10 尋ね人を探して。

 とある屋敷にある書斎、こつりと響くヒールの音。

 外界を隠すカーテンを前に、立ち止まっては布地を摘まむ。

 ほの暗い部屋に日差しを入れようとシャッと勢い付けて開けてみれば、視界に飛び込んでくるのは眩しい程の蒼。

 思わず細めた目元に掌の傘をさす。

 硝子越しに見上げた空は雲一つすらなく澄みきっている。

 その景色は見ているだけで清々しく、胸が空く程心地好かった。


 折角だからと窓をほんの少しだけ開けてみる。

 窓越しからでもぼんやりくぐもって聞こえていた雑踏の音、鮮明になる。

 今日も賑わう屋敷の外、楽しげな人々の集いを見下ろしていれば思わず口元も緩んでしまう。


 ああ、今日もこの地は平和だ。


 感慨深くそんな事を思っていると、戸の隙間から涼しくも日に当たりほんのり温められた風がふわりと吹き込んできた。

 そよ風が頬を撫でる。

 その心地良さに浸りつつ、ぐぐっと背筋を伸ばしていく“私”。

 肺に取り込んだ空気を存分に味わうと、深く長く吐いていくのだった。


 本日、フラーモニカは晴天である。


 普段、薄い膜を張るような雲の天井が日差しを遮り影を生む、そんな気候が常のこの地にそれはとても珍しいこと。

 だからなのだろう。

 今日はなんだか良いことが起きるような気がする。

 そんな予感がして、弾む胸を抑えながら私は今日も椅子に腰掛け、机に向かった。


 眼下に並ぶ書類の塔、手を伸ばしてそれに目を通す。

 和やかな日差しを浴び、そよ風に当たり、楽しげな人々の声を聞き流しながら、粛々と仕事に打ち込んでいく。


「……あら?」


 ぴゅうっと隙間風のささやかな悪戯、手に取ろうとした書類が吹き飛んでいく。

 床に滑り落ちていく様を眺めて、一つ息を吐く。

 竦めた肩、仕方無いと腰を上げる。


 かつ、かつ、かつ。

 ゆったり歩を進め、ヒールを鳴らす。

 スカートの上からの膝を撫でて、しゃがみこんで拾った一枚の書類。

 流れ作業で手にしていたならば、きっとそれをじっくり眺める事はなかっただろう。

 けれどもその時、拾った瞬間、その一枚の書類は特別なものとなった。


「───。」


 何となく、その書類を眺めていた。

 その文字をなぞる視線が不意にぴたりと立ち止まる。

 ほんの少し見開いた目、驚きに胸はとくりと跳ねた。

 やがて細められていく目、思考を巡らし顎を撫でる。


 そうして悩み込んでいたのは長い間か、それとも短い間か。

 暫し書類を睨むように眺めて、やがて顔を上げる。

 かつ、かつ、かつ。

 拾った書類を手に取り自身の席へ、背凭れに身を委ねて体重を乗せればきしりと言った音が鳴る。

 それから机上に置かれたベルを持ち上げて、小さく揺すって、チリリン、と軽やかな音を響かせた。


 トントン。

 向かいの扉を誰かがノックする。


「失礼します。」


 礼儀正しい声が聞こえると、ガチャリと扉を開いて現れる一人の男。

 肩に、腕に、足にと鉄のアーマーを纏い、腰には剣を携えた男は私を前にすると胸に手を当て恭しく頭を下げた。


「如何なさいましたでしょうか?」


 私はこくりと頷くと、机上に置いたあの書類を爪先で押すように差し出した。

 

「見て欲しいものがあるの。」


 そう言うと男は扉の真ん前に立っていた場所から、がしゃり、がしゃりと音を立てて私の目の前へとやってくる。

 そして出された書類を眺め、眉を潜める。


「これは……。」

「この御方との面会の手配を、お願い出来るかしら?」


 渋い顔を浮かべる彼に、渡し戻された書類を受け取った私は微笑みを浮かべる。

 彼は少し困ったような顔を浮かべたが、一つゆっくりと瞬くように目を伏せた。

 その様子はどこか諦めのような面持ちを浮かべているような気がした。

 当然だ。

 私のお願い事に彼が何を思おうとも、一介の部下でしかない彼にはそれを口出しする権限などない。

 そもそも、このフラーモニカで私に逆らえる者などいないのだ。


 この地に築かれたあの白亜の門を守護する為。

 門から善からぬ者の侵入を防ぐ為。

 それらの役目を任せられている私だからこそ、この席に座る私にはそれ相応の責任と権力を持っている。


 そんな私は返された書類のある一文を指先で撫で付けながら、恭しく一礼をする配下の彼の敬意を込めて私を呼ぶ声を聞くのだった。


「は。では、直ぐに取り次ぎ致します──“門主”様。」






 *****






 夜ももうすっかりと更けた頃のことだった。

 オレこと“ナイト”は宿主に呼ばれて、自分を訪ねてきていると言うお客人に会う為宿泊施設の奥にある応接間へと訪れていた。


 この地に訪れまだ間もないと言うのに客人だなんて、一体誰なんだろう? と疑問に思いつつも足を踏み入れたそこは、この宿で一等人の出入りの多い一般客が使う宿泊室と違って質素と表現するにはやや遠く、そしてとても丁寧に手入れされた部屋だった。


 備えられている調度品も他の部屋とはまるで違う。

 椅子は木材感丸出しではなく表面に艶があるし、床は板張りが見えぬよう幾何学模様を刺繍された分厚い絨毯が一面に敷かれている。

 部屋の真ん中にある大きな机とて、脚や側面が曲線を作るように削られていて、蔓や百合の花らしいモチーフが所々に拵えられていて、ただの家具でも芸術品染みている。

 そちらの方面に疎い自分ですら、それが生半可な額で手に入れられるようなものではない事くらい一目見ただけでも察せられる程のものであった。


 聞けばここは貴族様御用達のものらしく、時折商人が貴族様を相手に商談をするに使ったり、身分のある御方同士が話し合いをする場として利用されるのだとか。

 だから滅多に使用されずとも普段から掃除がかかせないのだと、案内ついでに宿主が溢したささやかな愚痴に「まあ自分には縁のないところだな」と思いつつ、苦労を労う声を送ったのはつい数刻前のまだ宿に到着したばかりの頃の事。

 なのにオレは今、何故だかそこに連れてこられて豪奢な椅子に座らされていた。


「──近頃は何かと物騒な事が多いですよね。何でも、最近隣町の方では人拐いがあったとか。」


 向かいに座っている如何にも貴族っぽい女性が何か喋っているのだが、緊張のあまり話が頭に入ってこない。

 ずっと俯きっぱなしで、額や頬に背中では冷や汗が無限に湧いてくる。

 気を抜いてしまえば変な声が出てしまいそうなくらいだ。

 部屋に通された瞬間にも思わず変な声を上げてしまったのだが零れてしまったのだ。

 室内にいた人達が自分を見て一瞬浮かべた怪訝な顔に、しょうがないだろう! と精一杯主張したいくらいではあったのだが……悲しいかな、そんな度胸はオレにはない。


 何せ部屋の中にいたのはこの如何にもな貴族っぽい女の人と、腰に剣を携えた厳つい男の人達だったからだ。

 ……悲鳴を上げなかっただけマシだと思いたかった。


「何でも、ある日突然姿を見なくなるのだそうですよ。買い物に出掛けたまま帰ってこなくなったり、ぱったり音沙汰がなくなってしまった者もいるのだとか。」


 怖いですねぇ。

 なんて、不穏な話題をする割には何とも呑気な口調で目の前で彼女は微笑みを絶やさない。

 ティーカップを手に取るや、それをゆったりと持ち上げ口を付けると、音もなく水分を口に含んでこくりと飲み込んでは喉を潤していく。

 その一連の動作は流石貴族様と言うべきなのだろうか、常人の目から見ても洗練されたものだと何となくにも解ってしまう。

 そうしてただ紅茶を飲むだけですら絵になる程の彼女の姿を見たならば、世の男達はきっと見惚れてしまうに違いないだろう。

 緊張で彼女の顔も見れず、この震える手ではカップを持つことも儘ならない自分とは大違いである──いやそもそもオレはお貴族様の前でお茶など飲めるような身分じゃあないけれど!


 そうしてぶるぶると震えながら俯いているオレを前に、彼女は静かな動作でソーサーの上へとカップを運んでいくと、かちゃりと小さな音を立ててそっと手を離す。

 ソーサーに戻されたカップは空になっていた。

 するとそこへ傍にいた配下の者らしい男が頭を下げつつ、すかさずポットへと手を伸ばそうとしていった。

 不意に彼女が目を向けぬままに掌を上げて見せた。

 多分、あれはおかわりは不要であると言う意思表示なのだろう。

 動作のみで送られた指示に、配下の男はまた頭を下げると再び元の位置へと戻っていった。

 言葉もないのに、よくもまあここまで意志疎通が行き届くものだ。

 感嘆の息を溢しながらつい見とれてしまう。


 その最中にもずっと喋り続けていた彼女が、初めてティーカップの中身ではなくオレの方へと視線を向けた。

 どきり。

 思わず胸が跳ねる。


「始めは家出か失踪かと言われていたそうですけどね。余りにも同時期にいなくなるものですから、ひょっとして誘拐されたのでは? と言われるようになったそうですよ。ですから、貴方も気を付けてくださいね?」

「は、はあ……。」


 不意に他愛のない話題を振られて、オレは思わず力のない返事をしてしまう。

 すると彼女はそんなオレを見てくすりと笑ったかと思うと、指先で弧を描く口元をささやかに隠しながらこう言った。


「そう緊張なさらないで? 私は貴方とお話がしたいだけなのです。理由もなく危害を及ぼすつもりはありませんよ。」

「はぇっ? アッイエ、そのっ! そっそそそんなっつもり、では……!」


 一瞬何を言われたのか理解出来ずつい変な声が出てしまった。

 そして相手に気を使わせてしまったと気付くや否や、オレはあたふたと慌てふためきながらも弁明。

 しかし、その様が酷く滑稽だったのだろう。

 あわあわとしながら下手な作り笑いを浮かべて手を振り首を振りと、大袈裟に身振り手振りしながら否定するオレを見て、彼女は余計に笑いが込み上げているようだった。

 肩を小刻みに震わせ、しかし品性を保たねばならない女性が大口を開けて笑う訳にいかず、眉をハの字にして彼女は大層愉快そうに楽しげかつ苦しげに笑っていた。


「ああ面白い。こんなに笑ったのはいつぶりかしら?」


 笑いを堪え過ぎてだろうか、滲んだ涙に彼女が人差し指の背で目尻を擦る。

 暫く口元と腹を抑えて震えていた彼女であったが、漸くそれも落ち着いたようだ。

 ふう、と息を吐いて居住まいを正すと「ああ、そうそう──」とまたもや雑談を再開するのだった。


「………。」


 それにしても、良く喋る人だなぁ。

 何となく、そんなことを考える。

 こちらは時たま相槌を打つ程度でこれと言って面白みもないであろうに、よくもまあ話題が尽きないものだ。


「(ひょっとして、話し相手に飢えているのかな……?)」


 一介の平民でしかない自分には貴族の暮らしなど到底検討もつかない。

 自分が指名された件についてにだってやはり疑問が尽きないのだけれども、それにしたって談笑に興じる彼女は心からそれを楽しんでいるようで、無下にするのは憚られる。

 ならば気のきいた事の一つでも返せれなたらよかったのだが、如何せん自分は口が上手い訳でもなければこんな時に丁度良い話題を持っている訳でもなく、それでもって不器用なものだからお貴族様相手に下手なことをしでかしてしまわないよう大人しくするしかない。

 全く、こうして歓迎して貰っていると言うのに……不甲斐なくて申し訳ない。


「──そう言えば、実は今、とても困った事がありまして……。」


 話半分に聞きつつ一人悶々としては肩を落としていると、少し声音を落とした彼女の声が耳に入ってきた。

 見れば、彼女は頰に手を添え物憂げに瞼を伏せている。

 薄く紅を塗った薄い唇からは小さく吐息が零れて、何処か悩ましげであった。


「困ったこと……ですか?」


 先程まであれほど楽しそうにお喋りをしていたのに、不意に一変した彼女の様子に思わず聞き返した。

 彼女がこくりと頷く。


「ええ。最近、王都の方でとある名・・・・を名乗り悪さを働く者がいらっしゃって…。」


 彼女の言う“困った事”。

 それはこんな話だった。


 曰く、ろくに医者にもかかれないような貧民に「自分は医者の端くれだ」と宣っては、誤った治療法を勧め重症化させたのだとか。

 曰く、人助けと称して荷物持ちをかって出たかと思えば、そのまま強奪したのだとか。

 曰く、店先の商品を盗んだ物取りを捕まえたかと思えば、謝礼金として高額を商人から巻き上げたのだとか。


 彼女が頭を悩ませていると言うそれは人を殺めたり国を陥れようとする醜悪な悪とはまた違った、所謂、こそ泥や引ったくりなど精々人様に迷惑を掛ける事に精を出す程度なちんけな悪党の事だった。

 確かに、善意を装って人に近づき悪事を働く……それは確かに許されざる所業ではある。

 しかし、頭を悩ませると聞くには些か粗末な事柄ではないだろうか?


「始めは良くある小さな事件だと、誰しもが思いました。だってそんな粗末な出来事、何処にだってあることですもの。その方も即座に衛兵に捕まり、普段通り処理もされました。ですが……」


 そこまで言うと彼女の表情が曇っていった。


「……それで終わりではなかったのです。最早濡れ手で粟、その騒動にはキリがないのです。」


 そして彼女は憂い気に溜め息を溢したのだった。


 なんでも、その悪党と言うのは一人二人の話ではないのだそうだ。

 一人捕まえた所で別の悪党が別の場所でまた沸く。

 それも同じ名を名乗り、同じ手口で。

 物好きな模倣犯もいたものだ、と始めは片付けられていたのだが、それが二人目、三人目となっていけば、誰もがその奇妙さにいずれ気が付くだろう。

 現に、それは二度三度で終わる事はなかった。


 被害が出る度衛兵達は各所を走り回り、目を光らせ、悪党確保に勤しんだ。

 が、一人を捕らえてもまた別の箇所で湧いてくる。

 そうして数が多くなってくると「ひょっとすると摸倣犯などではないのでは?」「彼らは裏で繋がりがあり、何らかの目的を持って犯行に及んでいるのではないか?」と考える者も出てくるようになり、「もしやおちょくられているのでは」と何人目かの犯人を捕らえた衛兵が憤慨しながら問い詰めた事もあった程だ。

 次第に不穏な空気が立ち込めだす街では、衛兵はピリピリと神経質になり、警戒する人々も互いに疑心暗鬼になって、にわかに賑やかさが薄れていくこととなってしまった。


 勿論、今まで捕らえた悪党共の身元を徹底的に調べ上げる事とて、彼らは手を緩める事はなかった。

 ……が、しかし、どんなに叩けど埃は出ない。

 捕らえた彼らに接点らしい接点はなかったのだ。

 それには誰もが首を傾げざるを得なかった。


 思えばそれは、奇妙な事が多くある事件であった。

 悪党同士に接点はない。

 ならばどうしてこんな事をと聞けば、途端に口を開かなくなる。

 起きる場所も点でバラバラ。

 なのに一人を捕まえれば、全く違う地区で全く別の悪党が現れる。

 まるで示し合わせたかのようなタイミングで、だ。


 そんな中、件の悪党が捕まえたと言う物取りがグルであったのだと街中で囁かれるようになっていた。

 情報を聞き出すべく事情聴取していた衛兵よりも先に一般市民達の間で囁かれるようになっていたその噂は、悪党が捕らえられた直後になって街中で横行し出したようだった。

 何処からそんな話が出てきたのかと疑問に思う事は少なからずあるものの、では実際そうなのかと当人に訊ねてみれば、やはり各々が知らぬ存ぜぬと互いの面識を否定する。


 ならば彼らは嘘を吐いているのか?

 そう考えて彼らを問い詰めていく衛兵達だったのだが、そこへ程無くしてまたもや妙な事が起きるようになった。

 まだ取り調べの最中であった筈の悪党が、捕らえて程なくして釈放されるようになったのである。


 何故そんな事になってしまったのか?

 聞けばそれは、証拠不十分と言う理由によるものなんだとか。

 しかし、衛兵達はまだ納得出来ていない。

 にも関わらず悪党を手放す羽目になった理由は、その指示を出したのが“上層部”であるからだ。

 その為事情聴取は不十分。

 録な情報をまだ全くと言って良い程引き出せていないのに、上からの命令には逆らえない衛兵達は、煮え切らない思いを抱えたままやむを得ず悪党達を解放せざるを得なくなってしまったのだった。

 ……何ともキナ臭く感じてしまう話だ。


 そしてそんな裏話など露知らず、表面上での出来事しか知らない一般市民達からすれば、捕まったばかりの悪党が日を経たずして街中へと放り出されている様を見れば「一体どう言うことか」と不満や疑問を抱く者は少なからずいることだろう。

 繰り返される事件とてまだ解決に至ってすらいないのだ。

 当然、被害者達からすれば堪ったものではない。


 そんな事があって事なのだろう。

 お陰で王都は今、民の不満が募り高まっている傾向にあるのだそうだ。


「(ははあ。王都では今、そんな大変な事になっているのか。)」


 成る程、とオレは頷く。

 これは確かに頭の痛い話だ。

 何度犯人を捕まえても別で出てくる上に、捕まえた矢先に逃されてしまうのならばキリがないのも頷ける。

 それでは治安維持の為にある衛兵達とて面目丸潰れとなってしまうだろう。

 気が立ってしまうのも無理もない。


 そんな所へ何も知らずに向かったならば、何かしら問題が起きた際に対処に困りかねない。

 こうして到着するよりも先に街の様子が聞けたのは、願ってもみなかった幸運だ。

 街に着いた際には自分達も被害に遇わぬよう気を付けなくては……。


「ああそれから、そのくだんの名と言うのが──」


 彼女が話す頭の痛くなるような話を聞きながら密かに物思いに耽っていると、ふと妙な心地を覚えた。

 おや? と思ったのはほんの一瞬、それは微かに皮膚がぴりりと痺れるような些細な感覚。


 それは虫の知らせのようなもの。

 理由はわからない、けれども今正に危険が迫っているのが直感的に感じるような、説明し難い感覚だった。

 それを感じると、オレは考える間もなく咄嗟に席を立とうとした──が、


 ガシャン!


「ぅぐッ!?」

 

 突如自分に与えられたのは、顔面への容赦のない衝撃。

 後頭部を掴まれたと同時に押し付けられた机との衝突に、訳もわからぬままオレをくぐもった悲鳴を上げた。


 い、一体何が起きたんだ?


 頭の中が混乱に満ちゆく中、頭を押さえ付けられたままだと言うのに更に奪われた左腕が強引に後ろへと回されていく。

 その間、僅か数秒程度。

 オレはあっという間に身動き取れなくされてしまった。


「動くな。少しでも怪しい動きがあれば、即座にこの腕を折る。」

 

 突然の出来事に混乱するオレに、背後からそんな厳しい声が聞こえてくる。

 痛みに苦悶の顔を浮かべつつ、ぎこちなくも振り返る。

 そこには隣に立っていた男の一人が険しい顔でオレをねめつけながら押さえ込んでいる姿があった。


 こつん。


 ぴりついた静寂の間に、ヒールの音がささめいた。

 その方角には言うまでもなく彼女の姿が。

 交差し組む足の上下を入れ替えて、オレを見下ろした彼女はたおやかな微笑みを絶やさぬままこう言ったのだった。


「“ナイト”──だそうですよ、その悪党達が名乗った名は。」

「──待っ、」

「動くなと言っているだろうッ!!」


 待ってくれ!

 そう叫ぼうとした矢先に、頭上から怒鳴り声が響いて俺の声は掻き消された。

 後頭部や腕を抑える手に力が込められていく。

 頭や背中に痛みが走る。

 腕も、下手に身動げば肩が脱臼してしまいそうだ。


「ま、待って、くださいっ……オレは本当に、何も関係なくて……!」


 オレは残った腕を上げ降参の意を示しつつ、その上で無実を訴えた。

 しかし、


「捕まった奴は大抵そう言うんだよ。観念して大人しくしろ。」


 ハンッ、と鼻を鳴らして男はこちらの主張をはね除けた。

 どうやらこちらの話を聞く耳を持つ気はないらしい。

 しかしこちらとて冤罪で捕まってしまうのは不本意だ。


「ですがっ、オレは悪いことなんてしていません! なのに、名前が同じってだけで、こんなっ……!」

「ならこれから行動を起こすつもりだったんだろう? そうはさせないからな。このフラーモニカに悪さをしようと足を踏み入れたんだ、その罪は重いぞ!」


 なんて事だ。

 男のその言葉を聞いて自身の置かれた状況をはっきりと確信し、オレは絶句した。

 彼らにとってオレは今後悪事をする人物なのだと判断されてしまったようなのだ。

 自分の名が偶然にも悪党が名乗ったものと同じ名だった、という理不尽極まりない理由だけで。


「(そんな無茶苦茶な……!)」

「……“門主”様、連れの者は如何致しましょう?」


 あまりのショックで愕然としているオレの隣で、傍に立っていたもう一人の男がそう訊ねた。

 門主……恐らく彼女の事なのだろう。

 彼女は手を添えた頰を傾けた。


「連れ……ですか?」


 何の事だろうか、と不思議に思っているらしい素振りだ。

 男がこくりと頷く。

 その奥ではもう一人別の男が遠ざかっていくのが見えた。

 先程視線を向けた際に、その人物が男に耳打ちしていたのがオレの目には見えていた。


「はい。入国手続きの際に受ける監査の記録には一名での入国と記載がございましたが、どうやらこの者には同行者がいるようです。ここの店主からの話でも他に二人、子供が同室を利用しているとの事で。」

「あら、それはいけませんね。入国手続きは正しく記載して頂かなくては困りますのに。……門前の兵には貨物の内容まで確認するよう指示している筈ですが、それはどうなっておりますの?」


 男が差し出した一枚の書類らしい紙を受け取ると、それをじっと眺める彼女。

 すると男は言いにくそうにしながらこう言葉を返した。


「それがどうも、馴染みの者の中には顔を確認しただけで通す事もあったようで……その……出入りする頻度が多い者は、特に。」

「そう……出入りの頻度が多い者は特に、ねぇ……。」


 男の額に脂汗が滲み出る。


「な、南西の村から蜜を売りに頻繁に入出国をされるご老人は特にその傾向が強くありました。以前、入国審査で掛かる時間に痺れを切らしてトラブルがあったようで。」

「ああ、あのお爺様ね。覚えていますとも。その件については私も関与しましたので。」


 彼女はそう言うと、ぱん、と掌を合わせて笑みを浮かべる。

 そのお爺さんとやらとは過去に何やらあったらしい。

 心当たりがありますとばかりに声を弾ませる彼女に、男はこう言葉を続けていく。


「はい。それ以来、そのご老人は『この顔を見ただけで俺が誰だかわかるだろう』とごねるようになり、『監査をスルー出来るようにしないともう蜂蜜を売りに来ない』などととしつこく兵に訴えかけてくるものですから、それで……。」

「あのお爺様、蜂蜜で相当儲けてますものね。彼ほど多く蜂蜜を仕入れられる者はおりませんから、確かに輸入が途絶えれば我が国でも困る所はあるでしょう。痛いところを突かれたものですね……。」


 はあ……と悩ましげに溜め息を溢す彼女、男は心なしか安堵してか肩を竦めませていた。

 が、しかし、男が一瞬緩めた顔は次の瞬間、彼女の一言で凍り付いてしまうのだった。

 微笑み絶やさぬ彼女が男の目の前にぴらりと紙を見せ付けた。


「……ですが、そのお爺様は先日お亡くなりになったばかりの筈。そんな方がどうして今日、入国手続きをなさっているのです?」

「………えっ?」


 にこりと笑みを崩さぬ彼女に、ひくりと引き釣る男の顔。


「私を抜きに勝手な判断をされては困ります。後で不正に入国許可を出した者を連れてくる事と、貨物監査と身元確認の徹底の厳守を命令致します。例外は認めません。」


 そう言って、固まる彼を余所に“門主”と呼ばれた女性はくるりと踵を返した。

 かつ、かつ、と歩を進めては、机に突っ伏す形で抑えられているオレの前へと立つ。

 そして持っていた書類を差し出すような形で見せると、穏やかにこう告げるのだった。


「どんな小細工で他者に化けているのかは存じませんが、私の監視下でそれは通用致しません。“偽称・ナイト”様、貴方を不正入国者として捕縛致します。」


 宜しいですね?

 そう宣告する彼女の言葉には、穏やかな口調に反して有無を言わせぬ圧があった。

 どんな言い訳も聞く余地なし。

 そんな確固たる意思があのたおやかな笑みの中に、オレを射抜くようなその眼差しにしっかりと込められていたのだ。


 彼らは一体何の話をしているのだろう?

 見に覚えのない事を言われてオレの頭は混乱し始める。


「(オレは確かに門前の兵士に監査を受けてここまで来た。それには不正だってしていない。その時にオレが一人だったのは、街から街への移動を歩き通しじゃあ“あの子”には酷だろうと思って、偶然居合わせたお爺さんに頼んで荷馬車に乗せて貰っていただけだ。それで偶々、先に入国していただけに過ぎないのに……。)」


 オレが視線を向けた先には彼女が見せる書類。

 そこには見覚えのある老人の人物画が記載されていた。

 オレが“あの子”を預けたあのお爺さんだ。

 その人物画が記載されている文に続いてあるのは、商品の販売を許可する旨。

 販売品の項目にあるのは“蜂蜜”だった。


「(あのお爺さんが、死んでいた…? そんな馬鹿な。だってオレは確かに会って、あの子を……託し…て……?)」


 オレはその時の記憶思い起こそうとして、必死に思考を巡らせた。

 

 森の中……道行く道中………鉢合わせた馬車に、老人が………老人………?


「(……あれ? あの馬車に乗っていたのは、本当にこのお爺さんだっけ?)」


 一瞬、脳裏に過ったのは下卑た笑い声。

 先を歩く歩行者を轢こうとも構わず馬を走らせる不審な馬車。

 見覚えのある荷台に、すれ違い間際に鼻腔を擽る鉄の臭い──。


 背筋に冷たいものが走る。

 今までそれが事実だと思っていた記憶が、不意に脳裏を過った映像に掻き崩され、上手く思い出せなくなっていく。


「な、んの、事でしょう……? オレには、さっぱり………。」


 何が何だかわからなくなって苦し紛れにそう答える。

 すると彼女は肩を竦めてこう返した。


「この期に及んでまだ惚けるおつもりです? もう貴方には逃げ場などないと言いますのに。」


 そして彼女は持っていた書類を両の手の爪先で吊るすように胸元の前で摘まみ上げた。


「因みにですが、部屋の中だけでなく外にも私の兵は控えております。無理矢理脱走を謀ったところで無駄ですからね。それから──」


 ぴり、ぴりりっ。

 用紙に亀裂が走る。


「失踪が多発しているらしい隣街、いなくなった者の中には年端もいかぬ子供もいらっしゃったようで……少々、調べさせて頂きますね。」


 ビリビリビリッ。

 爪先から歪な紙吹雪が散っていく。

 手の内が空になった門主は視線をちらりと外すと、その先にいたその意図を察して男が一礼した。

 そして男が向かったのは廊下へと続く扉の方。

 恐らく、彼が行こうとしている先は──、


「ま、待って! わかりました! わかりましたからっ!」


 オレは咄嗟に声を上げた。


「貴女達の望み通りにします。オレに罪があると言うのならば、認めます。全部、全部貴女達の言う通りにします。ですから……ッ、」


 背後の男が押さえ付ける力を増していく。

 背中に強い圧迫感と、肋骨が軋む感触がする。

 しかし、それで黙ることはオレには出来ない。

 彼らを黙って、大人しく見過ごす訳にはいかなかった。


「……っで、すから……“あの子”には………何も、しないで………ください……っ。」


 部屋を出ようとしてノブに手を掛けたまま立ち止まる男に、そして彼らを指揮する門主だと言う彼女に、オレはそう必死に訴えかけるのだった。


 静止する空間、誰もが懇願するオレに視線を向けている。

 オレは押さえ付けられたまま、駄目押しに額を机に擦り付けた。


「お願いします、お願いします……! “あの子”だけは……弟だけは、巻き込まないでやってください………あの子は何も悪くないんです……!」


 静寂が辺りを包む。

 その場にいる全ての者が自分を善からぬ者として見ているのがわかる。

 軽蔑、嫌悪、嘲笑。

 彼らは声も音も上げないが、ひしひしとこの身に受ける視線からはその感情だけが痛いほどに伝わってくる。


 馬鹿にするならすればいい。

 愚かな男だと思うのなら笑えばいい。

 力も権力も何も持たない無力なオレには、出来ることといったらこれくらいしかない。

 プライドなんて、持っていたって何の役にも立ちやしないのだ。

 なら、そんなもの棄てたって構いやしない。

 オレにとっての一番は、他の何より“弟”なのだから。


「“弟”……ですか。」


 静まり返った部屋の中、彼女がポツリと言葉を溢す。


「本当に、貴方はおかしな方ですね。その名を偽称する者を何人も見てきましたが、そこまで“かの御方”に似せているのは貴方だけ。街の者とて皆、歴史から消えた名医──“ニコライト・ルーチェ”がかつて“ナイト”と呼ばれていた事すら知らないと言うのに、貴方だけはその名前に反応した……。」


 そして彼女は掌を添えた口元を寄せると、オレの耳元で囁くようにこう言ったのだった。


「知ってますか? それを知っているの、実は一部の貴族と我が国の王族のみなんです。………ねぇ、貴方、一体何者なのです?」


 口角は綺麗に弧を描き釣り上げているのに目だけは笑っていない、そんな彼女の言葉にオレは何も答えない。

 答えたくても、言葉が出なかったのだ。


 オレはナイト。

 “あの子”の……“アル”の兄、ニコライト・ルーチェ。


 それは確かだった。

 今まで事実であった筈なのに。

 何故だか今はそれが間違っているような気がして───気が───………──。




「──ああもう、面倒臭いなぁ……。」






 *****






 それは一瞬の内に起きた出来事だった。


「かはッ……!」


 どしゃり。

 たった一度の瞬きから、開けた視界に飛び込んでくるのは最後の一人の崩れ落ちていく姿。

 意識を奪われた身体が力なく床へと伏していく。

 そんな彼の周りには、既に他の者達が既に転がっているのが見えた。


「………はあ。」


 沈黙する彼らの向こう側、今しがた倒れた男の向こうからは、ゆらりと立ち上がる一つの影。

 億劫そうに上体を起こす、その人物はつい先程まで私が話していた者だった。

 けれどその人物の様子は今までとはまるで違う。


 結っていた髪紐を解いた頭は黄土色から黒色へ。

 座る際にも伸びていた背筋は気怠そうな猫背へ。

 気弱そうで人の顔色を気にしてへらへらと愛想笑いを浮かべてばかりだった表情は何事にも興味なさげで。

 レンズの向こうに見える目は翡翠から黒へ、眠たそうな臥せがちの目付きへと変わっていた。


 さながら人が変わったかのように纏う雰囲気が一変していた。

 私は見開いた目をその人物に向けたまま固まった。


「───。」


 私はその姿を見た瞬間、思わず息も忘れて見取れてしまっていた。

 跳ねる鼓動、上がりゆく体温、そして高揚感。

 胸元に添えた手に力がこもりきゅっと握り合わせた。

 そうして見詰めたままでいた私に、少しだけ瞼に隠れた視線がじろりと向けられた。


 彼の足が私へと向く。

 一歩、二歩、緩やかな足取りで距離が詰められていく。

 それは決して遅くない速度で歩を進めているのに、自棄に静かなのが不思議でならなかった。

 やがて沈黙したままの彼は私の前で立ち止まった。


 何か、何か言わなくちゃ。

 私はそう自分を急かすように言い聞かせるが、ドキドキと跳ねる胸が苦しくて上手く息を吐くことが出来ない。

 ぼんやりと立ち竦んでいると、徐に持ち上げられた手が私の頭上に影を落とした。


「………一つだけ、」


 ずっと閉ざしていた口が、直ぐ傍にいる私にだけしか聞こえない声量で呟く。


「一つだけ、君に確認したいことがある。それを聞いたら、僕はもう君達に用はない。大人しく君達の前から消えよう。」


 穏やかな口調なのにとても冷めた声音が鼓膜に響く。

 私より少しだけ高い背から落ちてくる目線が私を射抜く。

 見上げる私の頭上にはそっと手を乗せられていたが、そこに慈悲はあれども優しさはない。

 ばちり、と弾ける音が私の上で鳴り響いた。


「……大丈夫、殺す気はないよ。ただ少し、“今日の事”を忘れて貰うだけ。痛みはあっても一瞬さ。何も心配することはない。」


 冷ややかな視線を落とす彼が取り繕っただけに過ぎない形だけの優しさを込めた言葉を囁いた。

 彼がそんなことを口にしたのは、私の手が小さく震えてしまっていたからだろうか。

 それから彼はこう言葉を口にした。


「人を探している。このフラーモニカの前任者・・・だ。」


 彼の言葉を聞いた瞬間、私は思わず目を瞬かせた。

 しかし彼は構わずこう言葉を続けていった。


「いつの間に代替わりしたのかは知らないけど、僕はその人に用がある。君がここの門主ならその所在くらいは知っているだろう?」

「……ええ、ええ。勿論、知っております。」


 私はこくりと頷き、彼の問いにそう答える。

 同時に、私は彼を見上げる目を眩しそうに細めていった。

 そして感極まるように唇を噛み締めると、息を吐くようにこう言った。


「私も……探している御人がおりました。」


 彼は怪訝な顔を浮かべた。


「もう何年とずっと、姿を見ない御人でした。もう十何年と音信不通で……。」


 私は手を伸ばした。

 その手を向けられた彼は警戒して僅かに身動いでみせたが、それでも私は構わず爪先をそっと触れさせた。

 爪先に彼が纏う衣の感触が伝わってくる。

 それは私に“夢ではない”と伝えてくれているかのようで、これが現実なのだと思うときゅうと胸を締め付けられる感覚を覚えると共に嬉しくなってしまう。


「何処にいるのか、無事でいるのか、生きているのかすら不明なまま。その行方の手掛かりすら乏しくて、探し出すのも困難なくらいでした。」

「………何を、」

「ですが、それももう心配はいらないようです。……だって、」


 そして私は彼を見た。

 彼に向けた私の目には今目にしているものと、もう一つの景色が揺らぐように映っていた。


 それはかつて私を残して去っていこうとする後ろ姿。

 慣れぬ地に私一人を置いて、その背中はこちらに目もくれず離れていった。

 私は何度も、何度も声を上げた。

 精一杯、手だって伸ばした。

 行かないで、置いていかないで。

 そう訴え叫んだ喉は次第に痛みを覚えるようになっていっても、結局それが届くことはなく、遠く離れてしまった背中はやがて見えなくなってしまった。

 そんな“彼”の背中。

 それが今、私の手に届いている。


 ああ、やっと……やっと見付けたつかまえた


 ぽすり、凭れ掛かるように額を彼の首元に埋める。

 衣服に隠れた鎖骨に擦り付けた鼻先を通り、昔嗅いだことのある懐かしい香りが鼻腔を擽る。

 それを深く吸い込んで感傷に浸っていると、戸惑っているのか、彼の身体が私から離れようと後退った。

 けれど、私の服を摘まんだ手は距離を取ることを許さない。

 半歩下がった彼に釣られて、私の身体が彼の方へと寄りかかっていく。


「このフラーモニカで門主を名乗れるのは、今も昔もただ一人。そして、王命によってこの地を任されている者こそ──、」


 私は見上げる、あの頃と変わらぬ姿の彼を。

 笑みが溢れる、彼が驚いた顔をしているのが何だかおかしくて。

 そして私は彼に告げるのだ、目的はとうに果たされたのだと。

 彼の尋ね人と私の尋ね人、それは今こうして巡り会えているのだと。




「“ラヴィニア・ウェイトリー”、それが私ですよ──お父さん・・・・。」




 私を見て目を見開く彼、訳がわからないと固まってしまう。

 そんな彼が何だか酷く面白くって、私は思わず破顔した。





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