第45話 悪党達の明暗・2
ヴァルヌスは脇目もふらずに全力で走りながら、どうすれば逃げ切れるかを考えた。
自分一人ではユーグランス家の馬車を動かす事も出来なければ、他の馬車を奪うのも厳しい。
仮に奪えたとして、それで正門を通り過ぎる事が出来るかと言われれば答えは否だ。
ホールで騒ぎが起きた事も、そこから逃げた者がいる事も分かっている以上、門を抜けようとする馬車は1台1台確認しているだろう。
変化の術では髪色は隠せても、目の色は変えられない――見抜かれて終わる。
(落ち着け……落ち着け……!!)
人を上手に使う頭脳はあっても自分一人で物事を成し遂げる力も精神力もヴァルヌスにはなかった。
誰も頼れず追われる状況におかれた彼は今、絶体絶命の危機に瀕している。
ユーグランス家に来てから休む間もないほど仕事をあてがわれ、ようやくゆっくり寝れるかと思ったらカリディアがせっついてきたヴァルヌスは魔導書など読む時間もなく、浮力魔法も跳躍魔法も使えない。
(くそっ、セレジェイラがスリジエを説得しなければ……これだから恋愛脳は……!!)
内心そう吐き捨てた所で体の疲労を感じたヴァルヌスは駐車場に辿り着いた事を確認して、足を止める。
普段は騎士や兵士達が使う広大な訓練場には今、高級宿の駐車場に収まりきらない馬車も含めた多くの馬車がズラりと並んでいる。
馬車を使って脱出する事はできなくても、一時的に身を隠してここからどう逃げるのかを考えるには馬車の影に身を隠せるここは最善の場所だ。
館の方から響く騒がしさや兵士達の慌ただしい足音がヴァルヌスの不安を煽る。
しかし、大分暗みを帯びた空のお陰で彼の顔色が真っ青な事も今彼の足が酷く震えている事も周囲の御者達には悟られていない。
(まだ……まだ、逃げる手段はあるはずだ)
壁と馬車の車体の間の、人が2人並べそうな位の隙間を歩きながら何度か深呼吸をして、息を整える。
(あいつらみたいに浮力魔法は使えないが、一時的に身体能力を向上させる魔法なら俺でも使える。それで壁際の馬車の上に飛び乗って、そこから外壁を超えれば……)
車体の高さと外壁の高さを見比べ、これなら――とヴァルヌスが決意した時。
「外壁を飛び越えた所で無駄だぞ」
「うわあああっ!?」
突然の声にヴァルヌスは思わず驚愕の声が上げて後ずさる。
幸い尻もちを付く前に体制を立て直す事が出来たが、彼の視界には絶望が立っていた。
「なっ、ソール……!? 何でっ、ここが」
「言っただろう? サリーチェを廃人にした毒をここに持ち込んでいる奴が2人いると。ズボンのポケットを見てみろ」
ソールはそう言いながら手に持っている黒い板を指先で軽く叩く。すると、ヴァルヌスのズボンのポケットがポウッと黄緑色の光を放った。
「なっ……何で」
「……お前は頭が良いが、それを驕り高ぶる所と取り乱しやすい所が難点だな。それらがなければ、媚薬を持ち続ける事の危険性に気づけていただろうに」
ソールは呆れたようなため息をつきながら傍に控えるビルケに黒い板――
そして改めてヴァルヌスを見据えたソールの表情――全てを自分の手のひらで転がしているような、何が起きても何でもないと言わんばかりのすまし顔にヴァルヌスの中の怒りが掻き立てられる。
(……俺の計画は完璧だったんだ……スリジエが、あの女を、ペリドット家の馬車に殺させようだなんて言い出さなければ……!!)
ソールにいつも負かされて悔しい思いをしているパクレットが同意しなければ。
自分もソールの悔しがる顔がみたいだなどと思わず、もっと冷静に状況を見極めていれば――完全犯罪は成立していたのだ。
ヴァルヌスの中で怒りの感情がグラグラと煮え滾る。
一番悪いのは女に流されて梯子を外したスリジエだ。次に悪いのは剣を抜いたパクレット――いや、眼の前で自分を睨みつけているソールだ。
地位にも容姿にも頭にも力にも恵まれて、いつもすまし顔のいけ好かない若侯爵は結局一度も自分に悔しそうな顔を見せてこなかった。
(スリジエと、こいつのせいで……!!)
ソールとヴァルヌスの間には馬車が2台並んでいる。これ以上ソールを直視するのも嫌で視線をズラすと、また、この場にいてはいけない存在が見えた。
ヴァルヌスの丁度横の馬車の影に何故か、ソロソロとこの場から逃げようとするサリーチェがいる。
視線をずらしただけ、という事もあってサリーチェはヴァルヌスが気づいたことに気づいていないようだ。
何故いるのか――はヴァルヌスの思考には過ぎらなかった。過ぎらなかったのは唯一つ。
(そうだ……そもそも、お前がいなければ……!!)
(俺の人生は、こんな終わり方をするはずじゃなかった……!!)
サリーチェさえいなければ、こんな事にはならなかったのだ。
面白い玩具が無くてつまらない学生時代を過ごしたかも知れないし、カリディアとも結ばれず、つまらない人生を送ったかも知れない。
それでも、この人生よりは長く、良い人生を送れたのだろう。
サリーチェに激しい怒りを抱くと同時に、一つ、淀んだ可能性を見出す。
それは人質にして助かろうとする魂胆ではない。サリーチェを人質にした所で
もう、自分が何と言ってもスリジエかパクレットのどちらかが自白する――自首した所で死刑も免れない。ヴァルヌスの未来は完全に閉ざされている。
そんな絶体絶命の状況において、もはやヴァルヌスが最後に求めるのは一つだけ。
(お前らも絶望しろよ……!!)
事の発端のサリーチェを殺し、憎たらしいソールの絶望した顔を見れれば――自分を追い詰めた事を後悔すれば、それだけで心の中に溜まりに溜まっているものが昇華される。
ヴァルヌスの思考が冴え渡る。今、自分が不審な動きをすればソールは確実に
「……
詠唱で自身の周囲に防御魔法を発動させたヴァルヌスはもう一つ、魔法陣でも同じ魔法を発動させる。
脳内で描いたイメージを魔力を込めて言語化して発動する唱術と、魔力で構成した魔法陣に魔法言語を刻んで発動する陣術――両方をほぼ同時に発動させる事が出来る人間は数少ない。
ヴァルヌスが詠唱した瞬間にソールが発動させた
(ああ、神は最後の最後に俺の願いを叶えてくれるみたいだ)
二重の防御壁に守られたヴァルヌスは護身用の短剣を抜いてこの場を離れようとしているサリーチェに飛びかかろうとした。
が――ヴァルヌスの意識は途絶え、二度と彼が意識を取り戻す事はなかった。
彼が最後に見たのは、走り去るサリーチェの後ろ姿――自分がずっと妬み、劣等感を懐き続けてきた相手の魔力と同じ、黄緑色のリボンだった。
「……下級魔法とは言え詠唱術と陣術を同時に発動させるなんて、ペリドットの貴族もなかなかやるねぇ」
黒い槍をヴァルヌスの体から引き抜いたダンジェが感心したように呟く。
彼の性格に大きな難はあれど、その難さえ自身で抑える事ができていたらきっと有能な臣下になったのだろうとソールも思う。
ただ、しでかしてきた罪が罪だ。ソールは彼らに対して一切の同情を向ける事は出来なかった。
「……で、あんたの婚約者は何で逃げ回ってるんだい?」
黒の槍を浄化した後、ダンジェはサリーチェが走り去った方を見やる。
夜空に浮かぶ青白い星と馬車のランプにぼんやり照らされた駐車場はもうサリーチェが近くにいない事だけ分かる。
「恐らくですが……この混乱に乗じてここから逃げたいのかと」
呟く声は少し陰りを帯び、力ない眼差しは微かに哀愁を帯びている。今のソールの姿はきっと悪党共が見れば大分溜飲が下がっただろう程、寂しげだった。
「ふーん……何だか訳有りみたいだねぇ。で、どうするんだい? あの娘と話したいって言うなら捕まえてきてあげるけど?」
「……いえ、ここで人を使うのは騎士らしくないので、自分で追いかけます。ダンジェ先生、今日は本当にありがとうございました……ビルケ、後始末を頼む」
ソールはダンジェに礼を述べて頭を下げた後、自身に身体の能力を向上させる魔法をかけて駆け出した。
ダンジェは彼らを追いかけて事の成り行きを見守るかどうか悩んだが、生徒の失恋を眺めるのも悪趣味だし他人の恋路に首を突っ込むのも野暮か、と館の方へと踵を返した。
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