第25話 人を狂わす甘い蜜
朱色に染まる空の陰りが強まってくる頃、早めの夕食の済ませたソールが執務室に戻ってきた。
執務室に待機していたビルケがその日一日の出来事を報告した後、ソールも成果を告げる。
「死毒蛇は悪用される恐れがあるから来節から取り締まっていこうと思う」
「そうですか……私も子どもの頃、旅芸人の常軌を逸した曲芸にハラハラしたものですが……悪事に使われる事で娯楽が狭まっていくのは寂しい話でございますな」
ビルケはソールから受け取ったマントを腕に、眉を下げて残念そうに呟く。
「確かに……皆が皆、良い事悪しき事を弁えた善人であればこの世はもっと楽しいのだろうな」
事故の危険性で娯楽の範囲が狭まるのは致し方ないと思えても『事件が起きるかもしれないから』という理由で娯楽が狭まるのは納得がいかない面がある。
しかし、この世が他人の命を尊ぶような善人達だけの世界でない以上、これもまた致し方ないと思わなければならないのだろう――ソールはそう結論付けた。
「それはそうとソール様、私めもここに勤めて長いですが、たった一滴で男女全身ドキドキするほどの強力な媚薬など聞いた事もございません……国内への流通を防ぐ為に早々に毒物として登録された方がよろしいかと」
「……そうだな。サリーチェの食事を済ませた後に登録しよう。周知も私がするからくれぐれも他言無用にな」
「かしこまりました」
ビルケの礼を背に受けてソールは夕食を乗せたワゴンを押して隠し通路に足を踏み出した。
「遅い! あたし、あのおじーちゃんが食事運んだり下げたりする時以外ずーっと一人ぼっちだったんだけど!?」
天井に吊るしたほのかな明かりの照らされた部屋の中、サリーチェがぷりぷりと怒って出迎える。
ソールが頼んだ通り一人でいる時に思い出すのは思いとどまってくれたようだ。
「すまない。これからは出来るだけここにいるようにする」
「ま……まあ、バールドさんが暇潰しにって色々持って来てくれたから、そこまで退屈しなかったけど!?」
声をちょっと上ずらせながらフイッとそっぽを向く、実に元気なサリーチェにソールが少し表情を緩ませながら食事を並べていくと、足元に何か固い物がぶつかった。
足元を見ると蓋付きの木箱。ぶつかった衝撃で蓋が外れ、中には本や布が張られた刺繍枠が収まっている。
これがバールドが運んできた木箱なのだろう、と察するとソールは中にある刺繍枠を手に取った。薄黄緑色の布に緑色の糸で蔓らしき模様が丁寧に縫われている。
「この刺繍はサリーチェが……? 随分手先が器用なんだな」
普段のサリーチェからは想像もできない位繊細な刺繍にソールが感心の声を漏らすと、ステーキを頬張っている途中だったサリーチェは無言で視線をそらした。
ごくん、としっかり飲み込んだ後、スープを一口飲んで言葉を返す。
「べ、べ、別に、貴方の為に縫ってる訳じゃないから! 小説は何か小難しいのばっかりだし!! こんな部屋スケッチしても面白くないし! 刺繍位しかする事無くて縫ってるだけだから!!」
木箱に入った本を見やると確かに<生と死><貴族というもの><悪人と渡り合うには>という何とも言えないタイトルが目に入る。
恋愛小説らしき冊子もあるが<引き裂かれた愛>だの<禁断の愛>だの<実らぬ愛>だのこれまた持ち主の性癖あるいは闇が伺える題名が並んでいる。
そしてこれらは女性の暇を潰す為に用意した物――つまり見繕ったのも女性。この状況で見繕える女性は一人――ソールの姉しかいない。
果たしてこれらは姉の性癖なのか、心の傷なのか――どちらにせよ弟がこんな事を考えていると知ったら姉は余計なストレスを抱えかねない。
ソールが姉の疑惑を頭の中からそっと消去すると、改めて刺繍を確認する。繊細な蔓の刺繍には微かにサリーチェの魔力が込められていた。
サリーチェの故郷、イサ・アルパインを超えた南領には魔除けの願いを込めた魔力を糸に込めて刺繍したハンカチやネクタイなどを愛する者に贈る風習があるという。
(……私の為に、だろうな)
昨夜こそ死にかけたサリーチェを前に取り乱し、彼女の様子を冷静に観察できなかったが、ソールはけして鈍感な男ではなかった。
サリーチェの態度と言い状況といい、サリーチェが自分以外の為にこれを縫う理由がない。
ここで(誰の為に?)などと言っていたら侯爵として失格の判を押されかねないレベルである。それほどまでにサリーチェの態度は分かりやすい。
ソールは温かいようなくすぐったいような、それでもけして嫌ではない――何とも気恥ずかしい気持ちにさせられつつ、蛇を見つけた事を報告した事、盗まれた蛇である事を伝えたタイミングでビルケがアイスクリームを持ってきた。
「ソールってデザート、好きじゃないんでしょ……? 怪しまれない?」
ビルケが去った後、ちょっと申し訳無さそうな表情でサリーチェが呟く。
「大丈夫だ。私がサリーチェを
「……ふ、ふーん、こんな部屋に閉じ込められたらデザート無いとやってられないし、そっちがいいって言うんならこっちも遠慮なく頂くけど……」
遠慮なく、と言いながら遠慮がちに乳白色のアイスを掬うも、一口口に入れば嬉しそうな表情をするサリーチェにまったりしつつ、ソールは話を切り出す。
「……ところでサリーチェ、この媚薬に覚えはないか? 食人植物の蜜から作った、1滴飲むだけで発情し、飲みすぎると廃人となる危険な媚薬らしいんだが……」
ソールが言い進めながら小瓶の蓋を取ると猛烈に甘ったるい濃厚な匂いが鼻に刺さり、無意識に小瓶を持つ手を鼻から遠ざける。
小瓶を差し出された形になったサリーチェも思いっきり顔をしかめて鼻を覆った。これだけ強烈な匂いに対して何も言わないのが答えだった。
「食事中にすまない……しかし匂いが強烈で助かった。無味無臭だったら一滴試してもらう事になりかねなかったからな」
ソールは小瓶の蓋を固く閉めた後、部屋のドアを開けて魔法でそよ風を起こして換気する。
「なっ……何言ってるの!? 飲んだら私、発情するのよ!? 私をエッチな気分にさせてどうするつもりなのよ!?」
「その時は義兄上に治療してもらう。神経まで犯す毒ならともかく性欲を刺激する程度ならここの治癒師でも十分治療できる」
「あっ……あっ、そう……」
サリーチェは別の展開を想像していたらしく、顔を赤くして俯く。それに対して突っ込むほどソールは野暮な男ではない。
「……本当に良かった。君に嫌な感覚を思い出させてしまうのもそうだが、君が体を火照らせる姿をもう二度と他の男に見せたくないからな。例え、治癒師といえども」
サラッと自分の素直な気持ちを言ってのけたソールにサリーチェの赤い顔は耳まで真っ赤に染まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます