4 悪役王女は動かない。
これは、とある王国におわす三人の王族兄妹のお話。
彼らは、それはそれはとても仲の良い兄妹でした。
父たる先王から継ぐ王位継承を争う立場にあると言うのに、彼らの間で
それこそ、彼らを知る王宮の者が皆声を揃えて同じことを言う程でもありました。
それもその筈。
彼ら三人は誰が王になるのか、争うまでもなく既に決めていたのです。
互いを良く知っているからこそ、それこそが最善の選択肢なのだと元より解りきっていたのです。
心優しき慈愛に満ちた第一王子、民を愛し民からも愛された──ソロモン・G・ハイブラシル。
難攻不落の武勲を持つ第二王子、“剣聖”と呼ばれし──アルクレス・B・ハイブラシル。
それから、そんな兄二人に愛された末妹の第一王女、紅き薔薇の如し麗しの乙女──ミネルヴァ・N・ハイブラシル。
そんな、三人の
三人の内、誰が王位を継承しても三人共に一丸となり、未来永劫国と兄妹を支え続けていこう──そんな約束を交わして。
けれどもそれは叶わなかった。
長兄、ソロモンの王位継承式の直後。
玉座の間にて行われた“魔女裁判”によって、その約束は儚く砕け散ったのだから──。
*****
……こんな筈ではなかった。
「この国に仇なす毒婦め!」
「“魔女”が遂に醜悪な正体を現しおったぞ!」
全て、全て、順調だったのに。
求めていたものまで、あと少しで手が届きそうだったのに。
「穢らわしい、ああ何と嘆かわしい事か! この様な存在が我が国の王族として居座っていたなんて!」
全部、全部、台無しになった。
私の理想はもう粉々。
手を伸ばそうにも、壊れて消えて失くなった。
こんなことなら、始めから期待しない方が良かった?
最初から何もしないで大人しく“お姫様”を続けていたら、何か少しでも変わっていたのかしら?
「──残念だ、ミネルヴァ。お前は俺達を裏切らないと思っていたのに。」
私は、私を見下ろすあの人達を見上げた。
後ろから腕を縛られて、無理矢理伏せさせられた状態でもたげた首が少しだけ痛む。
「……アルクレス、兄上。」
私が見上げたその先で、朱く鋭い眼光を向けてくる愛しい“家族”を目に映す。
向けられているその眼差しには、いつもならばあった“家族”への慈しみの色は失せていた。
真っ黒な軍服に毛先を散らした赤髪の兄、大剣を携えた次男のアルクレスは冷ややかな声音で「失望したぞ」と玉座の間に声を響かせる。
その後ろにある玉座の方、そこにももう一人。
私が最愛とする兄が静かに座っている。
「ソロモン、お兄様。」
私の声に、その人はピクリとも動かない。
渇いた虚ろな眼差しを私に──ではなく虚空へと向けたまま、瞬き一つ見せなかった。
そこにはいつも私に見せてくれていた輝くサファイアの瞳も、甘く蕩けるような優しい微笑みもない。
ただただ無感情で無表情に、置物でしかない人形の如く、静かに玉座に座しているだけ。
一体いつから、どこで間違えたのか。
何がいけなかったのか。
私は静かに自問自答する。
「もう一度問う。」
厳かなホールの中心、玉座の前。
今まで自身の臣下であった兵士から罪人のように押さえられている私。
そこで一際響いた声に王座の間にいる者はすべからく静まり返る。
漂う空気は一触即発の緊張感。
誰か一人でも下手に騒ごうならば、一瞬で決着は着くのだろう。
誰もが命惜しさに口を閉ざした。
その緊張感を皆から、畏れを抱かせるのはこの場にただ一人。
カツ、カツ、と鳴り響く足音が段差を降り進み、やがてそれは麓にいる私の前で足を止める。
手に持った大きな剣の切っ先が目の前の床を小突く。
カツン、と鳴らした甲高い音が、この部屋の中を自棄に反響していった。
「正直に答えろ。二度目はない。嘘を吐くのであれば、その首は即刻飛ぶと思え。」
そう言い、地に伏す私を見下すように仁王立つ兄の姿。
それはまるで、今正に罪人を裁こうとする処刑人のようだった。
「我が国の“宝具”を盗んだのは、お前だな?」
静寂が辺りを包む中、問い掛けてくる兄の言葉。
私はそれを沈黙で貫く。
視線は逸らさず真っ直ぐに向け、決して感情を揺らさぬままに。
「……次に問う。」
暫くすると、兄は私の返事が無くとも話を続けていった。
「宝具を偽物とすり替えたのは、お前だな?」
兄からの問い掛けに、私は、
「ええ、そうよ。」
そう答えた。
「やはりこの娘が犯人ではないか!!」
次の瞬間、弾けるように上がった非難の声が静寂を壊す。
「何と言う事をしてくれたのか!」
「我が国の宝具は非常に貴重かつ神聖なるもの。それをあろう事か、盗むだけでなく偽物とすり替えるなどと……。」
「あってはならん、あってはならん…!!」
私達を囲っている外野が次から次へと声を上げていく。
ああ、煩わしい。
目の前の事に必死になって考える事を放棄した者達は何て愚かなのでしょう。
“誰が盗んだか”の問いに答えなかった私は、それすらをも私に擦り付けようとする彼らをちらと横目見て、密かに冷笑を浮かべた。
「この毒婦は我が国を愚弄したも同然。即刻、この罪深き罪人にそれ相応の罰を与えねばなりませぬぞ!」
「最早慈悲を与えるまでもありません、殿下! どうか、この者に罰を──!」
その時、兄アルクレスが赤き鋭い眼光を外野へと向けた。
「おい、誰に向かってその口を聞いている?」
あの人の低い声が響いた瞬間、あれ程ざわついていた外野は一斉に口を閉ざす。
凍り付く玉座の間、皆が顔を青ざめて冷や汗を浮かべている。
先程まで威勢良く声を上げていた者程、その顔面は蒼白になっていた。
誰もが赤き眼光から目を逸らし、恐怖に俯き震えていた。
「何か勘違いしている奴がいるようだが……この場にいる者で俺に命令出来る立場にあるのは、一体誰だ?」
恐怖が玉座の間を支配する。
その中心にいる彼はぐるりと辺りを見渡した。
皆、決してその矛先が自身に向けられぬようにと必死の思いで目を背けていた。
そんな中、カラリと剣先で床を掠めたアルクレスが徐に足を進めていった。
「──ヒッ…!?」
その時、外野の内の一人が悲鳴を上げた。
ああ、彼は気付いてしまったのだろう。
アルクレスが自身に向かって歩を進めている事を。
その者は先程声を上げた内の一人だった。
ガタガタと震えが極まっていく彼の周りにいた者は皆、一斉にその場から身を引いていく。
「おっ……お許しを! わた、私はっ、決してそのような、つもりはッ……!!」
アルクレスが目を付けたその男は首を横に振り弁解を叫んだ。
懇願の声が王座の間に反響する。
しかし、その言葉を彼は聞き入れる事はなかった。
彼の歩は着実に男へと向かっていき、手に持つ大剣の刃をギラつかせた。
周辺の人々が退いたそこは、男を中心に異様な空間が空いていた。
そこに鋭い眼光を男から離さぬままアルクレスは踏み込んでいく。
それに伴い男は後退る。
しかし、そのまま足をもつれさせて倒れてしまった。
「どうか! どうかお慈悲をッ……!!」
「だから何でお前の命令を俺が聞かにゃならねェんだっつってンだよ。」
転んだ身体を即座に地に伏し床へ額を擦り付けた男は必死に許しを乞う。
そこへ荒くなった言葉が放たれると共に、男の眼前を剣が力強く床を突いた。
ガキィィンッとホールに響く金音がつんざく。
突き刺した剣先では硬質な石畳が僅かに欠けた。
ますます震え上がった男の口からは情けない悲鳴が上がる。
恐怖に引き釣るその顔には、丁寧に整えていたのであろう髭すらもが涙に濡れて崩れていた。
「すみません、すみません、申し訳ございませんっ…どうか、どうか、命だけは……!」
「なァ。おい。お前、自分がどんな立場にあるのか解ってンのか?」
床に突き刺した大剣を持つ手はそのままに。
男の前で腰を下ろしたアルクレスはもう片腕を放り出すように膝へ乗せ、手を組み合わせて頭を下げて泣きながら懇願を続ける男をねめつける。
男は必死に、必死に謝罪と命乞いを言葉にし続けた。
……が、アルクレスはそれに耳を傾ける事なく、静かな口調で話し始める。
「俺ァな、今、物凄く虫の居所が悪ィんだよ。ンな事してる時間もねェっつーのによ、無駄な事に潰さにゃならなくなっちまったんだからな。……なァ、解るか? 解るだろう? 俺は忙しいんだ。ンな事の他にやる事はクソ程あるんだからな。なのに、こうも立て続けに問題ばかり起こしやがって……。」
全く、腹立たしいったらありゃしねェ……。
言葉の最中、徐に持ち上がった腕が男の髪を鷲掴んだ。
ガチガチと歯を鳴らしていた口から短い悲鳴が上がる。
そのまま手は男の顔を無理矢理顔を上げさせて、互いに視線を合わさせた。
男は恐る恐るに視線を向けたその先で、逆光による影の中にギラギラと燃えるような深紅の双眸を見る。
その余りの恐ろしさに今にも気を失ってしまいそうだ。
なのに男に恐怖を与えてくるその人は、それすら許さず言葉を続けていく。
「その上で……テメェ如きが俺の貴重な時間を割こうってのか? あ゛あ゛!?」
「ひいいぃっ!!」
今にも男に噛み付きそうな、向けるだけで人を殺しそうな眼光が間近まで迫る。
地の底から響くようなドスの効いた声がアルクレスの口を衝き、男の顔面へ殴るように吐き付ける。
彼の怒りが、怒声が、玉座の間の空気を震わせる。
彼に目を付けられたその男も、それ以外の矛先をまだ向けられていない者達も、生きた心地はしなかった。
皆、次にその矛先が自身へと向けられぬよう息を潜めてじっと堪え忍んでいた。
その中で、男の身体がいよいよ崩れ落ちた。
髪を掴んでいた彼が手を離したのだろう。
受け身もなしに倒れた男は最早命乞いを口にする事も出来ないでいた。
向かいの彼が立ち上がる。
傍らの剣を突き刺した床から引き抜いて、それを優に持ち上げる。
彼の腕より幅も太く長い剣身を携えたそれはきっと酷く重たい筈なのに、片手で難なく振り上げた。
彼はそれを、臥せったままの男の脳天へと向けて──、
「アルクレス兄上。」
振り下ろしかけたそれが、ピタリと止まる。
鬼気迫る程の憤怒の眼光が、今度は私を射抜いた。
「ソロモンお兄様の御前です。剣を収めなさい。」
私は、そんな兄に向かって叱り付けるようにそう言い放つ。
息を飲む音が微かに聞こえてくる。
極まる緊張感、空気がより凍り付く。
「貴様ッ! 今どんな立場のつもりでッ……!!」
青ざめた顔でそう叫んだのは、私を後ろから押さえ付けている兵士だった。
きっと、彼は“余計な口出しを”と恐怖し戦きながら憤ったのだろう。
肌がピリつく程の怒気が、兄からこちらへ向けられているのだから。
解っている。
言われなくたって、解っていますとも。
でも、こればかりは私も黙っていられなかった。
「父上──先王の時代に即刻私刑が許されていたのは周知の事実。しかし、先王は既に崩御為さった身。ならば、今はその玉座に誰が座していらっしゃるのかしら?」
兄からの怒気孕む眼差しに臆する事なくそう口にして、私は示すように玉座を見上げた。
先にあるのは玉座に座する私達の長兄の姿。
その人は相変わらず虚空を見詰めたまま動かない。
息をしているのかすらも、怪しい程に。
「ソールお兄様──いえ、我らが王たるソロモン王陛下が我らへ最初に下した命は、王族が悪戯に民を殺めぬ事。ソロモン王陛下が王位を継承された今、力による支配者が国を収める時代は疾うに終えました。只一時の我ら王族の私情に、民の命が左右されるなどあってはならぬとのだと、そう仰られたのです。」
貴方は、それを反故なさるのですか?
私は静かに、そして責めるように、ハッキリとその言葉をアルクレスへ告げる。
アルクレスは暫し私の事をじっと見詰めていたが、次第にその目にギラギラとした燃え盛る色が徐々に落ち着きを取り戻していった。
やがてその切れ長の目がつっと横へと流していくと、玉座に在る長兄の姿を見た。
そして、その目はゆるりと細められていく。
「………そうだな。それは、お前が正しい。」
そう言い、アルクレスは剣を収めた。
怒気は完全に失せたのか、その振る舞いからも落ち着きを取り戻しているようである。
それから放心する男をそのままに、踵を返す。
ゆっくりとした足取りが歩を進めて、向かった先には私がいた。
再び互いに向き合って、それから兄は口を開くのだった。
「最後にもう一つ、お前に問わねばならない事がある。」
落ち着いた低い声音が、静寂包む空間に響き渡る。
さして大きく口にした訳でもないのに、酷く響くのは皆が息を潜めて行く末を見守っているからだろう。
私は、兄の息遣いすらもが聞こえてくる静かな空間の中、兄からの最後の問いとやらに耳を傾けた。
「──“奴”を逃がしたのは、お前か?」
兄が口にした問いとは、そんなものだった。
ハッキリとは明言されていないその問い掛けに、私は直ぐ様彼が知りたい事を察する。
しかし、それは私にとって──、
「いいえ、違います。」
そう答える他ないものだった。
辺りから厳しい視線が集まってくる。
けれども今度は非難の声は聞こえてこなかった。
当然だろう。
今この場を仕切っているのは目の前にいる兄、アルクレス。
下手に口を挟もうならば、魂が抜けたかのように放心している彼処の男の二の舞となってしまうのだから。
“そんな筈はない、絶対にその女が犯人に違いない。”
そんな思いの込められた視線を涼しい顔をして受け流しながら、私はしっかりと兄の目を見る。
そうすれば、きっと伝わる筈なのだから。
「………そうか。」
やがて、兄はそう呟いた。
そして踵を返し、玉座へと続く階段を登り長兄の傍らにその身を置いて。
くるりと振り返り、彼が眼下の私達を見下ろす。
そして今から命を下さんと掌を掲げ、皆へ言い聞かせるように声を放った。
「王に代わり、俺が王命を下す。
──手段は問わん。逃げ出した“犬”を連れ戻せ、今すぐにだッ!!」
半ば咆哮に近い指令を彼は告げた。
その声音には失せた筈の怒気が僅かに滲み現れていた。
私の周りを囲う者達はその言葉を聞くと、慌てて玉座の間を去っていった。
皆、恐らくはきっと動ける兵を集めて国中へ向かわせるつもりなのだろう。
少しでも遅れようものならば、きっと次こそ彼の逆鱗に触れかねない。
それが解っているからこそ、彼らは返事をする間も惜しみそそくさと姿を消した。
一気に人気が失せた玉座の間で、私は去る者に目を向ける事なく二人の兄を見詰めていた。
遠退いていく幾つもの足音がようやく聞こえなくなった頃、アルクレスが再びその口を開く。
「ミネルヴァ、お前には悪いが暫く牢へ入って貰う。これは決定事項だ。兄妹だからと私情を挟み、揺るがす事は出来ない。」
悪く思うなよ。
そう言う彼の口調は先程とは打って代わり、偉く柔らかなものだった。
甘さは無くとも険はなく、厳しさがあれども微かな情が見え隠れしている。
そんな口調で私に告げる兄は、それからこうも私に言った。
「……だが、血を分けた妹をそう易々と手に掛けられる程の冷酷さは、流石の俺も持ち合わせていない。刑は与えたとしても、お前の命までは取るまいよ。」
まァ、代わりに与える罰は重くなるやも知れんがな。
最後に付け足した言葉は少しだけ言いにくそうに、しかしやはり他の者へは決してしない落ち着いた声音で彼は言う。
その姿からはとても人情味のある、兄らしい様があった。
……思わず下唇を噛み締めてしまう程に。
「俺はお前の言葉を信じよう。他の者が何を言おうとも、その意思は変えるつもりもない。……それだけは解ってくれ。」
そして彼は、アルクレスは掌を上げて見せた。
それを合図に兵が私を押さえていた力を緩めていく。
しかし、縛られた手首はやはりそのまま。
硬質な手枷を掛けられた私に兵が「立て」と告げれば、私はそれに大人しく従った。
それから引かれるがままに、その場を後にするのだった。
……ああ、本当に恐ろしいひと。
私には貴方が垣間見せたその“優しさ”が、何よりも恐ろしかった。
その一挙一動、その言動。
癖も、声音も、全てがいつも通り。
全部が確かに貴方を貴方たらしめていたと言うのに……。
「(……違う。あんなのじゃない。)」
私は、彼が口にしたその声音にゾッとするような悪寒を感じた。
それは、あの鬼神のような荒々しい姿にではない。
それは、暴君の如く簡単に人を殺そうと出来る残虐さにではない。
それは、私に見せたあの目、あの声、あの情だ。
私の兄は……そんな事をしない。
「(あの人は、誰? 私の兄に……“アルクレス”を演じているのは誰なの?)」
汚れてしまった純白のドレスに包まれた背中に、冷たい汗が滲むのを感じる。
身の保証を約束されて思うのは、死よりも恐ろしい罰が私を待っている事。
私はその危機に察している事を相手に悟られぬよう、必死に平静を取り繕う。
兎に角、今はまだ動くべきではない。
大人しくして、彼の言う事を聞くフリをしていよう。
そうすればきっといつかチャンスを掴める筈。
そして私は玉座の間から踏み出した。
去り間際、玉座の間を閉ざす扉が閉まるその際で。
私は振り返り、二人の兄をもう一度見た。
そこで私は──、
「ソールお兄様……?」
“ミーニャ”──私は、私の愛称を呼ぶ声をそこで聞いた気がした。
涼やかな声で、甘さを含めて、愛おしげに私の名を呼ぶ嘗ての兄の姿を、その声が私の脳裏に彷彿させる。
けれども一瞬だけ、扉が閉まる前にと辛うじて私が目に映したのは、やはり感情を抜け落とした人形のような兄の姿。
それは嘗ての穏やかな微笑みを湛える兄の姿からは、酷く掛け離れてしまっていた。
もう一度だけ。
もう一度だけで良いから、貴方のその声を聞かせて欲しい。
そんな思いが込み上がる。
胸にきゅっと締め付けるような痛みを覚えた。
それはもう叶わないのだと、私はとっくに知っていたのだから。
そして私は歩き出す。
振り返るのを止めて、前を見据えて。
此処で立ち止まっている訳にはいられない。
私にはまだ、やるべき事があるのだから。
だって言われたのだもの、「同じ場所に留まっていたいのなら、力の限り走り続けていなさい」って。
だから私は兄の背を追う為に頑張らねば。
進み続ける二人に置いていかれない為にも、努力をし続けなくては。
走り続けなければならないの。
いつまで経っても二人の兄に守られるばかりのひ弱な
──“赤の女王”から、そう教わったのだから。
*****
「──と言う訳で、捕まったの。」
これからどうしたものかしら?
そう言い、彼女は持ち上げたティーカップに口を付ける。
ほんのり湯気が立つそこからは、飴色の水面がゆるゆると揺れていた。
香り立つそれは質の良い茶葉を煎じて入れられた上質な紅茶であるのだと、口に含めるまでもなく報せんと、芳しい空気を漂わせていた。
そんな今正に優雅なティータイムを嗜んでいる彼女は、錆びた臭いが立ち込める薄暗い牢に閉じ込められていた。
天井際の壁にはほのかに外からの灯りを落とす小窓があって、床には寝床らしい古びた布切れが無動作に置かれている。
部屋の片隅には何に使うのか想像もしたくもないが、用途不明の桶が一つ佇んでもいた。
そんな牢で、彼女は上等の椅子に腰掛けていた。
傍らには華奢かつ可憐な彫刻を施された小さなテーブルもある。
それらは一体何処からどう持ち込んで用意したのか、そんな事は些事とでも言わんばかりに一人優雅に紅茶を楽しんでいた。
「ああ、美味しい。やっぱり落ち着こうって時には紅茶を飲むべきね。今回はそれがよく身に染みて解ったの。だって焦るばかりじゃ頭も冴えない。気を急く事なく、落ち着いて物事を考えれば、自ずと
ねえ、そうは思わない?
そして彼女はそう声を掛ける。
すると、そんな彼女の同意を求める声に、何処かから響いてくる幼い声がこう答えた。
「そーでしゅねぇ……かといって、こんなトコロでおちゃしゅるのもあたちとちてはどうかとおもうんでしゅが。えーしぇーめんてきに、おしゅしゅめできましぇんよ。」
場に似合わない、舌足らずの声が彼女の言葉に異を唱える。
予想は外れまさかの否定的な答えが返ってきた事に、思わず虚を突かれた顔を浮かべる彼女。
次に不服そうな顔へと変えて「そんな事は、」と言い掛けた。
しかし、良く良く考えればさして相手が間違っているとは思えない。
何か言い返そうと思っても不利な側では上手い言葉がやはり思い浮かばない。
やがて不満げに唇を尖らせていったかと思うと、彼女は拗ねるように顔を背けた。
自棄っぽく揺らしたヒールの爪先が足元に転がっていた枷をこつりと小突く。
解除された状態で放置されているそれは、先程まで彼女の手首に付いていたものだった。
「良いじゃない、別に。だってこうした方が落ち着くんですもの。……大体ね、こんな所に閉じ込められたって、これから一体どう過ごしたら良いの? こうも何もないと、過ぎる時間も遅く感じてしまうじゃない。」
だからせめて、これくらいは用意しないと……。
そう言い掛けて、紅茶を含もうと近付けた口をふと止める。
そして牢の向こうへと視線を向けた時、外から独房へと繋げる扉がガチャリと音を立てて開いたのだった。
入ってきたのは兵士の男が一人。
理由は恐らくは巡回の為、囚人達の様子を覗きに来たのだろう。
囚人達、とは言うものの、此処にいるのは今や彼女一人のみ。
兄の命かどうかまでは知らないものの、その程度ならば安易に想像は付く。
彼女は「さして気にするまでの事ではないか」と判断すると、止めていた手を傾けてようやく紅茶に唇を潤すのだった。
「……なっ!?」
彼女が興味を失せた男は独房へと足を踏み入れた途端、先ず真っ先に驚きの声をあげた。
そして次に男は「何故ここにそんなものがあるのか」と、独房に似合わないテーブルセットとティーカップに厳しい目を向けて、それをさも当然のように使用する彼女へ問い質さんと口を開き掛けるのだった。
──が。
「……あ。そう言えば私、一つだけ忘れ物があるの。」
ぱ、と顔を上げた彼女のそんな声が男の声を遮った。
かちゃり、と軽やかな音を立ててティーカップを置いた彼女はそれから男の方へと再び顔を向けると、その頬に優美な微笑みを浮かべた。
「貴方、丁度良い所に来てくれたのね。お願いがあるの。どうか私の頼みを聞いてくださる?」
そんな、如何にも相手の都合を聞こうとしているようで全くその気のない声音で、彼女は男に問い掛けた。
男は直ぐ様「何をふざけた事を」と口にしようとして……しなかった。
いや、しなかったのではない。
出来なくなってしまったのだった。
男はいつの間にかぼうっと虚ろな顔を浮かべていた。
意識が靄がかかるようにぼんやりとして、瞼がとろんと微睡みを感じるようになっていた。
頭の中では思考を蕩かしてくるような熱を帯び、高揚感のような満たされる感覚がじわりじわりと広がっていく。
一体何が起きているのか、と男は揺れる脳裏に微かな疑問を抱く。
しかし熱に浮かされた頭では思考は定まらず、よろりとよろけた足元がたたらを踏む。
そして混乱と微睡みの大波に呑まれる中、男はどうにか顔を上げた。
そこで見た牢の向こうの彼女を見て、差し出されている華奢な手に気が付いた。
「もう少し此方へいらっしゃいな。」
彼女の柔らかな声は蕩ける頭に酷く響いた。
自分をて招くその手がとても魅力的に思えてならなかった。
すると男は誘われるがまま、彼女の掌へとふらつく足取りで進んでいった。
「良い子ね。良く出来ました。」
牢の前へと歩を進めた男は、白のレースグローブを纏う手を前にして膝を折り地に付けた。
そして彼女からのその言葉を受けると、ぼうっとしていた虚ろであった表情に恍惚の色を浮かべた。
そんなうっそりと熱っぽく、見上げてくる男に彼女は言った。
「お茶をするのにお菓子がないの。何か手頃なものはないかしら?」
──カリッ。
歯が咥えたものが軽やかに砕ける音を奏でる。
爪先摘まんだそれを二つに割って、口に含めた方をより口内へと転がして。
奥歯でそれを何度と押し潰せば、サクサクとした軽い歯応えの心地好い感触が歯茎に伝わってくる。
口内から響く小気味良い音とて、耳を傾けていれば自然と笑みが浮かぶ程に殊更気分を良くしてくれた。
それから残ったもう一欠けを口に入れ、咀嚼し、喉へと通す。
口に、鼻腔に、胃にと広がる甘露に満足すると、今度は紅茶で喉を潤した。
「はあ……やっぱり、紅茶にはクッキーね。相性も抜群、味もバッチリ。」
喉を流れ胃に落とし込む感覚に、瞼を閉じて感じ入っていた彼女は満足そうに笑みを浮かべるとそう感想を溢した。
テーブルの上に新たに置かれたのは、数枚のクッキーが並ぶ丸い平皿だ。
生地を練って小さな丸の形で平らにして焼いた、とてもシンプルなものではあるけれども、ほんのりと感じるその甘味は渋くも爽やかな後味を香らせる紅茶と実に相性が良かった。
しかもどうやら焼き立てらしい。
微かに感じる温かみは、すっかり冷めてしまった紅茶に代わり仄かな温もりを胃に与えてくれた。
ふぅ、と一息、カップをソーサーへと降ろす。
ようやく空になったカップと平皿。
それを見下ろして、頷いた彼女は緩やかに口角を釣り上げる。
「さて、
そんな彼女の言葉を合図に、辺りの空気がざわりと揺れた。
「……んもう、やっとでしゅか。まじょしゃまはほんとーに、まいぺーしゅなんでしゅから。」
舌足らずの声が牢に響く。
その声の主は見当たらない。
しかし、彼女が視線を向けていた場所に小さな黒い染みが浮き出る様を見た。
彼女が向き合った小さなテーブル、その上に現れたのは染み──ではなく、影。
牢の向かいから差し込む蝋燭からの申し訳程度の光源があるだけの仄暗い部屋で、丁度出窓から射すこの部屋にしては明るい光に照らされているテーブルの上を、光に従って伸びもしない小さな丸状の影はゆらゆらと揺らめいたのちにぷくりと膨らんで見せたのだった。
テーブル上の平面から、じわりと浮かびあがったのは立体的に持ち上げられた逆さまに伸びる雫型の影。
さながら天井から滴る水のように先端を膨らませテーブルを離れていこうとしているが、実際それがあるのはテーブル上だ。
黒い雫は床へ垂れ落ちていくのではなく、天へ昇るように伸びていた。
そしてそれは徐々にテーブルに繋がる糸を細めていくと、やがて途絶えたかと思えば切り離されたそれが平面の影に落ち波打たせた。
──ぽとん。
雫が水面を跳ねる音が響く。
テーブル上にある影の平面が揺らぐ。
けれども直に平面は凪ぎ、テーブルの上から影が失せた。
代わりに残されたのは宙を浮かぶ黒い玉。
それは次第にふくりと膨れていって、やがてそこから二つの突起をひょこりと生やした。
まるで、種を割って現れた新芽の双葉が日の目をみるように。
すると新芽の双葉はくるりと回転。
捻れるように回ったかと思うとそれは丸々と膨らみを増して、徐々に何かの形を作り歪み変形していくのだった。
膨らみがやがて形を作ったのは、二頭身のぬいぐるみ──のようなもの。
ずんぐりむっくりの丸みを帯びた身体。
そこから指先を省略したような、簡単な四肢をちょこんと生やして。
頭の上には新芽が伸びて出来た角──と言うよりは、最早枝としか形容しがたいものに若葉を付けて生やしている。
そんな風貌の、人と言うよりは動物寄りな見た目のものが、肌を見せる事を恥じらうかのように衣服を纏って現れたのだった。
それがちょんと爪先をテーブルへと乗せた時、ふわりと波打つのはスカートの裾。
二足歩行らしき足をちらりと見せつつ、膝から首までを覆っていたのはワンピース状となっている衣裳だった。
頭には枝のような角、あるいは角を模した枝をひょこりと布地から覗かせている被り物まである。
顔のみを露にした被り物からワンピースに至り、それら全て黒で揃えている。
その様からは、ただ身に付けているだけの衣服にしては何やら象徴的なものに見えた。
何故ならそれは人にとって、とある特定の職業を表す衣裳にとても良く似ていたのだ。
例えるならそう──“修道女”とか。
「──めえ。」
幼く、愛らしい声が響く。
目の前のそれがスカートを摘まみ、お辞儀をする。
愛らしくも優雅にカーテシーをして見せて、それから彼女を見上げた。
ぬいぐるみのように愛嬌のあるその姿からは、それが白い山羊を模しているように思えた。
……衣裳で殆どが黒に染まっているが。
「しゃて、まじょしゃま──みねるばしゃま。これからあなたは、どーしゅるおちゅもりで?」
小さな山羊のような何かは行儀良く組み合わせた両手を前で添えて、それからおしとやかに微笑みを浮かべるのだった。
彼女──ミネルヴァもまた、そんな相手へ微笑みを返す。
「勿論、“予定通り”よ。私はこれからこの国を追放されるの。」
「ついほー……むむう、しょれって、にげるのではダメなのでしゅ?」
あなただったら、しょれくらいかんたんにできりゅでしょう?
そう舌足らずの声が言うと、小さな腕を振り上げた動作に合わせて足元から放ったらかしにされていた手枷がふわりと浮かび上がる。
ミネルヴァはその問いに頷いた
そして両手をテーブル上の小さな存在へと両手を差し出すと、こう言葉を続けるのだった。
「ええ、だって兄上達は私の実力を知らないもの。何があるか解らないのだから、そう易々と手の内を明かす訳にはいかないのよ。」
「だからといって、わじゃわじゃあなたみじゅからあぶないめにあうのは、どうかとおもうんでしゅがねぇ……あたち、とってもしんばいでしゅ。」
そんな会話を重ねながら、小さな山羊らしきものは腕を降った。
すると背後で宙を浮いていた手枷がまたふわりと浮かび、そしてミネルヴァの方へ。
「このまほーをふぅじるてじょーも、
そしてそれは差し出された手首へと、ガチャリと噛み付いたのだった。
「ええ、そうね。私にはこんな枷があった所で、“貴女達”がいる限り意味なんてない。私自身が魔法を使えなくなった所で、他に手段は幾らでも有るのだから。」
手枷をかけられたミネルヴァはそれを見下ろし、そして彼女の言葉にふ…と小さく笑いを溢した。
彼女は本当に、本心で自分の事を心配してくれているのだろう。
ミネルヴァはそれを良く解っていた。
しかし今は、こればかりは彼女の優しさに甘えてばかりではいられないのである。
何せ、自分は今から、自ら敵の懐へと潜り込む。
まだ相手はこちらの実力を知られていない。
ならば敵を探るには今が好機。
攻めるにしても、引くにしても、今の内に出来る限り相手の情報を集めなくてはならないのだから。
「(兎に角、今は兄上を探らなくては。あれが本当に兄上なのか、或いは偽物なのか──。)」
何か行動に移す時、対策を立てるにはあらゆる事態を想定せねばならない。
ミネルヴァはすべき事をつらつらと脳裏に浮かべ、それからきゅっと唇を噛み締める。
「(それとも──“中身”が、違うのか。)」
想像もしたくない事まで、もしもの可能性を考える。
思考を重ね、そして為さねばならない事を思い浮かべていく。
不安はまだ確かに残っている。
けれど、自分が動かなくては何も始まらない。
頼れるものはもう断たれているのだ。
ならばもう、あとは自分だけでも──。
「……まじょしゃま。よいちらせがはいりまちた。」
ひくん、と何かに反応してか、小さく顔を上げた彼女が言う。
その舌足らずの声にミネルヴァは思考を止める。
そして彼女の言葉へと耳を傾けた。
「ゆーびんやが
「本当?」
彼女が口にしたのは思っていた以上に吉報だった。
思わず弾むような声を溢したミネルヴァは「ああ、良かった! それだけがずっと心残りだったの」と緩めた笑みを浮かべる。
ホッと胸を撫で下ろし、肩から力を抜いた。
「(なら、私のすべき事は──。)」
「……まじょしゃま?」
肺の空気を細く長く吐く。
椅子の背凭れに身を委ね、脱力していくこと約数秒。
気持ちを切り替えるように姿勢を正したミネルヴァは、椅子から腰を上げ、それから牢から唯一外を望めそうでも高くて見えない出窓を見上げた。
「(私は──
そして、彼女は息を吸い、言葉を告げた。
「シスタ・メイ、“日葉”──サナー。机と椅子を下げて頂戴。」
彼女の声が牢に響く。
すると独房の中の空気がまたざわついた。
──はぁい。
空気を震わせ伝わって、何処からか返事が聞こえてくる。
次の瞬間、牢の中の天井からぬるりとした影が落ちてきた。
細く、長く、管のように伸びた何かが、天井から根を降ろすように伸びていく。
ほどけるように何本も。
やがてそれは机と椅子に絡み付いていき、その上にいた小さな存在がぴょーんと降りていくと、ガタン、とやや大きな音を立てながらゆっくりと持ち上げていくのだった。
蝋燭の灯りが届かない暗がりの中、机と椅子に絡み付く管が運びいく先でざわざわと蠢く何かがいた。
それは確かに天井である筈だった。
だが、只の天井である筈のそこにはぱっくりと裂けた穴があった。
─あーー……。
そこから空気を震わすような音が鳴り響いていた。
やがて机と椅子がそれに近付けられた時、平面である筈の天井がもこりと膨れ上がりそれらへと迫る。
かと思えば次の瞬間、開かれていた大穴が机と椅子へと食らい付いたのだ。
──ん。
ばくんっ。
一瞬の内に机と椅子が姿を消す。
大穴が閉じ、その切れ目がもごもごと蠢く。
その様は如何にも非現実的な光景だった。
まるで大きな口が咀嚼しているかのような光景だった。
「シスタ・メイ、“土葉”──サタナ。」
次にミネルヴァが口にした名に「はいでしゅ」と返事をしたのは、いつの間にか机から肩へと移動していたあの小さな存在だ。
ミネルヴァはそれを──“サタナ”と呼んだ彼女を手枷の付けた掌の上へと乗せた。
それを見詰めて微笑みかけ、そしてこう言葉を告げる。
「貴女にはまだ以前頼んでいた事もあるけれど、もう一つ、追加でお願いしても良いかしら。」
サタナはこくりと頷いた。
快く引き受けてくれるそうだ。
……が、それに反してミネルヴァはその表情を曇らせていく。
「勿論、頼みを聞いて貰うからにはそれ相応の対価は追加で払うつもりよ。以前渡した分だけじゃ全然足らないのだもの。只、暫くは直ぐに用意する事が出来なくなってしまうから……恐らくは当分後になってしまうかも知れないの。」
それでも良ければ、なんだけど……。
そうミネルヴァは訊ねた。
彼女はその頼み事を口にするに連れ、言葉尻を恐る恐ると言ったものへと徐々に口調を弱めていった。
普段ならば見るものに気が強く思わせる釣り長の眉も、申し訳なさそうに両端を下げていく。
彼女にとって、して貰うばかりと言うのは気が引けてしまうものだった。
相手から貰ったものに対しそれを返さない、或いは返せるものがない、それに負い目を感じてしまいどうにも抵抗があるのである。
今までは他者を仕わせるに困らない立場に権力、財産があった。
しかし今は囚われの身、全てを取り上げられた彼女にはもう自由に差し出せるものがない。
最早先の見えぬ未来に賭けるしかないのである。
その事には承知の上、覚悟しての事で一国の姫から罪人にまで身分を落とした彼女。
かと言って彼女は無敵でも完璧と言う訳ではない。
性根はどうしたって只の一人の少女なのだ。
どうにも先への不安を覚えてしまうと、憂いに心を沈めてしまう。
だがそれに対してサタナはにぱりと笑むや、首を横に振って返すのだった。
「だいじょーぶでしゅ。まじょしゃまはいままでだって、あたちたちにとてもよくちてくれていまちた。いましゃらしんよーがないなんていいましぇんわ。」
そんなサタナの言葉に、ミネルヴァは鼻の奥がじんと熱くなるのを感じた。
「サタナ……。」
「でしゅからあなたはあなたのおもうよーに、こぅどーなしゃってくだしゃいな。あたちたちのことはおきになしゃらじゅ。……ほら、まじょしゃま。あなたはとってもおちゅよいかたなのでしゅ。しょんなおかおをちてないで、りんとしてまえをむいてりゅほーがじゅっと
「ええ……ええ、そうね。貴女の言う通りね。」
舌足らずの激励に、思わず目頭までもが熱くなりかける。
しかしこんなところで涙を見せてしまえば、きっと小さな彼女には余計な心配をかけてしまうだろう。
ぐっと噛み締め堪えると、ミネルヴァはサタナへとその“頼み事”をお願いするのだった。
「……あい、わかりまちた。しょれならあたちたちにおまかしぇくだしゃい。」
彼女はやはり快く引き受けてくれた。
ミネルヴァは安堵にホッと胸を撫で下ろした。
今ここに彼女が味方としていてくれた事に、心底良かったと思うのだった。
「ええ、じゃあお願いね。私が動けぬ身の間、シスタ・メイの指揮を貴女に任せます。そして──、」
ミネルヴァは、言葉の最中握り締めた手に力を込めた。
それから真っ直ぐとした目をサタナへ向けて、力強く言葉を紡いだ。
「──“あの子”の事を、守ってあげて。」
「あい!」
サタナはミネルヴァの願いに、大きく頷き返事をする。
そして掌から降りて正しく相対すると、頭を前に傾けスカートを摘まみ、気品ある淑女らしく振る舞ってそれからこう言葉を返すのだった。
「しんあいなるまじょしゃまより、けーやくをせしわれらシスタ・メイ──“
彼女がその言葉を口にした瞬間、何処からか少女の声が聞こえてきた。
一つでも二つでもないその声は、何人と複数のものであるようだ。
それは心底愉快そうに、心の底から愉しげに、くすくすくすくすと込み上げてくる笑いを溢していた。
──ねぇ、聞いた?
──聞いた聞いた。
──オシゴトだって、好きにして良いんだって。
それからそんな、こそこそとした少女と少女の内緒話まで。
──違うわ、“あの子”を守ってあげるオシゴトよ。
──お城を飛び出してった、あの子を守るのね。
──でも、誰から?
少女の戯れ合いの如き囁き声は続く。
可憐に、ささやかに、それから──、
──そりゃあ勿論、あの“
人らしからぬ、冒涜的さを秘めて。
誰かが言った──「お腹空いた」と。
誰かは言った──「遊んでも良い?」と。
愉しげに、楽しみだとばかりに、少女達はほくそ笑む。
それはさながら心踊らせているかのようだった。
まるで新しいおもちゃを前にしたかのようだった。
今はひっそりと息を潜めている彼女達は、ずっと退屈と飢えに腹を空かせていたものだから。
そんな姿見えぬモノ達の声を聞き流しつつ、サタナはミネルヴァへと視線を向ける。
「しょれで、まじょしゃまはこれからどうしゅるのでしゅ?」
訊ねれば、ミネルヴァは微笑みを浮かべこう答えた。
「私は、何も変わらない。今まで通りよ。」
そして彼女は胸元へ掌を添えた。
いつもならば、手元に彼女のトレードマーク的な扇子があるのだけれども、今はそれもない。
ならば自らと言う存在を周りへ強調するべく胸を張り、勝ち気の笑みを添えて言葉を紡ぐ。
「風の気の向くまま、流れに逆らわずに身を委ねていく……自分から動き回るだなんてナンセンスだもの。わざわざ此方から追い掛けるよりも、向こうから来るのを待つくらいのつもりでないと。」
余裕のある女と言うのは、きっとそう言うものなのよ。
そんな風に自らの在り方を言葉に現していれば、彼女の待つ“その時”は遂にやって来たのだった。
──気紛れの猫が……。
“猫”──少女のひそひそ声が口にしたその単語に、反応した彼女はスッと耳を傾ける。
──魔女の大事な“裁縫バサミ”、もう要らないってぼやいてた。
──返してくれるって、もう必要ないからって。
そんな誰かが何処かでこっそりと見ていた事を、告げ口のように交わしていく内緒話。
それを聞いて彼女は、湛えていた笑みをより深めていった。
もうすぐ、私の取って置き──大事な“
それを確信した彼女は、長く真っ赤な髪を翻した。
波打つ髪が、兄と同じくする真紅の色を鮮やかに揺蕩わせていく。
そして彼女は口にするのだ。
人々が称する彼女の名を。
或いは、彼女を知る者こそが言い表した、彼女の在り方を良く映し出した通り名を──。
「だって私は──“
それは、人知れず国中に
それは、影ながら兄を支えるべく、この国を守らんが為にあったもの。
“蜘蛛の糸電話”。
それこそが、糸を紡ぎ、結び、切り取る事に長けたとある傾城の乙女の編み上げてきたものの集大成だ。
*****
ふと、目を覚ます。
いつからか眠っていたらしい。
抜け切っていない眠気にぼやける頭を横に振る。
一体どうしてこうなったんだっけ。
“あれ”は夢だったのだろうか。
長い間夢を見ていたような気分に、何だか蓄積していたらしき疲労を覚えて息を吐く。
多分、きっとあれは夢だ。
だって余りに現実味がない。
そう思って身体を起こしたら、傍らから誰かの息遣いを耳にした。
しくった。
まさか、他の誰かがいる場で深く寝入ってしまっていたなんて。
珍しく警戒心が働いていなかったことにショックを受けつつ、反省する。
そして、“僕”は徐にそれを見た。
その姿を見て、愕然とした。
僕の傍で同じく寝入っていたもの、無防備に寝顔を晒しているものは、僕自身夢であってくれとたった今丁度思っていたものだった。
大きな身体を広々と広げ、原っぱの上を寝転がる者。
小さな身体を丸々と丸め、すうすうと寝息を立てる者。
そんな二つの存在を目の当たりにして、僕は思わず頭を抱えた。
どうやら偉く厄介な事に巻き込まれたようだ。
夢だと思っていたかったのに、それが現実であるだなんて考えたくなかったのに。
全く、勘弁してくれよ……。
そして僕は天を仰いだ。
これから自身の身に降り注ぐであろう面倒事に、心を憂いに沈ませながら。
うんざりとしながら、思うのだ。
この星の外からやって来た“
それに、まさか──自分が選ばれてしまうだなんて。
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