新たな力 1/2
長官になった日の夜。
占術庁の最上階の部屋で、俺は一人で本を読んでいた。
読んでいた、というのは少々正確ではない。どちらかというとページを捲って眺めていた、が正しい。
なぜなら本の中身がさっぱり理解できないからだ。
その本というのは、師匠が残した最後の研究だった。
製本されているものではなく、師匠が書き残した、いわばノートである。
ドロスに勧められて師匠の研究を受け継いだはいいが、肝心の中身が読めたものじゃない。
そこには見たこともないような記号や絵が並んでいたからだ。文字はほとんどない。
○を十二等分して、それぞれの区画に記号と絵が描かれていたりだとか、□の四隅に記号が描かれていたりとか、まるで意味不明だ。
そうしてパラパラと捲っていくと、今度は動物を足し合わせたような、怪物の絵を見つけた。神話に出てくる生物かなにかだろうか。そんな絵が十数ページも続く。
「訳分からんな」
パタン。
本を閉じ、首を横に振ってため息をつく。それから机の上にあるティーカップの中の茶を流し込んだ。
ふと、唇に手を触れる。
今日、イールと二回もキスをした。二回目のキスは深く、長かった。
あのキスの後、俺はまっすぐ占術庁に戻ってきたのだが、研究員たちがニヤニヤしながら「結婚おめでとーございます」などと言ってくるのには参った。
ドロスまで笑って「先越されたなあ」などと言ってたし。ただ、セーネだけは笑っておらず、それどころか終始睨まれていた気がする。
幼い子にはキスシーンが刺激的過ぎたのかもしれない。
それにしても最も困ったのはイールの奴だ。
「あいつ、俺のこと好きなのか?」
イールはやたらと結婚とか子作りとか言ってくるし、胸を押し付けたりキスまでしてくる。
別に嫌ではないし、むしろ嬉しいまであるが、イールのはっきりとした気持ちが分からない。
だが、似たような経験はある。
あれはもう十年も前のことだ。いや、十一年前だったか。もうはっきりとは覚えていない。
師匠がまだ長官ではなかったころ。弟子である俺やドロスたちを連れて、よく方々(ほうぼう)へ旅に連れて行ってくれた。
旅先で出会った同年代くらいの女の子を見かけては、
「占ってやるよ」
と声をかけていた。男の子は占いに興味がないし、女の子のほうが話しかけやすかったから、女の子にばかり占いをけしかけていた。占いと言っても本気の占いではなく、相手の心を読む訓練を兼ねた、簡単なものだ。
「興味ない」
釣り目でちょっと強気な感じの女の子だ。しゃがんで一人で遊んでいた。折れた枝で土に絵を描いていたのだ。
「お前のこと、言い当ててやるよ」
「うるさい。あっち行って」
めっちゃきつい眼で睨まれた。しかしその頃の俺は、自分に自信があったのか、頭がおかしかったのか、まるで気にせずに話しかけ続けた。
「ごめん。本当は可愛かったから声をかけたんだ。話さない?」
俺が言うと、女の子はもう何を言っても無駄だと思ったのか、無言でお絵描きの続きに戻った。
俺はその女の子から少し離れた場所でしゃがんだ。絵の内容を見たが、よく分からない。多分動物だ。何匹もいる。あと人間が二人。
「何それ? 動物?」
「違う」
「真ん中のやつ、おっきい羽が生えてる。飛ぶんだ?」
「……」
何も答えない女の子。俺はポケットからカードの束を取り出して、そこからテキトーに一枚引いて女の子に見せた。
一人の老婆の前に、剣とペンが置かれている絵だった。通称『選択』のカード。子供を殺された老婆が、剣を取るか、ペンを取るか考えているというストーリーが含まれている。
「なに?」
「占い。これが君の運命。このカードは『選択』って言って、どちらを取るか迷ってる絵」
「だから何」
「なにか迷ってることがあるよね」
女の子の手が止まった。反応アリ。
「しかも、誰にも話してない」
女の子は動かない。
俺はさらに続けた。
「俺は、話さなくていいと思う。でも、その迷ってることって、いつかは決めないといけないことなんじゃないかな」
女の子がこくんと頷いた。反応アリ。
「で、一番信頼できる人がそばにいるはず。その人に話すといいことがあるかもしれないよ」
言うと、女の子がこっちを向いてくれた。多分まだ半信半疑だったとは思う。
俺は『選択』のカードをポケットに戻した。
「どう? 占いって凄くない?」
「まあまあ」
「そっか。ところで誰を待ってるの? お母さん?」
俺が言うと、遠くの方で「カリナ」と呼ぶ声がした。
女の子がそっちの方を向く。
「今行く!」
どうやら女の子——カリナのお母さんのようだ。
カリナは枝を置いて立ち上がる。俺も立ち上がった。
カリナはすぐにお母さんの方へは走らずに、俺と面向かうように立った。
「ありがと。いい暇つぶしになった」
そして次の瞬間、カリナは俺のほっぺたにチューをして、お母さんの待つ方へ走って行った。
……。
とまあこんな感じのエピソードだ。初めて女の子にチューをされたのもこの時だった。ほっぺただけど。
カリナは俺が好きだったからチューしてくれたのか。それとも暇つぶしの恩返しとしてチューをしてくれたのか。どっちなんだろう。
そんなことをぼんやりと考えていたところ、突然、脳内で軽い衝撃を受けた。
「そういえば——!」
師匠のノートをもう一度開く。
ぱらぱらめくりながら、頭の中にある、カリナが描いていた絵をできるだけ鮮明に思い出す。
「やっぱり……」
カリナが描いていた動物のようななにかが、目の前にある師匠のノートに描かれている怪物とそっくりだ。
「待てよ。だとするとこれは……」
カリナと出会ったのは、たしかトーヨーという国だ。ローリアや他の国と違って独特の雰囲気があり、時間の流れがゆったりとしていた。
特に違ったのは薬だった。トーヨーでは健康な人でも薬を毎日飲むのだと師匠が言っていた。
健康なのになぜ薬を飲むのか、子供ながらに疑問に思ったのを覚えている。
トーヨーの怪物が描かれているのだとしたら、師匠のノートを解読するにはトーヨーの知識が必要となるのではないか。俺はそう判断した。
「トーヨー……。どこかに参考資料あったっけな」
俺は机の上のランプを手に取り、立ち上がった。
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