3(化学実験室)
化学実験室があるのは、校舎北棟の三階東側だった。北棟には基本的に、特別教室が配置されている。普通の生徒は授業以外ではあまり来ることのない、ひっそりとした一画だった。
ちなみに位置的なことをいうと、化学実験室は文芸部の真下にあたっている。つまり、もし仮に実験室で大爆発なんかが起きたとしたら、部室にいる先輩とあたしは無事死亡できる、というわけだった。
そんなわけで先輩とあたしは我が身の安全を図るためにも、実験室の視察にやって来たのだった――なんてわけじゃない。考えてみると、その危険はありえないでもなかったけど。
校舎に戻ってきた先輩は、何も言わずにその化学実験室までやって来ていた。あたしは師の影を踏まない弟子のごとく、そのあとについて来ている。何も説明されてないのは、あたしが先輩に信頼されているからだ、ろう。
軽くノックしてから、先輩は実験室のドアを開けた。特に緊張もしていないし、遠慮もしていない、という感じである。自分の部屋ほどじゃないにしろ、何度も来たことがあるみたいだった。
部屋の中をのぞくと、そこには七、八人くらいの人数がいた。みんな白衣を着て、机のそばで立ったり座ったりしている。何人かがこっちを見たけど、特に警戒もしていないし、関心もない、という感じだった。
うちの高校には化学部があって、当然だけど化学実験室を主な活動場所にしている。つまりこの人たちはみんな、化学部の部員というわけだ――たぶん。あたしがここに来るのは初めてなので、確言はできなかったけど。
とりあえず、フラスコから怪しい色の煙がたちのぼったり、死体をつなぎあわせて電気を流したり、水素爆弾について熱く語ったりする人はいないみたいなので、あたしはひとまず安心する。
先輩が部屋に入るのとほとんど同時くらいに、中の一人がこっちに向かってやって来ていた。
その人は白衣のポケットに手をつっ込んだままで言った。
「何だ、リッコ。化学部に何か用なのか?」
まるで男の子みたいなしゃべりかただったけど、実際には女の子だ。
長い髪を額の真ん中できれいに分けていて、なかなかかわいらしいおでこをしていた。身長はかなり低くて、あたしより文庫本の横幅一冊ぶんくらいは小さい。動物で例えると、ぱっと見ではペンギンチックなキュートさがある。
でもよくよく見てみると、その眼光は動物園の人気者というには、いささか鋭かった。鋏なんてなくても、ちょっとした紙くらいは切れそうである。それに、何かの計測に使えそうなくらいの、正確で頑固そうな口元をしていた。
「モモカ――」
と、先輩は言った。あとで聞いたところによると、
「実は、ちょっと貸して欲しいものがあるのだけど」
「貸して欲しいもの?」
百奈先輩はどちらかというと、科学的な感じのする問いかたをした。
「たぶん、ここにあると思って」
「化学部にそんなサービスは標準装備されていないぞ」
「だったら、オプションてことでいいわ」
二人のやりとりを聞くかぎり、その人は先輩と同級生みたいだった。小柄なせいで一年生かと思ったけど(中学生といってもいいくらいだ)、そういうわけじゃないらしい。
二人が話しているあいだ、あたしは近くの机で行われていることに気をとられていた。そこでは三人の生徒が集まって、何やら実験中らしいのだ。
机の上にはまず、ペットボトルが置かれていた。それから線香とマッチに、何かの液体の入ったスプレーが用意されている。あと、何かよくわからないキャップみたいなものも。
「何ですか、それ?」
あたしはきれいな花に近づく迂闊なミツバチよろしく、そばによって訊いてみた。
すると、中の一人が親切に答えてくれる。
「これから、雲を作るんだよ」
眼鏡をかけていて、南米までは行かないくらいに陽気そうな人だった。人の好さそうな笑顔を浮かべているけど、底抜けというほどじゃない。襟の学年章を見るかぎりでは、三年生みたいだった。注意深く観察すれば、それくらいのことはわかるのだ。先輩のようにはいかないとはいえ、あたしにだって学習能力というものはあるのだった。
ちなみに、百奈先輩のそれは白衣に隠れて見えなかっただけである。別に、見るのを忘れていたとか、そんなことはない。
「雲を作るって、どういうことですか?」
あたしはいかにも素人っぽく訊いてみた。こんなところで見栄をはったって仕方がない。
「君は、雲が何で出来ているか知っているかい?」
と眼鏡先輩は教育番組の司会者っぽく訊いてきた。
「……水蒸気、ですよね?」
あたしはまあまあ、常識的に答える。「あれは、みんなの夢が空に集まったものです」なんて詩的に表現したって仕方がない。
「そう、あれは要するに、小さな水の粒が集まったものなんだ」
眼鏡先輩は嬉しそうに説明する。
「空気中に漂う小さな塵を核にして、水蒸気が凝結すると、水滴や氷の粒になる。それが大量に集まったのが、つまりは雲なわけだ」
そのあいだに、あたしたちの前で実験の手順は進められている。男子生徒が線香を一本持って、女子生徒がマッチでそれに火をつけた。
「通常のプロセスでは、低気圧などによる上昇気流の発生によって、水蒸気が高々度に移動させられ、気圧が下がり、空気が膨張する。すると断熱冷却によって、水蒸気の温度が下がるわけだ。温度が下がると、飽和度を越えた水は液体化する――ここではまず、線香の煙を雲粒の核として利用するために、ペットボトルの中に入れる」
言葉通り、男子生徒がペットボトルを逆さに持って、その中に線香を入れた。大人しいミミズみたいなゆらゆらした煙が、ペットボトルの中に消えていく。
「次に、水蒸気を充填してやる――と言っても、ここではエタノールを使うんだけどね。実際の雲とは異なるけど、このほうが見ためがよくなる」
男子生徒の持ったペットボトルの口から、女子生徒がスプレーを吹きかけた。三回くらいやったところで、何だかよくわからなかったキャップみたいなものをはめる。普通のボトルキャップとは違って、ちょっとごつめで、頭のところに何かのふくらみがくっついていた。
「あれは、炭酸キーパーだ」
と、あたしの戸惑いを見透かしたみたいに眼鏡先輩が説明してくれる。
「サイダーやコーラなんかを加圧して、炭酸を抜けにくくするものだよ。ここではあれを使ってペットボトル内の気圧を上げて、それを一気に抜くことで減圧させてやるのが目的なんだ。四百円くらいで売ってる、まあまあ便利な一品だね」
お手頃価格のその炭酸キーパーを使って、男子生徒がペットボトルの加圧をはじめた。キャップについたポンプを何度も押して、どんどん空気を送り込んでいく。
しばらくして、男子生徒の手がとまった。もう十分、ということなのだろう。眼鏡先輩とアイコンタクトをとって、女子生徒にも確認して、キャップの留め口のところに手をやる。
――ポン!
というわりと威勢のいい音が響いて、中の空気が抜ける。すると同時に、ペットボトルの中にはけっこう濃いめの白い煙が発生した。
「これが、雲だよ」
眼鏡先輩が、スイッチをつけたら電気がつくくらいの、そんな当然のことみたいに言った。
「へぇー」
あたしはやっぱり、いかにも素人っぽく感心してしまう。出来あがった雲は意外と頑丈で、ペットボトルの口からゆっくり流れていった。
せっかくだからと勧められて、あたしはその雲を手のひらに受けさせてもらう。手品の演出なんかに使えそうなその白い雲は、少しひんやりして、すぐに消えていった――それこそ、夢か何かだったみたいに。
「上空で雲が出来るプロセスは、今みたいな減圧による断熱膨張だけど、例えば地上で発生する霧なんかは――これは雲と同じものなんだけど――生成過程が少し違う。霧の場合は、湖面の暖かい空気が夜の冷気で直接冷やされたり、といったことで形成される。お風呂なんかで湯気が立つのと同じ現象だね」
眼鏡先輩が解説してくれるあいだにも、ペットボトルの雲は段々と薄くなっていった。雲たちにとって、ここは安住の地とはいえないらしい。
やがてペットボトルが完全に元の無色透明に戻ってしまうと、実験の締めくくりみたいにして眼鏡先輩は言った。
「注意としては、実験に使うペットボトルはお茶とかじゃなくて、炭酸用の底がいくつも出っぱってるやつを使うことだね。耐圧性能に五倍くらい差があるから。けっこう圧力をかけるから、安全にも十分気をつける必要がある」
「なるほど」
と、あたしは感心した。何がなるほどなのかはよくわからなかったけど、また一つ賢くなったわけである。人類はかくのごとくして進歩していくのである。
あたしが知識の研鑽を積んでいると、先輩がどこからかやって来た。どうやら、準備室のほうに行っていたらしい。
「用は済んだから、もう行くわよ」
と、先輩は声をかけてくる。
「――実験と解説、ありがとうございます。興味深かったです」
あたしは一言お礼を言ってから、先輩のあとについてその場を離れた。眼鏡先輩は最後まで愛想よく、手を振ってくれる。あの人がいるかぎり、人類は正しい方向へと進歩していくことだろう。
教室の外に出たところで、あたしは訊いてみた。
「先輩の持ってるそれ、何ですか?」
何だか懐中電灯によく似たものを、先輩は手に持っていた。百奈先輩に借りにきたのは、どうやらそれだったらしい。
それはどう見てもただの懐中電灯なのだけど、にしてはライトの部分が特殊な感じだし、第一そんなものを使う必要があるとも思えない。先輩は昼に行灯をつけるようなタイプでもない。
廊下を歩きながら、先輩はあたしに向かって短く返事をした。
「これは、ブラックライトよ」
――ブラックライト?
「何ですか、それ?」
確か、紫外線を発生させる装置だったはずだけど、くらいはわかるにしても、うろ覚えでしかない。それに、そんなものを何に使うのかが不明だった。
でも先輩は、それ以上の説明はしてくれない。どうやら先輩は、人類の進歩には特に興味がないみたいだった。
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