葵を、ゆりの膝に預けた。膝に乗せられた葵の頬に、ゆりは震える手を伸ばした。その凍える手のひらには、葵の体温がまだ微かに温かく感じられた。

「葵様、目を開けてください。ゆりが来ました。葵様!目を!」

ゆりが、いくら葵の名を叫んでも葵の目は開くことはない。

 駆けつけた鬼風も、泣き崩れるゆりの肩を抱くことしかできない。

「鬼風、ゆりを頼めるか?」

山吹は、そう言うとゆりの手を取って告げた。

「ゆり様は、鬼風と身を隠してください。何があろうと、鬼風と離れないでください。そして…葵のことも、これから起こることも全てお忘れください」

「でも、山吹様、私の…」

「急いでくれ!鬼風!頼む!ゆり様を、守ってくれ。私は、皆を守らねばならぬ」

山吹の耳には、鬼族たちの叫び声が聞こえていたのだ。時は一刻を争う事態になっていた。


 高峰の命令は、一人も残らず鬼族を殺すこと。その命に従い、鬼族の里は、まさに地獄のありさまと化した。食糧不足と荒地の開墾で、疲れ果てていた鬼族は、深い眠りにおちていたためなすすべもない。火をつけられ、命からがら逃げだすと、その先に刃が待ち受けている。子供さえも容赦なく、刃を向ける。山吹が里に駆け付けた時には、すでに鬼族の里は炎に包まれていた。夜の闇に響き渡るのは、炎の音と鬼族の家が崩れ落ちる音だけだった。

「何ということを…これが人間のなせることか…」

膝から崩れ落ちた山吹は、怒りを大地にぶつけるように、拳を何度も地面に叩きつけた。

 そのまま泣き崩れていた山吹は、一つ大きく息を吐きだすと、両の拳を震わせながら立ち上がった。その怒りに満ちた顔は、まさに鬼。

「ええぃ!怒りに狂った鬼の力を、我が力を思い知るがよい!」

 どんなときも穏やかだった山吹の口は、大きく耳まで裂け、そこからは二本の鋭い牙が、長く伸びる。額の二本の角は、ぐっと太さを増す。目からは、真っ赤な血の涙が流れる。そして、体がどんどん大きくなったかと思うと、ぐんぐんと天へと昇り真っ黒な雷神へと姿を変えた。


 そのあまりに恐ろしい姿に、地頭の家来たちは、刀を持つ手がわなわな震えたり、腰を抜かしたり。中には、這いずるようにして逃げ出す者も現れた。

「我ら鬼族の本当の力を見せてくれようぞ!このまま、鬼族が絶えようとも、我ら鬼族の誇りを、人間どもよ、語り継げ!鬼族の恐ろしさと共に!」

天から轟くその怒りの叫びは稲妻となり、大地を揺るがすように鳴り響いた。と、ひときわ大きな雷鳴が轟いたと同時に、地頭の屋敷にいかずちが落ちた。屋敷は、あっという間に炎に包まれた。誰一人逃げ出す間もない。その屋敷を燃やす炎は、闇のなか踊るような火柱をあげた。何度も何度も轟く雷鳴のなかに、地を這うような山吹の悲しい叫び声を、村人たちは耳にした。

 その後、土砂降りの雨が降りだした。暗闇から降り続ける雨は、まさに山吹の涙。時々鳴り響く雷鳴は、山吹の悲痛な叫びにも聞こえる。村人は、戸を固く閉じ、ただ天にむかって祈りを捧げることしかできなかった。


 三日三晩降り続いた雨がやみ、明るい陽の光が大地を照らした。驚くことに、地頭の屋敷跡には、雷にえぐられた池ができていた。

 そして、何もかもなくなってしまった鬼族の里に、ゆりはただ立ちすくんでいた。目を閉じれば、優しい笑顔の葵の顔が浮かぶ。と同時に、この惨劇を生んだのは、我が父。どう償おうとも、償えるものではない。何をなすべきかも、わからない。

「でも、私は生きていかなければいけないのですね」

ゆりの背後に立つ鬼風が、黙ってうなずいた。

「鬼族の血は、私が守っていきます」

ゆりは、天に向かってそう誓った。


 桜の花のつぼみが、わずかに膨らみ、春の遅い訪れを知らせていた。




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