11 思い出し難い過去。

「………はっ? えっ?」


 口から間の抜けた声が溢れ落ちる。

 頭の中は混乱状態、状況が上手く飲み込めず今にも思考がフリーズしてしまいそうだ。


「君が? ラヴィニア? あのラヴィニアだって……?? そんな馬鹿な、」


 冗談だろう?

 相手が口にしたこと、それはにわかに信じがたいものだった。

 思わず狼狽えながらも聞き返す。

 すると彼女は微笑みながらに首を横に振った。


「いいえ、冗談ではございませんよ。正真正銘、私がラヴィニアです。」

「そんな筈はないだろう! だって、だってラヴィニアは──!」


 そこまで言って、僕は言葉を止めた。

 彼女の人差し指が僕に黙るよう口元に触れたのだ。

 くすくすと笑いを溢すと彼女は僕にこう言った。


「ふふふ……信じて貰えないのですね? では、証拠を見せてあげましょうか。」


 すると彼女はヒールを鳴らして部屋の片隅へと歩を進めていった。

 そこにあったのはクラシック彫のチェスト。

 部屋を華やかさをと飾られた小さな硝子の彫刻や宝石を散りばめた額に収められた鏡などが置かれている、そこから彼女はハンドルのついた小箱を手に取った。

 かちり。

 彼女の細い指先が口を閉ざすクリップを外す。

 そしてその手が流れるような動作で蓋を開けると、笑みを浮かべた彼女はその“中身”へと手を伸ばし、そして──。






「───。」


 絶句。

 僕はたった今目にしているものに愕然とした。

 思わず開いた口も塞がらなくなる。


 かちゃり、かちゃん、ぽんぽんぽん……。


 そんな音を奏でながら、傍らにある鏡を自分に向けて微笑む彼女。

 彼女が手にしていたのは、兎の尾のような柔らかな毛先を備え付けたスティックブラシに、丸い形の貝みたいなコンパクト。

 ぱかりと開けられたそこには何やら肌色と桃色の中間色のものが入っていて、彼女はそれをブラシの先にポンポンと付けるとそれを頬に額にと塗りたくっていく。


 そうしながら鏡と向き合い、自身の姿を見詰めつつ彼女の手が伸びる先は先程の小箱。

 幾種類ものブラシやペン、その他諸々の道具をそこから取り出しては自らの顔に色を乗せていく。

 すると彼女はみるみる内に様変わりしていくのだった。


「……よし!」


 最後に手にしていた小道具をコトンと小箱に収める。

 パタンと小箱の蓋を閉じ、息を吐きながらそんな呟きを溢す彼女。

 そんな彼女を目の当たりにしながら呆然と立ち尽くしている僕に、くるりと踵を返した彼女が此方を向いた。

 その顔を見た瞬間、自分の喉からひゅっと空気が抜ける音がした。

 青ざめていく顔、身体に震えが走り出す。


 先程は頬や唇を仄かに朱を乗せた程度の、大人しめな化粧をしていた彼女。

 落ち着きのある色合いにおしとやかな所作、その容姿で微笑む姿からは、誰しもが受ける印象は清楚で気品のある高貴な婦人だった事だろう。

 それを僕も同じくして、一目見た時には彼女を地位ある由緒正しい貴族の者だと思った程だった。

 だがしかし、今目の前に突如現れたその女性は──いや、本当は様変わりする様子を目の当たりにしていたから同一人物であるのはわかっているが──そんな印象を悉く打ち砕く容姿を僕に見せた。


 くっきりとした真っ赤な紅、瞼の色は鮮やかに。

 睫毛はくりんと先を伸ばし、ぱっちりとした瞳を印象的に。

 今まで緩やかな弧を描いていた薄い唇はやや突き出すようにωにんまりと笑みを深めている。

 それから顎下に添えて軽く握った手の爪先はいつの間にやら爪が鋭利に伸びており、色を塗られたそこには小さな粒の宝石が散りばめられていた。


 そんな彼女の姿に、僕は酷く覚えがあった。

 そんな彼女が僕を見てこてんと頭を小さく傾ける様に、ぞわりと全身が粟立つのを感じた。


 清楚さや優雅さを根刮ぎ落とし、代わりにあざとく媚び媚びなそんな仕草。

 彼女がそれを見せる様に、僕の頭の中にいつかの出来事が浮かび上がる。




『──勇者様。』


 目に浮かぶのは名も知らぬ女。

 どんなに思い返してもそのたった一度きりにしか会ったことがないその女は、シルクのレースで纏った華奢な手で僕の手を取り上目遣いで僕を見上げていた。

 その視線が何処か切なげで、化粧をしている頬が自棄に朱を浮かべているのが印象的だった。


『──勇者様……。』


 またある時の出来事。

 それは波打つ長い栗色の髪が印象的な女だった。

 腕を引かれて部屋に連れ込まれ、月明かりだけが辺りを照らす薄暗がりの中、ベッドの上に寝転がされた僕自分の上にその人は股がって長い髪を垂らしながら見下ろしていた。

 突然のことに訳もわからず固まる僕に、見詰める女が溢す囁きが嫌にねっとりとした響きをしていたのは、今でも容易く思い出せる。


『──勇者様、ああ勇者様……! 私は貴方を一目見た時からずっと……!』


 またある時の別の出来事。

 その女は偶々触れた素肌がとても熱かったのが印象的だった。

 乱れた衣裳、露になる肩。

 潤む瞳に熱っぽい吐息が間近に迫ってくる。

 あの時は不意にしなだれかかってきた身体を思わず受け止めてしまったのが、それが運の尽きだったのだろう。

 そのままぴとりとくっついてきた細身の身体は以降どんなに抵抗しても離れず、必死の思いで逃げ切るまで甘ったるく媚び媚びな声が如何に僕を好いてるかを耳元で延々と聞かされた。

 あの日の事は、どんなに忘れたくとも未だに脳裏に焼き付き離れてくれない。


『勇者様。』

『勇者様!』

『勇者さまぁ…!』


 僕をそう呼ぶ者は多くいた。

 向けられる眼差しに込められた想いは幾種も多く、奇異に敬愛に憧憬に敵意に、好意的なのもあれば、嫌悪が含まれていた時もあった。

 その中でも特に良く覚えている感情。

 向けられると肌がチリチリとしてしまいそうな、過去に出会ってきた何人もの女達から向けられたあの熱っぽい視線。


 あれを見ると嫌でも思い出してしまう。

 ある時の薄暗がりの部屋、人目につかぬ物陰、二人っきり、僕を見詰める熱を孕んだ目……。


 僕を狙う“おんな”の目。




『ゆ・う・しゃ・さ・ま♥️』




「──ひぃッ…!」


 思わず引き釣った声が溢れる。

 大袈裟にもびくりと跳ねる肩、震えを帯びていく強張った身体。

 コッコッコッと鳴り響くヒールの音が迫ってくる。

 近付いてくるのは大きく広げた腕。

 目に見えるのは満面の笑顔。


 風貌といい、口調といい、最早別人の如く一変した彼女。

 それが僕に向かって駆け寄ってくる様に僕は自分の身体から血の気が引いていくのを感じた。

 身に迫る危険、本能が“逃げなくては”と自分を駆り立てる。

 反面、その相手がただの女ではないのだからと“逃げてはダメだ”と邪魔する理性。

 相反するその二つに阻まれて、つい身動きを取れずにいてしまう。

 そんな僕の葛藤を露知らず、駆け寄ってきた彼女が僕の身体をぎゅっと抱き締めた。


 びしり。

 思わず身体が石のようになる。

 次の瞬間、身体中至る所から汗が吹き出てくる。

 すっかり青ざめて寧ろ白くなる顔、それを油の差していないブリキのようにぎこちなく彼女に向けていく。

 そこで彼女が頬を赤らめて嬉しそうに見上げているのが見えると、先程より少し高い猫なで声がこう言ったのだった。


「これでもう誰かわかるでしょ──ダ・デ・ィ♥️」


 そして彼女はこれ見よがしににパチンと片目を瞬かせたのである。




 限界突破、フラッシュバック。

 僕の中にトラウマが甦る。


 目の前にいるのは紛れもなく、正真正銘我が娘。

 しかし、それは自分の娘であるのと同時に、僕が最も苦手とする存在を恐縮したような人格の持ち主だった。




 僕が最も苦手とするもの。

 それ即ち──“女”である。




 夜もとっぷり更けた頃、フラーモニカのとある一角にて。

 皆寝静まった後の静寂に絹裂く悲鳴が木霊した。






 *****


 




 朝、その日は特に目覚めが億劫だった。

 夜更かしが祟って寝不足気味でいつもより起床に時間が掛かったのだ。

 そんなぼくが中々持ち上がらない瞼を擦りつつようやくベッドから身を乗り出してその光景を目に映した時には思わずぎょっとしたものだ。


 片や拗ねているようで頬をパンパンに膨らませて唇を尖らせており、もう片やは精根尽きたかのように疲れ果てており遠くを見詰めてぐったりとしていたのである。


 ぼくが寝てる間に、一体何があったんだろう……?


「……ところで、今何処に向かってるの?」


 頭に浮かぶ疑問はやはり尽きない。

 が、とりあえずぼくは今一番に気になっていることを聞いてみることにした。

 宿を出たと言うのにぼくらはまだこのフラーモニカを発っておらず、昨日と同じくその日限りの出店が並んだ人混みの中を歩いていたからだ。

 買い出しは昨日の内に済ませていたし、昨日聞いた話ではもうそろそろ発つ予定だった頃合いだ。

 因みにナイトくんの姿はない。

 彼はまた留守番を任されているのだろうか?

 そんな事を考えつつ、それから何か買い忘れでもあったのだろうかと行く先の出店に目星を付けてみるけれども、どの出店も昨日と比べてがらりと変わった顔触ればかり。

 店先に並んでいるものだってそうだ。

 ぼくが本を買うのに利用したあの出店も、今は見たことのない中年夫婦が商いをするこじんまりとした薬屋になっていた。


 そんなフラーモニカの出店通りを、通りすがりにぼくは昨日の記憶と照らし合わせつつ眺めていた。

 キョロキョロと忙しなく周りを見渡しているぼくに、人混み掻き分け進んでいくアサトさん──ああいや、変装中ナイト兄ちゃんな彼は、ぼくが投げ掛けた質問に振り返ると下がり眉で困ったような笑みを見せた。


「ちょっと用事があってね。ごめんけど、少しだけ付き合って欲しい。」

「別に全然構わないけど……わぷっ!」


 申し訳なさそうな彼にそう言葉を返していたぼく。

 しかし、言葉の途中、突如ぼすりと身体を押されるかのような衝撃を受けて小さく呻いたのだった。

 えっ? と思ったのは束の間、訳もわからず驚きと困惑に混乱してしまう。

 それから気付いたのは、ぼくの身体が進行方向とは全く別方向へと進んでいることだ。

 一体何事か、とつい慌てて焦ってしまうぼくだが……なんてことはない、うっかり気付かぬ内に密集した人混みの中へと入り込んでしまっただけである。

 そのことにようやく気付いた頃には人の壁に阻まれてすっかり彼の姿を見失っていた。


「アサっ……ナイト兄ちゃん!」


 咄嗟に、ぼくは声を上げて彼を呼んだ。

 すると人混みの向こう、さして遠くないらしい距離から「アル!」とぼくを呼ぶ声が聞こえてきた。

 良かった、彼はこの向こうにちゃんといてくれている。

 そんな僅かな安心感に一瞬の焦りを失くしたぼくは、どうにからこの人混みから抜け出そうと抵抗を始めるのだった。


 進行方向を見据えるばかりで周りを見ようとしない大人達は、背の小さい視界外にいるぼくには目もくれない。

 ただひたすらに突き進んでいくばかりで、決して道を開けようとはしてくれなかった。

 それでもぼくは必死に手を伸ばし、濁流を泳ぐように人と人との間を掻き分けて外を目指す。

 だけどもやっぱり大人達の力には到底敵う筈もなく、またもや流されそうになったその瞬間、伸ばしていた手に誰かが掴んでくれた感触がした。


「──アル!!」


 ナイト兄ちゃんの手だ。

 それがわかると同時に、ぼくの身体は人混みの中から引っ張り出された。


「もうっ……余所見ばかりしてるから……!」


 開けた場所にようやく出られた。

 安堵の息を吐こうとしていたぼくに、切羽詰まったようなそんな声とナイト兄ちゃんからがしりと抱擁を受ける。

 驚いてつい「うわっ」と声を上げてしまうぼくだったが、目に涙を溜めてひしりとぼくを抱き締めている彼の顔を横目見てハッとした。

 そうか、ぼくはこの人に心配をかけさせてしまったのか。

 それを自覚したぼくは顔を埋める形で間近にあった彼の肩に、大きくても頼りなく小さく震えるその背から回した手でそっと触れさせた。


「うん……ごめんなさい。これからは気を付けるよ。」


 ぼくがそう口にすれば、身体を離して向き合う形となった彼はほんの少し涙を浮かばせた目尻を緩めて微笑みかけてくれたのだった。


 その時、ぼくは何とも言い難いむず痒さを覚えた。

 この気の弱そうな彼を見たその時、とてつもない違和感に苛まれたのだ。

 それはきっと、ぼくが普段の彼──“他人のフリナイト兄ちゃん”ではない“本来の彼アサトさん”を知っていたからだろう。

 アサトさんならこんなにも簡単に弱いところを見せないし、ぼくをこうして抱き締めたりなんてしない。

 感情表現に乏しくて口数も少なく、何を考えているのかわからないのがぼくの知る“アサトさん”と言う人物だからだ。


 だからなのだろうか?

 こうして気の弱そうな姿を見せている時、ぼくは時折正気に返ったかのように、彼の言動のどこまでが本心で何が嘘なのだろうかと、そんな考えを脳裏を過らせてしまうのだった。

 本当にぼくの事を心配してくれていた?

 その涙はホンモノ?

 彼の偽りの姿を見る度に、傍に誰かがいてくれている安心感とは別に疑心のようなものがぼくの胸の内に生まれて、えも言われぬ不安を覚えてしまうのだった。


 こんな時、他人の心がわかったらどんなに安心出来たことだろう。

 ついついそんなことを考えてしまうのだが、幾ら願ったところで人が他人の心を正確に知る術などあるハズもなく。

 結局、人の心などわからず特別聡い訳でもないぼくは、どんなに言葉を尽くされたところでどうしたって疑念を覚えてしまう。

 だからこれは考えるだけ無駄なことだった。

 不毛でしかない。


「うん、そうしておくれ。お前に何かあったらと思うと、オレは気が気でなくなってしまうのだから。」


 そうして何とも言えない顔を浮かべて俯いていたぼくに、彼は酷く優しい声音でそう言うとそっと頭を撫でてくれた。

 その言葉からは不思議と自分の胸の内が見透かされいるかのような錯覚を覚えてしまい、余計にいたたまれなくなってくる。

 ぼくは心配させてしまったことへの申し訳なさや助けて貰えたことへの安心感よりも、優しくされても見えない本心を疑ってしまう自分の弱さが情けなくなってきて、やるせなくなって小さく唇を噛み締めた。




「──さ、もうすぐだよ。」


 あれからぼくははぐれないようにとナイト兄ちゃんと手を繋ぎ、歩き続けてフラーモニカを出ていた。

 白亜の壁とは反対の、王都に続く方角にあるフラーモニカの外には大きく開けて整備された人の道はあり、そこを挟んで緑生い茂る木々の群れが両側にあった。

 森を切り拓いて道を作ったのだろうか?

 ここら辺も恐らく魔物が出るだろうに、大層頑張って作ったのだろう。

 人が行き来し易いように平坦に慣らされた道を物珍しげに眺めつつ、ぼくには到底想像も付かないような顔も名前も知らない誰かの苦労に思いを馳せていると、周りをキョロキョロと見渡していたナイト兄ちゃんがぼくの手を引いたままに整備された道を逸れて茂みの中へと歩を進めていることに気が付いた。


「ね、ねぇ! どこに向かってるの?」


 ぼくは慌てて彼に声をかけた。

 ここはフラーモニカの近くとは言え、外だ。

 魔物避けの柵もない自然の中ではいつ魔物が現れても可笑しくないと言うのに、ぼく達は武器も魔物が忌避するお香も焚いておらず、何も持っていなければ対処すらしていない。

 このままでは格好の獲物だ。

 何だか怖くなってきたぼくは彼へ声をかけつつ、せめてもの抵抗に引っ張られる腕に力を込めた。

 が、ぐいぐいと引っ張っていく彼の力には敵わず、ぼくらはどんどんと森の奥へと進んでいく。


「ええーっと、此処だったかな………?」


 そんな呟きと共に、ようやく足を止めたナイト兄ちゃんがくるりと周りを見渡した。

 引っ張られていたとは言え道なき道を突き進んできたことで、元より少ない体力のぼくは疲れて膝に手を付いて肩を上下させる。

 やっと落ち着いてきて顔をあげてみれば、そこで目にしたものにぼくは思わず息を飲むこととなった。


 周りをぐるりと木々が立ち並ぶ中、広く開けたその空間にはすっぽりと収まっているかのような広大な湖が。

 澄んだ色の水。

 陽に照らされ反射する波のハイライト。

 微かに聴こえる小鳥達の鳴き声も相まって、魔物がいるであろう危険な自然の中だと言うのに、そこは酷く穏やかな空間に思えた。


「うーん……誰もいないな。まだ来ていないのだろうか?」


 ぼくが湖に見とれている最中、ナイト兄ちゃんはまたもやキョロキョロと周りを見渡していた。

 その口ぶりからして、誰かとここで待ち合わせでもしていたのだろう。

 彼の一人言を聞けばそれは簡単に想像つくだろう。

 けれども湖に気を取られていたぼくにはそれに気が付けない。

 ぼうっと景色を眺めていたぼくに、ナイト兄ちゃんは少し屈んでぼくと視線の高さを合わせるとこう言った。


「アル、ちょっとだけここで待っててくれる?」


 直ぐ戻るからさ。

 そう言うナイト兄ちゃんに、ぼくは上の空のままこくりと頷いた。

 視線は彼に向けることはなく、ただただ目の前の湖だけをその視界に映しながら。


「余り湖に近付いちゃダメだよ。うっかり落ちて溺れでもしたら大変だ。」

「うん……わかってる。」


 ナイト兄ちゃんの声にぼくがそう返せば、彼は困った顔で小さく苦笑を浮かべた。

 本当にわかっているのやら。

 恐らくはそう思われているだろうに、彼は一度だけくしゃりと頭を撫でると、その流れのままどこかへと立ち去っていってしまったのだった。


 広大な湖の傍ら、ぽつんと取り残されたぼく一人。

 しばし立ち尽くすようにぼんやりと眺めていたのだが、徐に歩を進めてぼくは水辺に近付いた。

 上の空でも何となくに聞いていた彼の注意は勿論ちゃんと片隅ながらも頭の中にある。

 間違って落ちないように言われた通り少しだけ距離を取って、それからその場に屈んで座り込んだ。

 そうしてしばらく眺めていたのだが、やがてぼくは立てた膝に顔を埋めた。


 すん、と鼻を鳴らす音が響く。

 この湖を目にした瞬間から、ぼくは生まれ育った故郷を想起していた。


 緑生い茂る木々の群れ、その中にあるまあるく広く開けた空。

 一瞬、そこが森の中だと言うことを忘れてしまいそうになる程、広大なそこには雄大な巨湖があった。

 目を凝らしてようやく対岸の木々が麦の粒よりも小さく見てくる程に広いそれは重く暗い青に染まっており、足を踏み入れずともその深さを重々しく物語っていた。

 濁ってもいないのに底が見えないその様に、まだまだ幼かった頃のぼくは形容しがたい恐ろしさを抱き、わんわんと泣いて爺やを困らせてしまったことは今でも覚えている。


 そんな思い入れのある巨湖と言うのはここみたいなまあるく大きな水溜まりではなく、C字型に緩やかな弧を描いたもので巨湖の中心地へと伸びる岬とも呼べそうな陸地があるもの。

 その陸地の先端にこそぼくと爺や、それから祖父が暮らしていた屋敷があり、殆んど水に囲まれているようなものだった。

 だから屋敷中のどこの窓を覗いてもその巨湖が必ずと言って良いほどに見えるのが特徴だった。


「(そういえばあの時、何となく眺めていた湖に大きな影を見た気がして怖くなったんだっけ。)」


 今でもまだ11と少ししか年を重ねていないぼくだが、もっと幼い頃に見た景色を思い起こしてみようと記憶を辿る。

 もうぼんやりとしか残っていないその記憶では、降り続ける雨をぼうっと眺めていた自分が何となくに落とした視線の先で奇妙なものを見たことから始まるものだった。


 幼い頃から妙に近付き難く感じるあの湖は不思議と魔物が寄り付くがことない。

 柵も門もないと言うのに屋敷に魔物の害が及ぶことはとんとないに等しい程だ。

 現に、当時のぼくは魔物を見たことがなくて、危ない、人を襲うものと聞かされていてもピンと来ず、さして大したものではないと思い込んでいたくらい。

 勿論、その恐ろしさを故郷を去る羽目となることで思い知った今ではその意識はとうに捨て去ったものだ。

 が、まだまだその認識が甘かった頃のぼくは、好奇心が擽られるがままにその雨の中で湖に浮かぶ影を見て、ギャン泣きする程恐ろしい思いをしては爺やに泣き付く事となったのだった。


 広大な湖を一周しそうな程に長く伸びた管のような身体、それがゆらりと水面に影を映して揺れていた光景は幼い頃の記憶がもう随分と薄れた今でも思い出せる。

 あの時の爺やには、ぼくの泣き声に一体何事かと駆け寄ってきてくれてからは一晩かけて宥めてもらうこととなってしまったものだ。

 以来、湖から自棄に視線を感じるような気がしてならず、特に雨の日には窓辺に決して寄り付かなくなっていた。


 今思えばそれ以外にも随分と面倒をかけてしまっていたようにも思えるが……それももう、過去の話。

 爺や亡き今では最早それも良い想い出とも言えるだろう。

 ぼくは懐かしさを覚えると同時に切ない気持ちが胸を満たした。


「(結局、あれが何だったのかまではわからずじまいだったけれど……。)」


 そう考えては沈みかける思考を振り払わんと首を振った。

 ダメダメ、これ以上考えたらもっと落ち込んでしまいそうだ。

 ぼくはぱちんと頬を叩いては気持ちを切り替えようと他の事を考えることにした。


「(ここはフラーモニカの人達も知ってる場所なんだろうか? こんなにも綺麗な水だもの。きっと美味しい魚がいるだろうし、釣りをすれば良いのが捕れそうだ。)」


 かつて湖を怖がるぼくに、恐れることはないと釣りを体験させてくれた爺やとの想い出が脳裏に過る。

 あれは実に楽しい経験だった。

 大物こそ捕れはしなかったものの、屋敷の外で焚き火をしながら頬張った釣り立ての焼き魚はとても美味しかったのだ。

 あの時の魚の味を思い出したぼくは朝食を取ってからまだ少ししか経っていないのに小腹が空いたような気がしてきて、ほんのちょっぴりの切なさと空腹感から腹を撫でながら「あとでアサトさんにねだってみるか」と考えるのだった。


「(確か、地域や水の違いからいる魚の種類が違ってくるんだっけ? あの湖で捕れた魚はとても美味しかったけど、ここの魚も美味しいのかな…?)」


 考え出したら留まることはなく、じんわりと湧いてくる食欲からぼくは水を覗き込む。

 故郷のものとは違って澄んだ色の湖の水は、随分と離れたところまで水中の様子を見ることが出来た。

 小さな魚、ふくふくとふくよかな魚、綺麗な柄を持つ魚、長い身体を持つ魚。

 よくよく見てみれば底の方には貝らしきものが寝そべっている姿があったり、沈んだ岩の影には蟹のようなものまで見える。

 それを見るやぼくの脳裏には数々の海鮮料理が浮かび上がり、思いを馳せている内についついごくりと喉が鳴る。


「あれは何て言う名前の魚なんだろう? 食べれるのかな、美味しいかな……?」


 考えている内にぼくは徐々に湖へと近付いていってしまう。

 彼の忠告をすっぽりと頭から抜け落ちてしまっていたぼくは食欲に身を任せるがまま、間近で水面を眺めながら次第に一人言も大きくなっていった。


「そういえば、この湖には名前はないのかな? フラーモニカも近いし、きっと利用している人もいるハズだし……ああそうだ、うちの湖にも名前はあったな。確か爺やがいつか言っていたハズ。」


 何て言ってたっけな?

 そう考え込んで、湖の傍で腰を下ろしたままにぼくは腕を組んで首を捻る。

 周りの木々が風に揺すられ木の葉が擦れ合うさらさらとした音と静かな水の流れる音が鼓膜を緩やかに擽る中、ぼくは一人言を続けていく。


「ええっと確か……ハレ……ハル………ううんと………。」


 その時、ぼくは考え事に気を取られて気付かなかったのだ。

 ぼくの直ぐ傍の水辺、その水中で黒い影がゆらりと過っていったことに。


「んー………うーん………何だっけなぁ……? 確か二文字だったことは覚えてるんだけど……。」


 こてん。

 ぼくは捻る首を反対側へと傾けた。

 悶々考え約数分、考えども考えども中々上手く思い出せない。

 こう喉まで出掛かっているような気がする辺り、こう言う時は思い出せるまでもやもやとした感じが晴れることはないだろう。

 根気よく考えに考えること暫くして、もう何度目かの首を傾げる動作したその時、ぼくの耳に不思議な音が聴こえてきた。


「………うん? なんだろう、今の音?」


 それは甲高くも透き通るような笛の音。

 よくよく耳を澄ませていないと耳の良いぼくですら聞き逃してしまいそうなものだった。

 一体どこから聴こえてきたのだろう?


「んー……こっちかな………?」


 きょろり、周りを見渡しつつ振り返ってみる。

 鳥の鳴き声が後ろの森の中から聞こえてくる。

 しかしそれらは皆茂みの中に身を潜めているのだろう、声の主の姿は見えない。


「………いや、違うな。」


 ぼくは正面へと向き直す。

 見渡す限り障害物のない広大な湖には、誰かがいるようには思えない。

 もしもそこに何かがいるのであるとすれば、きっと身を隠しているのは水の中だろう。

 幾ら水が澄んでいるとは言え、奥の奥まではぼくには見通せない。

 ぼくは目の前に広がる大きな湖を視界に捉えると、端から端までゆっくりと視線を流していった。




 ──ぱしゃん。




「!」


 ぼくが視線を向けていこうとしていたその先で、小さな水飛沫が上がるのを見た。

 何かがいる。

 それに確信を持ったぼくは咄嗟に立ち上がり、近くの岸へと移動してみることにした──が、


 ぐらり。


「──へっ?」


 その時、湖に気を取られていたぼくは気が付かなかった。

 余りにも水辺に近付きすぎていたぼくの足は縁を踏み外してしまったのである。

 立ち上がろうとして失敗したぼくの身体は呆気なく傾いていき、大きな水飛沫をあげると共に水中へと沈んでしまったのだった。




 バシャーンッ ゴボゴボゴボ……。




 湖の中、沈み行くぼくの身体の周りに無数の泡が湧いて水面目指して昇っていく。

 その光景を眺めていたぼくはどうしてだか身動きが取れないままでいた。

 どうしよう、ぼく、泳いだことがないや。

 沈みながらにぼくは思う。

 息が出来なくて苦しくて、もがこうにも上手く水がかけなくて、徐々に水面を照らす陽の光が弱くなっていく様をどうしようもなく目に映していた。


 ぼく、このまま溺れて死んじゃうのかな?

 アサトさんの言うこと、ちゃんと聞いていれば良かった。


 そんな事を考えていたぼく。

 けれども、その時は不思議とぼくの中には恐ろしさが無かった。

 心地好い水の冷たさと、包み込まれていくような感覚がどうにも奇妙な懐かしさを思わせてならなかったのだ。

 死への恐怖より水の中の心地好さが勝ってしまい、ふと眠いような感覚まで込み上がってすらきてしまう。

 するとぼくの瞼は次第にとろんと落ち始めてしまうのだった。

 いっそ、このまま眠ってしまおうか──どこか諦めにも似た感情に胸の内は支配されていき、徐々に抵抗を忘れて深く沈み込んで行こうとしていく。

 その矢先に、ぼくは頭上に黒い影が陽の光を遮るのを見た。


「(──あれは───。)」


 落ちかけた意識が一気に引き戻されていく。

 気のせい?

 ぱちくりと瞬いたぼくの瞳には、やはり泡の群れの奥に“人影”が映っていた。

 それは身体をくねらせぼくの方へと沈み込んでくると、何か響くような音を鳴らしてそっとぼくの手を掴む。


 その時、身体の奥へと染み込むように聞こえてきたその不思議な音は、何故だかぼくに


『もう、大丈夫。』


 と、囁いてくれているかのような気がした──。






「──ぷはっ!」


 水面から顔を出して早々、ぼくはあたかも久し振りに息を吸うかのように大きく口を開けた。

 げほごほと飲み込んだ水を吐き出して、それから新鮮な空気を肺に取り込む。

 しばし激しく咳き込んで、咳き込んで……ようやく落ち着きを取り戻してきた頃、ぼくはぼくの身体を支えてくれている誰かの気配に気が付く。

 ぼくが咳き込んでいる最中にも、その誰かはぼくの顔が水面に付かぬよう身体を支えてくれつつ岸辺へと運んでくれていたようだ。

 気が付いた頃には岸辺に腰掛けさせて貰っていて、ぼくは地面にねそべりながらも礼を口にした。


「ごほっ、ごほっ! ……はぁ……あ、ありがとう、助かったよ。もう少しで溺れ死んでしまうところだった。」


 本当に、ありがとう。

 口の端をやや乱暴に袖で拭いつつ、そこでぼくは相手の姿を見たのだった。


 途端、ぼくは驚きの余りにも目を点にしてしまう。

 何故なら水面から顔を出していたその人物は、思いもよらぬ姿をした者だったからだ。


 幼さを帯びた丸みのあるあどけない顔付き。

 愛嬌のあるくりくりとした垂れがちな目。

 濡れた黒髪は肩まで垂らしており、低い鼻筋には長めの前髪が伝うように流されている。

 その額の端にはこめかみに沿って二本の白いメッシュが浮かんでいた。

 そこまではいい。

 しかし、驚くべきはその人物のその容姿がとても見知った人物に良く似ていた事の方だ。

 明らかに別人であろうと言うのに酷くそっくりだと思えてならないその人物を脳裏に思い浮かばせて、ついつい指差したまま驚愕の内に凝視していたぼくは、思わず死にかけていた事も忘れ、わなわなと震えていたのちにやがて我慢ならずこう叫んだ。


「あ、あ、アサトさん………!!?!?」


 そして、愕然として硬直するぼく。

 きょとんとした眼差しでじっと見詰めていたその人物は、見るからにぼくと同年代そうな容姿で沈黙していたかと思うと、やがて皮膚に“鱗”を携えた頬を緩めてはふにゃりとはにかんで、


「きゅーい!」


 と、甲高くも澄んだ笛のような、不思議な鳴き声・・・をあげたのだった。





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この世界はきっと愛で出来ている!~神様代理人のハピエンルート開拓史~ 茜野 @yuuhi1008

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