1 その境に立ち塞がる者。

 天高く、鳥が飛ぶ。

 草むらの影、地中の底、身を潜め暮らす生き物が息を潜め暮らしている。

 水中にだって、泡を吐きヒレを棚引かせて息づくものは数多に存在している。


 そして彼ら“人間”もまた、この世界に生ける者の一つであった。




「見付かったぞッ! 振り返るな! 進めェーッ!!」

「目標、誘導隊に接近中! そのまま罠へと誘導続行します!」

「立ち止まるなーッ! 死にたくなくば走れーッ!」


 大地が揺れる。

 轟音が響く。

 凄まじい振動を感じる度、辺りに鬱蒼と生い茂る木々は軋み木の葉を散らしていく。


 不穏な空気が満ちた森の中、馬に跨がった鎧姿の人間達は死に物狂いで森を駆けていく。

 剣を振り回して目の前から迫り来る生い茂った木々の枝を、ぶつかる前に凪払いながら、疾駆し続けてもう幾分と経っただろう。

 暫くして彼らの先頭を行く馬の鼻先に、広い空間が見えてきた。


 駆ける彼らはその広場へと向かっていく。

 そして中心を避けるように二股に別れて向こう側へと走っていくと、それに引き続き彼らの背後から地響きが激しさを増して近付いてくる。

 ズシン、ズシンと重々しい音と衝撃を地に響かせながら、やがて広場へと現れ出たものは、大きく太いものを振り上げて最後尾を走る馬を搭乗者ごとぶち当てた。


「あがッ!!?」


 グシャン。

 柔らかな肉と硬質であるはずの骨がごた混ぜになってひしゃげ潰れる音が鳴る。

 その前に走っていた者が振り返ってみれば、そこにいたはずの仲間が二人、いつの間にか馬ごと姿を消していた。

 少し遅れて凄まじい音が横から響く。

 その方角へと視線を向ければ、そこにはさっきまで大きく太い木が幾つも生えていたと言うのに、今はもう見るも無惨に薙ぎ倒されている。

 崩れたその木々の根本には、恐らく人であったのであろう残骸が胴体のない形で鮮血を撒き散らし横たわっていた。


「ヒッ……!!!」


 それは一体誰が溢した悲鳴だったのだろう。

 そこにいる誰しもがその光景に戦慄し、恐怖に身を竦ませていた。


「怯むなッ!! 進めーーッッ!!」


 先頭を走る者が声を張り上げる。

 周りの者がどんなにおののいても、彼だけは決して後ろを振り返らない。

 何故ならば、彼こそが今この場の者を引っ張って行かねばならないリーダーなのだ。

 何が起きたのか確認せずとも、こうなることくらい元より承知の上で走り続けねばならなかった。


 彼らは今、命懸けの任務を遂行する為だけに街を出て、人類が踏み入れるにはまだ早い森の中へと赴いていた。


「ゴァアアァァ……!」


 背後から、地の底で響くような重低音の唸り声が聞こえてくる。

 馬に乗り全力疾走している彼らを執拗に追い回し、巨躯を阻む木々を易々と掻き分けてくる大きな影が、ゆっくりとしたのろまな足取りで日の元へと躍り出てその全貌を露にした。


 ただむしっただけのような獣の皮を簡単に包んだだけの、苔の様な薄汚い緑色の肌に覆われたずんぐりむっくりとした肉体。

 体格の割りには小振りな禿げ頭。

 大振りの耳と鼻、ギョロリとした目玉。

 それから生臭い不快臭のする息を吐く分厚い唇に剥き出しの牙。

 そんな風体をした怪物が、血走った眼で彼らを睨み付けていた。




 人はその怪物を“トロール”と呼び、名を定めた。




 馬で駆ける彼らはトロールを引き連れて、ようやく目的地である広場の中央へと辿り着く。

 そこでリーダーの男は馬の足を止めると、くるりと振り返り声を上げた。


「目標地点到達! 各自、その場にて待機せよ!」


 腹に力の籠った声が周りの者達へ指示を送る。

 皆、それに従い馬の足を止めてその場に留まった。

 興奮状態の馬が蹄を鳴らして足元では細やかな砂が舞い出す。

 そこで初めてリーダーの男が振り返った。

 自分の後ろに付いてきている部下達が視界に映り、その面々を見て彼は一瞬言葉を失い掛けた。

 彼らの顔は皆恐怖の色に染まり、引き釣り、或いは強張らせていた。


 こうなることは元より覚悟はしていた、それは本当だ。

 しかし、いざ死を直面してそれでも恐れを抱かない程出来た人間など、そう易々といるはずはない。

 それでも彼らは命辛々ここまで辿り着いた。

 だが、その道中に命を落としたのは一体何人なのだろう?

 この森に足を踏み入れた時に比べ随分と数の減った仲間達の顔触れを目の当たりにして、それに気が付いた先方を走っていた者達は目に見えて動揺を露にし始めた。


 後方の者達とて同様である。

 背後を走る者達が最後尾から順々に殺されていくのが最も間近にわかる立ち位置にあった者達だ。

 後ろから聞こえてくる仲間の悲鳴や肉が潰れる音に「今自分の後ろにはあと何人残っているのだろう?」「次の犠牲者は誰だろう?」「自分の番が来るのは、あとどれくらいなのだろう?」と、迫りくる死期に怯えながら手綱を握り締めていたことだろう。


 疾駆する馬の手綱を握り締める手は、仲間の断末魔に耳を塞ぐことも出来ぬまま。

 神に祈る気持ちで馬を走らせてきた彼らからは肉体的な疲労だけでなく、命懸けの切羽詰まった極限状態が続いたことにより、心なしか街を出る前より顔が老けてしまっているような気がした。

 恐らく彼らの負った磨り減った精神的な消耗は、前を走る者達と比べるまでもなく限界近くまで追い詰めていたに違いない。


 そんな彼ら部下達を見遣ったリーダーの男は悔しげに歯を食い縛った。

 振り返って見えた視界の端には、仲間の亡骸らしき残骸も映っていた。


 どうしたら、ここまで犠牲を出さずに済むことが出来たのか。

 もっと良い方法もあったのではないのだろうか…?

 そんな思考が目の前の現状から目を逸らさせようとしてくる。

 しかし、過ぎたことはもう元には戻せない。

 彼にも、そしてその部下達にも、今は兎に角悔いている暇などないのである。


 森の奥から現れ、何人もの部下に手を掛けた挙げ句なおも迫りくる怪物デカブツに男は鋭い視線を向けた。


「総員──構え。」


 スッと右手を頭上へと上げる。

 すると周りの部下達はそれに従い、揃って背負っていた弓を構えた。


 キリキリキリ……ッ。


 弦が張る切り詰めた音が耳に届く。

 鋭い矢尻がその矛先を目標に向かって牙を剥く。

 その先にいるのは当然、これほど仲間を惨殺して尚も飽き足らず、彼らに向かって荒く削られた巨大な棍棒を手にして振り回し迫る、あの図体ばかり大きなノロマにである。


 弓を引く彼らが殺気立っていくのがリーダーの男にも伝わってくる。

 先程まで恐怖に身を竦ませ、震えていた者達だと言うのに……。


 リーダーの男にはその心境は痛いくらいに解っていた。

 あの怪物に殺されたのは、自分達の仲間だったからだ。

 あと少し辛抱すればその“仇”を取ってやれるのだと思うと、震える手にも力が入ると言うものだ。

 その待望の時は、もうすぐそこまで近付いている。


 ドシン、ドシン、と地響きを鳴らし大きな足が地べたを踏む。

 やがてその足がある地点を踏み締めた次の瞬間、リーダーの男は腹に力を込め吠えた。


「──放て!!」


 バシュッッ!


 号令と共に、人数分の矢が放たれる。

 キィンと矢尻が空を裂く音が耳鳴りのように鳴り響いて去っていく。


 向かう先には外すのも困難とも言えそうな巨大な的。

 のろまな動きしか出来ないあの怪物ならば、この数でこの早さの矢を避けるなど出来るはずがないだろう。

 牙を剥いた数十本の矢が無駄なく全て突き刺さったのならば、例えそれが大きな熊であったとしてもタダで済むはずがない。

 殺すとまでは行かずとも、致命傷くらいにならばなってくれるはず。


 ──しかし、


 かここここんっ。


 間の抜けた音が鳴る。

 かしゃんかしょんと、弾かれた矢が地に重なる。

 目の前で確かにあの巨躯へとぶち当たったはずの矢達はあろうことか、矢の鋭さを寸分とて発揮出来ずにあの肉厚な緑色の肌に阻まれ、無様に虚しく地上へと降り積もっていく。


 部下達を纏う空気に緊張が走る。


「オアァ?」


 トロールは出張った腹に矢がぶつかった瞬間、そのノロマな足をピタリと止めた。

 何が起きたのか解っていないのか、キョトンとした顔が辺りを見渡した。

 その最中に、棍棒を持っていない手が徐にボリボリと腹を掻いた。


 全ての矢を弾いた肉厚の腹は、血を流さなかっただけでなく、傷すら付けることすら叶わなかった。

 脆弱な人間の刃など、あの巨躯には掠り傷一つとて付けられるはずがなかったのだ。

 正に絶望的な状況だ。

 そんな状況だと言うのに、彼らはそれでも逃げ出すことはなかった。

 じっと堪え、機を伺い、そしてあの怪物をじっと睨み付ける。

 彼らはまだ諦めていなかった。


 不思議そうに辺りを見渡していたトロールがようやく足元を見下ろした。

 そこにあるのは無動作に降り積もった数本の矢。

 トロールはしばしそれを見下ろして呆け顔を浮かべていたが……やがて、合点がいったのだろう。

 その矢が自分に向けて放たれたもの。

 そして、あの正面に並ぶ小さな存在達が自分を害する為に使った武器なのだと。


 次の瞬間、トロールは激怒した。

 地に散らばる矢を踏み潰し、咆哮を上げた。

 彼らは正しく自身の敵だと定めた。

 それを殊更明確にしたこの現状に、トロールは怒りを抑えることも出来ず、地団太を踏んだ。


「ゴアアッッアアアアアアッッ!!!」


 凄まじい咆哮と地響きが空気を震わせ、地を揺らす。

 けれども小さな存在達は逃げるどころか、まだ自分を睨み付けている。

 これでは──森を出る気がないと言っているも同然だ。


 なんと腹立たしいことか。

 こんなことがあってなるものか。

 トロールは更に怒りを募らせていくと、これまた凄まじい咆哮を轟かせるのだった。




 ──ガアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!!!




 ビリビリと、頬が痺れる程の轟音が人間達に襲い掛かる。

 皆思わず耳を塞ぎ、身を屈める。


「クッ……トロールが動き始めるぞッ!! 気を緩めるな!!!」


 リーダーの声に促され、部下達は伏せていた顔を持ち上げていく。

 怒りに我を失ったトロールは、思い通りにいかず憤る子供のように地団太を踏んでいた。

 ドシンッドシンッドシンッ。

 その身が巨大なだけに、生まれる振動は凄まじい。

 やがてその足が前へと一歩を踏み、前進を始める。

 一歩……二歩……それから三歩。

 力強く地を踏み鳴らす足が、人間達にの元へと向かっていく。

 手に持った棍棒は天高く振り上げて、小さな存在達を凪払おうと手に力が籠る。


 そして……四歩目。

 トロールが進もうと前へと足を踏み出したその時、異変は起きた。


 ふわりとした、地に足が付いていないような感覚。

 途端に身体にのし掛かってくる重力。

 ぐらりとバランスを崩して倒れていく身体に、トロールは咄嗟に腕を振り回した。

 しかし、視界の端を過った壁が握り締めていた棍棒を弾き、手から滑り落としていったのだった。


 落とし穴だ。


 踏み締めた瞬間突如抜け落ちてしまった大地に巨、躯を転がせていくトロール。

 それは状況を把握しきれぬままに崩れ落ちていき、深い穴の底へと沈んでいった。




 ──ガシャッバリバリバリバリッッ!!




 凄まじい音が鳴り響く。

 幾つもの音をごた混ぜにした破壊音が穴の中を反響し轟く。


 人間達にはとてつもなく長く感じていたその瞬間、けれども実際にはたった何十秒とないくらいの時間。

 激しく鳴り響いていた瓦礫音は次第にカラン、カコンと微かなものへ、音はやがて落ち着きを取り戻していつしか静寂が包む。

 衝撃で大きく舞い上がった砂埃が穴の周りの景色を覆い隠してしまい、人間達はトロールがどうなったのかは離れている為に解らなくなった。

 立ち込める砂煙が段々と薄れていく様をじっと見守りながら、人間達は緊張の面持ちのまま唾を飲み込んだ。


 やがて砂煙が止み、辺りが次第に晴れていく。

 今ならば大穴の様子を見ることも出来そうだ。


 確認すべきか、まだ様子を見るべきか。

 これ以上犠牲者を増やす訳にいかず、リーダーはしばしの間頭を悩ませた。


「……全員、ここで待機せよ。俺が許可を出すまで穴には近付くなよ?」


 リーダーはそう言うと部下の返事を待たずして、穴に向かって馬を走らせた。




 穴の近くまで来ても、時折小石が雪崩れる音が聞こえる程度で穴の中は酷く静か。

 ……死んでくれたのだろうか?

 リーダーは馬から降りると恐る恐る穴を覗き込む。

 そこで見たものに、彼はポツリと声を溢した。


「………なんだ。大人しくくたばってくれてるじゃねぇか。」


 穴の中の様子を確認したリーダーはそう呟いて、口元に笑みを浮かべた。


 とても大きく、そして深く掘られたその穴の底には、トロールが全身から血を流して横たわっていた。

 近くで見ると余計に大きく感じるその巨体には、腕に、太股に、腹にと鋭利な先端が頭を覗かせていた。

 斜めに切り落とした竹が穴底に幾つも立てて埋められていたのだ。

 それが見事にトロールの身体を貫いてくれていた。


「一時は刺さるよりも先に奴の重さに負けて、槍の方が潰れるかと思ったんだがな……。」


 だがまあ、それも杞憂だったか。

 リーダーはふぅと息を吐きながら汗を拭い取った。

 そして、これを伝えるべく振り返って部下達を見る。


 離れた場所にいる彼らは皆、緊張の面持ちで心配そうに自分を見詰めていた。

 そんな彼らにリーダーは笑みを浮かべると、腰に携えていた剣を抜き、それを天高く掲げた。


 我々、人類は勝利した──そう、宣言したのだ。


 ワァァッ…!

 途端、辺りは歓喜に包まれた。

 遂に脅威は無くなったのだと、緊張感は解れて安堵と共に歓声が上がった。


「やったぞ!! 俺達がトロールを……森の主を倒したんだ!!!」


 そして皆は同じように剣を掲げ、各々喜びに声を張り上げた。

 仲間の背を叩き労う者。

 あの巨人を相手に無事でいられたことに喜びを分かち合う者。

 中にはそのまま泣き崩れる者もいた。

 生き延びたことへの歓喜の涙か、或いは失った仲間を想ってのことだろう。

 もう安全であると判断して早々に、馬の死骸や大木に覆い被されたまま絶命した仲間を救出するべく、早速行動に移す者も少なからずいた。


「良かった……! 俺達、生き残ったんだ!」

「これで胸を張って街に帰れる!」

「今夜飲む酒はきっと人生で一番ウマイに違いない!」


 喜びに浮かれるあまり、そんな暢気な声がやや離れたリーダーの耳にまで届いてくる。


「ったく、アイツらときたら……オイ、テメーら! 森を出るまで気を抜くんじゃねぇぞ!!」


 呆れながらもつい口元に笑みを浮かべてしまうリーダーがそう部下達に声を掛ければ、威勢の良い声だけが返ってくる。

 全く、まだまだこれからだって言うのによ……。

 そうリーダーが肩を竦めさせていると、一人の部下が彼に駆け寄ってきた。


「隊長! やりましたね!」


 むさ苦しい野郎集団の中でも特に若い、新人の部下だ。


「おう、これで近辺の開拓も進むし、街も広くなるってもんよ。」

「ウチはこの森だけが鬼門でしたからね。これからは満足に木材も手に入れられるし、家も建て易くなります! それに領土を広げれば人口も増えて、近辺が安全になればいずれ商人達もやって来てくれる……これなら街の人達もきっと喜ぶに違いません!」

「ハハハ、そう上手くいってくれると良いんだがなぁ。」


 胸の前で拳を握り熱く語ってくる新人に、リーダーは苦笑いを浮かべながら後頭部を掻く。


「ま、先のことは俺が考える仕事じゃねぇ。俺達の使命は街の奴らが安全にこの森に入って開拓が出来るようにすることだからな。今は兎に角人に被害を及ぼしかねない奴らを排除して、街の職人共が木を切る為の下拵えをするっきゃねぇ。……これからの方がずっと忙しくなるぞ? 覚悟しとけ。」

「あはは! そんなの、トロールに追われる一瞬と比べたら屁でもないですよ!」


 リーダーの脅し文句に新人は朗らかな笑顔で返す。

 そんな彼の様子に、リーダーは密かに眉を潜めた。


「(数十人いた新人憲兵が……生き残ったのはコイツただ一人、か。)」


 新人の目を盗み、リーダーの拳に力が入る。

 彼は隠せていると思っているのだろうが、年齢も経験も一回り以上も違うリーダーにはその心情などお見通しであった。


 幾ら彼が鍛えているからとは言え、まだ経験浅く若い新人には先程の戦いは精神的にも堪えていたのだろう。

 何せ、殆んど一方的な虐殺を受けていた側だったのだ。

 運が悪ければいずれ自分も犠牲者になりかねないような状況で、手も足も出ない化物を相手に使えるのは罠頼りの逃げの一手のみ。

 他に抵抗する術などなく、馬の足と運にすがる他彼らには方法はなかった。


 犠牲者となってしまった部下には悪いが、これも使命の為。

 そう、簡単に割り切れたら良いのだが……。

 彼もまたただの人だ。

 自らが指示し決行した作戦とは言え、未だに未練がましく歯がゆい思いを募らせていた。


「(もっと……もっと良い方法はなかったのか? こんな犠牲ありきの方法で、街を栄えさせることに何の意味が……? アイツらが死なずに出来ることは………。)」


 そう物思いに耽りながら、リーダーは徐に携えていたショルダーバッグに手を滑り込ます。

 中を探り、そして手にした物を出して見下ろした。

 彼が握り締めていたのは小さな小瓶だ。

 中には赤紫色の澄んだ液体がちゃぷちゃぷと軽やかな音を奏でている。


「それは……?」


 不思議そうにリーダーの掌を覗き込んだ新人が呟く。

 リーダーは「もう良いか」と半ば自棄っぽく、空いた手で後頭部を掻きながら口を開いた。


「毒さ。」

「えっ毒!? なんでそんなものを?」

「ウチの上層部に魔物駆除の方法を教えてくれた奴がくれたんだとよ。ホラ、俺達が用意した罠だってそいつからの助言さ。」

「へえぇ…凄い人もいるもんですねぇ。魔物退治なんて、誰も出来やしないと思っていたのに。」


 今までだって精々気を逸らさせるか、命辛々追っ払うくらいでしたもんね。

 新人の言葉にリーダーは頷く。


「俺もこうして成功するまで半信半疑だったんだ。魔物なんてやベー怪物、人間がどうこう出来るもんじゃねぇって思っていたからな。……だが、まあ……。」

「成功、しちゃいましたもんねぇ。」


 感心したように溜め息混じりそう答えると、新人はリーダーの背後にある穴を覗き込んだ。


「それにしても……隊長、これ、どうしたんです? こんなでっかい穴、とても一晩で用意したなんてにわかに信じられないんですが……。」


 罠仕掛ける時、ずっと疑問だったんですよねー。

 新人がそう言うと、リーダーは「ああ」と呟いた。


「そうか、お前らには知らせてなかったな。こりゃあそのくだんの奴が連れてきた“奴隷”がやったのさ。」

「奴隷? って、まさか……!」


 リーダーの言葉に新人は顔をさっと青ざめさせていく。

 その反応に、リーダーも渋い顔を浮かべて言葉を続けた。


「ありゃあ間違いねぇ、件の奴が連れてきた奴隷は“亜人”だ。ただの人間がたった一晩で、しかもたった一人で・・・・・・こんなこと──。」

「そっそんなの“魔法”を使ったとしか思えないじゃないですか!」


 新人は悲鳴のように声を上げた。

 すかさずリーダーが口元に人差し指を立てて「シーッ!」と嗜めれば、新人は慌てた様子で口元を押さえた。


「……た、確かに、ただの人間が魔法なんて使えるハズがないからそれが亜人だってのは理解できますけど……でも亜人だって相当に危険なヤツじゃ……?」


 恐る恐るといった様子で新人はリーダーに訊ねる。

 しかし、自分でそう聞いた直後に合点がいったのだろう。

 次の瞬間、新人は「あっ!」と声を上げた。

 リーダーは新人の頭をポカリと殴った。


「あいたぁっ!」

「バカ! 声がでけぇっつの! ったく、亜人野蛮人を従えてるってこたぁ、あの大国・・・・の王族以外に考えられる訳ないだろうが! ……ただでさえ“余計な詮索は控えろ”って上から指示が出てんだ。あまり大事にしてくれるな。」


 言いながらリーダーは新人の首に腕を回すと、他の部下達に背を向けてこそこそとそう言葉を続けていった。

 それから「いいな?」と念押しに確認すれば、新人は口を押さえてこくこくと頷き返す。


「全く………ああそうだ。この“毒”についても他言無用だぞ? コイツも相当やベーもんなんだ。万が一の時に使ってくれって渡されたんだが……。」

「相当やばいって……一体どんなものなんです? それ。」

「ん? ああ……コイツはな、いわゆる“一撃必殺”さ。」

「……えっ!?」


 思った以上に物騒な言葉がリーダーの口から放たれて、新人の顔がうげっと引き吊っていく。


「い、一撃必殺って……。」

「ああ、言葉の通りだよ。コイツの蓋を開けて辺りに撒けば、結構な範囲が死の荒野になる……らしい。よっぽど危ない目に合うようならこれを使って回避すると良いって話だったんだがな、この森の木も目当てである上からすれば何がなんでも使いたくねぇシロモノでもあるんだ。」

「うへぇ………なんてもんを渡してくるんだか。って言うか、一撃必殺ならそれを使った瞬間周りの僕らもとばっちり食らうんじゃ!?」

「そこなんだよ。使うのは簡単だが、その後が全く保証されていねぇ。だから俺もこんなもん使う訳にはいかなくてなぁ。」

「ええぇ…それ、もしかしなくても僕ら全員皆殺しするつもりだったんじゃ……?」

「そう思うよなぁ。でも向こう曰く“使うも使わまいもそちら次第で”らしいからな、何を考えてんのかさっぱりなのは確かで……。」




 ──ゴゴゴゴゴ……。




「……うん?」


 ふと、何か物音が聞こえた気がしてリーダーはパッと顔を上げた。


「隊長? どうかされました?」




 ───ゴゴゴゴゴ………ッ。




「……んっ!? わわ、揺れてる!?」

「……ッ、地震か…!?」


 足元から微弱な振動を感知する二人。

 直ぐ様身を屈めると、即座に毒の瓶をしまったリーダーはすかさず離れた部下達に向かって声を張り上げた。


「総員! 至急、広場の中央に集合せよ! 繰り返す! 非常事態だ! 今すぐ中央に──!」

「隊長危ないッッ!!」


 ドンッ!

 その時、リーダーは背中に軽い衝撃を受けた。

 同時に身体が前方へとつんのめった。


「ばっ、何すっ──……ッ!!?」


 数歩たたらを踏み、何事かと後ろへと振り返る。

 そこで彼は、信じられないものを見たのだった。




 ガラガラと崩れる大地。

 広がり行く穴。

 ついさっきまで自分が立っていたその場所はたった今目の前で崩れ落ちていく様が目に映る。


 気付かずそこにいたままならば、恐らく自分は穴の中へと落下していたことだろう。

 だが、それは他者の援護により回避された。

 代わりに、崩れた地面の向こう側にはたった今まで話していた新人の姿が。

 こちらに手を伸ばしながら穴の底へ向かっていくさまが──。


「逃げてください、トロールが──!」


 最後、新人の口から発せられたのはそんな言葉。

 リーダーは咄嗟に手を伸ばした。

 何とかその手を掴もうと試みたのだ。

 しかし………間に合うことはなかった。

 新人の姿は呆気なく崖の端に隠れて見えなくなってしまった。

 穴の底にて、その姿は見失ってしまった。




 ──グオオオオオーーーーッッッ!!!!




 地の底から、穴の底から、轟く咆哮が聞こえてくる。


「……なん、だよ……くたばったんじゃ……なかったのか……!?」


 崩れ落ち、膝をつき、呆然としながら穴を見詰め顔を引き釣らせたリーダーが呟く。

 どうして今まで沈黙していたトロールが今になって活動を再開し始めたのか。

 仕留めきれていなかったのか。

 何も解らぬままに、リーダーの目の前でトロールは動き始めたのだった。


「………クソォッ!!」


 悪態つくと共に踵を返す。

 即座に馬に乗り、駆け出した。

 部下達は広場の中央に集まっている。

 リーダーもまた、そこに向かっていった。


「た、隊長! これは一体……!?」

「わからん! わからんが、トロールが突然動き出した! 今は兎に角この場を離れ──。」




「グオオオオアアアアアッッッ!!!」




「ッ……チィッ! 喧しいデカブツめ! 声量を抑えろってんだ!」


 凄まじい轟音に思わずといった調子で耳を塞ぐ。

 キーンと耳鳴りがまだ残っているが、今はそんなことに構っている暇はない。


「奴はまだ穴の中から出られない! 刺さった竹の杭で今は何とか足止め出来ている状況だ! 少しくらいならこれで時間も稼げるだろう! 今の内にこの森を脱出するぞ!!」


 リーダーは声を張り上げ部下達に指示を送る。

 皆顔が不安そうだ。

 その時、内一人が声を上げた。


「しっ……しかし、このまま森を脱出するにしても……後を追ってきた魔物はどうするんです?」


 すると他の部下も釣られて声を上げ始める。


「森の外には俺達の街がある……なら、それって街に案内するのと同じだよな……?」

「馬も疲れてるし……撒こうにも距離も稼ぎ切れないんじゃ……。」

「そ、そうだ! 幾らアイツの足が遅くても、歩幅がとんでもないんだぜ?」

「あんなものが街に突っ込んでったら、誰が街の奴らを守ってやれるんだ!? 俺達だって敵わないのに……!」


 皆口々に不安を溢す。

 無理もない、今までだって散々な目に遇わされたのだ。

 これで我が身可愛さに街へと逃げ込もうものなら、奴は当然街を壊しながらでも追い掛けてくるだろう。

 そうなってしまえば被害は甚大だ。

 それだけは絶対に避けねばならないと、その場にいる誰もが思った。


「(なら街とは反対の方角に逃げるべきか? ……いや、俺達はここよりも先には行ったことがない。元より、どれ程広い森なのかすら解らないんだ。今知らない方面に行くのはギャンブル過ぎる、生きて帰れる保証は──。)」


 直ぐに逃げなければならない。

 けれども、どこへ逃げれば良いのだろう?

 時間がないのは解っているのに、皆同じ問題に苦悩した。

 何せ、その答えを直ぐに答えられる者はそこにはいない。

 考えれば考えるほど……彼らには“全員分の生存”の選択肢を選ぶ為の道筋が、全て絶たれているようにしか思えてならなかった。


 そんな中、リーダーがくしゃりと顔を歪めた。

 彼の手がショルダーバッグ内の小瓶を握り締める。

 それから一つ深呼吸をして、自身を落ち着かせると静かに口を開いた。


「………お前ら、良く聞け。」


 皆口を閉じ、視線が彼に集まっていく。


「ここは俺が食い止める。だから、お前達は先に──、」

「そんな無茶な!」

「バカなコト言わねぇでくだせぇ、リーダー!」


 リーダーが口にした言葉を聞き、彼の部下達は悲鳴のように声を張り上げた。


「アンタがここでくたばっちまったら、これから先一体誰が俺達を引っ張ってくんだよ!?」

「俺達のリーダーは貴方しかいないんスよ!」

「リーダーだけ置いていくなんて出来ませんよ!」


 そんな声に、周りが「そうだそうだ!」と同意を示す。

 そんな光景に、リーダーは思わず目頭が熱くなるのを感じ、咄嗟に彼らへと背を向ける。

 彼らの視線から逃れると、リーダーはそこで目頭を摘まみ、込み上がってくる感覚をぐっと堪えた。


「(全く、良い部下に恵まれちまってよぉ……俺ァ…!)」


 後ろからは尚もまだ「リーダー!」と自分を呼ぶ声が聞こえる。

 彼らはこんな状況になっても、自分の身を案じてくれているのだ。


「リーダーが残るってんなら、俺も残るっスよ!」

「リーダー一人だけ格好付けるなんて、水臭いこと言わねぇでくだせぇ!」


 ああ、本当に、自分はなんて幸せ者なんだろう。

 溢れそうになる嗚咽を呑み込み、一緒に深く息を吸い込んだ。

 そして長く細く吐き出して、それから彼は覚悟を決めた。


「──ダメだ。」


 静かで、そして力強いその一言に、周りがしんと静まり返る。

 やがて聞こえてき始めるのは、ぐすっと鼻を啜る音。


「俺はお前達を生かしてやりたい。その為には、誰かがここで身体を張らにゃならん。」

「そんなのっ、リーダーじゃなくたって……!」

「じゃあ俺以上に適任な奴は一体何処にいる?」


 すがる声にそう厳しく言い返せば、周りは再びしんとなる。

 当然だ。

 今この場で一番の実力者は、彼らを率いているリーダーその人なのだから。


 くるりと振り返り、リーダーは部下達に視線を向ける。

 彼らは皆俯いていた。

 浮かべられている表情はどれも悔しそうで、握り締めた拳は血の気を失い白くなっている。

 そんな彼らにリーダーの男は、思わず厳しくしていた表情を綻ばせふっと笑みを浮かべてしまった。


「んな情けねぇ顔すんなよ、お前ら。大の男が泣く気か?」

「だって……だって、りぃだぁ……!!」


 ぐすっぐすっ、ううーっ!

 目に涙を溜めて堪える者。

 堪えかねて男泣きし始める者。

 皆各々がリーダーの身を案じて、別れを惜しみ嗚咽を溢した。


「……実はな、お前達にはずっと隠していたんだが……俺には“奥の手”があるんだ。」


 そんな彼らに、男は笑みを浮かべてそう言った。

 途端、皆は「えっ?」と顔を上げる。

 彼らがそこで目にしたリーダーの表情は、何処か余裕有り気な得意顔だ。


「奥の手?」

「おう。だから、俺一人でも全然問題ねぇんだよ。寧ろお前達がいると邪魔なくれぇでよ……奥の手使おうにも鬱陶しくって堪りゃしねぇ。」


 すると部下の中から「なんだそりゃ」「邪魔って酷ぇ言い種!」と微かに笑いを溢す声が。

 途端に悲しみに暮れていた空気は緩み、目に涙を浮かべる者達の頬から笑みが見え始めるのであった。


「そんな話、初めて聞きましたけど?」

「そりゃあそうだろ! 奥の手はいざって時の為に秘匿しておくモンなんだ。そう易々とお披露目する訳にゃならんだろう?」


 確かに、そうかも。

 部下もそれには納得し、うんうんと頷いた。

 それを見てリーダーは再び顔を引き締めると、腰に手を当てリーダーらしく偉ぶった。


「その為にも、お前達には即刻この場を離れる事を命令する。」


 途端、彼らの表情がキッと引き締められ、真剣なものへ。

 姿勢もしゃんと背筋は伸びて、真っ直ぐに視線をリーダーへと集める。


「この作戦は一度キリだ。チャンスは以降もうないと思え。当然失敗は許されない。故に、お前達は全力で逃げろ。」


 良いな!?

 そう彼が声を張り上げれば、部下達は声を揃えて「ハッ!」と応えた。

 リーダーはニッと笑みを浮かべた。


「ならば行け! 速やかに街へ迎え!」


 その声を火蓋に、彼らは馬に乗り上がった。

 そしてトロールのいる大穴を迂回し、皆の姿が森の中へ。


「──リーダー!」


 最後尾、振り返った部下がリーダーを呼び声を張り上げる。


「必ずや、生き延びてまた会いましょう!」


 そんな声に、リーダーの男は何も言わずに手を振り返した。






「──さァて、そろそろかな……。」


 一人、森の奥にある広場に残ったリーダーの男は呟く。

 目の前にて今正に起きている惨状に、思わず竦み上がりそうな身体を奮い立たせながら。




 ゴアアアアアアッ!!!!




 凄まじい轟音が森に響く。

 大地が叫ぶように激しく振動する。

 ついさっきまで平坦で見晴らしの良かった広場は、部下達が去った後に大きく変貌を遂げていた。


 隆起する岩の槍。

 聳え立つ土壁。

 大地は裂け、大岩が舞い、辺りは険しい大地と成り果てていた。


 それを冷や汗混じりに睨んでいたリーダーは、不意に足元に妙な振動を感じた。

 咄嗟にその場を駆け離れていけば、間一髪、鋭利な影が真後ろを貫いた。


「危ねッ……!!」


 突如踏み締めていた大地から現れた大地の剣に、振り返って見た彼は血の気を引く思いに息を呑み込んだ。


 手に持った剣は無意味に、逃げる一方にて何とか時間を稼ごうと奮闘し続けどれ程経ったか。

 リーダーは全身全霊をかけて、周りに神経を張り巡らせて警戒を緩めずにいた。

 何せ、敵は手を伸ばさずとも、大地を使って・・・・・・攻撃を仕掛けてくる。


「ったくよォ…! 落とし穴にハメて置いて正解だったぜ……!!」


 一見、圧倒的かつ絶望的な状況だが、運はリーダーに味方しているようだ。

 トロールは今も尚穴から抜け出せずにいる。

 そのお陰なのだろうか。

 隆起する岩や何処からともなく空から飛来する岩石は、闇雲に至る所へ牙を向けて回っていた。

 どうやらトロールには彼の居場所が解っていないらしい。

 またとないチャンスに、リーダーは希望の兆しを見てちろりと舌を覗かせた。


「(このまま、あの穴に近付ければ──!)」


 そしてリーダーは駆け出した。

 好機は今しかないと、全力で。


 この場を逃れた部下達もきっとそろそろ、森の端まで行っている頃だろう。

 ならば自身がやることはただ一つ、この危険な存在を止めるだけ。

 自分達が守ってきた森の外にある故郷たる街に、危険が及ばぬよう今ここで食い止めねば。


 そしてリーダーは剣を放り捨てた。

 敵に刃が届かぬのなら意味はない、持っていても無駄な荷物は最早もう要らない。

 代わりに手にしたのは一本の小瓶だった。


「(あの大穴にブチ込んで、どれだけ被害を抑えられるか解らんが……!)」


 もう、こうするしか道はない。

 リーダーは、決死の覚悟で大穴へと向かっていった。


 その時、彼の頭は酷く冷静になっていた。

 なのに、真面目に、真剣に、全力で駆けているのに、脳裏に過るは過去の出来事、想い出達。

 多分、これはきっと、死に間際に見ると聞く走馬灯と呼ばれるものなのだろう。

 既に亡くした妻との馴れ初め、初めて手を繋いだ嘗ての逢瀬にしかり。

 最期に会った部下達といつか交わした、ドンチャン騒ぎの酒盛りにしかり。

 リーダーの男はそれらを想い笑みを浮かべながら、地を蹴る足に力を込めた。




 再会の約束をして去っていった部下達を見送った彼は、何を隠そう死を覚悟し、その上で“最終手段”を選び取ったのだから。




「(悪ぃな、お前ら。俺ァ先に退場させて貰うぜ。)」


 数々の大地の矛先を長年の勘と根性で避け、耐え抜き、そして目前となった大穴にリーダーは次に腕を引き絞る。

 そして、小瓶を持った手が頭上で大きく弧を描き、足に、腕に、爪先にと込めた全力が小瓶を天へと差し向けた。


 くるり、くるり。

 宙を舞う小瓶が回転しながら大穴へ向かう。

 中を満たす毒々しい色の水面を、踊るようにたゆませながら。


 あの小瓶が弾けた時、あの色は一体何処まで広がるのだろう?

 せめて森を出ず、街まで届かなければ良いが……しかし、それでも自分は無事ではいられないだろう。

 端からそう悟っていたリーダーはふっと笑んだ。


「あばよ、デカブツ。いい加減、そろそろ俺達の為にもくたばってくれやがれ。」


 これで自身の役目は終える。


 自身の背を追って共に憲兵となったまだ年若かった息子──人を襲う魔物に勇敢にも立ち向かい命を落としてしまった、その仇を。

 流行り病で床に伏した妻──都会から呼び寄せた医者が魔物に阻まれたせいで間に合わずして息を引き取ってしまった、その仇を。

 周りにいた者とて、皆各々魔物に思う所は少なからずあるだろう。

 大なり小なり魔物に苦渋を飲まされ、それでも必死に生きてきた者が殆んどなのだから。


 そんな物思いに耽っていたのは僅かの間だけ。

 最中にも宙舞う小瓶はやがてリーダーの男と大穴の中間程の距離へ。

 後ほんの僅かの余命を悟った彼は、走る足を止めそれを見守った。




 ──その時だった。




「……あ?」


 ふと、小瓶を見詰める先で、頭上天高く燃ゆる太陽に影が過る。

 それは一瞬の出来事で、リーダーは訝しげに眉を寄せた。

 あまりにも瞬間的な出来事だったから始めは気のせいかと思った程。

 しかし、それは眺めている内に確信へと変わっていく。




「──もう大丈夫、安心して。」




 僕が助けに来たから。

 そんな静やかな落ち着いた声音が、轟音轟く空間に不思議と響き渡った。


 目を見張るリーダーの目に、小瓶を掴み取った“誰か”の姿が映っていた。


 そしてそれはリーダーの男と大穴の間へと降り立ったかと思えば、足音すら鳴らさぬままに相対する彼らの境に佇むように立ち塞がった。


「あ……アンタは……?」


 突然の事にリーダーは驚愕の顔のまま固まり、言葉を溢す。

 しかしまぁ、それは無理もない。

 何せ、彼の前に現れたのは細身の“人間”の少年だったのだから。




 風が靡くは朱交じりの淡色、ローズブロンドの糸々揺れる柔髪。

 瞬いて見せたのは紅玉の瞳、落ち着いた眼差しが陽を浴びて輝く。

 その瞳の奥にあったのは、一等星を思わせる十字の瞳孔。




 纏う空気がただらぬものであるが故か、静かに佇んでいるだけの様からもその人物が只人でない事くらいリーダーの男にも安易に察することが出来る。

 そしてリーダーは驚愕の色一色だった表情に、歓喜の色を滲ませた。


 当然だ。

 何故ならば彼は今、子供の頃から伝え聞いていた“伝説”をこうして目の当たりにすることが叶ったのだから。




「勇者、様……勇者様だ………あの伝説は本当だったのか……!」




 ローズブロンドの髪の色。

 それは嘗て、人類に初めて希望を与えた偉人の証。

 魔物を前に立ち向かう勇気。

 それは嘗て、人類を守護し平穏をもたらした奇跡の偉業。


 その偉業はもう何百年も前のもの。

 話は誰もが伝え聞くが、誰もが眉唾物だと半信半疑に思っていた。

 しかし、それでも“勇者”の名残は人々の住む地に多くの名残を遺している。

 故にこそ、誰もがその偉業を褒め称え、今も伝承が子々孫々に続いているのである。


 目の前に現れた勇者の特徴を持つ少年は恐らくきっと、血縁か血筋の者、子孫なのだろう。

 呆然と見入る彼は地に膝を付けた。

 それから崇めるように手を組み合わせると、見上げた先の我が子と差程変わらぬ齢の少年を見上げた。

 あたかも神に祈りを捧げるかのように、拝みながら涙を流して。




 静かに佇む少年の──一切の感情の揺れを感じさせない、無情の瞳をその目に映しながら。





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