第3話 秋 菊乃

  母が息を引き取ったとき、東の空は赤く染まっていた。家中かちゅうの者たちのすすり泣く声が、その空に吸い込まれていくようだと、菊乃は思った。菊乃の身の周りの世話を任されていた千草は、亡骸となった母の枕もとで泣くこともできない菊乃の背中を、節くれだった手でただ黙ってなでてくれていた。

「姫さま、どうぞお気を強くお持ちください。この千草がそばにおりますから」

その千草も、嗚咽を堪えるのに必死だった。

 優しい母だった。叱られた記憶はない。三人の兄たちとは違い、歳の離れた末娘の菊乃は、真綿で包むように大事に育てられた。城主である父も「菊乃は、どこへもやりとうない。良い婿をもらってこの城におれば良い」と、一番信頼できる家臣の次男を、菊乃の許婚と決めていた。



「千草、母上が亡くなったときも、こんな暁の空でしたね」

「よく覚えていらっしゃいますね、姫さま」

月命日は、千草を伴って菩提寺の天雷寺てんらいじに出かけることを習慣にしていた。母が亡くなった同じ刻限に。

「覚えているわよ。あの真っ赤に染まった雲の波が、どれほど恐ろしかったか」

「そうでしたね。今日の空は、本当にあの日の空によく似ていること。そういえば、姫さま、ご存知ですか?奥方さまの供養に、天雷寺の本堂の建て直しをするというお話を」

「七回忌法要は新しい本堂で行うと、父上から聞いています。それで区切りをつけ、新しい母上を迎える。そういうことでしょう?」

「ご存知でいらっしゃいましたか。法要が済んでから新しい奥方様のことは姫さまに話すと、おっしゃていらっしゃいましたが…。まぁ、家中では、もっぱらの噂になっておりましたからねぇ。今日を最後に、しばらくは墓参もできなくなりましょう」

「そうね」そう言おうとした瞬間、大きなぼろ布の塊のようなものが、寺の前に横たわっていることに気が付いた。

「何でしょう、あれは?」

夜が明けきらず、まだ空気は冷え冷えとしている。

「まぁ、行き倒れでしょうか」

千草は、口元を袖で抑えながら様子をうかがおうと腰を屈めかけた。が、菊乃は、それよりも早く、その行き倒れとおぼしき人影に駆け寄っていった。

「千草、違う!行き倒れではありません。けがをされているわ!お武家さまです。お医者さまを!早く!」


 慌てて駆けだしていった千草は、足元がおぼつかいない。菊乃は、自分が行った方が早かったかもしれないと悔やんだ。

「もし、お武家さま。大丈夫ですか?」

菊乃がそう声をかけると、

「申し訳ない」そう言って、上体を持ち上げようとした。

 無数の刀傷は、深くはないように思った。恐らく、傷を負ってここまで歩いてきて力尽きたのだろうと、菊乃は思った。

「人を呼びましたが、時がかかるかと思います。もし立ち上がることができるのでしたら、お寺までなら私が肩をお貸しします」



 寺の住職は、すでに城内の仮住まいに移住し、小僧が一人留守を預かっていた。

「小僧さん、お湯を沸かしてきてください。それから、床の用意を」

「は、はい!少々、お待ちを」

慌てて駆け出していく小僧の背中を見送ると、本堂に倒れ込んだ男の傷の様子を確かめた。

「千草が、お医者さまを連れて来てくれると思います。もう少しお待ちください」

菊乃の声に反応して、僅かに口元が動くだけ。血の気が失せた顔色に、命の灯が消えていくのではと菊乃は、必死に声をかけた。

「お気を確かにお持ちください。あなたさまのお名前は?」

「か、かざおか…じん…神史郎」

「神史郎さま!どうぞ、お気を確かに!もう間もなくお医者さまが来てくださいます。神史郎さま!」

夜がすっかり明け切り、菊乃の励ます声に合わせるようにさえずる小鳥の声も、本堂に響き渡っていた。


 

 医者の手当の甲斐もあり、神史郎の頬には少し赤みがさしてきたように思えた。

「幸い傷は、深くはございません。ゆっくり養生すれば、大丈夫かと」

医師の言葉に、菊乃は胸をなでおろした。

「ありがとうございました。でも、お願いがございます。ここでのことは、くれぐれも他言なさらぬよう」

「はい。姫さまの願いとならば、決して他言いたしません。ご安心ください。この者の素性も、内密にというこでございましょうか」

「ええ、お医者さまに迷惑が及ばないためにも、この方の名は聞かぬ方がよろしいかと」

「承知つかまつりました。薬は、後から千草どのに取りに来ていただきましょう。この方は、本当に運の強いお方です」


 医師を見送った千草は、菊乃に怪訝な顔を向けた。

「姫さま、素性を伏せるとは…。この方は、どなたでいらっしゃいますか?」

菊乃は、小さくため息をついた後、手桶の湯に浸した手拭いをきつく絞った。そして、小さな寝息を立てている神史郎の顔の汚れを拭いながら言った。

「あの風岡家の、神史郎さまです」

千草は、唖然とした顔で菊乃の横顔を見つめた。

「風岡家とは…姫さま、このことが殿さまに知れたら…」

「大丈夫よ。この方は、今から違う名前になれば良いのよ」

「そんな…そんなことが、許されると…。殿さまのご信頼も厚き風岡様が、公金を横領された罪でお腹を召したのは、昨年のこと。その後、ご嫡男もおはらを召されたのは、そうとう殿さまのお怒りが激しかったゆえのこと。ご次男が、お国に戻ることはないと聞いておりましたが。何ゆえに…」

 菊乃は、手桶で手拭いをすすいだ。

「どうして戻って来たのでしょう。神史郎さまの居場所は、もうどこにもないのに」

顔の汚れを落とすと、その凛々しい顔立ちが益々映えてくる。

「千草、しばらくこの寺で養生させてあげましょう。お名前は…、暁…暁清史郎さまということにしましょう。旅の途中で夜盗に襲われたことにして」

「姫さまが、そう仰るのでしたら、そのように。されど、お立場が悪くなられるような事態になりましたら、私、包み隠さず殿に申し上げますが、よろしいですね」

「わかりました。そのようなことにならぬよう、気を付けます。まずは、この方のお召物を、どこかであつらえてきてください。私は、この方のおそばに付いておりますので。それから、この方の前では、姫と呼ぶのは止めてくださいね」

 菊乃は、別の手桶に用意された水に手拭いを浸した。その冷たさに指先が痺れる。凍える手で手拭いをきつく絞った。

 神史郎は、もうろうとする意識の中で、時折額にあてがわれる冷たい感触を心地よく感じていた。それと同時に、傍らに感じる人の気配にも、不思議に安心感を抱いていた。



 まさか、これほどまで用意周到に自分を襲って来るとは、思ってもみなかった。

 日も暮れかかり、急いで国境くにざかいを越えようと峠に差しかった神史郎の前に、三人の浪人風の男たちが飛び出してきた。と、同時に刀を抜いた。

「物盗りなら、私を狙うのはお門違いだ。残念ながら私の懐には、お前たちが喜ぶような金子は入っておらぬ。私は、先を急がねばならぬ。お前たちに構っている時間はない!」

そうは言ったが、恐らくこの者たちの狙いは金品ではない。道場では、師匠から免許皆伝を与えられたものの、真剣で人と対峙するのは初めてのこと。背中に一筋の汗が流れる。昼夜をたがわず歩き続けてきた神史郎の体力は、すでに限界を超えていた。一つ大きく息を吐きだすと、刀に手をかけた。

「お命なくすこと、御覚悟を!」


 気が付くと、三人の男たちは地面に倒れうめき声を漏らしていた。神史郎自身も、左肩と右脇、更に背中に数ヶ所、鋭い痛みを感じる。急いでこの場を去らなければならない。加勢に来る者が、いないとも限らない。

「確か、この先に寺があったはず、そこまで行けば…」

 何度も意識が遠のく中、ただただ神史郎は歩き続けた。月明かりだけを頼りに、自分を鼓舞して歩き続けた。父の汚名を晴らし、お家再興を願い出なければならない。何としても生きねばならない。

 東の空に微かに陽が差しこんだ時だった。

「父上、兄上。神史郎、戻って参りました」

寺までたどり着いた神史郎は、そう口にしたまま意識をなくしてしまった。



 意識を戻した神史郎の目に飛び込んできたのは、穏やかな笑みをたたえた美しい乙女だった。

「お気づきになられて、本当に良かった。私は…菊と申します」

慌てて飛び起きようとした神史郎の肩を軽く押して、

「まだ起き上がるのは無理だと思います。しばらくこの寺で養生なさってください」

菊乃はそう言い、神史郎の額の手拭いを再び手桶ですすいだ。

「かたじけのうございます。私は、かざ…」

「あなたさまは、暁清史郎さま。そう名乗ってください」

「暁?では、我が家のことは、ご存知で?」

「風岡家のことを知らない者は、城下にはおりません。何ゆえ、お国許に戻られたのですか?」

菊乃に問われて、神史郎は目を閉じた。



 兄からの手紙は、信頼できる人たちの手を繋いで、一年の歳月を有して神史郎の手に届いた。風岡家に公金横領の罪を擦り付けた張本人の名が、記されていたからだ。その証拠となる書付も、同封されていた。風岡家の家臣だったその男は、風岡家の全てを乗っ取り、今は悠々自適に暮らしていると、聞き及んでいる。城主の姫との婚儀も、決まったと聞く。


 神史郎は、こぶしを握り締め怒りを抑えながら、冷静に口を開いた。

「父と兄の菩提を弔いたく、帰郷いたしました。人目に付かぬよう密かにと…。ところが、夜盗に襲われ…まことに情けない」

「そうでしたか。ここならば、人の出入りはありません。安心して養生できます」

笑みを浮かべた菊乃の横顔に、神史郎は胸の奥がきりっと痛むのを感じた。心の臓が痛むのは、何ゆえか。そう考えながらも、穏やかな心持ちに再び眠りにおちていった。



 再び神史郎が目を覚ましたのは、陽が高く昇ったころだった。

「お目覚めですね。どうですか?ご気分は」

「かたじけのうございます。幾分、楽になったような気がいたします」

「まぁ、良かったです。今日は、とても暖かいのですよ。少し障子を開けましょうね」

開け放たれた本堂の障子から、境内の満開の山桜が、神史郎の目に飛び込んできた。

「何とも…美しい…」

「ええ、そうですね。早く良くなられて、桜の下をご一緒できると…」

そう言ってから、菊乃は頬を染めた。

「まぁ、私、ご一緒なんて…。恥ずかしいです」

桜の花のような楚々とした菊乃に、心奪われていく自分に神史郎は気が付いた。ここに長居はできない。

「ありがとうございます。が、私は先を急がねばなりません。お世話になっておきながら、勝手を申しますが、これにて失礼いたします」

そう言って、起き上がろうとしたが、思うように体が動かない。痛みはもちろん、起き上がろうにも体に力が入らない。

「そのお体では、まだ無理です。小僧さんが、重湯を作ってくれました。さぁ、少し召し上がってください」

菊乃に背中を支えてもらいながら、神史郎はやっとの思いで上体を起こした。吹き抜ける柔らかい春風が、神史郎の乱れた髪を揺らす。

「おぐしが邪魔になって、食べにくいでしょう。少しお待ちください」

菊乃はそう言うと、持っていた自分の櫛で神史郎の髪を整えようとした。

「それは自分で…」そう言って櫛を取ろうとした神史郎の指先が、菊乃の手に触れた。その瞬間、慌てた菊乃が櫛を落としてしまった。

「申し訳ありません。私が出すぎた真似を」

菊乃が、櫛を拾い上げようとしたその指先が微かに震えていたことに、神史郎は気が付いた。

「私の方こそ、驚かせてしまいました。お菊さまのご厚意には、感謝いたしますが、私と関わることで、あなたにお家にもご迷惑が及ぶかと思います。お菊さまのお召物は、かなり高価なものではないでしょうか。確かなお家柄かと」



 菊乃の父、吉川信勝よしかわのぶかつは、菊乃を溺愛していた。それゆえ、婿取りは慎重に慎重を重ね、重臣である風岡家の次男神史郎に、白羽の矢を立てた。

「菊乃の婿として相応しい男になるために、文武に励んで参れ!」

十六歳になったばかりの、まだあどけなさが残る神史郎を修行に出すよう、命じた。

 風岡家の当主、久衛門から「殿さまのおめがねに適う男になって参れ」とだけ言われた神史郎は、「殿さまのご期待にお応えする」ことを糧に、都での修行に励んできた。その結果が『お家おとりつぶし』。故郷から離れて暮らしていた神史郎には、なすすべがなかった。

「父上と兄上の無念を晴らす」これこそが、神史郎の残された使命になった。



「私のことは、心配ご無用です。それよりも、お父さまの菩提を弔うのでしたら、まずはお体を治すことを第一にお考えください。風岡家の菩提寺は、どちらでしたか?」

妙国寺みょうこくじです。鳩ヶ谷はとがやにあります」

「まぁ、鳩ケ谷といえば、まだここから三里ほどあるのでは?」

「それほど遠くはありませんが」

父と兄の墓参は、二人の無念を晴らしてからと神史郎は決めていた。

「どちらにしても、しっかり食べしっかり体を休めて、それからになさってください」

菊乃は、そう言うと神史郎の肩に羽織をかけた。

「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただいてもよろしいでしょうか」

 

 風岡家を破滅に追い込んだ張本人、小沢おざわ家を追い詰めるには、今のままでは返り討ちにあうかもしれない。ここならば、誰にも知られずに養生できるという言葉を信じ、菊乃の好意に甘えようと神史郎は考えた。

「ただ、あなたにご迷惑がかかりそうなときは、どうぞいつでも仰ってください。すぐに、出て行きます」

神史郎の言葉に、菊乃は安堵の笑みを漏らした。

「さぁ、小僧さんが作ってくれた重湯、温かいうちに召し上がってください」

と、お盆を差し出そうとしたとき、本堂へ上がる階段を踏みしめる音が聞こえた。

菊乃は、とっさに神史郎に背を向け両腕を広げてた。

「まぁ、もう起き上がっても大丈夫なのですか?」

千草だった。

「ああ、良かった。この人は、私を育ててくれた千草と申します。ご安心ください。決してあなた様のことは口外しません」

「もちろんでございます。さぁ暁さま、お召物を持って参りました。私で宜しかったら、お着替えを手伝わせてくださいませ」



 重湯の温かさが、体中に染み渡るのを感じた。命を懸けて成し遂げようとした小沢家への復讐心が、揺れてしまう。菊乃がかいがいしく世話を焼いてくれる、その行為一つ一つに心が揺らぐ。

 菊乃もまた、神史郎が何を成すために帰郷したのか、それが墓参だけではないことを察していた。夜盗に襲われたというのは、恐らく偽り。神史郎の命を狙う者が、いるということは、神史郎が何者かにとって邪魔であるという、確たる証拠。ならば、できる限り、ここで安全に過ごせるよう手を打たなければならない。



「姫様、この方の世話は、小僧さんにお任せし、城に戻りませぬと…」

千草に説き伏せられ、城に戻ることにした菊乃だった。後ろ髪をひかれる思いで、城に向かう道中は、昼間の穏やかな日差しも消え、冷たい風が吹きつけてくる。菊乃は、この風が神史郎の行く末の厳しさを物語っているように思えてならない。

「千草。風岡家のお家断絶の詳細は、知っていますか?」

「ええ、確か、城に出入りする両替商を脅して裏金を作らせた挙句、城のお金にも手を付けたと聞いています」

「そんなにたくさんのお金が、どうして必要だったんでしょう」

「姫さま、お金はあればあっただけ良いものなんです。人の欲にはきりがないのですよ」

「そういうものなのね。でも、本当に風岡家がそんなことをしたのかしら。父上が誰よりも信頼していたでしょ」

「だからですよ。信頼されて任されていたからこそ、上手くできたのでしょう」

菊乃は、胸のうちがもやもやするのを感じていた。

「ねぇ、千草。もう少し、詳しく調べることができないかしら」

「おやめください。ただでさえ、神史郎さまをかくまっていることが知れたら、お殿さま、お怒りになるのでは?」

千草は、菊乃が神史郎に抱く淡い恋心に気づいていた。

「とにかく、神史郎さまがお元気になられるまでのこと。それ以上は関わらないでください」



 神史郎は、体の痛みと共に胸の痛みを感じながら、日が落ち闇が広がる本堂で懐の書付に手を伸ばした。この書状の裏付けを、両替商に問い詰めなければ確たる証拠にはならない。殿さまに認めてもらうために…。まずは、自由に動けるようにならねばと、目を閉じると、手燭てしょくを持った小僧が本堂に姿を現した。

「本堂は夜の冷え込みは、きついです。庫裏くりに床を用意しました」

「ありがとうございます。お名前は、なんと言われます?」

「私ですか?秀念しゅうねんと申します。まだ、この寺に来て一年にも満たないひよっこです」

 秀念に肩を借りて、神史郎は庫裏で休むことにした。囲炉裏にかかったやかんからは、湯気がたちあがり部屋が十分に暖められていた。

「秀念さん、これほどまでにお気遣いくださり、かたじけのうございます」

「庫裏の方が、どなたもいらっしゃらないです。神史郎さま」

「はい…。えっ秀念さん、今何と?」

「神史郎さまですよね。お菊さまからは、暁清史郎さまとお聞きしました。私のことは、覚えていらっしゃいませんか?まぁ、このように頭を丸めてしまったので、お分かりにならないのも無理なきこと」

「もしや…そなた、秀元ひでもとの子。ええっと、名前は確か…」

片桐秀作しゅうさくです。神史郎さま、よくぞご無事でいらっしゃった」

涙ぐむ秀念は、まだ幼さが残っている。が、片桐秀元に生き写し。母方の遠縁にあたる秀元は、どことなく亡くなった母にも似ている。

「秀元が亡くなったのは、私が都へ行く直前だった。秀作、なぜそなたがこのようなところに」

「風岡家がおとりつぶしになり、片桐家も禄を取り上げられました。母と私の二人しかいないゆえ、簡単なものです。元々病気がちな母は、あっという間に亡くなり。私は、こうするより生きるすべがありませんでした。これも全て、小沢家のせい」

両こぶしを握り締め、首をうなだれた秀念の肩は震えていた。ここにも、苦しんでいる者がいる。神史郎の胸が、痛む。

「こうして、偶然にも神史郎さまにお会いできたということは、私にも、神史郎さまのお力になれるということだと思いました。かたき討ちに、戻っていらしたのでしょう」

囲炉裏の火が、パチパチと音を立てている。

「いや、違う。父上と兄上の墓参りに戻って来ただけだ。かたき討ちなら、もっと早くに戻ってくる。秀作、お前は今なずべきことしなさい」

「そんな…。どうして」そう言って、秀念は、肩を震わせて泣き出した。

 小沢家にたてつくことは、危険が伴う。それは、昨夜の一件で身をもって知った。まだ幼い秀作を、危険な目に合わせるわけにはいかない。夜の闇に、秀念のすすり泣く声が染みていく。ここには、やはり長居するわけにはいかない。ますます情が湧いてしまう。この秀念にも、そして菊乃にも。



 夜明けと共に、菊乃は城を出た。

「姫さま、それほど急がなくても、暁さま…でしたね。あの方は、どこにも行けやしません」

千草にそう言われても、胸騒ぎがしてならない。

 寺の門から慌てて駆け出してきたのは、秀念だった。

「あっ!姫さま!大変でございます。あの…暁さまの姿が、どこにもありません」

「まさか、あのお体で?小僧さん、お願いです。街道筋までの道を、探してくれませんか。私は、もう少しこの辺りを探してみます」

的中した不安に、胸が押しつぶされそうになる。このまま、二度と神史郎に会えないのではと、そう思えてならない。どうして、もう少し待っていてくださらなかったのかと、怒りさえこみあげてくる。

「姫さま!もう、あの方のことはお忘れくださいまし。自らお姿をくらませたということは、そういうことにございます」

慌てふためく菊乃の両手を握り、千草は諭すように言った。その菊乃の両手は震えていた。

「姫さまの、ご婚礼はもう間近です。姫さまの許婚は、小沢義政よしまささまです。もうこれ以上の、ご勝手は慎みください」

 千草の手を振りほどいた菊乃は、張り裂けそうな自身の胸を両のこぶしで抑えることしかできなかった。

 春の始めの柔らかい日差しとは裏腹に、菊乃の心は冷えていった。

 


 神史郎は、目立つ街道筋を避け、寺の裏道から城下を目指した。両替商の京屋は、城下でも指折りの大店だった。そのあるじ京屋重兵衛が小沢家に渡したとされる借用書の証文が、神史郎の懐にある。亡くなった兄が、命がけで神史郎に託した大事な証文。そして、小沢家と京屋の癒着を調べ上げた兄の手紙。これをもって、京屋にすべてのことを白日の下にさらしてもらわねばならない。兄が、殿さまに訴えようとした矢先、更なる罪を兄にかぶらせた小沢義貞よしさだに、復讐すること。そのためなら、この命惜しくはない。

 足元がおぼつかないうえ、山道は神史郎にとってかなり過酷だった。傷の痛みで、体中が燃えるように熱く感じる。呼吸も、どんどん荒くなってきた。意識ももうろうとしてきたそのとき、

「見つけたぞ!」

目の前には、浪人が三人。

「いや、五人か…もっといるのか」

脇差に手をかけたが、刀を抜く力さえ、もう神史郎には残っていなかった。



 秀念が、神史郎を見つけたのは、日が暮れてしまってからだった。その亡骸を、背負い寺まで戻って来たのは、月が高く昇った夜半。本堂に横たえたられた神史郎に、秀念は覚えたばかりの経を唱えた。不思議に、涙は出なかった。

「小沢家に殺されたに違いない。神史郎さまに生きていられては困る、何かがあるはずだ」

が、神史郎は何も持っていなかった。

「姫様に、何と申せば…」



 菊乃は千草に諭され、城に戻っていた。

「明日は、小沢さまがいらっしゃいます。決して、お城からはお出にならないよう」

そう念を押され、床についた菊乃だったが、神史郎の行方に胸を痛めたまま、なかなか寝付くことができない。

 もしかしたら神史郎が寺に戻ってきているのではと、そう思えてならなかった。「明日、城から出ないように言われた。なら、今夜なら良いということ」菊乃は、そう考え、身支度を整え城を抜け出した。

 寺の本堂から、明かりが漏れているのを目にした菊乃は、急いで階段を駆け上がった。

「神史郎さま!」

本堂の障子を開け、目に飛び込んできたのは、横たわる神史郎と、その傍らで手を合わせて経を唱える秀念だった。

「小僧さん、これは!これは、どういう…」

菊乃は膝から崩れ落ちていった。慌てて駆け寄った秀念に、

「どうして!どうして、神史郎さまが!どうして!」

そう問うことしかできなかった。



 どれだけ泣いたのか、自分でもわからない。たった一日の出会いだった。言葉を交わしたのも、数回。ただ、菊乃は初めて見た神史郎のことは、今でもはっきり覚えている。

 まだ十歳にもならなかった菊乃だったが、母の藤乃から聞かされていたのが、自分の許婚の『風岡神史郎』という名前。藤乃からは、「利発そうなお人ですよ。菊乃にはお似合いです」とだけ聞かされ、神史郎に会うことを夢みるまでになっていた。

 そんなある日。城の女たちが、こそこそ話しているのが聞こえた。

「見目麗しい若武者が、殿さまにご挨拶に来ているのよ。こっそりお顔を拝したけど、その凛々しさ美しさったら、言葉でなんて言えやしない」

『見目麗しい』や『凛々しい』『美しい』という形容が当てはまる若武者とは、どういうお方なのだろう。好奇心があふれるのは、当然のこと。お会いしたいとは、言えない菊乃は、その若者が通るであろう渡り廊下が見える部屋に隠れ潜んだ。


 殿さまの部屋から出てきたのは、風岡忠直だった。そのすぐ後から、出てきたのはその見目麗しい若武者だった。女たちが噂していた通りの『凛々しい』『美しい』若者だった。と、そのとき「神史郎どの!お待ちください」と声をかけたのは、藤乃だった。

「神史郎どの、都での修行、何かとお辛いときもあるかもしれませぬが、どうぞお体には十分にお気を付けください。これを、お持ちください」

藤乃が差し出したのは、薬入れだった。

「私の育ての父が教えてくれた、万能薬です」

「かたじけのうございます。大切に使わせていただきます。殿さまのご期待にお応えできるようしっかり修行に励んで参ります」

菊乃の耳に届いた神史郎の声は、優しくもあり力強さも感じられる。このお方のお嫁さんになるのだと思うと、菊乃はなぜか安心できた。


 その神史郎の命はもうない。夜が明け始め、東の空が赤く染まりだした。

「姫様、このお方の供養は、私がさせていただきます。これ以上関りになられると、姫様のお立場が悪くなられるのでは。どうぞ、お城にお戻りください」

秀念にそう言われても、神史郎の傍にいつまでもいたかった。

「さぁ、姫様。夜が明けました。お城に戻らないと、大変な騒ぎになりますよ」

「わかりました。小僧さん、お名前は?」

「秀念です」

「秀念さん、最後に一つだけお願いがあります。少しの間だけこの方と二人にしていただけますか」

「最後のお別れですね。承知いたしました」

本堂をあとにする秀念の背中を見送ると、菊乃は神史郎の耳元に顔を近づけて語りだした。

「神史郎様、私の声が聞こえますか?私の言うとおりにすれば、月夜のたびにこちらに戻って来られます。私が幼いころ、母から聞いた話です。とても恐ろしい話ですが、万が一でもこちらに戻ってこられるようなことがあれば、私はその望みにかけたいのです。彼岸に渡るさい河原かわらにいる鬼に、こう言うのです。『私は鬼番になる』と」

 神史郎の耳は、確かに菊乃の声を聴いた。

「鬼番になることができれば、三途の川の水面に映る月夜にわが身を預ければ良いのです。私が知っておるのは、そこまでです。ただし、こちらの世では、その水面からは出られないと」

菊乃はそこまで一気に話すと、一つ深呼吸をした。

「神史郎様が鬼になろうと、菊乃はお慕い申し上げます」

その最後の言葉は、神史郎の耳には、届かなかった。神史郎は、心地よい深い眠りに落ちていくように、体が軽くなっていった。



 菊乃は、何度も振り返りつつ、寺をあとにした。暁に染まる雲は、残酷さを帯びて菊乃の心を痛め付けた。その菊乃の胸に抱かれていたのは、神史郎が最初に身に着けていた血で汚れた着物だった。千草が、着替えを手伝って脱がせたまま、片付け忘れていたものだった。

「あの方の、唯一の形見。何があっても離さない」


  


「すまぬ。今朝方から気分が優れぬと、菊乃は部屋から出てこぬ」

信勝はそう告げると、小沢義貞に面を上げるよう促した。

「姫様のご加減が優れぬなら、いたしかたございません。殿も、姫様のことが気がかりでございましょう。今日は、このまま下がらさせていただきます。姫様にどうぞお体をお労りくださるようお伝えください」

義貞は、後ろに控える義政に目配せをした。

「こちら、都より取り寄せました紅でございます。お納めください」

「おう、いつもかたじけない。義政殿の心遣い、姫も喜んでおる」


 どれだけ流したであろうか、涙は枯れることがない。胸に抱いた神史郎の着物に染み付いた血は、神史郎の口惜しさの塊のように思える。神史郎の本懐を遂げさせてあげたい。そのためにも

「神史郎様に、もう一度お会いしたい」

 鬼番の話は、本当なのかどうか、もちろん何の確信もない。一縷の望みをかけたが、鬼番になったからと言って、こちらの世に戻ってこられるという話も、母が創り上げたおとぎ話かもしれない。

「でも、でも、神史郎様にもう一度お会いしたい」


 その日から、毎夜城を抜け出す菊乃だった。水面から神史郎が現るはずだと、月が昇ると、川辺を神史郎の姿を求めて歩き続けた。

 3日目の夜。秀念が、千草を訪ねてきた。神史郎を弔ったことを、伝えるためだった。が、そのとき城を抜け出す菊乃の姿を見かけた。何か、いやな予感がした秀念は、菊乃に気が付かれないよう用心深く後をつけた。

「こんな刻限に、いったいどこへ…」

川上から川下にむけ、しばらく歩いた菊乃は、急に何か思いついたようにきびすをかえし天雷寺の方へと足を速めた。

 天雷寺の本堂の裏手には、池がある。

「私、一番大事なところを忘れていたわ。お寺の池。きっとそこに神史郎さまは戻ってくださる」

 東の空に昇った月が、寺の池にその姿を映し出そうとしたとき、菊乃は息を弾ませて、ちょうど池のほとりについた。風もないのに、池にさざ波がたった。菊乃は、両手を合わせ祈る思いで、水面みなもを見つめていた。すると、水に映った月が、少しずつ盛り上がるように膨らんできたかよ思うと、そこからゆっくり人の頭…。

「違う、鬼だ!」

その様子を、本堂の陰から見ていた秀念は、その恐ろしさに腰を抜かしてしまった。

 水面からゆっくり姿を現したのは、神史郎。しかし、その額には二本の角が生えている。優しそうな面持ちはしていても、口の両端からは牙が覗いている。秀念は、震える両手で自分の両の目をこすった。

「まさか、神史郎様が鬼に。何ていうことに」

その恐ろしい光景に、秀念は逃げだしたくなった。ところが、次の瞬間、秀念は、さらに驚くことになった。

「神史郎様!」

菊乃が、水面をまるで地面と同じように駆け出して、鬼になった神史郎の胸に飛び込んでいったのだ。

 神史郎の胸に抱かれた菊乃は、恐ろしいほど美しく見えた。秀念は、体の震えが止まらなくなった。そのまま、秀念は庫裏へ這うように戻ると、布団を頭からかぶって震えが止まるまで経を唱えた。


「神史郎様、お会いしとうございました」

菊乃が、そう告げても、神史郎は黙ったまま頷くだけ。何か言おうと口を動かすものの、声が出ない。

「お話ができないのですね。それでも菊は、構いません。こうして神史郎様にお会いできるだけで、十分です。鬼番になられたのでございますね」

神史郎は、優しく微笑むとゆっくり頷いた。

「鬼になろう何になろうと、神史郎さまは神史郎様です」

その言葉に、神史郎は少し眉根を寄せたが、菊乃の頭を優しく撫でて何度も頷いた。


 その日から、毎夜菊乃は城を抜け出し水月の逢瀬を重ねた。が、月が少しづつ欠け始めると神史郎は、水面からは現れなくなった。毎夜、布団の中で経を唱えていた秀念は、意を決して城の千草を訪ねた。


「まさか、姫様が、そのようなこと…」

秀念の話を聞いても、しばらくは信じようとしない千草だったが、

「そういえば、何度かお履き物が濡れていたことがあったけど」

「信じられないかもしれませんが、もし仮にこれが作り話なら、私になんの得がありましょう。今が好機です。殿様にお話しして、今のうちに池を埋めてしまったらいかがでしょうか。あの池は、それほど深くはありません。本堂を取り壊すのでしたら、その廃材を使って池を埋めてしまう手立てもありましょう」

秀念の必死の訴えに、千草は迷いながらも信勝に全てを話すことにした。


「にわかに信じがたい話だが、万に一つでも姫に何かあってはならぬ。風岡家の恨みかもしれぬ。そのような災いは、全て取り除くことが肝要じゃ。今すぐ、池を埋めるよう指示をだすことにしよう」

信勝の命に従って、天雷寺の池は菊乃が知らぬ間に埋められてしまった。


 毎夜、空を見上げ神史郎との逢瀬を待ち続けた菊乃だった。新月の夜は、胸が裂けそうになる思いを堪えるしかない。

 そして、やっと待ちにまった月が昇り始めたのを見届けた菊乃は、城を抜け出そうとした。

「姫様、どこへ?このような刻限に」

千草に呼び止められた。

「お寺に…」

返答に困った菊乃に、千草は告げた。

「もう寺は、ありません。池も埋められました」

「何と?今、何と申した?池が?」

慌て駈け出そうとした菊乃の腕を、千草はつかんだ。

「もう神史郎様とは、お会いできません」


 千草の手を振りほどいた菊乃は、池まで来て力なく座り込んでしまった。

「池が…なくなっている…どうして、こんなことを…神史郎様」

見上げた月が、あふれる涙で大きく歪んでいる。



 その夜から、隠し持っていた神史郎の形見の着物を胸に抱き、菊乃は何日も泣いて暮らした。千草が、何度声を掛けても部屋から出ようとしない。

 目を閉じると、優しい神史郎の顔が浮かぶ。「このお着物さえあれば、神史郎様に抱かれているよう」そうすることで、壊れそうな心を、何とか保つことができていた。

「姫様、お食事だけでもおとりください。このままでは、死んでしまわれます」

「良いの、死んでも。死ねば、神史郎様にお会いできるわ」

千草の説得にも耳をかそうとしない。

 十歳のときから、神史郎のお嫁さんになるのだと、そう決めていた。が、その神史郎と交わした会話は、ごくわずか。穏やかな声は、鬼になった神史郎からは聞くことができなかった。だからこそ、着物を胸に抱き、目を閉じると、耳の奥で神史郎の声が聞こえる。

 天雷寺の本堂から、二人で見た境内の満開の山桜。そして、神史郎が口にした

「何とも…美しい…」の言葉。あのひと時が、なんとも愛おしく感じる。

胸に抱く着物に一層力が入る。と、着物の衿に何か違和感を感じた。襟の一部分が、少し膨れている。菊乃は、急いで縫い目をほどいてみた。

「これは…」


 神史郎が、万が一にと小沢家と京屋との裏取引の証拠の一つを、襟の中に縫い込んでおいたのだ。小沢家の悪事が全て明らかになった。

「父上、風岡家の再興をしてください。でなければ、私は尼僧になり、死ぬまで神史郎様を弔い続けます」

菊乃の申し出に、信勝は首を縦に振るしかなかった。


 秀念が、風岡家に養子として迎えられ、風岡家は、再興された


 全てが終わったかに思えたが、菊乃の神史郎への思いは、消えることはない。冬の訪れを感じさせる木枯らしが吹き抜ける天雷寺に、菊乃の姿があった。その胸には、包みが一つ大事そうに擁かれていた。片時も手放すことができない、神史郎の着物が包まれていた。

 本堂の建立に、大工たちがせわしく動きまわるにぎやかな現場であったが、菊乃の心は孤独だった。

「神史郎様のご無念は、晴らすことができたでしょうか」

そうつぶやいた菊乃に、一陣の突風が吹きつけた。


「神史郎殿は、安らかに霊山へ向われたに違いありません」

そう語りかけた者がいた。驚いて振り返ると、優しい笑顔を称えた大柄な男が、菊乃の元に歩み寄ってきた。

「私は、姫様の母上、藤乃の育ての親。鬼風と申します」

「母上の?聞いたことがあります。お父様お一人に、育てられたと。おじいさまですね。」

「そうでしたか…藤乃が」

そう言い、鬼風は一瞬視線を落とした。

「鬼番として、三途の川の番をしていても、この世に残した無念が晴れれば、成仏できるのです。姫様は、神史郎殿の回向えこうをしつつも、ご自身の行く末を考えなされ。藤乃もそれを望んでおるはず」

鬼風にそう諭されたが、菊乃は胸が痛んだ。

「おじいさまは、全てご存知でいらっしゃったんですね。でも…神史郎様の無念は、お家のことだけだったのでしょうか。私のことは…」

「それが武家というものです。姫様も、頭ではわかっておいででしょう。お辛い気持ちは、この鬼風も十分ご察しします。さぁ、姫様。その着物を、お渡しください。これも、弔ってあげましょう」

菊乃が胸に擁いていた包みを、指さした。

「どうして…これだけは…」

菊乃が、その両腕に力を込め包みを抱きしめると、木枯らしが巻き上げた落ち葉が、が、ゆっくりと舞い降りていった。小さく頷いた菊乃は、必死に笑顔を作った。

「承知いたしました。全て、おじいさまにお任せいたします」


 鬼風は、菊乃が差し出した包みを、受け取ると黙ってその場から去っていった。その後姿を、菊乃は見えなくなるまで見送ると、埋められた池にむかって、手を合わせた。

「神史郎様。短い間でしたが、菊乃は幸せでした」




                                    



 



 

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