2(壁に書かれた詩)

 ――事件の概要については、大体こんな感じである。

 きっかり、一昨日のこと。野球部の練習中の出来事だった。

 フリーバッティングを行っていると、一人の新人選手が特大のホームランを放った。外野スタンドから花火が打ちあがらないのが惜しいくらいの当たりだったけど、そもそも高校の運動場に外野スタンドなんて存在しない。

 将来有望な強打者の誕生は、野球部としては慶賀すべきだったかもしれないけれど、球拾いにまわされていた一年生にとっては不幸だった。ボールは運動場の圏内を越えて、学校敷地のはしっこのほうまで転がってしまっている。

 こういう時、いいように顎で使われるのが一兵卒の悲しさだった。新入生のうち一人が、ボールを捜してくるよう仰せつかった。ユニフォームを着て、バッターボックスで快音を響かせている同級生とは雲泥の差である。

 犬なら大喜びするところだろうけど、その一年生はぶつくさ文句を言いつつボールの行方を追った。とかくに人の世は住みにくい、知に働けば角が立つ、情に棹させば流される――と言ったかどうかは知らない。

 ともかくもその一年生は、運動場を離れ、少し離れた弓道場のあたりまでやって来た。校内のその辺には、木立が植えられ、ちょっと森閑としている。昼間から出る物好きな幽霊がいるかどうかはわからないけど、一人でいてあまり気分のいい場所じゃないのは確かだった。

 念入りに探してみたけれど、ボールはなかなか見つからない。もしかしたら、どこかの迂闊なと同じで、変な池にでも落っこちたのかもしれなかった。

 根がまじめな(あるいは小心者だった)彼は、もう少し探してみることにした。大切な思い出の写真でも、その辺でもらったボールペンでも、なくしたものはいつも不思議な場所でひょっこり見つかるのが常というものだ。

 弓道場の横を通って、安土の裏までやって来た。壁の向こうからは時折、弓を射る弦の音や、鋭めの鹿おどしみたいな音が聞こえてきたりしている。

 その一年生が明るい灰色になった地面を探していると、ようやくのことでボールは見つかった。ボールは人騒がせな迷子みたいに、何食わぬ顔で転がっている。

 やれやれと一安心してボールを拾ったところで、一年生は運動場に戻ることにした。球拾いもたいして魅力的な役目とはいえないにしろ、こんな世界の果てっぽいところに一人でいるよりはましに違いない。

 それで顔を上げたとき、ふと弓道場の壁のところが何だかおかしなことに気づいた。

 ぱっと見ではわからなかったので、ゆっくり近づいてみる。そうすると、視力検査で使うCの切れめがわかるみたいに、それが何なのかわかった。

 ――壁には、文字が書かれているのだった。

 それも、けっこう量があって、文章になっているらしい。日本語だから、ちゃんと読むことだってできる。その一年生に文学的素養があったかどうかは知らないけど、とにかく次のことだけはわかったようだった。

「これ、〝詩〟か――?」


 というわけで、文芸部が疑われているのだった。

 その一年生からはじまって、噂はすぐ学校中に広まった。またたく間に、というほどじゃないにしろ、ちょっと遅めの蒸気機関車くらいの速さで。

 暇人から噂好きも含めた何人かは、実際にその場まで足を運んで事実を確認したりもしている。かく言うあたしも、その何人かに話を聞かされた一人というわけだった。

 今のところ、誰が何のためにそんなものを書いたのかはわかっていない。一休さんみたいに知恵を働かせて、この詩はすばらしい、ぜひとも表彰したいのだが――とでも言えば誰かが名のり出るかもしれなかったけど、今のところ誰もそんなことはしていない。

 かくのごとくして、文芸部への濡れ衣が晴れることはなく、全校生徒から犯人の第一有力候補として――たぶん――目されているのだった。

「これは、由々しき事態ですよ」

 あたしはでこすったくらいに、怒髪天を衝きながら言った。

「どうかしら?」

 でも先輩は、あくまで重要文化財級の工芸品みたいに落ち着いている。

「特に実害があるとは思えないし、そう目くじらを立てる必要はないんじゃないかしら」

「あたしたちが卑劣な落書き犯といっしょに見られてるんですよ。これは名誉に関わる問題です――!」

「卑劣、ね」

 先輩は、卑劣という言葉は好きじゃないみたいだった。

 それはともかくとして、先輩とあたしは壁に落書きのある現場へと向かっていた。麗らかな春の陽気の中でいささか緊張感には欠けていたけど、これが一つの事件であるのは確かである。

 玄関で靴を履きかえて(うちの高校は内履きなのだ)、運動場のほうに向かう。ぐるっと校舎を迂回し、駐輪場の横を抜けると、青空に押しつぶされるみたいにしてグラウンドが広がっていた。

 土っぽいグラウンドでは、サッカー部と野球部と陸上部が活動中だった。なかなかの賑やかさで、その様子はアフリカのサバンナにいる、野生動物たちに似ていなくもない――気がする。

 青春の汗を流す同級生たちを尻目にして、先輩とあたしは運動場の脇を通りぬけていった。途中、水飲み場があって地面が派手に濡れている。やっぱり、サバンナっぽいのかもしれない。

 濡れた地面を歩くと、先輩の足跡が残った。ローファーを履いた先輩の足跡は、何かの見本に使えそうなくらいくっきりした形をしていた。それに、本人ほどは気難しくなさそうでもある。

 運動場の縁にそって移動し、テニスコートの横を抜けると、そこが弓道場だった。今日は練習がないのか、物音は一つもなく、静かなものである。

「確か、安土の裏側だったわね」

 と、先輩は弓道場の向こうを見ながら言った。壁に書かれた詩があるのは、そっちのはずだった。

 歩いていくと、湿った土と木立のあいだに入る。何もいないはずなのに、何かいるみたいで、わりと不気味だった。落書き犯は何だってこんな場所を選んだんだろう、とあたしはふと思ったりしている。

 安土の裏側まで来ると、現場には誰もいなくて、調査には好都合だった。先輩とあたしはさっそく、件の壁について調べてみる。

 漆喰らしい素材で出来たその壁は、いかにも弓道場っぽく和風だった。何メートルおきかに細い木の仕切りがあって、全体としては十メートルくらいの長さがあるだろうか。

 連なった白い壁のうち、左端だけが黄色っぽく汚れていて、よく見るとそこに白く文字が浮かびあがっていた。

 ちょっと小さめの、カフェのメニューボードなんかに使われそうなくらいの文字サイズである。線そのものは、わりと細めだった。選挙の宣伝みたいな大声じゃないし、テレビのCMみたいな広告感もない。どちらかというとそれは、墓石に記された碑文みたいな感じだった。

 ――書かれていたのは、こんな詩だった。


〝粗末な卓子の上を、まるで太陽の燠き火のような、

 蝋燭の穂明かりが照らしている。

 私の前にあるのは、

 何も書かれていない白い紙と

 頑ななまでに大人しく指示を待つ、一本の筆。


 風さえ囁かず、暗闇も騒がず、

 月明かりさえ眠っているようなこんな夜には、

 私は思い出すのだ――


 かつて世界は清く豊かで、

 穢れや苦悩というものを知らなかった、

 祝福された嬰児がそうであるように。

 だが黄金が腐り、白銀は錆び、青銅が灼かれ、

 血と野蛮と奸智が支配する

 鉄の時代が到来した。

 人々は互いに諍い、傷つけあい、だまし、奪い、

 もう何も赦そうとはしない。

 我々はその末裔であって、

 それは十分に得心できることだ。


 我々は手ずから美しいものを毀(こぼ)ち、

 清いものを穢し、尊いものを辱めている、

 それを悦びとさえしながら。

 世界はもう幼児(おさなご)の夢の中でしか、

 生命を保つことができずにいる

 その真の姿を、光と闇の純粋を。


 しかし時代は

 葡萄酒の澱のように積み重なり、

 それらはもう夢に見られることさえやめてしまって、

 水底に沈んだ財宝のように、

 静かに眠りに就いている。〟


「……格調高いというか、古風というか、ずいぶん古い感じのする詩ですね」

 と、あたしは言った。詩の大家でも評論家でもない身としては、とりあえずの感想はそんなものだった。

 それから、あたしは先輩に水を向けてみる。

「先輩は、どう思います?」

「…………」

 でも先輩は、黙ったままだった。どちらかというと、真剣に。何となくそれは、工場で機械が細かな作業を繰り返しているみたいでもある。

「先輩?」

 念のために、あたしはもう一度声をかけてみた。

「これは、ドイツのある詩人が書いた作品よ」

 瓶の蓋が急に開くみたいにして、先輩は言った。

「二十世紀中ごろまで生きた、叙情詩人ね。小説もたくさん書いてるわ」

「有名な人なんですか?」

 少なくとも、あたしは知らなかったわけだけど。

「そうね、まあ大抵の人は名前くらいは知ってるでしょうね。教科書に小説作品が載ったりもしてるから。けど――」

「けど?」

「詩を知ってる人は、あまりいないんじゃないかしら。わたしも、この詩を読んだのはたまたまだし、それを思い出すまでにはけっこう時間が必要だったわね」

「ということは、犯人は相当な文学レベルの人間、てことですか?」

 それがどういう「レベル」なのかはよくわからないけど、あたしは言ってみた。

「どうかしら――」

 先輩はちょっと難しい顔をしている。水面に、小さな波紋が広がるくらいの。

「何にしろ、酔狂な人物には違いないでしょうね。学校の壁にこんな詩を書くくらいだから。あるいは、もっと切実な理由があったのかもしれないけれど」

「切実な理由、ですか?」

 壁に詩を書きつけるような、どんな理由があるだろう。

「古代から人は壁に何かを書いてきたのよ。でなきゃ、アルタミラ洞窟なんて存在しなかったでしょうね」

「ふうむ」

 あたしはあらためて、詩の書かれた壁を観察してみた。さっきも言ったように、壁の一部が黄色っぽく汚れて、そこに文字が書かれている。

「これ、砂ですかね?」

 すぐそばまで近よって、あたしはためつすがめつ眺めてみた。とりあえずの見ためとしては、そう思うしかない。サンプルを採って、然るべき研究機関にでも送れば分析してもらえるのかもしれないけど、そんなコネもお金もない。

「おそらく、そうでしょうね」

 幸いなことに、先輩は同意してくれた。

「ここ数日、黄砂がひどかったし。風の強い日もあったから、それで壁に吹きつけられたんでしょうね。この辺は木がまばらに生えてるから、壁の一部だけが汚れることになった……」

「犯人は、そうやって砂で汚れた壁の上をなぞって、詩を書いたってことですよね」

 あたしは顎を指で挟みながら言った。冬の日なんかに、曇った窓ガラスに絵や文字を書くのといっしょだった。最低でも引き分けにしかならないのに、友達とよく三目並べをやったものである。

「――どうかしらね」

「?」

 けど先輩は、どうやらあたしとは違う意見を持っているみたいだった。

「……先輩、何かわかったんですか?」

「まだ何とも言えないけど、一つ確かめたいことがあるわ」

 先輩はそう言うと、さっさとその場から去っていこうとしてしまう。あたしは置いてけぼりにされないように、慌ててあとを追った。

「どこに行くんですか、先輩?」

 新米のカウボーイがひょろひょろの縄を投げるくらいの勢いで、あたしは言った。

「知りあいのところよ」

 先輩はそんな投げ縄はあっさり無視して、あとは何も言わずに歩いていってしまう。

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