第8話 若侯爵の性癖・2


 静寂な執務室に、ソールの含み笑いが響く。


(可哀想に、酷い目にあった事ですっかりやつれ、性格も大分ねじれてしまっているが、彼女の本質は全く変わっていない……栄養がある物を食べさせて根気強く接していけば、前のような良い顔を見せてくれるだろう。健康を取り戻した彼女の本来の姿を早く見たい……!!)


 サリーチェにあれだけ酷く罵られておきながら、ソールの心は満たされていた――と表現すると誤解されそうだが、彼はけして自分が虐げられる事に喜びを覚える癖を持っている訳ではない。


 小悪党やガチの悪役令嬢ヒドインが調子に乗って悪い顔した時の表情に心ときめかされるというだけで、けしてMではないのである。


 本来、そんな表情や台詞は大抵人には見られないよう一瞬だったり人がいない所でほくそ笑んだりするもので、滅多に見られるものではない。


 しかし幸いか不幸か、彼女はヒドインの中でも最弱――物事を多少大袈裟に言う程度の大分頭の弱いマウント系ヒドインだった為、そういう顔や嫌味な態度は同級生に対する彼氏マウントによって惜しみなく発揮され、ソールは偶然サリーチェのマウントフェイスを見てしまった。


 それ以来、貴族学校でサリーチェを意識し、さりげなく彼女を視界に入れる事で何度も何度もサリーチェのそういう小悪党顔を目撃し、心ときめかせている。


 サリーチェの可愛らしい顔が作り出す、輝かんばかりのマウントフェイスを思い返すソールは誰に見せた事もない、恍惚とした表情を浮かべていた。


 差別してはいけない。猫が好きな人もいれば犬が好きな人もいるように、笑顔に惹かれる人がいれば泣き顔に惹かれてしまう人がいるように――人の邪悪な表情やゲス顔に惹かれてしまう人間がいたって全然おかしくない。おかしくないのである。


 ちなみにソールもゲス顔であれば誰でも良い訳では無い。サリーチェの可愛らしい小動物系美少女な容姿も裏表を使い分けれない残念な性格もまた、彼の心に刺さっていた。


 つまり、サリーチェはソールにとって見た目が好みな上に、表情や態度がストライク――実に可愛い小悪党は彼の複雑な性癖に見事に一致する、希少な存在だったのである。


 先程のサリーチェの無礼な振る舞いにソールは心のうちが満たされていく感覚を覚えたが、同時に気をつけなければならないとも思った。


 サリーチェの横暴を見ていた者達の(うわぁ……あいつ侯爵様に何言ってんの?)な表情が一般的な反応であり、普通なのだ。


 『彼女のああいう態度が良いんじゃないか!』と力説しようものなら(侯爵様まで何言ってんの?)という視線が自分に向けられる。


 男爵や子爵程度の立場ならばともかく、侯爵という多くの貴族を従え、手本とならねばならない立場で小悪党ヒドインを正妻に据えるのは流石に厳しいものがあった。


 彼女は侯爵夫人にはふさわしくない――そして、彼女自身そんな責任感のある立場を望んでないだろうし、恐らく愛妾という立場も望んでいない――だから学生時代、ソールはサリーチェに想いを打ち明ける事が出来なかったのである。


 それは、今も同じだったはずなのだが――


 『私は君を好ましく思っている。君にこれ以上傷ついてほしくない』


 サリーチェのあまりの荒れ様につい零れてしまった言葉を振り返り、苦笑いする。  

 彼女の痛々しい叫びが心に刺さってうっかり名前まで呼んでしまった。


(まあ、サリーチェは普通に可愛いからな……あの程度のやりとりで私が彼女の小悪党ぶりに惚れ込んでいるとは誰も思わないだろう)


 周囲の者はもちろん、サリーチェにすらこの性癖を気づかれてはいけない。

 もし気づかれれば間違いなくドン引かれ、噂され、変態侯爵と陰口を叩かれる事になるだろう。


 ペリドット家の不名誉になるような事は避けたい。今の状況ならいくらでも誤魔化しようはある。


(それより……あの態度はどうにかしないといけないな)


 ソールが好きなのは彼女の自信に満ちた圧倒的上から目線で人を見下す言動や小者ムーブなのであって、あの警戒心バリバリ敵意バシバシ根性ネジネジの姿ではない。

 踊り子のように半裸で腰をクネらせて煽ってくる態度はともかく、見境なく物を投げつけてくる態度は性癖外である。


 人の好みとは実に難しい。超ハイスペックの金持ちイケメンに執拗に束縛されたい願望を持つ女性達でも、そのイケメンが暴力振るってくるとなれば大半が「ないわー」になるように――平手打ちとか手首をギュッと掴まれる位ならありじゃない? と思う猛者でも全力のグーは「ないわ!!」になるように――性癖の境界線はそれぞれで、実に複雑なのである。


 ソールにとって、過去のサリーチェはまさに理想だった。しかし今のサリーチェは酷い目にあった事で心を頑なに閉ざしており、理想をかなりオーバーしてしまっている。すっかり不純物が混ざって本来の輝きを失ってしまった宝石だった。


 ソールは今、その宝石から不純物を取り除き、再び元の輝きを取り戻してほしい、と心の底から思っていた。


(元の彼女に戻すには、まず警戒心を解いてもらわなくては……しかし今の彼女は押しても引いても変な方向に歪みそうだ。やはり、彼女をここまで傷つけた者達を一刻も早く捕まえて罰する事が最善の手段だろう。強姦魔を放置していては治安にも関わるし……)


 何より、好きな子が傷ついて痛々しく叫ぶ様はとても心が痛むものである。

 ソールが歯を小さく軋ませながら、サリーチェが犯人達を見下して罵る様を想像して口元が緩むという器用な表情をしている中、執務室にノック音が響く。


 表情を正したソールが入るように促すと扉が開けた老執事が一礼した。その表情はちょっと眉間にシワが寄っている。


「ソール様、新聞社の記者が襲爵にあたっての意気込みや昨日の事件について色々聞きたい事があると……どうします? サリーチェ様の朝食もまだですが」


 サリーチェを踏んだのは賑やかな表街道ではないが、多少人通りのある街道だった。

 夜で周囲がハッキリ見えずともペリドット家の馬車は黄緑を基調にしていて目立つ上に、クライシスの治癒魔法でしっかり周囲が照らされている。

 『ペリドット邸の馬車が人を撥ねた』と噂になり、記者が取材に訪れるのは必然であった。


「先に記者と会おう。新聞社なら我らが把握していない情報も知っているかもしれない」


 サリーチェの機嫌を損ねたら、テーブルをひっくり返される位の事はされそうだ。流石に服が汚れた状態で記者に会うのは憚られる。


「だが、サリーチェを待たせるのも悪い。彼女の希望通り、2つ食事を運んで先に食べさせてやってくれ。後で私も部屋に行って残った方を食べる」


 かくして、ソールはサリーチェを元気なヒドインに戻す為、公務の傍ら犯人探しに動き出した。


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