1(文芸部的な春の屋上)
「――春もたけなわですね」
と、あたしは地面に横たわったまま、かたつむりが這うくらいの、のんびりした気分で言った。
放課後の屋上に人の気配はなくて、からっぽの空だけがどこまでも続いている。青空は元気のいいつくしみたいに上のほうまでのびていた。手に触れるとまだ冷たい四月の風が、自由気ままな感じに通りすぎていく。
あたしは空の底みたいなその場所で、ぼんやり右手をのばしていた。燃料補給中の太陽の力を感じるには、なかなか都合のよい格好である。とはいえ、白い雲はずいぶん遠くにあって、あたしの短い手が触れることはできそうになかった。
「……何してるの、そんなところで?」
頭の上のほうから、そんな声が聞こえてくる。どちらかというと、気のすすまない料理でも前にしたときみたいに。
「いやだな、先輩」
と、あたしはひっくり返った亀みたいに首だけ向けて、抗議した。
「大地と交流して、自然のエネルギーを受けとってるところですよ。そうやって、心を正しい場所に戻してるんです」
「……学校の屋上に、そんなご利益があるとは思えないけど」
「鰯の頭にだって、五分の魂がありますから」
それに対しては、先輩は何も言わなかった。たぶん暖簾を腕押ししたり、糠に釘を打ったりする趣味がないからだろう。先輩はあくまで、リアリストなのだ。
代わりに言うことには、
「そんなところに寝転がってると、地面の砂で服が汚れるわよ」
とのことだった。あたしは使い捨てカイロのごとく温かな先輩の気づかいに感謝しつつも、こううそぶいてみせる。
「それが人生ってものですよ、先輩」
「――屋上の地面に寝ころがって、服を汚すことが?」
まともに指摘されると、それは百理くらいありそうだった。
あたしは汚れた大地から身を離して、起きあがることにする。服をぱたぱた払うと、意外なほど砂埃が落ちてきた。数日前に降ってきた黄砂の影響だろう。どうやら、あたしは人生設計を間違えたらしい。
地球の重力に抵抗してそうやって立ちあがると、空の広さはあっというまに半分以下になってしまった。その代わりに殺風景な屋上の床や、飾りけも愛想もない鉄の柵なんかが目に入ってくる。
現実というのはあくまで現実で、そこに詩的なところなんてない。七色の虹はただの分解した光で、大地の下に大きな象や亀なんかがいたりもしない。
あたしは春の空気に簡単に溶けてしまいそうなくらいの、小さなため息をついた。
そんなあたしとは関係もなく、先輩はいつもと同じように真剣な、まじめな顔つきでどこか遠くを見つめている。その様子はどことなく、衛星軌道上で星の光を見つめる、宇宙望遠鏡みたいでもあった。
――肩にかかるくらいの、短い髪。髪質は固めで、自然な強さと柔らかさを持っていた。何だかそれは、きれいな音楽を響かせるヴァイオリンの弦みたいでもある。体つきも含めて基本的にシャープなラインをしていて、その瞳は硬度の高い鉱石によく似たところがあった。
先輩には全体的な雰囲気としては、近よりがたい、どちらかといえば冷たいところがあった。それは純度の高いガラスみたいな感じで、頑丈そうで壊れやすそうな、ちょっと不思議な雰囲気でもある。
「…………」
ちなみにあたしはといえば、先輩とは対照的な自他ともに認めるお気楽タイプだった。融通無碍、といえば聞こえはいいけど、実体はただ脳天気なだけでしかない。
容姿や格好だってそれに準じたもので、花も恥らうなんて薬にしたくもない。おしゃれというよりは、実用性を重視しただけのポニーテール。紐の長さを測り間違えたみたいな、締まりのない口元。百合や薔薇なんてお呼びじゃなくて、せいぜい愛嬌のある野の花といったところだ。
制服が多少汚れたくらいで動じないのも、当然というものである。
そんな庶民派であるあたしは、庶民的な気安さでもって先輩に話しかけてみた。
「何かいい詩が出来そうですか、先輩?」
あたしと先輩がここに来たのは、何もレクリエーションや暇つぶしのためというわけじゃない。いわんや、猫みたいに砂場で転げまわるためでも。これは歴とした、文芸部の活動なのだ。
文芸部の活動は、週二回火・木に行われる。課題や議題が決まっていることもあるけど、内容はその都度変わるのが普通だった。ただ本を読んだり、簡単な勉強会みたいなのをすることもあるし、自作の小説や詩を読んでもらうこともある。
今回もその一環で、ちょっとした野外活動というところだった。辛気くさい部屋の中じゃなくて、燦々とした太陽の下で詩想を練ってみよう、というわけだ。つまりは、書を捨てて町に出たわけである――実際には、学校の屋上ではあったけど。
ちなみに、この場所にあたしと先輩しかいないのは、文芸部員があたしと先輩の二人しかいないからだった。去年の段階で二年生が一人もいなかったせいで、三年生が卒業すると先輩一人しか残らなかったのだ。何だか、椅子取りゲームに一人だけ残されたみたいではあったけど、先輩はいたって平気そうだった。
――というより、そのほうが好都合だと思っていた節もある。
文芸部そのものは意外なほど伝統があるらしく、人数が少し減ったくらいで廃部になる怖れはない、ということだった。貴重な絶滅危惧種は、自然界じゃなくても保護される傾向にあるらしい。
ともかくそんな訳で、先輩とあたし二人だけの文芸部は存続し、こうして日々の創作活動に勤しんでいる、というわけだった。
「――あなたのほうは、どうなの?」
さっきのあたしの質問に対して、先輩はそう訊き返してきた。もしかしたら、自分よりあたしのほうが心配なのかもしれない。失敬な、とは言えないところではあったけど。
ところで、余談ではあるけど先輩は大抵の人のことを、「あなた」という呼びかたをする。あたしとしては、そのことはわりと気に入っていた。先輩に「あなた」と呼ばれると、何だか上流階級の社交界にでもいるみたいだからだ。
まあ、それはどうでもよいことではある。
「あたしは、ばっちりですよ」
と、自信満々、勇気凛々であたしは答えた。
「……本当かしら」
先輩はけれど、どこか胡乱気だった。亀と競争する前の兎でも見るみたいに。
「ちゃんと考えてますって」
あたしは失地回復を期すべく、胸を叩いてみせた。
「出来上がったら、あとで先輩が読んでくださいね」
「まあ、だったらいいのだけど」
一抹か二抹くらいの不安をのぞかせつつ、とりあえず先輩は納得したみたいだった。
不意に強い風が吹いてきて、あたしたちの髪やスカートを揺らした。数日前に吹き荒れた、いわゆる春の嵐の名残かもしれない。風や雨にしても、うっかり落し物をしていくみたいだった。
「――ところで、先輩は聞きましたか?」
それに触発されてというわけでもないにしろ、あたしは先輩に向かって訊いてみた。
でも、その反応は、
「何を?」
という、ごく短いものだった。モールス信号でも、もうちょっと愛想のありそうなものである。
「例の事件のことです――壁に書かれた、〝詩〟のことですよ」
あたしは不屈不撓(不撓不屈?)の心でもって、めげずに訊いてみた。でもやっぱり、苔むしたさざれ石のごとく、先輩は動じなかった。
「特に興味はないわね」
「気にならないんですか?」
「わたしの心は、一般的な意味あいではまあまあ死んでいるのよ」
聞いて、あたしは首を傾げた。
「……それってつまり、ゾンビってことですか?」
その発言に対しては、先輩は軽く肩をすくめただけで特に答えようとはしない。
まあ、先輩がゾンビでないことは確かそうだったので、あたしも問題にはしなかった。顔色がおかしいわけでも、口から涎をたらしているわけでも、変に足をひきずっているわけでもない。
けど、壁のことは別である。
「――だって、文芸部が疑われてるんですよ」
あたしもまだ詳しいことは知らないのだけど、聞いた話ではそういうことだった。何しろ壁に詩を書くなんてパフォーマンスは、ほかの部活ではやりそうもないことではある。
もちろんそれは言いがかりで、先輩もあたしもそんなことに身の覚えはないのだった。でもこんな誤解でも放っておけば、いつかは桶屋が儲かるかもしれない。
あたしが憤懣やるかたなくそう言っても、先輩はまだ無反応だった。ネジの切れた時計をいくらいじくっても、うんともすんとも言わないみたいに。
「…………」
とはいえあたしとしても、このことを一人で勝手に調べようという気にはなれなかった。それに先輩のほうが、一般的な意味あいでは正しいのかもしれない。
仕方ないかと諦めようとしたとき、先輩は古時計のネジを巻くみたいにして言った。
「……そうね、ちょっとくらいは確認しておいたほうがいいかもしれないわね」
あたしは、豆鉄砲をくらった鳩みたいな顔をする。
「じゃあ?」
「どんな詩が書かれてるか、とりあえず見ておこうかしら」
「――ですね」
あたしはそつなく、従順な一文芸部員としての顔を保っていた。これは謎の迷惑行為に対する致しかたない調査であって、ちょっと面白そうな探偵ごっこだとかいうわけじゃない。あまり調子にのっていると、木から落ちかねないのだ。
いそいそと移動の準備をしながら、あたしはふと訊いてみた。
「ところで、〝たけなわ〟って何ですか?」
「辞書でも引きなさい」
と、先輩はもっともなアドバイスをした。
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