2 勇者の言い伝え。

「“──そして、人々の前に現れた勇者は魔物からの脅威を討ち払い、街には平和が訪れたのでした。…めでたし、めでたし。”」


 パタン。

 最後に裏表紙を摘まみ、本を閉じる。

 そして読み終えた達成感に、ほう、と息を吐き余韻に浸る。

 じいんと胸の奥に広がる高揚感に感じ入って噛み締めていく。

 その気分もやがて落ち着いてきたらもう一度息を吐き出していって、それから今正に読み終えた本を天へと向けて掲げていった。


「……っくぅぅ~~! やっぱ勇者様ってば、かぁっこい~~!」


 噛み締めていた感嘆が声になって溢れ出る。

 満足げに笑みに輝く瞳を煌めかせ、持ち上げた本を見詰めるぼく。

 堪らないとばかりに紡ぐ賛美を声は興奮故かそれで収まらない。


「魔物を恐れない勇猛果敢さ。困っている人を見捨てない優しい心。誰かのピンチにはどこからともなく颯爽と現れて、どんな悪者をもやっつけてくれる正義のヒーロー! ……はぁ~、ぼくも今までに色んな勇者の話を聞いてきたけど、まさかこうしてまだ知らないものと巡り会うなんて……!」


 ぼくってば、ついてる…!

 そう言葉を溢したぼくは感慨深く本を抱き締める。

 満足感から悦に入りうっとり笑みが浮かぶ。


 ぼくが今抱えているその本は、つい最近手に入れたばかりのもの。

 通り掛かった街を歩いていた最中に、偶然店先にて並んでいたのを見付けたものだ。

 思わずねだって衝動買いしてしまったのである。


 似たようなジャンルの本が他にも数多く並んでいる中、ぼくが真っ先に目をつけたそれは、かつて存在したと言い伝えられる“勇者”と称された人物の物語。

 それは神出鬼没で素性不明、正に風来坊たる人物の数々の偉業が書き記された伝記でもある本だ。


 昔世界各地を巡り回っていたとある旅人が、人々から“勇者”と呼ばれるに至ったその由縁。

 それは、魔物が蔓延る危険の多い街の外を巡り、各地を訪れては誰かを助け、ほんの少しの痕跡を残しては風のように過ぎ去っていく。

 なのにその素性やどこから来たのかは全く知られていないのだから、彼に救われた者を筆頭に皆彼を“勇者”と呼ぶようになった。


 何せ彼が訪れる先々にはいつだって何かが起きて、困ったことがあれば少なからず助けてくれる。

 それがどんなものであってもだ。

 時に魔物の群れの襲来に救われたと言う村の話もある。

 それどころかどこへ行っても彼が訪れたと言う話は些細なものでも残されていて、話の内容もまた様々なもので溢れていた。


 人を助けた、悪党を撃退したと言った話があれば、どこへ訪れた、姿を見たと言う些細なものまで。

 彼にまつわる話とあれば、魔物退治なんてその最たるもの。

 只人には出来ない、難しいどころか不可能と言っても過言ではない──それが当然であり常識であると言う認識が全て人々にはあるのに、フッと現れたその人だけがそれを成し遂げてしまったのだ。


 だからこそ唯一魔物に対抗出来得る彼は、人々にとって神のようであり“希望”そのもの。

 故に人々は彼と言う希望を追って、風のように掴み所のない痕跡に価値を見出だしては「我こそは勇者を知る者だ」とこぞって口を開く。


 その為、彼が少しでも携わったであろう出来事があったのならば、大なり小なり話は広まっていく。

 さながらそれは波のように、時に激しく、時にか細く。

 更には国境をも越えて末広がることもあるのだろう。

 だからこそ、“勇者”と呼ばれた旅人が成した偉業は、人々にとってその殆んどが誰もが耳にしたことはあるものばかりだった。


 しかし、今回見付けたそれはどうもマイナーなものらしい。

 初めて知るどこぞの地域が残した勇者の伝記に、読み終えたばかりのぼくは感動と興奮が未だ冷められずにいた。

 無論、その内容が非常に楽しめるものであったのもその要因の一つだ。

 表紙に書き刻まれた題名を目にしてから最後の頁を捲るまでその一から十の全てが、ぼくの胸をわくわくとときめかせてくれたものだから、実に良い買い物をしたと満たされた思いにぼくは顔を綻ばせるのだった。


「ふふふ。キミは本当に、勇者のお話が好きだよねぇ。」


 くすくすくす。

 不意に、小さな笑い声と共にそんな言葉が直ぐ傍から投げ掛けられる。

 その声に振り向いたぼくの目に映ったのは、見慣れた顔の同じ年端の少年。

 長い睫毛を携えたターコイズみたいな碧色の瞳に、ぼくの姿を映して微笑んでいる姿がそこにあった。


「よっぽど気に入ったんだね、それ。本を読んでいる間、どんなに声を掛けても全然コッチ向いてくれないんだもん。」

「……え、そうなの!? ご、ごめんね、ナイトくん…!」


 ちょっとだけ、寂しかったかも。

 眉の両端を下げてほんの少し寂しげな笑みを浮かべる目の前の少年、“ナイト”くんのその言葉に慌てたぼくは咄嗟に謝った。


「その……つい、夢中になっちゃって……。」


 思わず申し訳なさに身体を縮込めていく。

 やってしまった、と失態に顔を俯かせ、言葉尻は段々と下がっていく。

 悲しませてしまっただろうか?

 それとも、怒らせてしまっただろうか?

 相手の顔色を伺うべく恐る恐る上目遣いにて見上げてみた先で、ぼくの目には悪戯っぽく笑んだ彼の嬉しそうな顔が映り込んだ。


「……なんてね。冗談だよ。そんなコト全然思ってないから。」


 にんまりと口角を釣り上げたナイトくんが囁くような声音でぼくに言う。


「本を読んでる時のキミ、スゴく楽しそうだったし。そんなキミの邪魔なんて、オレにはとても出来ないよ。」


 ナイトくんはそう言うと、ぼくにとても良く似た顔で──なのにとても整った顔で──はにかむように笑うのだった。




「オレね、キミが本を読んでるとこ眺めているの、スッゴく好きなんだ。だから嬉しいよ。キミが──“アルト”が本を読めるようになって。」




 色白の頬にふわりと朱が差した。

 笑む唇は形良く弧を描き、細められるターコイズブルー。

 その宝石のような瞳に見詰められ、思わず見入ったぼくは息を呑む。


 顔付きも、背丈も、身体付きも、前髪の分け目が対になっている髪型も、全部全部ぼくと同じ彼。

 端から見ればきっとぼくらは、とても良く似た双子だと思われるだろう。

 けれどぼくにとても良く似た彼には長い睫毛、宝石のような瞳、不思議と端正に思えてならない顔に、艶があって風にさらさらと流れるシルクのような柔らかな毛先とか……ところどころで決定的な違いがある。

 さながら平々凡々な容姿なぼくと、如何にも美少年といった彼だ。


 そんなどうしてもぼくと同じなのに、同じとは思い難い容姿の彼。

 それに微笑まれたぼくは、思わずどくりと胸を弾ませてしまうのだった。


「……アルト? どうかしたの?」


 視線を合わせながらも口をつぐんで固まるぼく。

 キョトンとしたナイトくんが不思議そうに見詰めてくる。

 その声にハッとしたぼくはようやく我に返って、しっかりしろ! と頭を振った。


「な、何でもない! ちょっとぼうっとしてただけ……。」

「そお? なら良いんだけど。……あ、そうそう。馬車の中で夢中になって本を読んでたけど、酔ったりはしてない? 大丈夫?」

「それも大丈夫……平気だったし。」

「そっかぁ。具合、悪くなるようなら言ってね?」

「う、うん……。」


 笑ったり、心配そうにしたり。

 ころころと表情を変えてはぼくの傍にぴとりとくっ付いてくるナイトくん。

 彼はぼくを気に掛けてそう声をかけては、頭を撫でたり顔を寄せたり……偉く近距離で接してくる。


 そんなナイトくんを相手についたじたじとなってしまいがちなぼく。

 どうもこう、綺麗な顔立ちに弱いらしい。

 間近で見詰められることに何だか悪い気はしないと思いつつも、ばくばくと打ち鳴る心臓の鼓動に少しだけ苦しさを覚えてしまう。

 それを紛らわさんと頭を振れば、彼が口にしたことに対して「……と言うか」と気まずそうに声を溢す。


「ぼく……“アルト”じゃなくて、“アーサー”だ、よ?」

「あっ! ねぇアルト・・・、外を見てごらんよ。景色がキレイだよ!」


 即行でスルーされた。

 ぼくはしょげた。


「……冗談だって! ほら、泣かないでよアーサー。」


 「無視された……」とぼやくぼく。

 すすす……と馬車の隅に寄って立てた膝を抱えて沈む。

 あからさまな拒絶に落ち込むぼくに、後から追いかけてきたナイトくんがからからと笑いながらまた隣に座るのだった。




 ぼくらは今、馬車の中。

 多くの荷包みと共に荷台に乗せられ、街から街へと移動している真っ最中。

 通り過がった街を出てもう随分と経ったので、屋根を取り付けられている荷台の窓口から見える木々が青々と繁っている光景にそろそろ見飽きた頃だった。


 こうして街の外へ出るのは命懸けだと言う程、危険であるのはぼくでも知っていること。

 けれど、昔に比べ最近はこうして馬車が走る為の道が作られているくらいには多少マシらしい。


 勿論、それでも魔物の脅威がなくなっているワケではない。

 事前準備を怠ればきっとその分危険は伴うのだろう。

 だからこの馬車は魔物避けのお守りが取り付けられている。

 荷台の後ろの垂れ下がった小さな鈴、それが馬車が揺れる度にちりちりと鳴り響いていた。

 それがどうして魔物避けとして機能するのかはなはだ理解し難いが、不思議と効果は抜群のようだ。

 結構な距離を走っている今ですら、道中一匹も魔物に出会すことはなかった。




 そんな鈴の音を聞きながら馬車の片隅にて縮こまっていたぼく。

 すると、わざわざぼくの隣に座り直したナイトくんが肩を寄せつつ顔を覗き込んでくる。


「ちょっとした悪ふざけさ。そう気を悪くしないで?」


 そして隅に寄ったお陰でより距離を詰められて、ぼくはより逃げ場を失ってしまう。

 なのに、彼はまたぴとりと身体を寄せてくるのだ。

 それからうりうりと頭を擦り付け懐いてきたのだった。

 幾ら似た顔とは言え、間近まで美少年の顔が迫ってきたことでつい顔は熱くなってしまう。

 おかげでぼくの口から思わず「おおふ…」と変な声が溢れてしまった。


 何だか、今にも変な気を起こしてしまいそうだ……。

 ……いや、そもそも変な気って一体何のことだ!?


「……ちょ、ちょっとナイトくん? 少し離れて……。」

「んー?」


 どうにか距離を取れないかと身動いでみる。

 しかし、彼の腕が腰の裏をぐるりと回されて、抱き着く形で凭れ掛かられてしまう。

 いよいよ動けなくなってしまったことで、ぼくの身体に緊張が走った。

 こうなったらナイトくんへ直接お願いしようと視線を向ければ、直ぐそこにあった美形面と目があって、ぼくはまた硬直してしまう。


「(ち、近い……!!)」


 目と鼻の先に、ぱちぱちと長い睫毛を揺らすターコイズブルーの宝石の瞳。

 それがじっとぼくを見詰めていたかと思ったら、細めて笑んだ瞬間よりぐっと近付けられた。


「なぁに、アーサー?」


 遂には吐息が吹き掛かる程となった互いの距離、動こうなら鼻先が擦れそうな近さ。

 そんなあまりにも近い距離に、ぼくの頭は最早噴火寸前。

 しゅーしゅーと湯気でも立ち上ってしまいそうな気恥ずかしさと、混乱と、込み上げる熱に目が回り出す。

 今にも爆発しそうな何かをどうにか堪えようと、ぼくは必死の思いで目を閉じた。


 その時だった。




 ヒュッ──パコーンッ!


「あいたぁーっ!!」


 軽やかな打撃音が馬車の中に響き渡る。

 瞬間、床に転げ落ちたナイトくんが悲鳴を上げた。


った!! っっった!! 何これメチャクチャ痛いんだケド!?」


 なんか飛んで来たんだけどー!?

 そう叫びながら後頭部を押さえてゴロゴロ転がり回り出すナイトくん。

 ぼくはそれをポカンと見下ろしていた。

 しかし、そこで頭上から何やら振ってきたかと思うと、それはぼくの膝の上へぽたりと落ちた。


「……何だこれ?」


 手に取ったそれを覗き込む。

 何てことはない、それは何の変哲もないどこにでもあるような銀貨だった。


 こんなもの、一体どこから……?

 くるりと辺りを見渡してみれば、ぼくらが乗っている馬車の正面窓、その向こうにある人影がふと目についた。


「──もうすぐ次の街に着くから、そろそろ準備して。」


 言う事聞かないなら街の外に置き去りにするからね。

 静かな声音から物騒な脅し文句。

 それを背中越しに言ってくるのは、ぼくとナイトくんの謂わば“保護者”的な人。

 ぼくは馬車の正面を望める窓口へと歩み寄っていくと、そこから銀貨を握った手と顔を出して彼を見上げた。


「“アサト”さん、次の街って?」


 窓から覗き込んだそこでぼくが目にしたのは、馬車に繋げられた一頭の馬と御者台にて手綱を持ち腰掛けている黒髪の青年──アサトさんの姿。

 握り締めていた銀貨を彼へと差し出しながらそう訊ねれば、彼は窓から頭を出すぼくに危ないからと頭に手を置いた。

 けれど、それは無理にぼくの頭を引っ込めさせようとはしない。

 銀貨を差し出していた掌も受け取ってくれなかった。

 それどころか、彼はぼくの手に手を添えて再び銀貨を握らせたのである。

 ぼくは掌に残された銀貨に途方に暮れ、どうしたものかと見下ろした。

 すると、


「お小遣い。」


 そんな呟きが前を向いたままの彼の口から告げられたのだった。


「街に着いたら、それで好きなものを買いなさい。」


 ぼくは破顔した。

 嬉しくなって銀貨を握り締める。

 ますます街に着くのが楽しみになって、気が早くも「何を買おうかなぁ」「どんなものがあるのかなぁ」とわくわくしながら考えた。


 そんなぼくを横目見た彼が徐に腕を持ち上げる。

 かと思えば、その指先が前方を差した。


「ほら。」


 言われてぼくは彼が指差す方を見る。

 そしてそれを目にすると、わあっと声を溢すのだった。


「でっ……かい、壁……!」


 木々の青々とした屋根が続く中、いずれそれも終わりが来る。

 空が開け晴れた瞬間、視界一杯にそれは見えた。


 荘厳に聳え立つ白亜の巨壁。

 麓へ辿り着くにはまだ先があると言うのに、それでも見上げる程に大きなそれは天へと昇るように直下たつ。

 しかし、それを凌駕する程に驚かされてしまうのは何よりも、視界に収まりきらない程に左右へとぐんと延びているその横幅の方。

 一見果てがないかのように思えてしまうほどの距離を、その白亜の巨壁は大地を穿って佇んでいた。

 輝かんばかりの白が殊更相まっているのもあって、その光景は凄まじく圧巻のものとなっていた。


「もしかして、これ……“キャメロットの国境壁”?」


 初めて見るその光景だが、ぼくはそれに心当たりがあった。


 キャメロットの国境壁──それは、世界随一の面積を誇る、とある大国が統治する国の境にあると言う防護壁。

 噂では悪しきものは決して通さず、選ばれた者だけがその国に足を踏み入れることが叶うと言う。

 当然、それは魔物ですら通ることは許されない。

 故にこそ、その壁の向こうでは魔物の脅威に怯え暮らす必要はなく、永久に平穏が約束される。

 そんな、人間達にとっての理想郷こそ、白亜の巨壁“キャメロットの国境壁”の向こうにある──。


 ……と言う、昔に噂を耳にした程度だが。


 しかし、その噂を知らずしても、この巨壁の凄まじさは見れば舌を巻くの内にもも禁じ得ない。

 言葉に出来ない感動すらをも覚えて、いてもたってもいられずアサトさんの方へと興奮に輝く目を向ける。

 すると視線だけぼくへと寄越した彼が小さく口角を上げ笑んでみせてくれた。

 その視線が直ぐにぼくから外され正面へと向けば、ぼくもそれにならって前を向く。

 するとそこで目にしたものに、またぼくは目を輝かせるのだった。




「──入国手続きはこちらへ!」

「身分証はお持ちですか? こちらで確認を──」

「商人の方はこちらの窓口へどうぞー! 入国希望者は反対側の窓口へ──!」




 遠くから賑やかな声が聞こえてくる。

 木々の合間の向こうから次第に見えてくるのは人の群れ。

 多くの馬車や荷台もが一点に集まる中で、様々な風貌をした人々が手を振り声を挙げて集う光景がそこにあった。


 白亜の巨壁、その麓。

 アーチ状にぽっかりと空いた門の前にて、人の群れを前に槍を抱え立っているのは兵士らしき風貌の男。

 我こそが先に! とひしめく人々を前に、誇らしげに胸を張り声高らかにこう言うのであった。




「ようこそ! 我らが人類の理想郷、勇者様縁の楽園都市──“ハイブラシル王国”へ!」






 *****






「わああ……!」


 城壁を越えた先、白亜の巨壁に背を向けて。

 眼前広がる景色に、もう何度目かの感嘆の声を溢す。


「スゴい、こんなにも人が沢山……!」


 そこかしこで溢れんばかりにいる人だかりに、ここぞとばかりに品を並べる屋台がずらりと列を作っている。

 ぼくはいてもたってもいられずアサトさんを見上げてみれば、ぼくが何を言うよりも先に「余り遠くへは離れないように」と念を押された。


 つまり、これは「行って良し」と許可が出たのと同意義だ。

 弾けるように顔を明るめたぼくは、嬉々として露店の列へと駆け出していった。


「いらっしゃーいいらっしゃーい!」

「そこの美人な奥さん、今日は良い品が入っているよ! 今晩のメニューにどうかな?」

「お客さん、目の付け所が良いねぇ! そりゃとある地方から仕入れたモンで、ここら辺じゃ見ないレア物で……。」


 どこへ行っても人の声が絶えず聞こえてくる。

 賑やかさが鎮まる気配は一向にない。

 そんな中でも特に一際景気の良い声が直ぐ傍の人だかりから響いてくれば、周りの人達は皆釣られてその声がする方へと足を進めていく。

 ぼくもまたその声に好奇心を擽られ、同じようにふらふら~とそちらへと近付いていった。


「さぁさ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 今ここでしか手に入れられないモノを揃えているよーっ!」


 街の道端に風呂敷を広げ、そこにいたのは人を集めようと声を張る一人の商人。

 鼻の下で毛先をくるんと回した特徴的な髭を生やした商人の前には、珍妙な品がずらりと並べられていた。


 木材を削り作ったらしい置物。

 変な模様が書きしたためられたお札のような紙切れ。

 何に使うのかわからないような奇抜な形状の小物入れらしきものや、枯れ草を詰めた小瓶、数珠繋ぎの石のブレスレットなど…。

 どれも見ただけでは用途不明なものばかり。

 そしてその中心には、目玉商品なのか、一際子洒落た瓶が特に目を引くところにポンと置かれているのだった。

 瓶の中身は何やらうっすら白い煙らしきものがゆらゆら揺らめいているのが遠目からでも見えた。


 ぼくにとってそれらは全て初めて見るようなものばかりだった。

 一体何に使うのか検討もつかないが、それを手に取って購入しようとしている人もいるくらいなのだから、もしかしたらここら辺ではさして不思議なものではないのかもしれない。


 人だかりの合間を縫って品々を望める位置へと辿り着き、眺めながらにそんなことを考えていると、何やら商人が謳い文句らしき言葉を仰々しく語り始めた。


「この先、王都へ向かう為の必需品はウチで買い揃えられるよ! 幾らキャメロットの内側とは言え、ハイブラシルは世界随一の面積を誇る国! 国境の内にも森あり谷あり、挙げ句の果てには海もあり! そんな大国をお守りも無しに手ぶらで歩いたときちゃあ、うっかり仏さんも笑い者にされちゃうよー!」

「えっ!? ここ、まだ王都じゃないの?」


 その時、商人の言葉を耳にしたぼくは驚き、思わずと言った調子で声を上げた。




 北西に位置する小大陸にて、世界で最も栄えた人類の都“王都ハイブラシル”。

 大きな湖の中央にて白亜の巨壁に守られ、そこに住む人々は生涯平穏を満喫し幸福に暮らす。




 そんな話を、ぼくはかつて爺やから聞いていたのど。

 何だか知ってる話と違うなぁとぼくは小首を傾げた。

 するとその時、周りにいた人々の視線が途端にざっとぼくへと集まった。


「……おや? 坊っちゃん、もしかして巨壁の向こうがもう王都だと思っていたのかね?」


 辺りは静まり返り、奇異の視線がぼくに向く。

 それにびくりと肩を震わせたぼくに、その中心にいた商人が話し掛けてくる。


「たまにいるんだよねぇ、そう言う勘違いした田舎モンが。古い噂ばっかで耳を肥やして、なぁんにもわかっちゃいないんだ。」


 全く、時代遅れったらありゃしないねぇ。

 商人はそう言ってあぐらをかいた膝に肘を立てると、ヘラヘラと小馬鹿にした笑みを浮かべてひらりと掌を振って見せた。

 ぼくは恥ずかしくなって俯いた。

 周りからはくすくすと笑い声が聞こえてくる。

 商人はそれに乗じ、声を上げて言葉を重ねていった。


「ここはハイブラシルの国境その最先端、城下町ならぬ門下町の“フラーモニカ”。……嘗てこの大陸全土を手中に納めたハイブラシルの国境がここまで広がったのは、もうかれこれ何十年前の事かね?」


 何やら役者ぶって語りかけてくる商人。

 鼻の下に蓄えた髭を撫で擦りながら仰々しい身振りで語り部気取り。

 すると周りの者も面白がって、見物客が次第に増えていく。


「十年……二十……いや三十年よりもっとだろう。それこそここにいる皆が産まれるよりも前のことなのだから! なのにそんな昔の事を未だに信じてキャメロットを訪れるなんて、今までどんな狭い井戸で暮らしていたのやら……。」


 そして商人は言う、「これだから田舎モンは」。

 身体重たげに腰を上げたその人は、俯くぼくの肩へと手をぽんと置いた。

 周りの人達の視線がより一点に集まってくる。

 こちらを向く目は人それぞれだが、そこからくすくすと笑う声が嫌に聞こえた。


 顔に熱が集まっていくのがわかる。

 自分では見えないが、多分、今ではもう耳まで真っ赤だろう。

 穴があったら今すぐ入りたくなるような羞恥で遂には目に涙を浮かべてしまう。

 そんなぼくに追い討ちをかけんと、ニヤニヤ面した商人はまた口を開くのだった。


「まるで昔の人間が現代にトリップしてきたかのようだなぁ。いや、親たる田舎モン大海都会を知らないのだから、その蛙の子おたまじゃくしもそうなってしまうのも当然か。ハハハ。いやはや、全く親の顔が是非見て見たいものだ。一体どんな田舎つまらん面をしているのやら──。」

「──もし、うちの子がどうか致しましたか?」


 ぼくを馬鹿にしているのが見え見えの商人が嘲る顔を浮かべ語りを続ける。

 するとそこへ、柔らかなテノールの静かな響きが町のざわめきの中すき通るように聞こえてきた。


「あん?」


 余程田舎者を毛嫌いしているのだろう、商人は楽しみを邪魔されたとしかめ面をそちらに向ける。

 振り返った商人の後ろには一人の若い男が立っていた。


 肩まで伸びたそれを後ろで縛った黄土色の髪。

 困ったように両端を下げがちな細長の眉。

 顔立ちは若干の幼さがありつつも、見目に比べてやや年を重ねているらしい草臥れたような雰囲気がその仕草の端々から伺えた。

 その顔に浮かべられているへつらうような笑みは、その人が如何にも気が弱そうなのが良く出ている。

 見るからに相手の顔色を伺っているらしい頼り無さげな雰囲気を醸していながらも、控え目でも決して笑みを絶やさないところはどことなく人が良さそうな印象を受けた。


 つまるところ、一見見目はやや独特でもそれはどこにでもいそうな凡庸みのある好青年。

 人目を引き易そうな黄土色の髪を携えた彼は目元にあのガラス板の付いた“メガネ”を着飾って、そこから翡翠色の瞳を覗かせていた。


 ぼくはその人を、その風貌を知っている。

 どことなく顔付きが変わってはいるが、ぼくはその人を間違いなくアサトさんだと思った。


 街へ赴く時、人前へ出る時。

 普段、黒髪黒目の一風変わった風貌の彼はその姿を隠す。

 本人曰く、理由は「目立ちたくないから」だそうなのだが、その変装技術は凄まじい。

 だって、時に姿を変わるところ見ていなければ、彼だとわからない程に様変わりしてしまうのだ。




 キャメロットの門を潜る際、門番の前へと向かう前の時。

 徐に羽織ったコートのフードを被った彼がその唾を指を外した瞬間、フードの下より現れた姿は色の抜けた髭を生やした皺くちゃの老人だった。

 馬車の正面窓を覗いていた為にその始終を目撃したぼくが声も無しに衝撃を受けている最中、瞬く間に老人へと変貌した彼は何事もなかったように馬車を進めると、門番の前にていつもの気怠げなテノール声ではなく気難しそうなしゃがれ声で喋り始めたのであった。


 そんな目を疑うような光景には、ぼくも酷く驚いたものだ。

 それからしばらくの記憶がないくらいには、その時に受けた衝撃は凄まじかった。

 だって、気付いた時にはもう門を通り過ぎていたくらいだったのだ。

 検問とか、荷物検査とか、そう言うのがきっとあるハズだったのにいつの間にか既に門を潜っていた。

 何ならさっきまで老人だった彼は、門を抜けた後振り返ったらいつもの黒髪黒目の若い姿に戻っていたのだ。

 たまげて声も出なかった。




 そんな、時に一瞬で見知らぬ老人へと変貌してしまう彼だが、今ぼくと商人の前にて見せたその別の姿はぼくにとって多少であれど知るものだ。

 何故ならそれは、以前見たことがあるからだ。

 彼本人から“ナイト兄ちゃん”と呼びなさいと言い付けられていた、その時に見た姿だった。

 その為、直接様変わりするところを見ていなくても、それが彼だと直ぐにわかったのだった。


 ぼくはその人がアサトさんだと気付くや否や、商人のおじさんからバッと離れてその懐の内へと駆け込んだ。

 彼はそんなぼくを手を広げて迎え入れてくれると、何も言わぬまましがみついたぼくの背をそっと撫でてくれた。


「ほーん? アンタがこの坊っちゃんの親かい?」


 随分と若いねぇ。

 商人のおじさんはそう言って値踏みするような視線をぼくらへと向ける。

 ジロジロと嘗めるような視線を少しも隠そうとはしないまま、やがてにたりとした笑みを浮かべた。


「ええ、まあ。そんなものです。何分、年の離れた兄弟なもので……。」

「ははあ、なるほどなるほど……確かに、背丈は違うが如何にも良く似た兄弟じゃあないか。空気とかな。」


 そして商人のおじさんは手癖なのか、くるんと回る髭の毛先を撫で付けるように摘まんだ。

 ご丁寧に親指と人差し指でつつーっと伸ばしていって、最後にピンッと跳ねさせている様は、さも自分の方がより立場が上だと言いたげだ。

 その上、口にする言葉も自棄に嫌味っぽい。


「この国へは旅行にかね? それとも移住かな? お前達のような者にはさぞ通行料を払うだけで苦しかったろう。何せここは大国の入口。余所の村に立ち入るのとは訳が違う。」


 ……なんだよ、ぼくらが貧乏だって言いたいのか!?

 相手の口にする嫌味な言葉の裏に流石のぼくも察しがつく。

 反射的に振り返って商人のおじさんをキッと睨み付けた。

 けれども商人のおじさんはそんなぼくに気が付くと、馬鹿にするように鼻で笑い飛ばしたのだった。


「観光で……と言いたい所なのですが、実は人を探しているのもあって。多分、この辺にお住まいだとお聞きしてはいるのですが……如何せん、ここらはとんと疎くって……。」


 睨み合うぼくらを余所に、気付いていないような素振りの彼が「たはは…」とのほほんとした感じで八の字眉に笑みを浮かべてみせた。

 如何にも人が良さそうな雰囲気だ。

 商人のおじさんは見下すように「フン」と鼻を鳴らした。

 それから何やら考えているらしい素振りを見せたかと思うと、髭を上に乗せた口を開いたのだった。


「そうかいそうかい。だろうと思ったよ。何せ、その坊っちゃんが何やら初歩的な勘違いをしていたようだったからね。見かねた私が教授をしてやった所なのだ。」


 そして商人のおじさんは機嫌良く、ふっくらとした腹を揺すりながら「ハッハッハ!」と笑い声を上げた。

 その態度があまりに腹立たしくってぼくは殊更恨みがましく睨み付ける。

 そこへぼくの頭に手が触れられたかと思えば、そっとその視線が遮られる。

 見上げれば、彼の穏やかな微笑みが密やかにぼくへと向けられているのが見えた。


「思うに、お前達の探し人とやらは王都にいるのだろう? ならばまだまだ先は長い。ここらは特に住める者も限られているのだからな。お前達には到底会うのも叶わん御人ばかりだ。」

「おや、そうなのですか?」


 それは初めて知りました。

 彼が口にしたそんな言葉に、商人は殊更嫌味ったらしく胸を張る。

 訳知り顔でニタニタ笑い、それからこう言葉を続けていく。


「そりゃあそうさ! 何せここは大国の要が一つ、ハイブラシルの流通の最先端なのだから。ここは確かに人は多いが、住まいとして身を置けるのは極少数の人間のみ。それこそ、王に信頼を置かれ、商いに秀でて、人を見る目に長けている者だけがキャメロットの門番としてここに居を構えることが叶うのだ。」


 故に、ここにいる者の殆どが、余所から訪れる通り掛かりの商人やそれ目当てに集まる近辺の住人よ。

 そんな商人のおじさんの言葉に、周りの人々はそうだと言わんばかりにうんうんと頷いていた。


「……何、初めて知る事実に落ち込む事はないとも。王都への道はまだまだ先は長いとは言え、その為にもこのフラーモニカはある。」


 ぱちん。

 そこで商人のおじさんが掌を鳴らし、にんまり顔をぼくらへ向ける。

 まるで獲物を目前にしたかのように目を光らせて、それからぼくらへこう言ったのだ。


「なぁお客さん・・・・、どうやら旅の備えが甘いと見た。ならばうちで買い揃えると良い。長旅に必要なものはウチが一番品揃えが良いからね。」


 どうだい? 是非とも見ていってくれよ。

 そう言って、ぼくらを促すように自身の店先へと掌を向けた。


「そうですか……では、お言葉に甘えて。」


 相手の嫌味を欠片も気にする素振りは見せず、彼はにこりと笑むとペコリと頭を下げつつ促されて歩みを進めていく。


 冗談じゃない、誰がこんな奴のものを買うもんか!

 そう思っていたぼく一人が、躊躇いもなく誘われていった彼を見て愕然としていた。


「あ、アサっ……じゃなかった、ナイト兄ちゃ──!」


 置いてかれそうになっていたのを慌てて駆け寄り止めようと声をかけるぼく。

 しかしそれもさりげなく唇に指先を当てられてしまい、途中で言葉が止まってしまう。


「大丈夫。」


 ただ一言。

 そう言い残して、彼は商人のおじさんの商品へと視線を落とすのだった。


「……“お守り”、ですか。」


 そこに立ち並ぶ品々をぐるりと見て、ポツリと彼が溢した言葉に商人のおじさんが「ご名答」と答える。


「キャメロットの外に比べれば大したものはいないがね、街と街との間にはやはり魔物が少なからず存在する。」


 だから、これが必需品なのさ。

 商人のおじさんはそれからこう言葉を続けていった。


「魔物が嫌う香。魔物が近寄りがたくなる音。魔物の気を逸らす事の出来る道具に、いざと言う時に使える便利な品もある。貴重なもの故少々値は張るが、やはりあるのとないのとでは差が大きい。……無論、身の安全を守る為には金に糸目を使うのはオススメしない。」

「うーん、そうですねぇ……。」


 どれにしましょうか……。

 ぼやきながら彼は商品の一つ一つにゆっくり視線を向けて、じっくりと品定めしていった。

 考え込むように腕を組み、悩むように指先が顎を撫でる。

 まじまじと見詰め眺め続けてしばらく、彼の手が徐に一つの品へと伸びていった。


「……これは?」


 彼が手にしたのは商品の中でも一等風変わりな、白い煙を閉じ込めた小瓶だ。

 最も目立つように目を引く配置で置かれていたそれに、同じく気になっていたぼくもまたそれを見上げる。



「お客さん……アンタ、見る目があるねぇ。」


 すると商人のおじさんがキラリと目を光らせた。

 それから髭の下の口元に笑みを浮かべて、重ねた手を揉みながら彼へと迫った。


「それは特別中の特別な品。蒔けば辺りから魔物が一切姿を見せなくなる香煙さ。」


 そう言って商人のおじさんは彼の手からその瓶を取り上げる。

 そして周りの人だかりにも見えるようにそれを掲げた。

 周りの人々も商人のおじさんの言葉に耳を寄せ、次第にざわめき始めていく。


「街から街へ移動する時、一番に不安が残るのはやはり夜。宵闇に溶け込み獲物を狙う魔物もあれば、日の落ちた後に動き出す卑しき亡者も。一癖も二癖もある奴らは我ら人間に一切の油断を許さぬ旅する者の大敵となるでしょう。」


 声音を強めた商人は言葉を区切ると、そこで「しかぁし!」と声を張る。


「これはそんな悩みすらをも吹き飛ばしてくれる、最新技術にて作られた“災い避け”! 使い方はとっても簡単、寝る前にこの瓶の蓋を“キュポン!”と開けて寝床の傍に置いておくだけ。それだけで魔物は寄り付かなくなる上、生気を求めさ迷う亡者を退けてしまうのです! お陰で朝までぐっすり安全に眠れてしまう……そんな夢のような商品こそが、この瓶なのです!」


 途端、辺りのざわめきがより強まった。

 ざわざわ、そわそわ。

 その視線は商人のおじさんが手にしている瓶に集中していく。

 なのに、商人のおじさんはその手を引いてしまったのだ。

 名残惜しげな視線が集う中、得意気な笑みの商人のおじさんはもったいぶりながらこうも言った。


「……ですが、そんな貴重なもの故私の手元にあるのはこの現品ただ一つのみ。ですから早い者勝ちと相成りますが──。」

「買います。」


 えっ! と声を溢したぼくは見上げる。

 商人のおじさんはしたり顔だ。

 周りの視線もうんと集まる中、真っ先に声をあげたのは他でもない。

 アサトさんだ。


「買います。それ、おいくらです?」


 手持ちが足りると良いんだけど……。

 そう言って、徐に彼は懐から巾着を取り出そうとする。

 すると商人のおじさんは額から一粒の汗を浮かばせながらも、笑みを湛えてこう言った。


「金貨五枚──いや、金貨八枚だ。」

「どうぞ。」


 商人のおじさんが提示金額に、彼はスッとその額を差し出す。

 言った当の相手はあんぐりと口を開け、周りのざわめきがより強まる。

 ぼく一人だけきょとんとしていた。


 金貨八枚と言うのは多分、結構な大金なのだろう。

 確か爺やから教わった話では……一枚で本が一冊買える銀貨に対し、金貨の価値はその十倍だっただろうか?

 それが八枚必要って言われているのだから……うーんと……ああそうか、本なら八十冊買えるのか。

 ……うん、思っていたよりメチャクチャ高い!

 あのちっちゃな小瓶一つで、そこまでの価値があるのだろうか?


 ぼくがそうして慣れない計算事に指折り考えていると、案の定人だかりの方から「高い」だの「足下見すぎだ」だのと、そんな声が聞こえてくる。

 それはあまりの金額の高さに驚愕する声が特に多く、中には批判的な声もあったくらいだ。

 うんうん、わかるよその気持ち。

 ぼくだって同じコト思ったのだもの……今しがた気付いたばかりだけど。


 けれども、周りのそんな声を余所に、彼は呆け面の商人のおじさんからスムーズに支払いをこなし商品を受け取っていた。

 商人のおじさんはまさか彼が支払えると思ってはいなかったのだろう。

 金貨を握らされても固まったまま、あんぐりと口を開けて突っ立っている。

 そして小瓶を手にすると、もう用は済んだとばかりにぼくへと手を繋ぐよう腕を伸ばしてくるのだった。


「お陰様で良い買い物が出来ました。それでは。」


 最後にくるりと振り返り、商人のおじさんに会釈をすると彼はぼくを連れてスタスタとその場を去ろうとするのだった。

 ……でも、


「……ちょ、ちょいと待っとくれ!」


 そんなぼくらを呼び止める声が。

 見れば商人のおじさんがぼくらへと手を伸ばしている最中。

 「どうかしましたか?」と彼は笑みを浮かべたままに訊ねれば、これまでとどこか様子の違う商人のおじさんが「どうもこうも!」と言葉を返した。


「アンタね、幾らなんでも即決が過ぎるんじゃあないかね? ほら、こう……少しは悩んだりとか……。」


 金額も金額だった訳だし…。

 そうしどろもどろになりつつも、商人のおじさんは彼に言う。


「確かにそれは新作で、効果は抜群だがまだまだ市場に数が出回っていない代物。だから値段は他の品よりうんと高いのは仕方のないことだ。自分にとっても、あの金額は苦渋の決断だった。こちらも商人と言う立場故、損だけはしたくないからね。だが、それにしたって……あんな金額をポンと出すなんて……。」

「だから……なんです?」


 どこか言い訳じみたことを口にする相手に、人が良さそうな穏やかな笑みを絶やさない彼がこてんと頭を横に傾ける。


「効果は抜群。安全が保証される。それを聞いて、一体何を迷う必要が?」

「い、いや、まあ、確かにそうだが……アンタ、見る限り旅の者だろう? ならあの金だって、なけなしのモンの筈だ。それをああも簡単に払うなんて……さてはアンタ、後先考えずに突っ走るタイプだろう?」


 そう言うのは後で身を滅ぼす羽目になる、気を付けなさい。

 ……一体誰から目線なのか、商人のおじさんは偉ぶって説教じみたことを口にする。

 けれども、彼はそんな相手の言葉にクスクスと肩を揺すって小さく笑いを溢すのだった。


「何を言いますか。オレは、貴方がそう言ったからこそ、その言葉を信じて購入させて頂いたまでですよ。」


 そして、彼は掌をぼくの頭上にポンと置いた。


「オレは、弟を何よりも一番に考えています。他の何より弟の身の安全が最優先なのです。だから弟の為ならば当然、金に糸目なんて付けていられない。勿論、貴方に言われずとも。」


 ですから、お気になさらず。

 彼はそう言って「では、オレ達はこれで失礼します」と、礼儀正しく軽くもう一度下げた。

 それから後は一切後ろを気にすることもなく、静かにその場を去ったのだった。

 ぼくの手をしっかりと握り締めたまま。




「アサ──、」


 振り返っても後ろのあの人だかりが見えなくなった頃。

 ぼくは彼の名前を呼ぼうとして、途中でピタリと声を止める。


「……じゃなくて、ナイト兄ちゃん。」


 周りを通りすがっていく人達は、ぼくらに関心がないとは言えここはまだ人前。

 彼もまだ“ナイト兄ちゃん”の姿のままだと言うのに、つい口にする名を間違えそうになる。


 おっと、と咄嗟に口元を包んだ手を下ろしたぼくは、改めて言い直しもう一度彼を見る。

 雑踏の中、賑やかな人々の声の中でも、そんなぼくの細やかな呼び声に気付いてくれた彼は、視線を落としぼくと視線を合わせてくれた。


「どうしたんだい?」


 彼は穏やかに微笑みを見せる。

 頭に置かれた手は優しく撫でて緩く髪を乱していく。

 その感触がなんとも心地好くて、ぼくはつい目を閉じて感じ入る。

 それを少しの間堪能すると、ゆるりと口を開くと「ありがとう」と言葉を告げた。


「…何の事かな?」


 と言う彼。


「オレは買い物をしただけ、他には何もしていないよ。」


 そう返す彼の言葉に、ぼくはポツリと「でも」と溢す。


「さっきの……嬉しかったんだ。」

「さっきの?」

「“弟が一番”。」


 ぼくが言ったその言葉に、彼が翡翠色の瞳を少しだけ大きくした。


「それが“フリ”だって言うのも、ぼくが本当の弟じゃなくても……それでも、そう言って貰えたが嬉しかったんだ。」


 これが本当の兄弟だったならば、きっともっと嬉しいんだろうなぁ。

 その考えは決して口に出さぬままに。

 先程の出来事を反芻するように思い起こして、照れ臭くも胸がぽかぽかしてくる感覚にぼくは目を細める。

 すると彼はぼくの頭上に置きっぱなしで止まっていた手をもう一度くしゃりとかき混ぜると、手を引く際に言ったのだ。


「関係ないさ。嘘も、本当も。」


 生まれや、血の繋がりだって。

 そう言葉を続ける彼に、ぼくは離れていく手を追うように視線を向ける。

 そこで見た彼の表情は、ぼくを見詰めるその顔は、穏やかに笑っているのは変わらないもののぼくの目にはどこかもの寂しげに見えた……ような気がした。


 ぼくにはそれが本心なのかどうかはわからない。

 彼が誰かのフリをしている間のそれが、どこまで彼の本心で、どこまで本気なのかだって。

 そもそもぼくにはこの人のこと自体がまだ良くわからないままなのだ。

 だってぼくらはまだ出会って日が浅い。

 知っていることが今は少なくとも、この先ゆっくりと理解を深めていくのだろう。

 だから今はこれで良い。

 本当は嘘でも、嘘が本当だったとしても、その言葉があったと言うことだけがぼくの中で事実としてあるのだから。


 そしてぼくははにかんだ。

 彼が言ってくれたその言葉がただ嬉しくて。

 彼もまた、ぼくを見て笑んだ。

 その笑みはやっぱり優しくて穏やかだった。


「今日はこの街で一泊していくから、欲しいものがあるのなら今のうちに買いなさい。……ほら、彼処の露店に本が並んでいるよ。」

「はーい。……あ、ホントだ! ねぇねぇ、見に行っても良い?」

「勿論良いとも。……ああほら、走るのならちゃんと前を向いて。転んでしまうよ。」


 そんな、いつも彼に比べて大人びてほんの少し低いトーンの声音を背中で受け止めながら、ぼくは顔だけ振り向かせて彼に手を振りながら駆け出していく。

 後ろにて離れていく彼の立ち止まったままぼくへと手を振り返す様に、何だか安堵を覚えたぼくは言われた通り前を向いて、それから目的の露店へと足を運ぶ。


「(一時はどうなるかと思ったけど……良かった。)」


 何事もなくて。

 ぼくはそう思いながら、数冊の本を並べた露店の前に立った。

 何か目を引くものはないか物色しつつ、思い起こすのはさっきの彼の姿。

 名前を呼び掛けて途中で止めたのは、あの時彼の顔を見て呼ぶのを止めようか思い止まったのだ。


「(アサトさん、怒ってた・・・・な。)」


 それは直ぐ様成りを潜めたが、ぼくはそれを確かに見た。

 あの翡翠の目が前を見据える様には“ナイト兄ちゃん”としての普段の穏やかさはなく、表情が抜け落ちた顔に静かに凍てついた刃のような眼差しが怪しく輝いていた。

 そこには穏やかさなど欠片もない。

 ただただ静かに、今にもプツリと千切れそうな緊張した糸を思わせる冷ややかな空気が醸し出ているだけ。

 そしてそれは彼の様子に気付かなければわからないほどに潜められていた。


 それに気付いた時、ぼくはまるで薄氷の上を歩いている心地を覚えたのだ。

 本能で、それを刺激してはいけないものだと悟ったのだ。


 けれどもそれはすぐに過ぎ去った。

 ぼくの声に気が付いた彼は、いつもの穏やかな笑みを浮かべて見せた。

 滲み出る雰囲気もあっという間に、見違えるほど和やかなものへ。

 だからぼくは安堵したのだ。

 安心して、心行くままに、彼から与えられた小遣いを握り締めて宿で読む本をじっくり選ぶことに決めたのであった。


 それが、真冬の嵐の前触れとは欠片も思いもせぬままに。





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