3 赤き竜に誘われて。

 あれからぼくはアサトさんと街を散策し、色んな露店を見て回った。

 一日ではとても回りきれないくらいの露店がある中、当然気になるものも沢山あった。

 それを片っ端から覗いていけば、さっきまで天高く昇っていた太陽も気付けば地平線にて寝そべっている。

 昼間はあんなにも賑やかだったフラーモニカも、日が暮れ始めれば次第に人の数は減っていた。

 そしてすっかりと日が沈んでしまう頃になれば、散々人の往来が激しかった街中は一転、静けさだけが残された。


 真っ暗となったフラーモニカで、ほんのり灯りを灯すのは宿屋の窓。

 街のやや外端の位置に点在しているその建物は、唯一来訪者がフラーモニカで宵を越す事が許されている場所でもある。

 一部屋に人数分のベッドとテーブル、それからランタン。

 とてもシンプルではあるものの、夜を野宿で寝て過ごすのと比べれば都合が良い。

 その上、無駄を削ぎ落とした値段もまたシンプルなのが、実に懐に優しいので利用する者は後を絶たない。

 因みに、その殆どが翌朝出立する予定の者ばかりである。


 フラーモニカは長居する場所ではなく、通りすがるその瞬間を楽しむ場所。

 次なる街へ商いに向かうその道中で、商機を逃さぬべく露店を開いていた商人達も日が傾き始めれば早々に身支度を始める。

 彼らは早ければ昼下がりにはこの街を発つが、夕刻にもまだ残る者達の方は大抵一旦フラーモニカで日を跨いでからの翌朝出立を選ぶのだ。

 行き先が遠いものほどやはりその傾向は強い。

 それほどまでに街の外で寝泊まりするのは忌避されているからだ。


 勿論、ぼくらもまたその一部である。




「……ああ、だからフラーモニカって全然街っぽくないんだね。」


 街の散策を終えたぼくらは今、宿屋の一室でそろそろ寝に入ろかうと丁度布団に潜り込んだところ。

 本を閉じて布団を被ろうとしつつ言うぼくに、隣で寝そべりながら頬杖をつくナイトくんが「でしょ?」と返す。


「あんなに人がいるのに皆ここに住む人じゃないんだもの。変な話だよね。」

「まぁね。だって、フラーモニカは元よりただの関所なんだもん。…昔、門を通るに必要な金銭を魔物に盗まれちゃった商人がいて、その人が苦肉の策で門の傍に露店を開いたことが切っ掛けみたい。それを皆が真似するようになって、今はこの規模になるまで広がったらしいよ。」


 それでただの関所が観光地っぽくなっちゃったんだよねぇ。

 ナイトくんはそう言って、ころんと布団の上を転がった。


「でもそんなことしていたら、普通怒られない? その……門番様って偉い人に。」

「あーそれについてはまあ大丈夫。ここの門番は通行人以外には結構ユルい人だし。他の商人に混じって自分の商売もしているくらいには許容してるみたいだよ。」

「それ大丈夫なの?」

「多分。」


 そんな会話をポツポツと続けながら、互いに布団の中へと潜り込む。

 昼間は暖かな陽気がやや薄く覆う雲間から差していたので、暑過ぎず居心地良かったフラーモニカの地。

 けれども日が落ちた後には太陽の恩恵は途端に途絶え、地上に残る熱は次第に磨り減っていく。

 そうなれば辺りもやや肌寒くなって、被った毛布で得る温もりが何とも心地好く感じるようになる。


 寝る準備も出来たので、ぼくはナイトくんは「おやすみなさい」と言って灯りを消す。

 すると今までぱっちりと眠気の来ない目にまだ起きていられると思っていたハズが、布団の心地好さに微睡みを帯び始める。

 次第に瞼にとろんとした重みを感じるようなって、意識が徐々に沈み始めていくのであった。


「………?」


 ふと、微睡みから意識を引き戻す。

 直ぐ傍からもぞもぞと言った気配を感じ、頭を上げた。


「……ナイトくん?」

「んー?」


 消灯後の暗闇の中、良く見えない中で何やら近くで動いていたのはナイトくんだった。


「何してるの?」


 ぼくは体を起こして音がする方へと声をかける。

 真っ暗闇の向こうで微かに見える影がもぞりと身を捩っている様がぼんやり浮かぶ。

 それがやがて人の輪郭で徐々に見えてきたかと思うと、ぼくが身を預けているベッドに新たな重みが乗るギシッと言う音が響いた。


「えーっとねぇ……オレんとこの布団がね、一人で寝るにはちょっと肌寒くて……。」


 ぼくは暗闇の中でナイトくんのベッドを見た。

 宿屋で三人分で取ったぼく達の部屋には、中央で横に3列並んだベッドがあった。


 外を望める窓側にはアサトさん。

 出入り口であるドア側にはナイトくん。

 そして、二人に挟まれる形で真ん中を選んだのがぼくだ。


 けれども今、ぼくの隣にはアサトさんの姿はない。

 つい先ほど宿屋の店主さんに呼ばれたアサトさんは、ぼくらに「先に寝てて」と言い残して出ていってしまったのである。

 しばらくは本を読んで過ごして彼を待っていたぼくだったのだが、読み終えてしまっても戻ってくる気配はない。

 質素な部屋には遊べるものなど何もないし、今日買った本を読み尽くしたばかりで特にしたいこととて何もなかった。

 だからぼくは待つのは諦め、大人しく寝ようと決めたところなのだ。


 そしてぼくはナイトくんのベッドがある方角を見詰めた。

 暗くて何も見えない中、しばし考え「はて?」と首を傾げる。

 先ほどに見た時には、この部屋に備えられている3つのベッドはどれも同じようで差して変わりはなかったように思えたような。

 もしかしてナイトくん自身が特別寒がりなのだろうか?

 そんなことを考えつつ、ぼくは再び足下の人の気配がする方へと視線を戻していく。


「じゃあ……一緒に寝る?」

「寝る!」


 何となく口にした言葉に、即答で返事が戻ってくる。

 それも結構食い気味に。


「えと、じゃあこっちに……。」


 ナイトくんの異様な食い付きっぷりに戸惑いながらも、ぼくは布団を捲り隣を叩く。

 すると足下にあった気配が嬉々として直ぐ傍にまで近付いてくるのが何となくにわかった。


「えへへ、それじゃあっお邪魔しまーす!」


 彼の嬉しげな声に、何だかこそばゆいものを感じつつもぼくは「どうぞ」と返す。

 しかし、そこで見付けたものに思わず「……あ」と声を溢して固まった。


「ん? どしたの、アーサ………うげ。」


 布団の中を見て呆然とするぼくに、不思議そうに訊ねてきたナイトくん。

 彼もまた布団の中を見たのだろう、次の瞬間嫌そうな声が溢れ出た。

 だって、ぼくが捲った布団の中には──。


「うるるるる……。」


 こぽこぽと泡を吐くような音が立つ。

 布団の中は影すら映さぬ黒に染まっている。

 ぼくがナイトくんを招き入れようとしていた布団の中には、みっちりと詰まった何かがいた。


 輪郭もわからないほど真っ黒な身体で隙間一つ作らずそこにいたのは、何を隠そうぼくが拾ってきたネコの“キャスパー”だ。

 低く唸っている姿からは何やら不機嫌そうで、ナイトくんが入ろうとしているにも関わらず一向に動く気配がない。

 その様からは、如何にも「ここにはお前が入る余地はないから」とでも言いたげな様子だった。


「……そう言えばコイツもいたんだった……。」


 折角二人っきりになれたと思ったのに……。

 暗闇の中から舌打ちらしき音が聞こえてくる。

 それから次にぼそりとナイトくんの呟きが聞こえてきて、酷く残念そうな「はぁーあ」と言う溜め息が暗闇の中鳴り響いた。


「やっぱやーめた。一人で寝る。」

「ご、ごめん……。」

「ん、アーサーは気にしなくていーの。そいつがイジワルいだけなんだし。」


 暗闇で踵を返して離れていく影がふてくされたような声を溢す。

 そんなナイトくんの声を聞いて申し訳なくなったぼくが咄嗟に謝れば、甘やかすような声音に変えたナイトくんがすかさずそう返してきた。

 けれども、


「あー…でも、一月まるっとアーサーに会えなくて寂しかったのに、一緒に寝れなくなっちゃったのは残念だなぁ。」


 そんなナイトくんの付け足した言葉を耳にすればぼくは申し訳なさに拍車がかかり、身体を小さくするように肩を竦めてしまうのだった。




 少し前に“グリモア”と言う大昔の王様がいる不思議な世界にさ迷い込んでしまっていたぼく。

 アサトさんとキャスパーに連れられて、つい二日ほど前にようやくこの元の世界へと帰ってきたのであった。

 姿形を変えたキャスパーに包み込まれる形で視界を塞がれたその次の瞬間、いつの間にかそこは元来たあの路地裏。

 そこには片隅に置かれてあった木箱に腰掛け、一人退屈そうに足をぶらつかせていたナイトくんがいた。


 ナイトくんは帰ってきたぼく達を見るや否や「ひさしぶりのアーサーだあっ!」と飛び付くようにぼくに抱き着いてきた。

 姿は以前見たままで、その様子も変わりはないよう。

 そのままいつものように愛でられまくられるのかと思ったぼくだったが、そこでキャスパーの横槍が入ったのだ。

 かと思えば次の瞬間、二人はなんと取っ組み合いの喧嘩を始めてしまったのである。


「このっ、アーサーから離れろゲル状女! 後から出張ってきたクセに何様のつもりで勝手にアーサーにくっ付いてるんだ!」

「ぷぎーっ!!」

「人語もろくに喋れない低能が、何を偉そうに! アーサーにはオレがいれば事足りるんだから! そのクッサい身体、アーサーに近付けるなーっ!!」


 ……あの時はもう、本当に大変だった。

 殴り蹴り絞め叩きと、もみくちゃになって暴れる二人をぼくとアサトさんでどうにかこうにか引き剥がし、必死で宥めること数時間。

 取り敢えずではあったものの、それでようやく事なきを得たのだから。


 それからやっと落ち着いてナイトくんと話せるようになると、今度はナイトくんと別行動になってから更に一月経っていたことをぼくは知り、また驚愕。

 ぼくらがいない間ナイトくんは何をしていたのかと聞くと、近くの宿で寝泊まりを繰り返しいつ帰ってくるのかわからないまま、ずっとぼくらのことを待ち続けていたのだと聞かされたのである。




 それを理由にぼくは今、ナイトくんに後ろめたい気持ちが強い。

 だから一人心細い想いをさせていた彼にああ言われてしまうと、どうしても頭が上がらないのであった。

 それで彼の言葉に罪悪感を覚えて身を縮めて落ち込んでいると、今さっきまでふてくされたような声を溢していた彼が「ああでも」と、今度は跳ねるような声音で話し始めたのだ。


「オレにはアーサーから貰ったぁ……ふっふっふー! とっておきの、プ・レ・ゼ・ン・ト! が、あるからね! ぜーんぜん、羨ましくなんかないもーん!」


 そんな言葉が暗闇で響いてきたかと思うと、ぼくの耳に微かな音が届いてくるのだった。


 さらさら、からん。

 そんな、細やかなものに交じり軽やかにも硬質な音だ。

 それを耳にしたぼくはその音の正体に直ぐ思い至ると、何やら首の裏がむず痒くなるような気恥ずかしさを覚えて、紛らわすように頬を掻くのだった。


 多分、今ナイトくんが手にしているであろうものは、先ほどぼくがプレゼントしたばかりであるペンダントだ。

 細やかな三つ網状に編み作られた素朴な麻色の首紐。

 紐を括り取り付けられているのは、褪せた白濁色で中を透かす小さなボトル。

 コルクで閉められたボトルの内側には、白砂が半分未満まで詰められて揺する度に小さなさざ波みたいな音が鳴る。

 更にその柔らかな白砂の中には、埋もれるように頭を覗かせている小さな鍵のモチーフがあった。

 砂粒のさざ波が囁く度に、鍵のモチーフがボトルに小突くカラン、カララン、と言った音が耳通りの良い響きを生み出していた。


 それは、昼間に街中を散策している際に偶然見付けたものだった。

 様々な露店を巡りつつ、今日の夜宿で寝る前に読む本を、と店先に並んでいるものを順々に眺めていった時に、それを目にした次の瞬間ぼくの足が止まってしまったのだ。

 同時に、自分の頭の中をふと過ったのはナイトくんの顔。

 多分、砂に埋もれた鍵のせいだろう。

 安直かもしれないが、金の鍵に銀の鍵と、何かと鍵にまつわることがナイトくんの周りで良くあったのだから。


 勿論、目にした当初は買う気なんてさらさらなかった。

 だって相手が女の子で好きな相手ならまだしも、ナイトくんは男でただの友達。

 男相手にアクセサリーをプレゼントだなんて、ちゃんちゃらおかしな話なのだ。

 見るだけに納めようとしかぼくは思っていなかった。

 けれども、ぼくがそのペンダントをじっと眺めていたことで、それを商機と思ったのだろう。

 店主から目をつけられ、ここぞとばかりに売り込みを受ける羽目となったのだ。


「(半ば無理矢理買わされたようなものだったけど……うん、喜んで貰えて本当に良かった。)」


 怒涛の勢いであっという間に購入手続きは終え、アサトさんから貰ったお小遣いは一瞬で消えた。

 代わりに手に入れたペンダントに、ぼくはしばし呆然とした顔で見下ろしていたのだが、それを見かねたアサトさんが自身の所持金で新たな本をぼくに買い与えてくれたのだから、それは良かったのだけど……押し売りの末手に入ったペンダントの扱いに困ったのだ。

 ぼくには必要のないものだったのだから。


 何せ、そのペンダントはお守りとしての意味合いが強いものだった。

 既に別のお守りを持っているぼくには必要としないものであったのだ。

 だから掌に残されたそのペンダントに神妙な顔を浮かべていたぼくは、どうしたものかと悩んだのだ。

 しかし、そこでまたナイトくんのことが思い浮かぶ。


 そうだ、ナイトくんはお守りを持っていない!


 元より、待ちぼうけをさせてしまっていたナイトくんに、何か詫びになるようなものがないかと頭を悩ませていたところだ。

 丁度良いやと思ったぼくは、そのペンダントをナイトくんへと渡すことに決めたのだった。


 そんなこんなで渡すに至った経緯にやや言いにくい事柄はあるものの、ペンダントを渡したナイトくんは目に見えて大層喜んでくれた。

 詫びよりも何よりも、ぼくと“お揃い同じ”であることがお気に召した一番の要因だそうだ。

 ものは違えども、お互い同じようにお守りを首に掛けている。

 それこそが何よりも嬉しい……のだとか。

 ぼくの鏡映しみたいなナイトくんらしい、不思議で変わった理由だ。


「むー……。」


 そうして有頂天になるナイトくんの声に、布団の中からキャスパーが呻く。

 何だか不機嫌そうだ。

 ふと脳裏に響いてくる不思議な鈴の音てけり・りと言う声が『わたしも、なまえ、もらったもん』と反抗心露にも密やかにぼそりと呟いた。

 しかし、その言葉はどうやらぼくにだけ聞こえているようだ。

 ナイトくんには届いていないらしく、それに反応は示さなかった。

 なのでぼくは下手に藪を突ついて蛇を出さぬよう、ひっそり彼女の主張を黙殺するのだった。

 ……アサトさんがいない今、二人が喧嘩を始めてしまえばぼく一人では止められそうにないのだから。


「じゃあナイトくん、ぼくもう眠いから寝るね。」


 そしてぼくは欠伸を溢した。

 いい加減、そろそろ瞼が重い。

 うっすら涙を滲ませた目元を擦っていると、ナイトくんから声が返ってきた。


「そうだね、オレもそろそろ寝るとしよっと。」


 おやすみなさいアーサー、良い夢を。

 ナイトくんはそう言って、自身のベッドへと戻っていった。

 ぼくもまたその背中を追うように、


「おやすみなさい。ナイトくんも、良い夢を。」


 と言葉を返して、布団へと潜った。


 温かな布団に包まれて、眠気は間も無く最高潮へ。

 ゆっくりと微睡みを味わう時間を惜しめぬままに、ぼくの意識は沈んでいった。






 *****






「………ん…。」


 ふと、意識が浮上する。

 何だか肌寒い。

 どこからかぴいぷうと微かな笛の音がぼくの鼓膜を悪戯に震わせきて、心地好い微睡みを阻害してくる。

 寝惚け頭をもたげたぼくは、ぼんやりとしたまま身体を起こす。

 今にもまたくっ付きそうな瞼をパチパチと瞬かせて、それからくるりと首を回していった。


 月明かりが窓から差し込む。

 ほんのり明るい夜の部屋は微かな笛の音がちらちら鳴ってはいるものの、静けさに包まれていた。

 何も動く気配のない様からはまるで時が止まっているかのようだ。

 ぼくはまた首を回していった。

 左右のベッド、人影はない。


「(アサトさん、まだ帰ってきてないのか……ナイトくんはトイレかな……?)」


 そしてぼくは欠伸を噛み殺す。

 夜はまだ明けそうにない。

 もう一眠りしようかな……。


「………あれ? 扉が開いてる……。」


 視線を向けた先、ふと玄関の扉が僅かに開いていることに気が付く。

 どうやら笛の音が聞こえているのはそちらからのよう。

 さっきから肌寒さを感じているも、恐らくその隙間風が原因なのだろう。

 思わずふるりと身体を揺すったぼくは、腕を擦りながらもベッドから足を降ろした。


「ナイトくんかな……? もう、無用心だなぁ。」


 冷たい床をひたひた歩き、ぼやきながら向かったぼくは扉のノブに手を掛ける。

 そのまま押して閉めようとした時、ぼくの耳が何かの物音を拾った。


「……何?」


 それは人の話し声のようだった。

 しかしここから距離が離れているのか、ぼくの自慢の良い耳でも何を話しているのかまではわからない。

 何だろう?

 ぼくは閉めようとしていた扉を引こうと手に力を込めた。

 しかし、それは開ける前に押されて閉じてしまった。


『だめ。』


 てけり・り。

 鈴の音が囁く。

 ぼくの後ろから伸びてくる黒い影が扉を押さえて凭れかかる。

 上から差し込む影に見上げてみると、そこには彼女の管の身体がどこからか伸びてきていた。


「キャスパー?」

『もどって。あっち。』

「戻ってって……うわとと!」


 問答無用とばかりにぼくの腕にしがみついてきたキャスパーは、そのまま強引にぼくを引っ張っていった。

 その力強さに抵抗する間もなくずるずると引かれていけば、目の前で触手が布団の上をポンポンと叩きぼくを促す。

 拒否する理由もさしてないぼくは素直にそれに従ってベッドへと乗り上げた。

 そのまま四つん這いで枕元へと向かっていった。


 隙間風のなくなった部屋は、ますますしんと静まり返った。

 身動ぐ度に僅かに響くシーツや寝巻きの衣擦れの音も、ぼくが動かなくなれば鳴ることはない。

 次第にその静けさから耳の奥がキーンとしたものを感じるようになっていく。

 俯きぼんやりとしていたぼくは、徐に耳を塞いだ。


「(……うるさい……。)」


 静かな部屋の中、ぼくは屈む。

 掌は耳に、額は膝にくっ付けて。

 背中も丸めてうんと小さくさせて、何かから身を守るように自らの身体を抱える。

 けれども目は閉じないまま、ぼうっと虚の一点を見詰めていた。


「(………耳が、痛い……。)」


 静けさはぼくには毒だった。

 静寂から来る耳鳴りが、ぼくには何よりも嫌なものだった。

 ……いや、それは少し違うな。

 本当は、自分以外に誰もいないのがわかってしまうことが何もよりも恐ろしく感じて止まなかった。


 誰かの声が聞きたい。

 例え言葉を交わせなくても、せめて傍に誰かの息遣いがあってくれたならば、それで良い。

 誰かの傍にいさせて欲しい。

 寄り掛かれる肩がなくとも、傍に誰かがいると言うだけでほんの少し安心出来るのだから。

 誰でも良い。

 何だって良いんだ。

 ただ、この身を締め付けるような寂しさを紛らわせるのであれば。

 この何も聞こえない耳から、喧しい耳鳴りを止めてくれるのであれば──。




 “てけり・り”。




『ねぇ。』


 ぼくは顔を上げた。

 目の前に黒い影が映る。

 もやもやとした輪郭のないそれは、いつか見たキャスパーのもう一つの姿だ。

 それはぼんやりと人の形を作り、ぼくの前で座り込んでいるかのようだった。

 何をするでもなく言葉もなく、ただじっとそれを見詰めていると徐にそれが何かを指差した。


『よんでる。』


 靄のような彼女の腕が指す方へとぼくは視線を向けた。

 ぼくの傍らを指差していたそこには、銅色の本が枕元に置かれているのが見えた。


「……呼んでるって……誰が?」

『それ。』


 彼女に向けかけていた視線をもう一度本へと戻す。

 キャスパーが指しているのは、やっぱりこの本のことなのだろうか?

 ぼくは身を捩り、その本を手に取った。

 そして持ち上げたそれを開こうと指に力を込め、しばらくそのまま、やがて降ろしていった。


「……ごめん。この本だけは、どうしても読めないんだ。」


 項垂れ、膝の上の表紙を見下ろしてぼくはぽつりと言葉を溢す。


「怖いんだ……どうしようもなく。何でかわからないけど、無性にこの本を読むことは怖くて堪らないんだ。」


 何でなんだろうね、自分でもよくわかんないや。

 一人言のようにぼくは呟く。

 キャスパーはそれを静かに見詰めていた。


『……でも、よんでる。』


 てけり・り。

 再び彼女が鈴の音の声を鳴らす。


『あのひとが、よんでる。』

「あの人……? それは、」


 誰のこと?

 ぼくは彼女にそう訊ねようとして、言葉を止める。

 かさり、と手元から音が鳴り、視線がそちらに引っ張られたのだ。

 本の表紙を撫でる指先が伝っていった先で、ぼくの手が触れたのは本からはみ出た紙切れだった。


「これ……。」


 摘まんで引き抜いたぼくはそれを見て思わずと言った調子で声を溢す。

 それはいつかキャスパーと拾った手紙だった。

 封を解き中身の手紙がはみ出たそれに、ぼくはただじっと見下ろしていた。


「そう言えば、これの持ち主を探さなくちゃいけないんだっけ…。」


 そしてぼくは再びその手紙を開き、その文章を眺めた。


 偶然宛先がぼくと同名の別人だった迷子の手紙。

 その人はどうもズボラで面倒臭がりのようだけれども、これを書いた人は逆にとても真面目か、あるいはとても几帳面な人なのだろう。

 綺麗な文字が丁寧に書き綴られているその説教染みた文からは、何となくにもそう察せられた。


 こうして手紙を送らねば言葉を伝えられないほどに遠く離れても、送り主は宛先人のことをとても気に掛けているのだろう。

 きっと顔を合わせても口酸っぱくあーだこーだ言っているに違いない。

 しかしぼくにはこの文面を見たところで、彼らがどんな人でどんな関係なのかまではわからない。

 ただそれでも、こうして文面を眺めていることで彼らの人物像を頭に思い浮かべ、今頃この人達はどうしているのだろうと想像を膨らませて物思いに耽る。

 そしたらさっきまで感じていた寂しさが、何となく紛れたような気がした。


「この手紙の宛先の、ぼくと同じ名前の人……一体どんな人なんだろう? この送り主の人も……ええっと、名前は何だったかな……?」


 そしてぼくはちらりと封筒を見る。

 焦げた痕が誰かの名前があったであろう場所を黒く塗り潰しているのが見える。

 これではわからない、とぼくは肩を竦めた。

 それからまたぼんやりと手紙を眺め、ふとぼくは思ったのだ。


「……そうだ。手紙の方になら名前が残っているかも。」


 一人そう呟くと共にぼくは居住まいを直し、それから手紙を注視する。

 視線が左から右へと伝っていく中、やがて辿り着くのは文章の終盤。

 これを書いたのは几帳面な人なのだ。

 冒頭に宛先の人の名前を書いているならば、きっと送り主である自分の名前だって残しているハズ。


 そうしてぼくは二枚綴りの手紙を捲る。

 向ける視線の先はやはり文章のラスト、そこには確かに“from~から”の綴りがあった。


「ええっと、確かこれの読み方は……。」


 ぼくは布団の上に寝かせたその手紙の、名前であろう文字列にトンと指先を触れさせた。

 そしてゆっくりとその文字の綴りを読み解きながら、ぽつりぽつりと声に出していくのであった。


「み……みねら………違うな………みねる、ば………。」


 その時、ぼくは手紙に夢中で気付かなかった。

 閉め切った部屋に隙間風が通ることはない。

 なのに、ぼくの前髪を撫でる風がふわりと舞ったことを。


「……ん、わかったぞ。この名前の読み方。」


 そしてぼくはその異変に気付かぬままに、その文字列を理解したことで達成感に手紙を掲げて声を上げる。




「この手紙の送り主の名前は“ミネルヴァ”だ。手紙の最後に書かれている文章は──“ミネルヴァから、イイーキルス・・・・・・より親愛を込めて。”だ。」




 ぶわり。

 途端、凄まじい風がぼくの顔面を叩き付ける。

 思わず声も上げれぬまま後ろへころりと転がる。

 吹き荒ぶ風の勢いに煽られ、ベッドに横たわるシーツがばたばたと激しくはためいた。


「なっ何!? 今の──、」


 ぼくは咄嗟に顔を上げた。

 前を向き、そこで見たものに思わず声を失う。


 そこにいたのは幻影だ。

 それは確かに幻影だった。

 見えているのにその奥の景色を透かし、そこにあるように見せていないもの。

 そしてそれは何かの貌を浮かび上がらせ、もたげた頭をぼくへと向けた。


 ぼくは、それが何なのかは言えない。

 どう言い表したら良いのかがわからないのだ。

 ただひたすらに大きな身体は山のようで、部屋を狭苦しそうに捩らせていた。

 長い口から覗いた中に並ぶのは鋭利なナイフのような牙があった。

 背中に生えた膜のような翼は大きく、広げればきっと空を隠すほどのものだろう。

 鋭い爪が生え揃った太く逞しい四肢も、身動げばきっと地を揺するほど力強いに違いない。

 そんな硬質で筋肉質な身体は鱗がびっしりと並び覆う、その全身に映るのは眩しいほどに輝く赤。

 厳めしい顔にギョロリと覗くその双眸も、燃えるような赤が煌々と煌めかせてぼくを一瞥した。


「ッ────!?」


 突如現れたその“怪物”がぼくを見た瞬間、その口角がにたりと持ち上がった気がした。

 思わずぼくは悲鳴を上げた。

 驚きの余り声は出なかったが。


 しかし、その幻影は一瞬だけ。

 瞬く間に弾けて消えた。

 呆気に取られたぼくは呆然とし、何もなくなった天井を見上げ続けて固まる。

 一体今のは何だったんだ?

 一層のこと夢だったのではと思おうにも、ばくばくと鳴り響く鼓動が胸を叩く痛さがこれは現実だとぼくに思い知らせてくる。




 てけり・り。




『だいじょーぶ?』


 不意に響いた鈴の音。

 ハッと我に返りぼくは前を向く。

 ぼくが視線を向けたその先には、黒い靄姿のキャスパーがぼくを心配そうに見詰めていた。

 頬を伝って汗粒が顎をなぞっていく。

 ぼくはそれを袖で乱暴に拭っていった。


「だい、じょうぶ……平気だよ。」


 そう言うぼくの声は少し震えていた。

 すると靄の身体を不安そうに揺らしていたキャスパーは、そんなぼくの頭に、腕らしき曇る部位をふわりと乗せた。

 管の身体の時と違い、それには重みが一切ない。

 触れられている感覚も朧気で、何となくふわふわとしたものが傍にあるような気がする程度。

 それでもキャスパーはなでりなでりとそれを左右にゆっくりと振り、ぼくの様子を伺うように顔を覗き込んでくるのだった。


『だいじょーぶ……?』

「うん、大丈夫。ありがとう、キャスパー。」


 もう大丈夫だよ、きみのお陰だ。

 そう声をかけてやれば、表情ところか顔らしきパーツも見かけない靄の人影から花が弾けるようなものが見えた。

 途端、彼女はひゅるりとぼくに身を寄せて絡み付くようにぼくの腕にくっ付いてきた。

 やはりこうも身を引っ付けられても、一向に触れられているらしい感触はない。

 だけども見下ろせばぼくに懐いているのがわかる影を見て、ぼくはつい顔を綻ばせてしまうのだった。


 その時、ぼくの視界に何かが映り込む。

 何かと思い、そちらを見てみれば──、


「あれは……。」


 さっき幻影を見た場所で、ふわりふわりと浮かぶもの。

 それはぼくが読めない本。

 銅色の、爺やから受け取った本。


 その本は何の支えもないまま宙に浮かび、そして静かに佇んでいるのだ。

 まるで何かを待っているかのように。


「(──呼ばれてる。)」


 ぼくはそれを見て、ふとそんなことを思った。

 声が聞こえたワケではない。

 辺りは静けさに包まれたままだ。

 ただ何となく、どうしようもなく、そう思えてならなかっただけ。


 そしてぼくは本へと近付いた。

 それを前にしてぼくは立ち尽くした。

 ただ静かにそれを見下ろして、徐に持ち上げた手で触れようとした、その時だった。




 ……ぱらり。




 宙に浮かぶ本が独りでに開かれた。

 伸ばしかけたぼくの手がびくりと震える。




 ぱらり、ぱらら…。




 捲られたのは裏表紙から。

 ふわりと浮いたその頁は白紙、そこには何も書かれていなかった。




 ぱらぱらぱら……。




 捲れる頁は次第にその量と速さを増していく。

 しばらくすると白紙の頁が遂に途絶えた。

 そこには白紙の頁が黒く塗り潰されるほど、多大な量の文字が連ねていた。

 読み取ろうにも直ぐ様捲られるのでその内容はわからない。


 いつもならばその本は、少しでも中を覗こうとするだけでのし掛かる眠気に襲われていた。

 ずっと手元に置いていたのに、からっきし読むことが叶わなかったのだ。

 けれどもその時だけ、今だけはいつもと違う。

 ぼくの目はしっかりと開いたまま。

 意識も途切れることなくあって、ただただじっとそれを見下ろしていた。


「(あれ、何て書いてあるんだろう……?)」


 自動的に捲れていく頁を見詰め、ぼくは思う。

 もう少しゆっくり進めてくれたならば目についたところ程度ならば読み取ることは出来そうだ。


 ぼくは本に顔を近付け、凝らすようにそれを眺める。

 すると流れる文字の一部を読み解くことが叶うのだった。


「3……“赤き竜に誘われて”?」


 頁が捲られる。

 次に見えた文字にぼくはまた声を溢す。


「2……“勇者の言い伝え”……。」


 ぼくは首を傾げた。

 本の全体から見て後方よりだと言うのに偉く数字が若いような……。


「1……“その境に立ち塞がる者”………。」


 ぼくは怪訝な顔を浮かべた。

 恐らくこの頭の数字は話数のハズ。

 まだ中盤にも差し掛かっていないのに、もう早くも一話に辿り着いてしまった。


 この先、一体どうなるんだろう?

 ぼくは高鳴る胸を押さえ、そして唾液を飲み込んだ。

 本はそんなぼくには構わず変わらぬペースで頁を捲る。


「………マイナス1……?」


 0を過ぎてぼくの目に映ったのは、遡るかのような0のその向こう。

 頭に-の記号を携えた数字は尚もその数大きく膨らませていった。


 -1 招待状を手に。

 ・

 ・

 ・

 -6 その手紙の宛先は。

 ・

 ・

 ・

 -19 タイムカプセルは掘り起こされた。


 もう随分と頁は捲られたがまだまだ半分にも到達しない。

 相も変わらず内容は見えないが、頁の左上にある話数とそのサブタイトルだけが、唯一ぼくにその内容を知る手掛かりとなってくれていた。


 けれどもそれもまた、直に難しくなっていく。

 40、50を過ぎた辺りでその捲られていく速さに目が追い付けなくなっていったのだ。

 耐えかねてぼくは瞼を擦った。




 ぱらららららら………はら。




 顔を撫でた手を下げた時、殆んど同じタイミングで本もピタリと捲るのを止めた。

 開かれたまま沈黙した本は、そのまま動きそうな気配はない。

 今なら中身を読めそうだ。


 ぼくは恐る恐るそれを見下ろした。

 そっと手を伸ばし、本を手に取って。

 何の抵抗も引っ掛かりも感じさせぬままずしりと本本来の重みが掌の上に乗る。

 そしてぼくは静かに視線を伝わせた。

 並ぶ文字列に指先を乗せて。

 ゆっくりと文字を読み込んでいくぼくの後ろからは、優しく包み込むような月明かりが本を濡らして、そっとぼくの背中を押してくれていた。




「“──これは、とある王国におわす三人の王族兄妹のお話。”」




 目に映る文字を声に起こしていくのだ。

 それはさながら、口に含めたものをゆっくり咀嚼し味わうように。

 あるいは、絡まった糸を丁寧にほどいていくように。




「“彼らは、それはそれはとても仲の良い兄妹でした。父たる先王から継ぐ王位継承を争う立場にあると言うのに、彼らの間でいさかいが起きたことなどないほどに。それこそ、彼らを知る王宮の者が皆声を揃えて同じことを言うほどに。”」




 そしてぼくは没頭していく。

 周りのことが見えなくなってく。

 音が聞こえても頭に入らない。

 意識の全てが本に集中していくのだ。




「“それもそのハズ。彼ら三人は誰が王になるのか、争うまでもなく決めていたのです。それこそが最善の選択肢なのだと、彼ら三人には既にわかりきっていたことなのだから。”」




 読み始めたらもう、止まれない。

 先が気になって気になって、頁を捲るのを止められなくなってしまうのだ。

 続きが読みたくて、どうなってしまうのか知りたくて、胸を高鳴らせわくわくとしてしまう。


 ぼくはもう、その本の虜になってしまっていた。




「“心優しき慈愛に満ちた第一王子、民を愛し民からも愛された──ソロモン・G・ハイブラシル。難攻不落の武勲を持つ第二王子、“剣聖”と呼ばれし──アルクレス・B・ハイブラシル。それから、そんな兄二人に愛された末妹の第一王女、紅き薔薇の如し麗しの乙女──ミネルヴァ・N・ハイブラシル。”」




 無心になって本を読み出すぼくに、キャスパーはそれを止めることはしなかった。

 ただ身動ぎの一つもなく、じっとその背中を見詰めるだけの彼女は何を考えていたのだろう?

 静かに見守るその様からはきっと、さもそれが神聖な儀式の最中のようだったと思う。


 しかし、今は夜も更けきった遅い時間。

 辺りの者は皆寝静まっている。

 ぼくの読書を邪魔しに来るような、来訪者などあるハズがない。




「“これは、そんな三人の仲の良かった・・・・・・王族兄妹のお話。三人の内誰が王位を継承しても、三人共に一丸となり、未来永劫国と兄妹を支え続けていこう──そんな約束を交わした彼らの物語。”」




 ぼくは読み進める度にどんどんと頁を捲っていく。

 妨害のない空間で、その指先と視線が止まることは一度もない。


 そんなぼくの指が撫でる頁の上部、その物語を示す助題名サブタイトルは──、




「“それは──長男ソロモンの王位継承式の直後、玉座の間にて行われた“魔女裁判”によってその約束は儚く砕け散るのだった。”」




 ──【紅き薔薇の髪長姫ラプンツェル】。






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