5 各々の視点にて。

「いやぁ、渡りに船とは正にこの事! 情けは人のためならずとは言いますが、まさかこうして商人殿の旅にご同行をお許し頂けるとは!」


 実にかたじけないですねぇ!

 ガタゴトと揺れる馬車の前方より、明るい声が景気良く響く。


「町から町への長い道中とは、幾らそれが危険と隣り合わせでも進まねばならない……とは言っても、やはり気苦労はどうしても尽きぬもの。それが徒歩ならばそれはもう尚更! 一つ二つと野を越え山を越え、あと何度昼と夜を繰り返せば辿り着くのやら……と、もう随分と苦心し続け途方に暮れかけていたのです。それがこうして心優しき同胞と廻り合い、四方や拾って頂くなどと! いやはや全く、ありがたい事この上ないっ……感謝してもしきれませんよ!」

「ははは。いやなに、これしきの事。私にとっちゃあ貴方方は恩人も同然ですから、どうかお気になさらずお寛ぎなさってください。…ちと荷物が多い故、足を伸ばすにはやや狭いかもしれませんが。」


 言葉の端々に強く感情を込めて、緩急強弱付けながら語る明るい声に、からからと落ち着いた声音が笑いを溢す。

 そして相手を労るように言葉を口にしたその男の声は、こうも言葉を続けていった。


「私も、土砂崩れに遭った時には心底肝が冷えたものです。誰かに助けを求めようにも、ここは滅多に人も通りらぬ樹海の真っ只中ですから。一時は荷物を全て捨て置き麓の集落へ逃げ帰ろうかと迷っていたくらいだったもので……。」

「なんと! 商人が商いするに肝心な商品を? それはそれは、一大事ではございませんか!」

「ええ、そりゃあもう。なので私にとっても九死に一生を得たも同然なのです。であれば恩には恩で返さなくては。本当に、良い所で親切な旅の御方に巡り会えました。」


 商人は朗らかにそう言うと、握り締めた手綱を揺らしつつ前を見据え、やや間を置いてまた口を開いた。


「それにしても……旅の御方にしては随分と風変わりな顔触れですね。見た所この辺の者ではなさそうですが、貴方方は一体どのような目的でこんな所に?」


 するとちらりと横目見た先で、商人は八重歯がちらつく口元ににんまりとした笑みが浮かべられるのを見た。


「にっひひひ! よくぞ、よくぞお聞きくださいました。気になりますよねぇ? 気になっちゃいますよねぇ!」


 商人からの問い掛けに、御者台にて隣に腰掛けていたその人物はご機嫌よろしく口角釣り上げ、煽るような言葉を口にし徐に立ち上がった。

 釣られて見上げた商人の前へ黒い袖をだらりと垂らす。

 かと思えば、もう傍らにて抱えていた奇妙な形の杖が御者台の板を叩きココンッと鳴らした。


「こんな山奥、緑生い茂る木々の中。右往左往と進むは様は迷い足、千鳥足──。」


 垂れた黒い袖をたゆませ揺らし、翻した掌は天へと向けて。

 長い袖に添って裂けた口から覗く爪先を正面から真横へと流しながら。

 やや上向いた口が紡ぐ言葉が途中で区切られると、またもや軽快に音が鳴る。


 ココンッ。


 抱えた杖を上下に揺らし、鳴る杖先は合いの手が如く。

 小気味良い音が響いてくると、その口は再び語りを始める。


「なればそれは帰路見失いし、憐れな迷い人なりや? 否、元より宛て無き旅路の道中。行き先定めぬ、酔狂なる戯れ──。」


 ココンッ。


「未だ見ぬ土地に心弾ませ、丘の向こうに期待を寄せて。我らが求むは次なる新天地。我らが望むは新たなる邂逅──。」


 ココンッコンッ。


 区切りに新たな音を含ませ、くるりと翻した掌を胸に添えて。

 軽く頭を下げつつ腰を折る。

 そんな風に恭しく礼をしたその人物は、それからこう言葉を続けるのだった。


「──故に、少々口が多いばかりな物見遊山が目的の、只の旅人にございます。何せ我らが主人はとても奇特な者でして。各地を巡る事こそ、我らの旅の目的なものですから。」


 そしてその人物、齢十を超えた程度らしき幼さである変わった風貌をした子供は愛嬌たっぷり笑みに含ませて、呆けて見詰める商人へと微笑みかけた。


「その主さまの護衛故、これでも鍛えている身でありまして。その為少しばかり、腕に覚えがあるのです。」

「……あ、ああ、それで。小さな子供が瓦礫を動かした時には思わずたまげてしまったが……成る程。納得がいきました。まだ若いのに、素晴らしいお力を持っていらっしゃる。」


 それから商人はからりと笑った。

 偉く可愛らしい女の子だと言うのに、よくやる──と。

 するとその幼い人物は杖で頭を隠していたローブのフードを少しばかり捲り上げると、特徴的な八重歯を見せ付けるようににんまりと深く笑みを見せた。


「いえいえ、それ程でも! 私もまだまだ未熟者ですから、他の者とは比べ物にもなりませんよ。あの土砂崩れだって、殆ど片付けてくれたのは寧ろ彼らの方ですし。──ね、主さま!」


 そう言って、ローブの少女は振り返って背後に声を掛けた。

 商人が進める馬車の荷台には、数人の人影がひっそりとそこに佇んでいた。


「……そうだな。お前はどちらかと言えば、喋ってばっかでサボっていたくらいだったからな。」


 荷台の暗がりから、そんな低い男の声が聞こえてくる。

 商人も、少女に習って後ろへと振り返った。

 そこで彼の目が映したのは、暗がりの中並べられた荷物に凭れ掛かり静かに佇む若い男の姿だった。


「『助けてあげましょう!』って威勢良く言い出した奴が、真っ先に手を引くたァどういう了見だ? ……さしずめ、一番始めに瓦礫を持った際に手が汚れた事で嫌になったんだろうがな。」


 ったく、物臭な奴め。

 そんなややご立腹そうな言い種で、かつ、さも解りきっていたとでも言いたげな声が暗がりの中から聞こえてくる。

 それを口にしている男はその間もこちらを見ようとはせず、微動だにすることもなかった。

 物陰で褪せた黄土色のコートのフードを深く被った姿からは、その素顔が商人の目に見えることはない。

 詰まるところ、素性が全く知れないのである。

 精々解る事と言ったら、その声からして男であると言う事くらいだろうか?

 見たところ細身で小柄な体格である事から察するに、恐らくはこちらもさして歳を重ねてはいないのだろうと思うのだが。


 そしてその声が小言交じりのそんな言葉を告げて、少女は思わず笑みを凍り付かせていった。

 ……やっべ、バレてら。

 そんな思考を密かに脳裏に浮かべながら。

 しかしかと言って正直に言ってしまっては体裁が悪いので、この場をどう誤魔化そうか考える。

 ふと、そこで隣から気まずげに横目見ているらしい商人の視線が向けられている事に気が付いた。

 何とも言えない重い空気が馬車内を漂っていく。


「………ま、まあ! 商人殿も荷物も、全部無事に救助出来た事ですし? 過ぎた事をとやかく言うのはナシってもんですよ。ほら、終わり良ければ全て良しってね!」


 わっはははー!

 なんて、景気良く笑って何とか誤魔化そうとアウェーな空気に抗ってみる。

 これで嫌な空気とはおさらばだ。

 自身にとって都合の悪い話も、これでおしまいだとばかりに強引にバスッと〆る。

 そうして無理矢理笑って見せる少女の隣では、商人も同じように笑みを浮かべてくれていた。

 その笑みは何とも引き釣っていたけれども……まあ、それは気にしない方向で。


「ねぇねぇ“マーリン”、あれなぁに?」


 さて次の話題をば、と少女が御者台で座り直そうとした時。

 男とも女とも判別し難い、自身とは別の幼声が聞こえてきた事でまた振り返る。

 そこで少女が視界に捉えたのは、荷台と御者台を繋ぐ窓から顔を覗かせていた、一風変わった衣裳を纏うもう一人の小さな子供だ。


 陽の光を浴びればきらきらと水晶のような輝きを見せる、艶のある澄んだ色の長髪。

 それが風に靡いて揺れる様は、磨き上げられた宝石と並べても引けを取らぬ所か負けぬ程に大層美しい。

 そんな長髪を携えたその容姿もまた、髪に見劣りせぬ程に酷く整っているものだ。

 盗み見るように視線を向けた商人もその美しさには思わず溜め息を溢していた。


 それがあどけない表情を浮かべて少女を見上げていたが、隣からの少しでも長く目に焼き付けようと向けられていた視線に気が付くや、その子供は何とも居心地悪そうに肩をすぼめた。

 そろそろと馬車の荷台の奥の方へ後退るように身を引いていき、やがては陽の光が当たらない所まで。

 それから子供の姿が見えなくなると、商人は名残惜しげに小さく唸るのであった。 

 

 そんな光景を傍目見て、“マーリン”と呼ばれた少女は仕方ないとばかりに肩を竦めた。

 そして頬に穏やかな笑みを浮かべれば、柔らかな声音を響かせて暗がりの中の子供へとこう話し掛けた。


「何か気になるものでもありましたか? ──“ニエ”さま。」


 優しく、壊れ物を扱うように。

 そうして声をかけてやれば、暗がりの中の子供──“ニエ”は、頑なに手を隠した広く深い袖を合わせて口元を隠しつつ、空色の瞳をぱちくりと瞬かせた。


「……えと……。」


 大空を閉じ込めたかのような瞳が、遠慮がちに商人の方へと流れていく。

 彼は今、馬車の手綱を握っている為に余り長く余所見を出来ない。

 それ故前を向く他ないのだから、ニエからすればその背中が見えている事だろう。

 それでもどうも彼を気にしているらしいその素振りに、マーリンは微笑みを崩さぬまま手招きした。


「大丈夫ですよ。ほら、ニエさまもこちらへいらっしゃってくださいな。」

「……う、ん。」


 マーリンからの誘いにようやくぎこちなくも頷くニエ。

 そしてゆるゆるとした速度で歩を進めていくと、商人を避けるようにしてマーリンの脇腹へとぴとりとくっついた。


 本来、二人の背丈はさして変わらない。

 だから普段ならばマーリンがニエを見下ろすような事はない。

 しかし今のマーリンは御者台の上、荷台に比べて段差のある場。

 それ故にだろう。

 こんな光景は新鮮だな──そう思っていたマーリンだったが、ふと隣からこんなぼやき声が聞こえてきて、つい聞き耳を立ててしまうのだった。


「……何やら、嫌われてしまったみたいだ。」


 見れば商人が苦い顔を浮かべている。

 それを見てマーリンはくすくすと小さく笑って返した。


「ニエさまが愛らしい姿をしているからと、そう食い入るように見詰めてしまっては警戒されてしまっても無理もないでしょうに。」

「はは、それもそうか。」


 惜しみつつも納得したと、マーリンの言葉に腑に落ちた商人との会話はそうして和やかに一先ず締め括られる。

 それからマーリンはニエの方へと向き、袖に隠れた指が指す方を眺めては「あれはですねぇ──」とその問いに答えていくのであった。


 そんな光景を傍らから横目見て、ほんのりと和やかな気分に包まれてしまう商人。

 幼くも見目麗しい二人が並び、穏やかに会話を重ねていく様に「将来が楽しみだ」だなんて、密やかに胸の内にてぼやいてみる。

 ……仕方がないだろう?

 こんな事、安易に口に出せるようなものではない。


 まあしかし、だ。

 兎にも角にも、今自身の傍には美しい容姿の“少女”がきゃっきゃとはしゃぎながら馬車から望める景色に喜んでいる。

 この状況には馬車の主たる商人も優越感に浸る他はない。

 考えるだけでも思わず口元はにやけてしまうし、子供らしく甲高くも耳障りでない声を聞いていれば、何とも言い難い悦に入るような高揚感に胸の内が満たされていく。

 背後の荷台にいる主人と呼ばれている男さえいなければ、如何にも“完璧”な状況だ。


 何せ、その男と言うのが、荷台に乗り込む前から何とも近寄りがたい雰囲気があった。

 今も床に腰掛けながら放り出すように足を伸ばしている様からは何とも気怠げで無気力そうだし、被ったフードを脱ごうとする素振りも一切なく頑なにこちらと視線を合わせようともしない。

 自分との対話も全てマーリンと言う少女に任せている所からしても、人との関わり合いを好まない人物なのだろうか……そう思っていたのだが、口にする言葉はどうも随分と荒っぽく雄々しい。

 どうやら気難しい人物であるのは確かなようだ。

 ならば下手につついてトラブルを招くよりは、余り関わらないのが得策だろう。

 そう早々に判断した商人は、男に関してだけは口をつぐんでいたのであった。


 まあ男がいようがいなかろうが、元より幼子に劣情を抱くような趣味などその商人には持ち合わせてはいない。

 だが流石にここまで容姿が整っているとなると話は別である。

 この華やかな見目を前にすれば、幼さが目につく程度の事は誰しも気にもならなくなるだろう。

 何よりこんな見目の良い女子二人に愛嬌振り撒かれてしまえば、そちらに傾いてしまうのもやぶさかではないと思えてしまうくらいだ。

 自分でなくとも誰だって「男ならば本望だ」と声を揃えるに違いない。


 だと言うのに、あの男はそんな状況で彼女達に関わろうとせず、一人離れた所で遠巻きに佇んでいる。

 その余裕綽々のすました姿に、商人は何とも言い難い歯痒さを覚えたものだ。

 そう考えてしまう事に対しても、つい仕方ないだろうと自身を正当化したくなる。


 ……いや、ここは率直に言おう。

 こんな美少女二人を侍らせているあの男が心底羨ましい。


 そんな疚しい事を考えていた商人だったが、ふと我に返り頭を振る。

 ああいかんいかん、何て事を考えていたのか。

 悪しき事に手を染めそうになる思考を振り払う。

 それから気持ちを切り替えようと姿勢を正すと、商人は馬を操る手綱をしっかりと握り締めるのだった。


「そう言えば、ニエさまは馬車に乗るのが初めてでしたもんねぇ。乗り心地は如何ですか?」


 そこへ、商人の耳に少女達の会話が聞こえてきた。


「んー……思ってたより悪い、かな? 広くて、動き回れるけど、“ロヴィ”の方が乗り心地がいいや。」


 だって、ロヴィはもっふもふだもん。

 ニエと呼ばれた少女は、そう言ってはにかんだ笑みを見せた。

 その笑顔がそれはもう愛らしく、可愛らしく、思わずぎゅっと胸が締め付けられる程。

 商人は崩れそうになる顔面を堪えようと力を込めた。

 ……その“ロヴィ”とやらが何の事かまでは知らないが。


「まあ、確かにこの馬車は初めて乗る方には酷でしょうなぁ。何せ、人を乗せるようには作られていないものですから。物言わぬ荷物を積む事に特化しているので、ちゃんとした馬車ならば乗り心地も変わってきますよ。」


 少女達の会話聞いて、商人は苦笑を浮かべつつそう口を挟む。

 可愛らしくあどけない顔が二つ、商人の方へと向けられた。

 にやけそうになってしまうのを堪える為、商人は一つこほんと咳払いをした。


「だとしてもまあ、徒歩で町に向かうよりは幾分かマシでしょう。うら若き女の子・・・が馬も備えも無しの生身で森を抜けようなどと……危険極まりないにも程があります。護衛の者を雇える程の者であるならばもう何人か人を雇うなり、或いは何処かのキャラバンと相乗りさせて貰うなどして、防犯と身の回りを整えないと──。」


 商人はここぞとばかりに歳上風を吹かせた。

 ずっと胸の内で燻らせていた事を、これ見よがしに告げたのだ。


 幾ら腕に覚えがあるからと、そうは言ってもここにいるのは齢20にも満たない若人達。

 きっと若気の至り故に、無策で何処ぞの町を飛び出してきたのだろう。

 外の危険性を仕事柄良く知る商人は、実を言うとそんな彼らを見て大層やきもきしていたのだった。


「町の外には危険が沢山あります。先程の土砂崩れもそうですが、人を食らう魔物だって──。」

「………今、なんて言った?」


 その時、つらつらと説教をたれていた商人の言葉に横から突っ込むような声がそれを止めた。

 思わず口を閉ざす商人。

 キョトンと呆けて目を瞬かせた。


「あ、あのぅ……ニエさま?」


 突如がらりと変わった空気に、何が起きたのか解らず商人は目の前の二人の少女を見る。

 そこで恐る恐ると言った調子でそっと声を上げたのはマーリンと呼ばれていたフードの少女。

 その少女が“様”を付けて呼んでいた細身で美しい容姿に一等けったいな服装を見に纏う少女、ニエが俯きながらにこちらを向いていた。


 恐らく、今自分に声をかけてきたらしいのはニエと呼ばれている方だろう。

 商人は一体どうしたのかと首を傾げた。


「ええと……申し訳ありません、お気を悪くさせてしまったのでしたら謝罪致します。ですが、本当に町の外とは危ないものなのです。未来ある若者……それこそ、こうして知り合う事が出来た貴女方が無駄死にしてしまっては私も寝覚めが悪いと言うもの。ですから、どうか町に着いたら──、」

「ねえ、さっきなんて言ったの? もう一回言ってみなよ。」

「………はい?」


 商人はいよいよ顔をしかめていった。

 この子は何を聞いているのだろう?


「に、ににに、ニエさま? どうかお気を鎮めて……ほら! ただの聞き間違いですよ! 何も、あなたが気にするような事など……!」


 それに、マーリンと言う少女は突然何を焦りだしたのだろう?

 顔を青ざめさせて冷や汗をだらだらと流しながら、何やらニエと言う少女を宥めているらしいのは解るのだが……。

 様子のおかしくなった二人に、商人は頭の中を疑問符で埋めるばかり。


「ねぇ。“誰”が、“何”だって?」

「え? え、えー……町の外には危険が……。」

「違う、もっと前だよ。」

「ま、前?」


 商人の困惑はまだ続く。

 ニエと言う少女は既に困り果てている商人の心象などお構い無し。

 執拗に商人を問い詰めては迫ってくる。

 ひた、ひた、と言う彼女の裸足が鳴らす足音が、自棄に耳に焼き付いた。


「うーんと……ええーと………うら若き、女の子……?」


 その時だった。

 商人は何処かから、ブチィッと何かが切れる音を聞いた気がした。

 それに何だ? と疑問を抱くよりも先に、声を上げたのは目の前の少女。

 見目麗しく可憐であった筈の彼女の形相は一転。

 目尻を釣り上げ歯を剥き出しにして怒髪天、爆発するが如く怒鳴り声を上げた。




どぁれが女じゃあーーッッ!!! おれ・・は男だこのッバカタレがぁぁーーーーッッッ!!!!!」




 ……こんな山奥、緑生い茂る木々の中。

 人気の少ないとある森にて、憐れな一人の商人の悲痛な悲鳴が木霊した。






 *****






 ガラガラガラ……。

 馬車が次第に遠ざかっていく音が聞こえてくる。

 その持ち主は一度たりとも後ろを振り返る事はなかった。

 一目散に逃げるが如く、そそくさと足早に馬を駆けていき、馬車の後ろ姿はあっという間に見えなくなっていく。


「ああ~っ! 折角楽して町に行けると思ったのに~っ!!」


 うわーん! と去る馬車に手を伸ばし名残惜しげにそう声を上げたのは、大袈裟にも地べたに横倒れてるうるうと涙を流しているマーリンだ。


「えぐえぐ……まだ町に着くにはほど遠いのに……ううっ、また徒歩で歩かないといけない羽目に……。」


 疲れるのは嫌だぁぁ…!

 そんな泣きべそを垂れて、さも自身は被害者だとばかりにしくしくと両の手を顔に添えている。


「べっつに歩きでもいいじゃん。おれは悪くないと思うよ? 歩くの好きだし。」


 嘆くマーリンにしれっとそう言ってのけたのは、頭の後ろで手を組みつつ背後に佇んでいたニエだ。

 馬車を降ろされる羽目となった原因である彼女……否、彼は欠片も悪びれるような素振りは見せることなく、続けてこうも言葉を続けた。


「そんなに歩くのが嫌ならさ、ロヴィに背中乗せてもらったら? おれが頼んであげよっか?」


 するとその言葉にマーリンはくるりと振り返った。

 ……いや、どちらかと言うと、立て付けの悪い可動式人形を無理繰り動かした時みたくみたく、“ぎぎ、ぎ”と軋む音でも聞こえてきそうな調子で、であるのだが。

 そこで見せたマーリンの表情は、物凄く嫌そうな、口角を横に引き伸ばしたしかめっ面だった。


「い、や、で、す! 誰があんなワン公に頼りますか! そうするくらいなら自分で歩きますよーっだ!」


 ふんだ!

 そしてマーリンはそっぽを向いた。

 立ち上がりつつ羽織るローブの下、地べたにへたりこんだ際に付いた太ももの大部分まで脚を覆うロングブーツの砂埃をぱんぱんと叩いて落としていく。

 それから佇まいを正して傍らの杖先をコンと鳴らした。


「はあ………仕方ないですねぇ。こうなってしまったのなら、最早腹を括るしかありません。──さあ皆さん、先はまだ長いですがはりきって行きまっしょーっ! おーっ!」

「おーっ?」


 仕切り直しと言わんばかりに、拳を天へと突き上げるマーリン。

 傍にいるニエもそれに習って袖を上げる……が、そちらはと言うと実際ただ真似しているだけ。

 たゆんだ袖で隠したままの片手を持ち上げているその顔は、その身振りにどんな意味があるのか解っていないらしいキョトンとしたものである。


 そんな彼ら二人に、後方から声が投げ掛けられた。


「腹を括るのはお前だけだ、マーリン。どうせこうなる事は予め解っていたんだからな。」


 その場にいる者が耳にしたのは、若々しくも男らしい良く通る音のバリトンボイス。

 それは馬車の中でも聞いた声だった。

 ニエとマーリンは振り返った。


「往生際が悪いにも程がある。楽しようと画策する労力があんならよ、それをもっとまともな事に使えっての。」


 そんな小言が聞こえてくる先にいたのは、黄土色のフードを被った男だ。

 フードの奥に隠れた顔が徐に持ち上がる。

 しかし、影に包まれたその素顔はやはり見えないままであった。


「わざわざ女のフリまでしてカマトトぶってよ……騙される方も騙される方だが、見てるこっちがいたたまれないったらありゃしねェ。」

「そんなこと仰らないでくださいよう。ボク・・はただ、主さまのことを思って……だってずっと歩き通しだったんです。主さまもきっとお疲れだろうと──、」


 ご機嫌斜めのその声音に、どうにか気を治めて貰おうとマーリンは手を揉みながら猫なで声にてご機嫌取り。

 しかしそれは悲しくも何の意味をなしてはくれなかった。



「んなモンお前にとって都合が良いだけの口実だろうが。こちとら全部解ってんだ。私利私欲が為の理由を俺になすり付けんなこのバカ猫がッ!!!」


 寧ろ逆だった。

 結局火に油を注ぐ羽目となり、へらへらとした笑顔を浮かべていたマーリンには怒声と言う雷が落ちた。

 途端、フードの天辺にある二つの山をへにゃりとへたらせたマーリンは、目に涙を浮かべて頭を抱え「ご、ごめんなさああい!!」と謝罪を叫びながらに身を縮込ませるのだった。


「ったく……お前もだ、“アーサー”。余り無闇矢鱈にその“目”を使うな。後で後悔するぞ。」


 雷を落とした怒声は、それから落ち着いたものへと声音を落とすと次にそう言った。

 するとフードの男はひくんと顔を上げた。

 かと思えば、きょろりと首を回し始める。

 ほんの少しだけ頭をもたげるようにして、ゆっくりと左右へ動かしていく。

 その様は辺りを探っているか、或いは何かを探しているかのようだ。


「“眼鏡”を掛けろって。でないと、見えねェんだろ?」

「ん………ああ、そうだった。」


 その時、ずっと閉ざされたままだったフードの男の口が漸く開き、音を響かせた。

 柔らかなテノール、落ち着いた音色の声だった。

 先程まで聞こえていた力強く雄々しい声とは全く真逆な声音である。

 


「……あの人間ひとも、貴方の事全然見えていなかったね。」


 そう言えば、と続く声を溢しつつ、やや俯いた彼の手がフードの奥へと入り込んでいく。

 顔を覆う布地の下、そこには額上にまでずらされていた眼鏡があった。

 フードの下へ滑り込んだ爪先がその眼鏡のブリッジを引っ掛けると、鼻筋を辿るように引き下げていく。


「貴方の事、見えるのと見えないのとで何か違いがあったりするの?」


 ささやかに抱いた疑問を口にすれば、聞こえてくる声は焦らす素振りもなく素直に答える。


「そりゃあな。つまり、さっきのは俺が見えるに値しない存在ってこった。なら、この先奴で俺が気に掛ける事はねェ。これ以上関わる必要もないってンなら、わざわざ引き留めてまで踏み込む事もしなくて良い。」


 どうせ、名前も出ねェようなただのぽっと出なんだし。

 最後に聞こえた呟きは溜め息まじりだった。


 それを耳にしながら「ふぅん」と曖昧な返事を溢しつつ、二つのレンズを目の前へと収める。

 それから邪魔だとばかりに被ったフードを去り際の手が払い退けていけば、その素顔は日の元へと漸く晒されるのだった。


 ほんのり淡く朱を交えて見える色無しの髪。

 日焼けの少ない、とても血色が良いとは言い難い白めの肌。

 輪郭丸い顔立ちは幼さを感じさせ、眼鏡の奥に見える下がりがちの瞼は何処か眠たそう。

 その瞼の下、何処も賢も色白な中で一際際立っているのがそこにある双眸だ。

 炎の如く、燃ゆる真っ赤な色。

 そこには、人ならざる者らしき独特な瞳孔が十字を穿っていた。


 そんな彼──“アーサー”と呼ばれた男は、眼鏡を携え前を向く。

 すると空いた空間があった筈の場所に、眼鏡越しに人の姿を見た。

 ……と言うより、直ぐ目の前で“それ”は彼の顔を覗き込んでいたのである。


 びくり。

 ほんの僅か、肩を揺らした彼は思わず唇をきゅっと引き締めた。

 腰を折って同じ位置まで目線を合わせていた“それ”に、アーサーは思わず驚いてしまったのである。

 元より希薄な表情はやはりさして動きを見せる事はなかったのだけれど、“それ”はその微々たる差を見逃さなかった。

 見るなり悪戯っぽく笑んでみせた。


「漸く目が合ったな? アーサー。」


 良く通る声が近くで響く。

 それから身体をもたげるようにして背筋を伸ばしていった“それ”は、ただそこに佇むだけで易々と彼を見下ろした。

 その高さと言うのが大体二メートル近くと言ったところだろうか?

 普段周りから年齢に比べて小柄と言われがちな彼からすれば、“それ”は頭一つ分も差がある。

 その為、向き合おうとするならば見上げなくてはならない。


 少しだけ顎をもたげ、赤の双眸がつっと流れるようにそちらへ向く。

 しかし、決して頭を後ろへ傾けてまでは目を合わせようとはしない。

 何せわざわざ直に見上げようとすれば、こちらの首が痛くなってしまう。

 億劫な事この上ない。

 そもそもの話、その相手如きに自分がそこまでしてやる義理はない。

 それが主な理由でもあるのだが、同時に彼なりのささやかな反抗心の現れでもあった。

 しかし、そんな彼のその胸の内などお見通しとばかりに“それ”はくくっと喉を鳴らした。

 かと思えば、ぬっと伸ばされた手が徐に頭の上へとのし掛かり、やや乱暴な手つきでアーサーの髪をぐしゃりと掻き回していったのだ。


「ちょ──止めてよ。」


 ぱしん。

 指貫のグローブを嵌めた手が、頭上に伸びる腕を払い除ける。

 弾かれて手を引いていった“それ”を前に、アーサーの身体は一歩、二歩と後退っていった。


 自分が今何をされたのか、アーサーはそれを瞬時に理解する事が出来ず一瞬硬直してしまいそれを甘んじてしまった。

 だがしかし、元より彼はそれを容易く受け入れられるような性分ではない。

 寝惚け眼のような伏せがちの瞼をより下げて、細めた目でじとりと相手を見る。

 その様は如何にも警戒心露だ。

 一層汚ならしいものでも見るかのような目を向ける彼に、何て事ないように腕を降ろした“それ”は口角を上げていた口を開いた。


「頭、撫でられんのは嫌いだったか?」


 低くも良く通る音が空気を震わせ鼓膜を通る。

 敵意、害意と欠片も感じさせない伺う声を聞き、不快とばかりに眉間に皺寄せたアーサーは上目遣いにて相手を睨み付けた。


「子供扱いしないで。」


 お前にそんな事をされる謂れはない。

 対して彼が口にしたその言葉は、如何にもそんな意味合いを含めた敵意の籠った言葉であった。

 なのに、相手はやはりそれを気にする素振りはない。

 寧ろ指の背で口元を覆い、くつくつと笑い出したのである。

 アーサーの眉間にますます皺が深く刻まれていく。


「……何が可笑しいの。」

「ふ、くく。いや何、随分と思春期らしいなぁと思ってな?」


 悪い悪い。

 全く悪く思っていなさそうな、悪びれてすらいない態度で相手はそう口にする。

 その様子は何だか楽しそうだ。

 それを見て、自分がからわかわれているのだと悟ったアーサーはより一層機嫌が急降下。

 長い前髪で目元を隠すように影を落とし、凄まじく冷ややかな眼差しを向けた。


 次の瞬間、その場に一陣の風が吹いた。

 通り風のようなその流れは瞬き程の間しか訪れなかったのだけれども、その場にいる一同はそれを目の当たりにすると、その正体に直ぐ様気が付いた。


「──主さま!!」


 真っ先にそう叫んだのはマーリンだった。

 ほんの僅かに声が裏返ってしまう程、悲鳴を上げるように叫んだマーリンの視線が向く先にて。

 細い腕が喉元へと向かう様を見た。


 ごきり。

 振り向き間際、そんな小気味の悪い音を耳にしたのはニエだ。

 彼がその光景を目にした時、道端の花でもたおるかのように伸ばされていたその手が容易く摘み取っていたのは人一人分の


「……ありゃま。」


 思わずと言った調子でそんな気が抜けるような声を溢しつつ、袖に隠れた爪先で驚いたとばかりに口元を覆う。


 “それ”がその身に異変を感じた時、既に伸ばされた手は自身の首を捕らえていた。

 息が出来ない。

 そう感じた次に襲ってくるのは、首から響く脳天を貫くような激痛だった。

 それに思わず叫びそうになるも、押さえられた首からは呼吸が儘ならぬが故に声も出ない。

 痛みに堪らずもんどり打とうと身を捩れば、首を掴む片手はより一層力を込めていき、それに連れて肉がより更にとひしゃげていくのが皮膚を通じて解った。

 ……が、


 ──ぐしゃり。


 そんな音が辺りに響いた時、“それ”の意識はぶつりと途絶えた。




 彼が振り上げたその腕を目で追える者はきっとその場にいない。

 何故なら彼の力強さと素早さから生み出されるその勢いは、一時遅れて周囲に突風を巻き起こす程に凄まじいものであったからだ。

 現に、彼が伸ばした腕はその身体が風に吹き飛ばされるよりも先に狙い定めた場所へ掴み架かると、躊躇なくその手に力を込めた。

 途端、肉はその内に骨などなかったかのように用意に指をめり込みさせ、砕くのではなく潰すように内側を破壊する。


 それは正に一瞬の出来事だった。


 頭に血が昇るよりも先に、殺意を感じた次の瞬間に身体は既に動いていた。

 丸く短な眉もひくりとも動かさず、自然な動きは瞬きをするかの如く。

 そんな彼がやっと反応を示したのは、こぷりと吐き出された血が数滴腕を濡らした時だった。


 落ちた雫が黄土色の袖に赤を塗り、それがじんわりと色を滲ませていく。

 それについっと視線だけを動かして一瞥したアーサーは、眉を潜めて嫌悪を表したのである。


「……汚ないなぁ。汚さないでよ。」


 さも、ただ泥が裾に付いてしまったかのような自然さで、アーサーは言った。

 それから物言わぬ木偶となったそれを放り投げる。

 投げ捨てた先には丁度駆け寄って来ていたマーリンがいた。


 ──ドシャッ!


「あうっ!」


 身の丈に差が有りすぎるそれが目の前から向かってきて、それが主人であるが故に避けるに避けられず、マーリンは真正面から諸にそれを受け止める事となった。

 その衝撃に堪らないとばかりに口からは悲鳴が溢れ出る。

 当然力量故に踏ん張りだってきかないものだから、マーリンはそのまま押し潰されるように倒れてしまうのであった。


ぅっ……アーサー! お前っ主さまになんて事を!!」


 地べたに横倒れとなったマーリンは、項垂れている身体を支え上げ、それからアーサーへと非難の言葉を吐きつけた。


 傍らでしなだれかかっているそれは、支えられるに揺すられる度、首がすわっていない赤子の如くぐらりぐらりと首が垂れている。

 その様からは脈を測らずとも息絶えている事は明白だ。

 そんなものを抱えて、怒りと憎悪の感情を金の瞳に色濃く乗せ自身を睨み付けてくるマーリンに、アーサーは静かに視線を送る。

 だが、結局それはちらりと一瞥するだけ。

 何をするにもぞんざいな彼の興味を引くには、きゃんきゃん騒ぐ程度の矮小なものでは全くもって力不足なのである。


 詰まる所、アーサーにとってマーリンとは全く眼中にないものだった。


「───。」


 何か騒がしいものが近くにいる──その程度にしか周りを認識していないアーサーは、それすらお構い無しにじっと“それ”を眺めていた。

 元々何の気なしについ見ていただけではあった。

 だが、彼が興味を失う寸前、もう二度と動かぬ筈の“それ”が動きを見せたのである。

 燃えるような赤の双眸が大きく見開かれていった。


 それはほんの僅かな動きであった。

 だらりと垂れていた腕の先、力なく地べたを横たわる指先が一瞬、ぴくんと小さく跳ねたのだ。

 その一瞬の様を目にしたアーサーは、思わず──口角を吊り上げていくのだった。


「……はは、やっぱり。本当に死なない・・・・んだね? 貴方。」


 不機嫌だった気分は上昇、期待に満ちた眼差しを向けてアーサーは“それ”に歩み寄っていく。

 咄嗟に主人を庇うが為にマーリンが構えた杖すらなんのその、杖先を蹴飛ばして跳ね退かしては横倒れたままの“それ”の傍らへとしゃがみ込む。

 そして自らの膝の上に片肘をついてはその手の甲に頬をしなだれかからせ、それからまじまじと“それ”を観察する。


 ……しかし、それにしてもだ。

 離れていれば気にはならなかったが、直ぐ傍からこうも騒音を鳴らされると何とも耳障りなものである。

 徐に手短に落ちていた小石を一つ摘まむと、それを爪先でぴんっと弾く。

 すると、あれ程騒がしかった雑音はそこで漸く止んだ。

 辺りが静かになった事で気が済んだアーサーは、居住まいを直すと“それ”の方へと視線を戻し──、


「──ってェな、クソが……思っ糞喉を捻り潰しやがって……!!」


 地を這うような、元より低い声を更に低くしドスを効かせた声が響く。

 それが彼の耳へと届いたと同時に、顔面をガシリと鷲掴んでくる掌がアーサーの口元を覆った。

 アーサーはそれに怯む様子もなく、ついっと視線だけを降ろし“それ”を見る。

 そこには先程潰されたばかりであった喉を押さえ、咳き込みながらも厳つい顔を更に険しくしている姿があった。

 常より鋭い視線に更に怒りを込めた“それ”は、真っ直ぐに自分を睨み付けていた。


「死なねぇんじゃねェよ、死に切れねェ・・・・・・だけだ。興味本意で簡単に人の身体で実験す試すんじゃあねェっつの……!!」


 テメェ、後で覚えとけよ……!!

 凄んだ“それ”がそう脅し文句を吐く。

 だが、やはりそれもアーサーにとっては全くもって恐るるに足らず。

 寧ろ、より一層気分良さげに目尻を下げていき、掴まれた掌の奥に静かな笑みを湛えていた。

 さながらそれは戯れるが如く、穏やかな声音のテノールをそっと響かせるのだった。




「そう。じゃあ──まだ沢山、貴方で遊べる・・・んだね?」




 それは、如何にも彼と言う人物が“人でなし”である事を表す言葉であった。





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