第十七話 休息の泉

 影が消え去ると、黒い有職文様の狩衣姿の七神の頬と額に、稲妻のような赤い紋様が浮き出ていた。その瞳は赤く輝き、その右手には二メートルはありそうな矛。木で出来た長い柄に、曲線を描く黒い両刃が穂先に取り付けられている。


 祟り神。何故かそう思ったのに怖くない。格好良いと思う私が可笑しくて微笑むと、七神が困惑するような顔を見せた。

『この姿が恐ろしくはないのか?』

「はい。姿が変わっても冬登さんですから」

 威圧感のような空気はあっても、恐怖はない。


『……私は……遥かな昔、祟り神と呼ばれた存在の転生体だ。体と所持していた力を封じられ、人間として生きて死ぬはずだった』

「体?」


『鱗のついた皮を見ただろう? あれは私の元の体。私は昔、龍だった。…………どうした?』

「えーっと……その……龍って小っちゃいなーっと。こ、このくらい?」

 七つ分を合わせると、三十センチあるかないか。両手の指で示すと赤い瞳があきらかにうろたえた。


『それは……龍のサイズは可変だ。封じられる直前、霊力が完全に尽きて巨大な体は維持できなかった。早急に力を回復するために小さくなった所で封じられてしまった。元のサイズなら、蓮乃を手に乗せて飛ぶこともできるぞ』

「龍に変身できるの?」


『それはまだわからない。人として生まれた体に力は戻せても、体を戻せるかどうか…………やはり龍の姿の方がいいのか』

 何故か七神が遠い目をしてしまう。口を引き結び、拗ねているようで可愛い。

「そういう訳じゃなくて……」


 言葉を探す私を見て、七神は唇を緩めた。

『本当は……蓮乃と同じ人として生きて死ぬつもりだった。しかし、一度体から離れた魂を戻すには、神の力でなければ叶わない』

「冬登さん……ごめんなさい。私……知らなくて……」

 私が文葉の魂を取り戻したいと言ったから。だから七神は人であることを辞めてしまったのか。想像もしていなかった衝撃が胸を締め付ける。


 知らなかったで済む話ではなかった。私はこれからの七神の人生を奪ってしまったに等しい。その責任の重さに震える私に向かって、七神は微笑む。


『責任を感じなくてもいい。説明しなかった私が悪いのだから。……この悪い癖は、時を重ねても治らないな』


『幸いにも人の体がある。人に擬態して生きることはできるから問題はない。実際、そうして人に紛れて暮らしている神もいる』

 その言葉でほんの少しだけほっとした。それでもこの責任は重い。私は何を返せるのかと自問しても答えは出ない。


『そろそろ刻限だ。友人の魂を助ける機会は一度だけ。失敗すれば蓮乃の命も危うい。それでも挑むか?』

 真剣な眼差しが、私に最後の覚悟を問う。自分の命を掛ける重さに迷っても、人であることを捨ててまで協力してくれる七神がいてくれるなら、やり遂げられるような気がする。


「はい。冬登さんが私に勇気をくれました。後で後悔したくありません」

『わかった。蓮乃、迷子になるといけない。ここからは異界に入る』

 差し出された手に、迷うことなく手を乗せる。ひやりとした体温が龍のものだと思うと、くすぐったい。大きな手に包まれると、不謹慎と思いながらも胸がどきどきしてしまう。


 手を繋ぎ、暗い山道を歩いていく。周囲に町の灯りはなく、木々が風にそよぐ音が静かに響く。


 闇の中、朱色の鳥居が現れた。入り口の左右には、鉄製の籠が置かれていて火が燃え盛っている。道はいつしか石畳になり、沓を履く七神の足音は無いのに私の足音がやけに大きく聞こえる。


 鳥居はずらりと出口が見えないくらいの距離を埋め尽くすように並んでいた。まるで朱色のトンネル。石畳を歩いていると、鳥居の外を何か細長い何かが飛んでいく。

「あれは?」

『ああ、若い龍だな。ここに生きている人間が来たのが珍しいからだろう』

 龍と聞いて目を凝らすと、細長い何かだと見えていたのは、白い腹の一部で胴体は大人一抱えもありそうなサイズ。頭もしっぽも見えないから長さはよくわからない。


『……私は、あれよりも大きいぞ』

 拗ねるような声が可愛くて笑ってしまう。手を握る力がほんの少しだけ強くなって、胸がどきりと高鳴る。


 鳥居のトンネルの外、闇の中にふわふわと色んな物が漂っていた。クラゲのような半透明の何かがいるかと思えば、鳥の骸骨が羽ばたく。ぼんやりと透ける鯉のぼりが泳ぎ回り、猫の骸骨が駆け抜ける。


 青い炎や赤い炎がふらふらと揺れ、連なる丸い提灯が朧げな光を灯す。祭りの夜のような賑やかな光景なのに、どこか儚くて切ない。


 白く輝く狐が現れたと思ったら、尻尾が何又にもわかれている。あれは九尾の狐だろうか。その紅い瞳と目が合った。艶やかに輝く綺麗な瞳がルビーのようで頬が緩む。


『蓮乃が怖がらないから、皆、興味を持っているようだ』

「え? 怖いですよ。冬登さんがいなかったら、きっと逃げています」

『そ、そうか……』

 この手が無ければ、怖くて怖くて動けなかっただろう。七神が隣にいてくれるだけで安心できる。私は七神が好きなのかと思っても、どうしてここまで信頼できるのかはわからない。


 鳥居のトンネルはまだまだ続いている。疑問を聞いてもいいだろうか。

「……どうして冬登さんは、力を封じられてしまったんですか?」

 明らかに七神が動揺したのがわかった。聞いてはいけないことだったのか。


『昔、七剣星の力が欲しいと願った者がいた。私はその者が気に入らず、力も加護も与えなかった。しばらくすると、私はいつの間にか祟り神と言われるようになっていた。その者が私をそう呼んで広めたからだ』


『それでも私はその者を咎めることもしなかった。実際、自分がどう呼ばれようとも関心はなかったからな。だが、数名の村人が流行り病で死ぬと祟り神のせいだと言われ、私は討ち取られてしまった』


「〝あめふらし〟の巫女に殺されたの?」

『……それは……』

「冬登さんが祟り神の生まれ変わりなら、私もその巫女の生まれ変わりなの?」 


『思い出したのか?』

「全然。前世の記憶なんてない。ただ、狩衣を着た男の人の姿が頭に浮かんだり、龍の首を落としたっていう歌がものすごく怖かったり。手相が巫女と同じだったり……私は、前世で冬登さんを殺してしまったの?」

 恐ろしくて、ずっと神を殺した夢を見ていたとは口には出来なかった。


『いや。私を殺したのは、七剣星の力が欲しいと願った者だ。私の体を切り刻み、私の力を使って星彩の糸で縛り付けた。その後のことはわからない』

「本当に殺していない?」


『ああ。もし殺されていたなら、こうして一緒にいることはないだろう』

 微笑んだ七神は、私の手を強く握りしめた。ひやりとしていた手は、私の体温が移ったのかほんのりと温かい。静かに分かち合えるものがある。ただそれだけのことが嬉しい。


『私は人として転生し、生きてきた。神の力を無くした私は、蓮乃に会うまで転生していることに気が付けなかった』


「サバが嫌いっていうのも、巫女がそうだったから知ってたの?」

『ああ。あの時、記憶が全くないのかと気が付いた。そろそろ、この話題はやめよう。前世は思い出さなくていい。今を生きよう』

 七神の声は優しくて、私の死に際は悲しいものだったのではないかと想像できる。ただ、私が七神を殺していなくてよかったとほっとした気持ちが強い。


 鳥居のトンネルの外、賑やかさは徐々に薄まり闇に溶けていく。

『もうすぐ目的地だ』


 最後の鳥居が見えてきた。石畳の先に澄んだ水を湛える泉が広がっていて、周囲は黒い森が包み込んでいる。鳥居から出ると何故か七神も私も自ら光を発しているようで、お互いの姿が鮮明に見える。

  

『ここは休息の泉。泉下せんかに降りた魂を一度だけ呼び出せる。ここからは蓮乃の仕事だ』

 七神が矛で泉を静かにかき混ぜると、泉が光を発して、一斉に周囲に散った。よくよく見れば、それは蛍の光。闇の中、無数の蛍があちこちに揺らめく。


『あの蛍の中に、蓮乃の友人の魂がいる。……探し出す時間は、夜明けまで』

 七神が矛で空を示すと、暗い星空が見えた。出ていたはずの月はなく、星座に詳しくない私は星で時間を計ることもできない。


『私はここに長くはいられないから、鳥居の外で待っている。帰りは蓮乃一人になる。……帰りは背後を振り返ってはいけない試練の道だ。様々な存在が蓮乃の覚悟を試すだろうが、耳を貸してはいけない』

 鋭くなった赤い瞳は、私のことを心配してくれているのがわかる。握られた手が熱い。


 後ろを見てはいけない道。神話や昔話で聞いた事が現実になって私に起きるとは思ってはいなかった。


『いいか。蓮乃が助けることができるのは一人だけだ。肉体を失った者はどうやっても生き返らせることはできないし、背後を振り返れば、友人の魂も連れ帰ることはできない』

 肉体を失った者、それは美織のことだろう。私は文葉を助ける為に来たと心の中で繰り返して、七神の言葉に頷く。


 七神の手が離れると、途端に心細くなった。見上げると七神も不安な表情をしている。


『蓮乃についていたい。だが、それは叶わない。私は神の力を取り戻したが故に、この泉から人の魂を連れて戻ることはできない』

「私は大丈夫。冬登さんが、私の為にこんなに頑張ってくれたんだから、私も頑張る。必ず戻るから、待っていて」

 無理矢理に笑顔を作って明るい声を出す。語尾が震えてしまったのは、どうしようもなかった。


『蓮乃……必ず、戻ってきてくれ。いつまでも待っている』

 七神も無理に笑顔を作っているのは明らかだった。赤い瞳と見つめ合う中、徐々に七神の姿が薄くなって消えた。


「よし。頑張らないと」

 泉の周囲には、空に輝く星のように無数の蛍が舞い踊っている。無茶だと思っても、やるしかない。絶対に探し出すと覚悟を決めて蛍を凝視すると、同じ光と思っていたのに微妙に色も形も違っている。


「文葉! 探しに来たの! 応えて!」

 呼びかけて蛍に反応がないかと見回す。泉の周囲を歩き回り、一匹ずつ覗き込んで光の変化を見る。


 絶対に何か合図をしてくれるはず。根拠はないとわかっていても、そう願いたい。


 ポケットに入れたスマホが鳴ると、蛍が一斉に飛ぶ。ふわふわと揺れながら飛ぶ光は美しくても、どこか物悲しくて寂しい。


 スマホはポケットに入れたまま。異界での呼び出しで繋がる先は、人界ではなく異界。電話を取ってしまうと、道が出来て連れ去られてしまうと言っていた。


 今度はメッセージアプリの着信音が鳴る。文葉と美織と毎日交わした一言二言に意味はなくても、誰かと繋がっているという安心みたいなものはあった。


 ずっと一緒に友達でいられると思っていた。今日が終わったら、明日が自動的にやってくる。それが当たり前だと思っていた日々が遠い。


 茂みをかき分け、蛍を探す。冷たい葉に触れる度、手の温度が奪われていく。七神の手のように返ってくる温度はなく、ただただ消えるのみ。


 これは無駄な作業なのか。ふとした疑問が頭をよぎる。何百どころか、何千匹と感じる蛍の中から、たった一匹を探す。本当に無茶な話。


「あー、ダメダメ! 文葉と一緒に冬登さんの所へ帰るんだから!」

 頭の中に広がりかけた悪い妄想を、首を勢いよく振って振り落とす。


 見上げた夜空には、いつの間にか降るような星。こうして星空を眺めるのは、何年ぶりだろう。

「あ、あれ、北斗七星かな?」

 空の端に輝く七つの星。両手を合わせ七剣星に決意を述べる。


「私は文葉を見つけ出して、絶対に連れて帰ります」

 七つの星の一つが強く輝いたように思えた。頑張れと七神に応援されているような気がして、笑みが零れる。


 指先の感覚が失われても、私は木々や茂み、草をかき分けて蛍を探し続けた。暗い闇の中、蛍の光で感じ取っていた葉の輪郭がじわりと明るくなった。


「……嘘。夜明け?」

 見上げた夜空の端が、暁の光を帯び始めている。あれだけ沢山いた蛍が、次々と泉へと降りて消えていく。

 

「お願い、待って。文葉! 逝かないで!」

 絶望を感じ始めた私の視界の中、細く鋭い緑の葉の裏で、隠れるように蛍が留まっていた。私の中で、何かが閃いた。


「文葉?」

 問い掛けると弱々しく蛍が光る。近づくと、恥ずかしいというように、葉で自分を隠そうとしていた。これは文葉、間違いない。


「私、文葉を見つけるまで結構頑張ったんだから。今度、得意って言ってた茶わん蒸し食べたいな。……だから……私、また友達を見送るなんて嫌なの。……わがまま言ってごめんね」

 そっと差し伸べた手に、蛍が留まった。


「走るよ!」

 両手で包み込んで、鳥居のトンネルに向かって走り出す。夜明けまでは、もう時間はない。ただひたすらに前を向いて鳥居の中を駆け抜ける。走って走って、走り続けても、朱色の鳥居は途切れない。


 視線の先、鳥居の間から人影が現れた。緩やかに巻かれた茶髪にグレーのピンストライプのパンツスーツ、真っ白なシャツに黒のハイヒール。明るい笑顔で敬礼するように挨拶する美女は、美織だった。


『ひっさしぶりっ』

「み、美織?」

 ダメだと思っても、足が止まった。


『あー、ごめんねー。最期に蓮乃の顔見たかったから、戻ってきちゃった』

 ちらりと舌を出してから子供みたいに笑うのは、私と文葉だけに見せる美織の癖。久しぶりに見る笑顔がせつなくて苦しい。


『また三人で飲めるかなって思ってたんだけど、文葉も帰っちゃうんだよね?』

「……」

 ごめんと謝ることもできず、私はただ美織を見つめることしかできない。


『いいの、いいの。私のことは気にしないで。じゃ、まったねー』

 明るく笑った美織は、私の横を通り過ぎて泉へと向かって歩いていく。


「美織! 待って!」

 後ろを振り返ってはいけないとわかっていた。それでも私はどうしても美織も助けたいと思った。何が出来るのか考えつかないままに、振り返る。


 二十メートル程離れた所で、美織が足を止めた。

『嬉しいな。一緒に来てくれるんだ』

 そう言ってこちらを向いた美織は、見開いた赤い瞳に血赤の唇。しまったと思ってももう遅い。周囲を穢れが取り囲み、荒波のようにうねる。


「……冬登さん、た、助けて!」

 出口までは遠すぎて、聞こえないのはわかっている。それでも私は七神に助けを求めた。


 その時、ペンダントの鎖が切れて護符が地面に落ちた。不思議な光を帯びた護符は、私そっくりの人型になって、美織に向かって走っていく。穢れは私の分身を追いかけて、道が開いた。


 護符は私の身替わりになると七神は言っていた。穢れが分身を捕まえた所で、私の体がようやく動く。とにかく出口を目指して走る。


 石畳につまずいて転びそうになりながらも、体勢を戻してまた走る。穢れに捕まりたくない。ただひたすらに鳥居のトンネルを駆け抜ける。


『騙したな!』

 背後から恐ろしい叫びが響いてきた。声は反響して、木霊のように繰り返す。穢れに飲み込まれればきっと終わり。元の世界には戻れない。


 地響きが起きて、背後に荒波のような轟音が迫る。どんなに恐ろしくても、もう振り向いて確認することはできない。走って、走って、走るだけ。


 朱色の鳥居の先、やっと出口の光が見えた。走り続けて、あと数メートルという所で、私の足は黒い泥のような穢れに追いつかれてしまった。

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