第33話 キルシュバオム家の一人娘と婚約者


 ウィロー男爵がペリドット邸を訪れた数日後――イサ・ケイオスの中央街にある高級酒場の個室。


 ペリドット邸から棺が幌馬車に運ばれるのを目撃した新聞記者がイサ・アルパインに向かい男爵に取材を試みた所、激怒した男爵に追い返された所まで書かれた新聞を囲んで、3人の男がそれぞれ違った笑みを浮かべている。


「これで一件落着か」

「そうだね。これで踏み台令嬢の真相は全部闇の中だ」


 サリーチェを利用した者はわざわざ真相を明かしたりはしない。利用していない者も真相を明かした所で何の得もしない。それどころか彼女を利用した者達から不快を買うだけだ。


 彼女が死んだ今、誰ももう彼女の話題を出さなくなる。踏み台令嬢の言葉も、真相と共に溶けて消える完全犯罪が成立したのだ。


 ソールと馬鹿な女を苦しめる事ができたと嘲笑を浮かべるパクレットと、セレジェイラの敵が消えた事に微笑を浮かべるスリジエ――そんな2人に対しヴァルヌスは少々緊張した面持ちで苦笑を浮かべていた。


「……スリジエ、一体どうやって殺したんだ?」


 ヴァルヌスはサリーチェが自然死ではなく、殺された事を知っている。

 国境都市の警備網には及ばずとも、主都の領主の館の警備も相当なものだろう。

 厳しい条件の中で宣言通り短時間で自然死に見せかけた暗殺を成し遂げてみせた友人に上手く恐怖心が隠せない。


 そんなヴァルヌスにスリジエは笑顔で人差し指を自分の口に当てた。


「それは秘密。だけど全部僕一人やったから何処かから足が付く可能性はまず無い。そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」

「……分かった」


 今、迂闊に追求すれば今度は自分が餌食になるかも知れない――そんな予感がしたヴァルヌスは顔を緩めて微笑んだ。


「しかし、スリジエの言う通りソールがあの女に本当に想いを寄せていたとは……貴族学校にいた頃は全然気づかなかった」

「俺もだ。だからずっと半信半疑だったんだが……何でスリジエは気づいたんだ?」

「あの女を見ているソールを見てるセレジェイラを見ていれば分かるよ」


 何だその状況――と2人は思ったが、気にしない事にした。スルー能力は侯爵に限らず、有能な貴族にとって必須能力である。


「……ああ、そうだヴァルヌス、言われてた物を持ってきたぞ」

「こ、こんな所で堂々と出すなよ!」


 話題を変えようとしたパクレットがポケットから小さな小瓶をヴァルヌスに手渡すとヴァルヌスは顔を赤らめて慌てて小瓶を受けとる。


「それは……ウィペット王国の媚薬かい?」

「ああ……カリディア、見た目に反して結構貪欲でさ、これが無いと持たないんだ」


 赤裸々に愚痴るヴァルヌスはカリディアに対して2人ほど強い慕情を抱いている訳ではなく、純粋に逆玉の輿を成功させた男だった。


「不満があると親兄弟に相談という名で暴露するし、溜まったもんじゃない……」

「自分で飲んでるのか……スリジエは?」

「セレジェイラと相談して一回だけ使ってみたけど、こういうのに頼るのは嫌だってセレジェイラが言うからそれきり使ってない。二人も気をつけないとウィロー嬢みたいに馬に踏まれるよ?」


 自分でも使ってみたからこそ、その媚薬が神経に強く作用する物である事を知っているスリジエは純粋に2人を心配したがパクレットは軽く笑い飛ばす。


「心配するな。私の愛しいデイジーを廃人にさせる訳にはいかない。一滴以下で使ってる」

「一滴以下……どうやって?」


 ゲスい話をしだしたパクレットとヴァルヌスをスリジエは微笑みながら異質な物を見る気持ちで軽蔑する。


 玉の輿で結婚した相手の要望に応える為に自ら媚薬を使うヴァルヌスはともかく、愛しいと言っておきながらその愛しい相手に強力な媚薬を使うパクレットの愛は理解できない。

 向こうが望むから使っているのか、何も言わずに使っているのか――それを追求するほどスリジエは2人に興味がなかった。


「……そろそろ僕は失礼するよ」


 ゲスな話を聞き続ける位なら早くセレジェイラの元へと戻りたい。新聞を持って立ち上がったスリジエに2人は笑顔を向ける。


「ああ、次会う時は4日後……あいつの襲爵パーティーだな」

「今度こそあいつの落ち込んだ顔が見られるのか……楽しみだ」


 そう。ソールの襲爵パーティーには3人、婚約者と共に招待されている。


 邪魔者は消した。後はセレジェイラの肩を抱きながら、セレジェイラを蔑ろにしたいけ好かない男の落胆した姿を見るだけ――スリジエも自然と口元が緩んだ。




 すっかり空が黒に染まった頃、自らが育った館より3倍も大きなキルシュバオム邸に戻ると客人らしき貴婦人とすれ違う。

 スリジエがさして気にする事もなく豪華絢爛なエントランスに入ると、あら、と少し驚いた声を上げた後、セレジェイラが微笑んだ。


「おかえりなさい、スリジエ。今丁度ウェディングドレスをデザインしてくれる方を見送ったところなの」

「へぇ……僕も見たかったなぁ」

「駄目よ。私が着た時に貴方の驚く顔が見られなくなっちゃうわ」


 頬を上げて楽しそうに笑う美女を前に、自然とスリジエの頬も上がった。


(ああ……セレジェイラは本当に美しく、可愛らしい……)


 同じ中央区に住み、ペキニーズ連合国と交易する家という共通点こそあるが家の財力には雲泥の差がある。

 商人が交易で成り上がった交易貴族の次男坊にすぎないスリジエにとって、真の貴族であり侯爵家と血の繋がりもあるセレジェイラは高嶺の花だった。


 そんな彼女と互いに見初めあえた事はスリジエにとって人生最大の幸福であった。


 セレジェイラはいつも微笑んでいて、スリジエには一層顔が緩んだ溶けるような笑顔を向ける。そんな一人娘の様子を見たキルシュバオム伯夫妻も二人の交際に反対せず、婚約までの道のりは恐ろしいほど順調であった。

 

 スリジエにとってまさに慈愛の女神といえるセレジェイラが学校の中で唯一、悲しげな顔をする時があった。ソールを見る時だ。


 出会ってしばらくは婚約者候補であるソールに想いが残っているのかと心が締め付けられる思いをしていたスリジエだが、ある日――ソールがサリーチェの方を見て微笑む姿を見たセレジェイラが目を潤ませて一筋の涙をこぼした。


 スリジエにとってそれは耐え難い苦痛であった。女神の心に巣食う害虫を排除しなければ――と思った矢先にソールは貴族学校からいなくなった。

 そしてセレジェイラの悲しげな視線の先はソールからサリーチェに変わった。


 使命感に燃えたスリジエはまず、サリーチェを退学に追い込み、セレジェイラの視界から抹消する事を考えた。


 幸いな事にサリーチェは自由奔放で頭があまりよろしくない人間だった為、噂を利用してサリーチェに言い寄る男を増やし、好きになってこっ酷くフラれてを繰り返しているうちにいずれ退学するだろう――と思っていたのだが。


 ある日、セレジェイラが追い詰められているサリーチェを見かけて微かに口元を緩ませている事に気づいた。


 彼女の気の毒そうな表情に打ち消されるほどの微かな緩みだったが、気に入らない人間が追い詰められているのを喜ぶ姿を見てスリジエも喜びに満たされた。


(そうか、セレジェイラはあの女が追い詰められてると嬉しいんだ)


 天使のような女性も人なのだと知れた安心感とそれを知るのは自分だけという背徳感、自分が少しでも彼女に喜びを提供できた達成感――セレジェイラの微かな笑みはスリジエの想いを加熱させ、踏み台令嬢が悪女としての名も馳せていく事になるのである。


(セレジェイラ……君の為なら僕は悪魔になれる)


 スリジエは人を殺めるのは初めてだったが、セレジェイラとの幸せな未来の為ならどうでもいい人間の死への罪悪感など微塵も湧かなかった。


 イサ・ケイオスで死毒蛇を扱っていた蛇使いが主都の方に行った事は知っていたから身一つで主都へ向かい、死毒蛇を盗み、メイドに変装してペリドット邸に侵入してサリーチェを暗殺した。


 スリジエにとって美少女と見間違うような、男として情けない容姿と体格はずっとコンプレックスであった。

 しかしセレジェイラはそんなスリジエに惹かれたのだと優しく慰めてくれたお陰でセレジェイラに愛される上に性別を容易く偽れる自分の容姿に感謝している。


「ふふ……」


 蕩けるような笑みと熱い眼差しを向けるスリジエにセレジェイラは嬉しそうに笑う。


「どうしたの? セレジェイラ」

「……いいえ。最近の貴方、何だか気を張り詰めさせてたからとても心配だったの」

「それを言うならセレジェイラこそ……たまに悲しそうな表情をするから僕ずっと心配してたんだよ?」

「あら……ごめんなさい、心配かけていたのね……でも、もう大丈夫よ」


 ふわりと微笑むセレジェイラは自然な手付きでスリジエの腕に手を絡め、体を寄せる。

 互いに思いやる仲睦まじいカップルを周囲のメイド達は温かい眼差しで見つめていた。


「ねえ、スリジエ……今からソール様の襲爵パーティーに着ていくドレスを一緒に選んでくれる?」

「いいけど……僕は君に一番似合うドレスを選べそうにないよ」

「ふふふ……スリジエったらソール様に妬いてるのね。大丈夫、私にとって一番綺麗なドレスはこれから貴方と私の為に作られるウェディングドレスよ、スリジエ。ソール様も素敵な人だけど、私がドキドキするのは貴方だけ……愛しているのは貴方だけよ、スリジエ」


 女神の愛の言葉と微笑みに浅ましい嫉妬心を溶けていくのを感じたスリジエは、セレジェイラの手に引かれるままに彼女の衣装部屋へと誘われていった。


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