8 もう一人の勇者。
誰かの啜り泣く声が聞こえる。
誰かが悲しんでいるのが伝わってくる。
土埃と鉄錆びの匂いが混ざった空気が肺を満たす中、顔を上げられずにいた■は一人分の声を聞いた。
「……めんよ、ごめんよ……! こんな不甲斐ない兄ちゃんで……!」
囁くような、そんな声。
混じって微かに聞こえてくるのは、ぱた、ぱた、と雫が落ちる音。
「ごめん……ごめんよ……! お前の事を、何一つ守ってやれなくてっ……!!」
その声は、今にも後悔に押し潰されそうだった。
余りの痛ましさに、心配になった■は直ぐ様「大丈夫だよ」「泣かないで」と伝えようと唇を動かそうとした。
──出来なかった。
「(身体が、動かない。)」
頭をもたげようと首筋に力を入れた……筈だった。
しかし、どんなに力を込めようとしても頭は岩のように重たくて微動だにしない。
それどころか、首を横に回す事すら出来なかったのだ。
視界を何か障害物に阻まれ真っ暗となり、その上、何だか息苦しいような──いや、違う。
「(身体が、ない。)」
■は
持ち上げた瞼、直視せざるを得ない現実。
視界に映った景色、意識を向けた先。
そこには首から下のない
延々と流れる血に身体を赤く濡らし、溢れ出る涙を頬汚す赤に濁して染めていく。
当然、首だけしかないそれはもう疾うに息絶えており、その傍にて横倒れている首無しの肉体もまた、力なく地に伏していた。
その光景を目の当たりにして、■は漸く自身の置かれた現状を理解したのだった。
「(そうか。■は死んだのか。)」
今まで錆び付いたように動きが悪くなっていた頭が正常に回り出すのを感じた。
どうしてこんな事になったのか。
どうしてこんな事が起きる羽目になったのか。
本当はどれも考えたくもなかった事。
けれども、理解してしまった今ではそれも仕方ない。
全て■が招いた事だった。
どうしようもなく■の自業自得だったのだから。
「アルっ………アルううっ……! うわあああ、ああああっ……!!」
泣き叫ぶ声が誰かの名を呼ぶ。
それはきっと、彼が抱いている躯となってしまった者の名なのだろう。
“アル”と言う名を耳にした時、思わず開きかけてしまうこの口。
嗜めるように、■は唇を噛み締めた。
此処には■の出る幕など少したりともないのだから。
「アル、ごめんね、ごめんよ。痛かったろう。苦しかったろう。せめてお前にはそんな思いはさせたくなかったのに……本当に、ダメな兄ちゃんでごめんな……。」
涙ながらにそう言いながら、彼は抱いていた頭を首無しの亡骸の元へとそっと置く。
首と胴体を合わせたところで息のないそれはもう二度と動き出す事はない。
それでも彼は首と胴を並べる事で元の姿へと戻すと、その血に濡れた冷ややかな頬をそっと撫でた。
爪先を辿って白い肌に赤のラインがなぞられていく。
元よりそれは色白な素肌を持ってはいたが、すっかり血の気を失せたその亡骸はより痛ましく白が極まっている。
線を引く血の色はよりその白を引き立てて見せた。
「アル………。」
ポタリ。
その雫が落ちるのももう何度目か。
瞬きする度に頬を伝い落ちた涙が冷たい頬をまた濡らす。
横たわらせた顔を覗き込んだその時、身動いだ彼の脚が傍にあった硬質なものにこつりと当たる。
カラカラン、とやけに響く金属音を奏でたのは刃が酷く血に濡れた剣だ。
涙に回りを赤く腫れさせ、悲しみ嘆きに虚ろとなった翡翠の瞳がそれを視界に映す。
そして、徐にそれへと手を伸ばしていくとその柄をしっかりと両手で握り、持ち上げたのだった。
沈黙のまま、他人事のように遠巻きに眺めていた■はそんな彼の姿を見て、サアッと血の気が引いていくのを感じた。
「(なん、で。)」
「………ごめんね、アル。オレの可愛い弟。一人で往くには、寂しがりなお前には酷だろう……。」
彼が掲げた剣の矛先は、あろうことか彼自身へと向いていたのだ。
それを目にした瞬間、■は彼が何をしようとしているのか直ぐ様予想がついた。
思わずつんのめるような足遣いで駆け寄って、それを止めようとするのだが……。
「大丈夫だよ。兄ちゃんも一緒に行こう。お前が寂しがらずに済むように、一緒に“あの子”の元へ行こうな──。」
前へ伸ばしたこの手があの人に届こうが、■に出来る事など何一つとしてなかった。
「……
落ち着いた柔らかなテノールが粛々と言葉を紡ぐ。
涙を流す翡翠の色は瞼の裏へ、掲げた剣はゆっくりと首筋へ。
必死に手を伸ばす“誰か”の事など欠片も気付く事なく、たった一人きりとなった男はこう言葉を続けていく。
「
「(そんな事を言わないで、せめて、せめて貴方さえ生きていてくれたら、■は──!)」
「……だから………どうか、せめて弟の隣で、眠らせてください………。」
はくはくと音を吐かない口が意味もなく開閉する。
目の前の光景に、今すぐ叫びたい気持ちが込み上げてくる。
なのに■にはその資格は持ち得なく、伸ばした手も折角届いたかと思いきやすり抜けて自らの後ろへ。
■は無力だ。
■には彼を止める術は持っていない。
ただ見ている事しか出来ず、この口も願望と自制心がせめぎ合うばかりで音を吐く事すらままならない。
■が無力感に苛まれ、鮮やかな瞳に雫を滲ませて打ちひしがれている最中、彼が手にした剣はその喉元へと刺し込まれていった。
「ごめんな、アル……可愛い、オレのアルモニア。弟を一人も守れない、ダメな兄ちゃんで──。」
──ずぷり。
刃が肉に食い込む音が、やけに鼓膜に張り付いて聞こえる。
肉を刃が貫いて、咳き込むように吐き出した吐瀉が地べたに新たな赤色を塗る。
激痛に苦しみ呻く声がばしゃばしゃと血を吐きながら口を衝く。
首を真っ直ぐに貫いた剣は新たな鮮血をその剣身に纏わされ、すらりと引き抜かれたかと思うと再び地へ放り捨てられるのだった。
カラカラカランッ。
大きな音を立てながら転がる剣、その傍らで剣を放り捨てた彼はそのまま亡骸の上へと覆い被さるように身体を倒していった。
自らの首を穿った剣を引き抜いたのは、残った力を振り絞っての事だったのだろう。
首に風穴を開けた彼はもう既に虫の息となっていた。
「………ぁ………ぅ゛………。」
息をする度空いた喉からひゅうひゅうと音が鳴る。
だくだくと流れていく血の量も夥しく、彼も直に息絶える事は明白だ。
それなのに彼は流れる血に気を止める事なく身を捩ると、自身の身体を亡骸の隣へと横たわらせてまたその頬へと手を伸ばしていくのだった。
「……ぁ、ぅ゛………ごえ、ね………。」
“アル、ごめんね”。
その謝罪を聞くのも何度目なのだろう。
彼は死に際ですら弟の事しか頭になかったのだ。
「ごえ、ね……だ、がっ………ね………。」
“ごめんね、痛かったね”。
その言葉を耳にした瞬間、彼が何を言おうとしているのかを■は気付いた。
気付いてしまい、罪悪感に苛まれて掌で顔を覆った。
──オレは、こんなにも痛い思いをお前にさせてしまったんだね。
それは、彼が彼自身を戒める為にも自ら命を絶ったと言う事だった。
それもその筈だろう。
彼の愛する弟の首を跳ねたのは、他の誰でもない“彼自身”だったのだから。
「違う! ■は──“私”はただ……!!」
思わず口を衝いて出た言葉。
咄嗟に掌で押さえて息を呑む。
戦慄く身体、青ざめていく顔。
折角必死に気配を消していたと言うのに、それを不意にする愚行を犯してしまった自身の失態。
思わず額や背中に冷や汗が滲み浮かんでくる。
「(不味い、此処で見付かる訳には……!)」
それこそ全てが台無しだ。
そう考えては最悪の未来を思い浮かべて「本当に、何て事をしてしまったんだ私は…!」と自身を叱咤。
自身の足取りを、それから自身が此処にいる事を、決して知られてはいけない人物の目からどうにか逃れる術はないかと必死で頭を巡らせていくのだった。
しかし焦り故か思考はうまく定まらない。
どうしたら良いのか、これからどうするべきなのか、考えれば考える程絡まっていく思考に次第に混乱が募りだす。
しまいにはまた目尻に涙が浮かび上がってくる始末である。
「……ぁ……ぅ゛……?」
その時、合う筈のない翡翠色の視線がかち合ったような錯覚を起こした。
驚いたように見開かれた目。
溢れるばかりの血を吐く口が何かを叫ぼうと開閉する様。
……有り得ない。
見付かる筈がない、見えている筈がない。
頭ではそう思っていても、最期の力を振り絞って持ち上がる腕が向く先に堪えようとした涙がまた落ちていく。
「(そんな、嘘だ。)」
こんな事ある筈が。
彼が手を伸ばしていくその先には、他でもない“私”がいた。
「(……嘘だっ……!)」
見られてはいけない。
見付かってはいけない。
頭では自らの置かれた状況くらいちゃんと解っていた。
なのにこうして彼に見付けて貰えた事が、自分が確かに此処に存在している事を知って貰えた事が震える程に嬉しくて、つい嗚咽が溢れそうになる。
それに、何よりも嬉しいのが──。
「ぁ、ぅ゛。」
“アル”──私を見て微笑んでくれた彼に、その名で呼んで貰えた事だった。
「兄さ──。」
その名で呼ばれた時、思わず応えそうになってしまう。
しかし……途中ハッとすると、私はそれを踏み留まった。
「(……違う。私は“アルモニア”ではない。)」
だから、私にはあの人を“兄”と呼ぶ資格がない。
そう思い、思い上がりそうになってしまう自分を戒める。
駆け寄ろうとした足もまた、そこで止めようとして──、
「ぁぅ゛、ぁぅ゛ぅ……っ!」
ごぼっ、ぼたたっ。
血反吐を吐き、地を濡らす。
私を見詰めその名を連呼する彼が必死で腕を伸ばしてくる。
もう残り少ない命だと言うのにも関わらず、だ。
無理をしてでも彼は私の傍へと寄ろうとしていた。
「(違う……違うのです。だって“アルモニア”はもう死んでしまった!)」
目に涙を浮かべた私は首を横に振りながら、声に出来ない想いを胸の内で叫ぶ。
「(もう、貴方の弟であった“アルモニア”はいないのです……! 私はただ──、)」
その時だった。
どしゃり。
私へと伸びていた腕が地に落ちた。
真っ赤な水飛沫が宙を跳ね、限界を迎えた身体が血溜まりに突っ伏す。
もう、終わりが近いのだろう。
最早死に体でしかない彼の姿に、いよいよ堪えられなくなった私は咄嗟に駆け寄っていった。
「ああ、あああっ………!」
血を流し過ぎた。
傷も致命傷だ。
もう助かる事はない。
どうして、何でこんな事に。
“せめて彼だけでも”と自ら兄の手にかかり命を散らした
その心が解らず私はただただ嘆くばかり。
血溜まりに沈む彼を抱き起こそうと手を伸ばす。
だがこの手は彼の身体へと到達してもすり抜けて、何も掴ませてはくれなかった。
本来、私はこの場にいる筈のない存在だからだ。
疾うに此処を去るべきだったものを名残惜しさにこの場に押し留まっていただけに過ぎない、ただの傍観者でしかなった筈なのだ。
それだけではない。
彼に見付かってしまう事自体こそ、異例中の異例だった。
「(どうしてっ……貴方まで死ぬ必要なんてなかったのに!)」
「……ぁ…………ぅ゛…………。」
「──!」
もう身動ぐことすら儘ならないであろうに、穴の空いた喉で辛うじてな音を溢す彼がまた亡骸の名を呼んだ。
止めてくれ、もう無理をしないでくれ。
苦しむ貴方をもう見たくない──思わずそう声にしてしまいそうな口で息を呑む。
何も言葉にする事も出来ずに耐え難い現実に首を振り、唇を噛み締めながら涙を溢す。
もう本当の最期の力で伸ばされる手に、応えてやれる身体があったならば。
最期であるこの瞬間に、まだ意識のある彼に捧げてやれる言葉があったならば──。
「ぁ……ぅ゛………ぃえ……。」
そんな不明瞭な言葉と共に、伸びてきた爪先が実体のない頬を掠めていった。
──アル、泣かないで。
その時、ふと私の脳裏に覚えのない記憶が過った。
──アル、大丈夫だよ。兄ちゃんは此処にいるよ。
それは私が“アルモニア”
──アル。オレの可愛い弟。何をそんなに泣いているんだい?
──夢見が悪かった? 嫌なことを思い出してしまった?
──何か、不安な事でもあったのかい?
無性に沸き起こって仕方がなかった不安や怯えに訳も解らず泣くばかりの“アルモニア”に、身を寄せて抱き締めてくれた彼の優しい声音色。
その頭を撫でる手が苦しい程に温かくて。
その温もりが狂おしい程に優しくて。
つい時間を忘れてしまう程にずっと彼に寄り添ってしまっていたある日の出来事を、その時私は思い出したのだ。
──笑っておくれよ、アル。泣かないでおくれ。お前には笑顔の方が似合っているよ。
そう聞こえたのはきっと幻聴だ。
彼の潰れた喉では声どころか音を出すのも限界ギリギリと言ったところ。
そんなハッキリとした言葉を、今の彼が口に出来る筈がない。
「ぁ、ぅ゛、……っえ……。」
……なのに、彼は私を見て笑っていた。
「ぁら、っえ……。」
あの時と変わらない微笑みを浮かべて、私に“笑って”と言っていたのだった。
彼は私を弟だと言ってくれた。
私を“アルモニア”と呼んでくれた。
彼は、私がちゃんと此処にいる事を認めてくれた。
それなのに………それなのに………!
そんな彼に、私は──……。
*****
「………。」
ふと、目が醒める。
薄暗闇の中、見慣れぬ天井が視界に映る。
口を衝く呼吸は少しだけ荒く、吸い込んだ空気が肺を冷やしてくる。
それに伴い頭の中も冷えてきて、寝起き直後のぼんやりとしていた意識をハッキリとさせていく。
するとそこで胸の奥の、ばくばくと跳ねる心臓の痛みに漸く気が付いた。
懐かしい、夢を見た。
懐かしい、誰かの姿を見た。
胸を抑えて襟を握る。
それから目元に腕をあてがった。
すると次第に袖がじんわり濡れていく感触に、今度は自分が泣いていた事に気付かされてしまうのだった。
辺りは真っ暗、宵闇に包まれている。
眠りに落ちてからまだそれ程経っていないのだろう、朝が来るにはまだ当分時間がありそうな時刻のようだ。
むくりと身体を起こしていく。
寝汗に濡れた背中を布団から離せば、入り込んでくる空気の冷たさに思わずふるりと身体を震わせた。
くるり、今度は周りを見渡す。
視線を向けていった先には隣のベッド、小さく膨らんだ毛布の影。
その膨らみは微かに聞こえてくる小さな寝息の音に合わせて緩やかに上下している。
それはその内側にいるであろう人物がすっかり眠りに落ちている事を示していた。
息を殺し、気配を消し、片足ずつベッドから下ろしていく。
ほんの少しベッドが軋み、キィ、と細やかにも甲高く鳴く。
すると小さな膨らみから寝苦しげな呻き声が聞こえてきた。
「───。」
……起こしてしまっただろうか?
自分にとっては細やかな音でも、彼にとってはとても良く聞こえるものなのだと聞く。
良く聞こえる耳と言うのは如何せん自分には経験がない。
それでだろうか、どうにもその感覚が解らない。
その為つい羽目を外してしまいがちになってしまう事がままあるのだが……。
「んん……。」
もぞり。
膨らみが一際大きく揺れたかと思うと、それは身悶えながら寝返りを打った。
どうやら起こしてしまった訳ではないらしい。
それが解るやホッと胸を撫で下ろしていった。
「(そーっと、そーっと……。)」
忍び足、音を立てぬよう近付いて。
そろりと枕元を覗き込んでいく。
そこにはやっぱり思っていた通り、あどけない顔をした少年がすやすやと安らかに寝息を立てていた。
「(……ふふ、よく眠ってる。)」
少年の穏やかな寝顔を見て、思わず破顔。
くうくう寝息を立てている様が何とも微笑ましいことか。
思わずくすりと笑ってしまう。
そのふくよかな頬が実に柔らかそうで、誘われるように立てた人差し指でつんと突ついてみる。
すると少年は、むにゃむにゃ、ふにゃふにゃと身体をもぞつかせながら言葉になっていない寝言を呟き始めた。
起きる様子はやはりない。
しかし、それにしたってその仕草がなんともういじらしくって、愛おしくって……。
「(か、かぁわい~~っ!!)」
思わず身悶えてしまうのだった。
それからはと言うものの、暫しの間少年の見せる反応に夢中になって、つんつん、つんつんつん、と飽きもせずに頬を突ついて愛でていた。
始めは擽ったそうに肩を竦めていただけだったが、少年は次第に眉を寄せては「ううん……」と呻くように。
流石にそろそろ止めてあげないと……。
けれどもどうにもこの手を止めるに止めれず、ついつい続行してしまうのだった。
………その時、
「………うるるるる…。」
すぐ傍から、地を這うような低い唸り声が聞こえてくる。
ハッとして少年が被る布団、その内側へと視線を向けてみる。
影が覆うその隙間、そこからうねる黒色が自分を睨む様を見た。
あ、やべ。すっかり忘れてた。
あちゃー、と思い、咄嗟に掌を見せて距離を取る。
「(悪かったって。アーサーが可愛いから、つい夢中になっちゃっただけだよ。)」
「うるるるる………。」
「(そんなに怒るなよ。短気なやつは嫌われるよ?)」
唸り威嚇してくる相手に、胸の内にて言葉を返す。
何せ、声に出せば少年が起きてしまいかねない。
それに、その相手とて声を聞かずとも胸の内を察する事の出来るもの。
なので、そうしたって伝わらないこともないのである。
すると相手は布団の暗がりから、ぬるりと1本の管を伸ばしてきた。
それは真っ直ぐに自身へと向かってきたかと思えば、少しの間を置かずにぺしんと頭を叩いてきたのである。
「いっ──!」
ったいなぁ! 何するんだよ、もう!
思わず声を上げ、怒鳴りそうになる。
しかし直ぐ様ハッとしてそれを抑えた。
どうにか叩かれた頭を擦りながら、じとりと睨み返すだけに何とか留めた。
どうやら相手は「一言余計だ」と言いたかったらしい。
ご立腹らしくふんと鼻を鳴らすような音を発したかと思うと、頭を叩いた管でそのままこちらの襟首に掴みかかった。
そして、やはりこちらに抵抗する間も一切与えぬまま、ぽーんと離れた場所へと放り投げてしまうのだった。
「わ、わ、わ!」
一瞬の内に自らの身体が宙へと飛び、ひゅるるる、と舞っていく。
思わず慌てて声を上げてしまう。
しかし床に激突するその寸前、それは咄嗟にくるりと身を翻した。
ヒュッ──すちゃ。
大して大きな物音を立てる事もなく、四肢を床に着けて何とか無事に着地成功。
幸い身体を強く打ち付ける事もなかった。
何とか無傷無音にて着陸出来た事で密かにホッと安堵した。
少々慌てはしたものの、元よりこの程度ならば自身にとって造作もない。
直ぐ様体勢を整えると、キッと目付きを鋭くして臨戦態勢となって影を睨み付けるのだった。
「もう! 何す──、」
そして不服を口にしようしたその瞬間、やはり相手は今度も声を出す余地すら与えてくれなかった。
ヒュッと影が伸びて来るのを視認したのと同時に、それがぐるりと巻き付いてきて口を塞いだのである。
むぐぐーっ!
直ぐ様それをひっぺがそうともがき暴れる。
呼吸を止められている訳ではないようで、息は出来るがちょっぴり苦しい。
だがそれ以上に、この相手にそうされているのが屈辱で仕方がないのだ。
じたばたじたばたと不満不服を露に抵抗し続けていると、不意に頭上から大きな影が差し込んだ。
「──!」
思わず、暴れていたのがぴたりと止まる。
額に冷たい汗が滲む。
背筋にぞわりとした感覚が走る。
頭上、目の前に現れたのは、無数の触手を絡み合うように貌作られた名状し難い“何か”だった。
『て け り り。』
重く、低く、意味不明の音が脳裏を揺らすように鳴り響く。
暗闇の中、奥に潜む暗い赤の鈍光が自身をねめつけているのが見える。
ごくり、と思わず喉を鳴らす。
すると口元を覆う管の先が、つつ……っとその首筋を撫でていった。
その感触が自棄に皮膚を通してハッキリと伝わってくる。
それが無性に何とも言えない悪寒を、自身に感じさせて止まなかった。
「(……くそ、余裕ぶりやがって。)」
頬に冷や汗を滲ませながら、相手の言わんとしていることを察しては苛立ちに小さくギリッ…と歯を鳴らす。
──お前なんか、いつでも仕留めてやれる。
そうとでも言いたいのだろう。
……何とも腹立たしい事だ。
自身を下に見て驕り偉ぶっているその態度に、胸の奥からふつふつと怒りが湧き起こってくるのを感じた。
口元を覆う触手の下、引き釣り始めた口の端、剥き出した歯の奥から無意識に「ぐるる…」と唸り声が零れ始める。
こいつ、いっそのこと今ここで殺してやろうか。
じりじりと湧き上がってくる殺意に、剥き出した歯──否、犬歯のように鋭く尖らせた
その時だった。
──ぴしり。
何処か近くから、ひび割れるような音が聞こえた気がした。
「──ッ!?」
瞬間、ゾッとするような感覚が全身に走った。
咄嗟に手が伸びたのは自らの顔面、口元を覆う触手を乱暴に払い除けて掌で押さえる。
覆い隠すように当てた掌の、その指の合間から覗く目が大きく見開かれている。
その鮮やかな青の瞳は動揺で小刻みに揺れていた。
くす くす くす。
垂れた雫が落ちるような、跳ねるような、そんな音に混じり笑い声らしき異音が聞こえてくる。
それから次に聞こえてくるのは、やはり不可解極まりない彼女の鳴き声。
「んがふなくる、んくるぅ……。」
粘った水を叩いて鳴らすみたいな、不快極まりない謎の異音。
それはこの場にいる誰もが──勿論、今その麓で眠っている少年も含めて──その音に意味を見出だす事は出来ないだろう。
何故ならばそれは、人間が扱うような音の一つ一つに意味を持たせた高度なコミュニケーション──“言語”とは程遠い、感情を表す合図でしかない獣特有の音声信号のようなもの。
所謂、かの少年の言う“鳴き声”と称してしまうようなものに思えてならないからである。
さながら犬が“わん”と鳴くように。
さしずめ猫が“にゃあ”と鳴くように。
自らの意思を持ち、感情のあるそれらにだって発する音にきっと少なからずの意味はあるのだろう。
しかし人は何故それらを引っ括めて、ただの“鳴き声”と称してしまう。
それは何故か?
答えは簡単、人にはそれが“
「んい、いるる、あいあい……。」
意味不明の音を頻りに鳴らしながら、くすくすと言った笑い声だけが辛うじて伝わってくる。
何かを伝えようとしているのだろうか?
だがこちらにはその意味を解せない事くらい、向こうにだって解っている筈。
それなのに……何故だろう。
嫌な予感に身を強張らせてしまう。
「い、うぇるう、うぐ……にゃるらうい……。」
目の前へと、先程振り払った管がゆらりと近付いてくる。
そう言えば、あんなに暴れてもびくともしなかった癖に、その時だけは自棄にすんなり離してくれたような……そんな事を頭の端で考えている間に、それは今度はゆらゆらゆったり寄ってきた。
かと思えば、触れる寸での所でぴたりと立ち止まり、その先端を向けられる。
さながら指でも指されているようだ。
余り良い気分にはならない仕草に顔面を押さえた掌の奥で、ひくりと眉を潜ませた。
くす くす くす。
聞こえてくる笑い声、その向こうでこんな音が聞こえてくる。
「ば け の か わ。」
「────ッッ!!?」
くす くす くす。
笑い声が聞こえる。
自分をせせら笑う声が聞こえる。
あろうことかそれは訳の解らない“鳴き声”ではなく、拙くも辛うじて意味を解せる“言葉”を発していたのである。
その“言葉”を向けたのは、どう考えたって自分の事。
態々指を指してまで、嘲笑っていたのである。
その言葉の意味を理解した瞬間、“それ”は冷水を頭から被せられたかのような錯覚を起こした。
それからの事はわからなくなっていた。
気付いた時にはもう、逃げるように部屋を飛び出していたものだから。
くす くす くす。
「いあ、あうる、ふなぐたうい。」
たった今、目の前で目障りだったものが逃げ去っていくのを見て、彼女はご機嫌に鳴き声を上げた。
「あい、いう゛、あいあい。えるるてぃんだろぅい。んくるぅ。」
跳ねるような音を鳴らす彼女の周りでは、その身体から伸びた無数の触手がゆらゆら、うごうごと蠢いている。
そのどれもが先端からくるくると渦を巻き、捻れ合ってはくねっていた。
どうやら、先程の出来事が余程愉快だったようだ。
くすくすと笑う声はどうにもまだ止みそうにない。
──人語もろくに喋れない低能がっ!
「………えう、えるる、ふるるうぃえ。」
彼女はどうも、いつか“それ”に言われた事をずっと気にしていたらしい。
しかし、その
おまけに“お邪魔虫”を追っ払う事まで叶ってしまった。
これ以上ないくらいに上出来な結果となり、先程までご立腹だった彼女も今や大変ご満悦状態となっていた。
「いあ、いう゛、あいあい、えるるい………。」
「…ううん……。」
「!」
その時、彼女の傍らで眠る少年が小さく呻いた。
ぴくん、と小さく跳ねるように身体を揺すったかと思えば、彼女は少年の寝顔を覗き込むように傾けていった。
「……にゃるらー?」
少年が“猫の鳴き声”と称した声を響かせて、蠢く触手で撫で付ける。
しかし、やっぱり少年はまだ眠ったままだ。
「えうるお……。」
しょもん。
ちょっとだけ、目覚めを期待していたが故に拍子抜けして落ち込んでしまう。
だけども、今の彼女は落ち込んでばかりはいられない。
何てったって今は、彼女と少年の二人っきりなのだ。
少年の周りには常に
ならば、この一時を存分に堪能しなくては。
「………いあ、いあ。」
彼女の身体から伸びる無数の触手が少年の身体に纏わりついていく。
「いあ、にゃるら、あいいれう……。」
布団から覗く肩に、このままでは寒かろうと触手が布団を引き。
丸いシルエットを作る柔らかな髪を、愛おしげに撫でていき。
響かせる異音はいつもよりずっと穏やかに、眠る少年の為の子守唄のようにそっと囁いて……。
それは意識のない相手に伝わらない声、通じぬ想い。
そんな彼女が鳴らす柔らかな
*****
「はぁっ、はぁっ……! 」
荒い呼吸、肩を上下させ。
俯いたままに無我夢中で駆けてきて、息を切らしながら漸く足を止める。
ぜえはあ、床を睨み付けながら苦しげに呼吸を繰り返す。
頬や額からは嫌に汗の粒がながれていき、パタパタと床に落ちては降り止まない。
それが煩わしくて乱暴にぐいっと拭い払うと、顔を上げた拍子にそこで初めて自分が何処へ訪れたのかに気付く。
部屋を飛び出してまで訪れたそこは、自身が泊まるに利用している宿の公衆トイレ。
利用する者達の為にと用意されたそこは、深夜帯で皆眠っているが為滅多に利用者がいなくとも、常に開放されている場所でもあった。
通路に添って無人の個室トイレが数室横並び、通路を跨いだ反対側には向かい合う形で手洗い場がある。
その手洗い場に寄り掛かる形で立っていた自分がそちらに向けば、壁に貼り付けられた鏡が自身の姿を映し出しているのが見えた。
そこに映っているのは一人分の姿。
丸いシルエットを作るさらさらとした髪を流す、青い瞳の幼い子供の姿が見えるだろう。
それは先程に見た少年と瓜二つと言っても過言ではない程、とても良く似た容姿をしている………筈だったのだが、
「ひっ……!!」
鏡に映り込んだ自らの姿を見て、顔を強張らせて引き釣った悲鳴が上がる。
鏡に映っていたのは色白で陶器のように滑らかだった素肌、その頬に一筋の深い傷。
それがただの傷だったらまだ良かった。
しかし、その傷からは通常ならば考えられない現象が起きていたのである。
ぴし、ぴしぴしぴしっ……。
皮膚を抉って溝を作るようなその傷が、その範囲を拡げて更なる亀裂を生んでいく。
皮膚だったものは捲れて崩れ、破片となってはパラパラと落ちていく。
そんな亀裂の奥から現れたのは、網状に形作った鋭利な棘のようなもの。
「い、嫌だっ!」
口からは悲鳴をあげるように声が溢れる。
咄嗟に崩れる顔面に手を当てた。
どうにか押し止めようと必死で顔を押さえ続けていたのだが……悲しいかな、それでも崩壊が止まることはない。
身体を離れ粉々になっていく破片、仮初めの外殻を削ぎ剥がしていく。
皮膚だったものが指の合間を抜けてさらさらと溢れ落ちていけば、次第に露になっていくのは歪んだ形で辛うじて人を模したもの。
陶器のように滑らかな素肌からは途端に一変、丸みのない角張った外殻は繊維質のように網状の表面となっており、その形は絶えず形を変えては歪みを見せた。
棘のように鋭利な先を伸ばしたり、角のように先を尖らせたり。
その捻れてうねる繊維質な表面の奥には形を保つ為の肉らしきものもなければ、骨すらない。
血も、内蔵も、何もなかったのだ。
ただ空いただけの空洞がそこに満ち満ちていた。
詰まるところ、それは人ではなかった。
とある少年に似せて作られた耽美な見目の外殻の中には、口にするのも憚るような醜くおぞましい“何か”があった。
それはさながら針金を編んで作ったような姿をした、まごうことなき“化け物”だった。
ばらばら、仮初めの顔が崩れ落ちていく。
一度露になったそれは窮屈そうに殻を押し退けては、次から次へと範囲を拡げていく。
「止めてっ……
『キヒヒヒッ! ザマァねェなあ、グリム!』
キシキシと、金具を擦り合わせるような耳障りな音が聞こえた。
ギィギィと、立て付けの悪い木材が軋むような不快な音がせせら笑っていた。
周りには自分以外誰もいないと言うのに、自棄にハッキリとしたそんな声が聞こえてきたのである。
だが、それは静寂包む空間に騒々しさは決して与えない、無音の騒音にて響くものでもあった。
何せ、聞こえてくるのは耳からではなく、熱を出した時に起きる頭痛のように、頭の中で直接ガンガン響く耳鳴りのようなものだったのだから。
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