-1 招待状を手に。

「……もう此処を発つのかい?」


 ふと、アサトさんとの会話の最中に後ろからそんな声が聞こえた。

 くるりと振り返り見てみれば、そこには神妙な面持ちのグリモアがいつの間にやら佇んでいた。


 チラリとアサトさんを横目見て、ぼくは伝えても良いのかと視線で訊ねる。

 たった今まで、グリモアに背を向けてまでして彼と話をしていたぼくは、何をどうしてそう思ったのか、何を思ってそう言ったのか、皆目検討がつかない。

 何せ、耳の聞こえないグリモアがいるのに敢えて背を向けて話すようぼくに言ったのはアサトさんだ。

 多分それには何かしらの理由があるのだろうと、その程度ならばぼくにも察しはつく。

 けれどもその肝心の理由をぼくは知らない。

 だからこそ、ぼくはアサトさんへと返答を委ねるのであった。


 アサトさんはぼくを一瞥すると、直ぐにグリモアへと視線を戻した。

 それから別段どうと言うことでもないかのように、極普通にこう口にした。


「そうだけど?」


 平然と、それがどうしたとでも言うかのように。

 さもそれが当然であるみたく言ったアサトさんに、思わず「あ、隠さないんだ?」と傍らに立つぼくは胸の内にて密かに呟いた。

 対して、グリモアはくしゃりと顔をしかめていった。

 不快そう、怒りそうというよりは、今にも泣いてしまいそうなのを堪えるみたいなそんな顔で。


「どうして?」


 囁くように溢れた声は少し震えていた。

 身体の側面にある腕はだらりと垂れているが、その先に作られた拳にもどうやら力がこもっているようだった。

 微かに小刻みしているのがぼくの目にも見えていた。


「行く所が出来た。だから。」


 だが、そんなグリモアの問い掛けにもアサトさんはやっぱり平然と答える。

 これはもう決定事項だと、そう言わんばかりに。


「それにもう此処に留まる理由はないんだ。なら、これ以上此処にいる必要は──」

「理由ならっ……理由ならある!」


 再考の余地などない、そんな頑なな意志すら感じられる容赦の欠片もないアサトさんの言葉。

 しかしその続く言葉をグリモアは声をあげ遮った。


「……誰に?」


 アサトさんのじとりとした眼差しが彼へと向く。

 温度のない冷ややかな声音が、今度はグリモアへ問い掛ける。

 「それは、」と言いかけたグリモアは一瞬悩むように視線をさ迷わせると、少し間を置いてこう答えた。


「……私だ。私には、まだお前達に用がある。」

「そう……で?」


 用って何?

 グリモアの答えに、アサトさんが冷たく言葉を返す。

 それに、グリモアは、


「っ……。」


 グリモアは答えに詰まった。

 詰まってしまったのだ。

 必死に頭を回し、都合の良い答えを探しても、丁度理由が見付からなかった。

 グリモアは俯き、黙り込んでしまった。


「……どうせ、大した用はないんでしょう?」


 ふん、とアサトさんが鼻で笑う。


「でも僕らにはもうない。全てとうに終えたから。」


 そしてアサトさんは、話はこれで終いだと言わんばかりに彼から視線を外し背を向けて……。


「ま、待って!」


 ……呼び止められて、止まった。


「……そ、そうだ! 私はアーサーに用がある!」

「え、ぼく?」


 思わぬ飛び火に、ぼくはついすっとんきょうな声が溢れる。

 自分を指差し目を丸くしグリモアを見れば──恐らく咄嗟に口を衝いただけなのだろう──彼もまた、驚いたような顔をして自らの口に手を当てつつぼくを見詰めていた。


 はあ、と隣から溜め息が聞こえてくる。

 見れば肩を竦めたアサトさんが呆れ顔を浮かべていた。

 それからその視線がぼくのとパチリと合うと、仕方なさげにこくりと頷かれる。


「……えっと………用って?」


 アサトさんに促され、ぼくは恐る恐るに訊ねる。

 大事な大きな本を持ち直しつつ上目遣いに見上げてみれば、言い出しっぺグリモアは直ぐには答えてくれない。

 鮮やかな色彩の瞳が頼りなさげに右往左往と泳いでいる。

 何を言おうと迷っているのだろうか、言葉を吐かない口がパクパクと意味もなく開閉していた。


 しかしそれもしばらくすると、ようやく意を決したようだ。

 つぐみかけた口が開き、おずおずと声が紡がれる。


「お前に……頼みが。」

「頼み?」


 ぼくのおうむ返しにグリモアは頷く。

 頼みって……一体何だろう?

 小首を傾げて見詰めていると、言いにくそうにもグリモアは応えてくれる。


「その………髪を……。」


 髪。

 ………髪?

 キョトンと呆け顔を浮かべるぼくに、グリモアは顔を青くも赤くも色変えていく。

 徐々に落ちていく声音色、それでもどうにか言葉は続く。


「髪を……えっと………すいて、欲しい………。」


 いよいよ言葉尻は下がりきり、俯きか細い声は地べたに落ちる。

 散々悩んで出したのだろうその答えに、ぼくはぱちくりと思わず瞬いた。


 一体どんなお願い事をされるかと思いきや、まさかの……髪。


「それだけ?」


 つい口を衝いて出たのは、そんな確認の言葉。

 こくりと控えめに頷かれる。

 どうしてそこまでして悩み、出た答えがそれなのか。

 ぼくは拍子抜けして、あんぐりと口を開けてしまうのだった。






「……ホーント、グリモアの髪って長いよねぇ。」


 淡色の波打つ髪をブラシで撫で付けながら、艶めく様を眺めてぼくは呟く。


「こんなに綺麗な色してるのにさぁ、全然手入れしてないっぽいし……今までずっと放ったらかしにしてたでしょ?」


 もったいないなー。

 そうぼやくぼくの目に映るそれは、ただ単にウェーブしている長髪などではなかった。


 うねる毛先は無秩序に、絡み合った波は時折ブラシの行く手を遮って流れを寸止める。

 見た目が綺麗なばかりに、大変残念な有り様だ。

 最早どうしてここまで放置出来たのかと問い質したいくらい、その長い癖っ毛は手強かった。


「こんな事、自分では滅多にしないからね。やろうと思った事はあるのだが……上手くいかなくて。」


 いやはや、情けない…。

 そう言って、グリモアが手に持つ鏡越し見えたその顔には困ったような笑みを浮かべられていた。


 あれから椅子に腰掛けたグリモアは、背後の床に絨毯を敷くみたく髪を流すように広げていた。

 ぼくはそれを踏まないようにと足元に気を使いつつ、ブラシを手に丁寧に絡まった毛を解しながらすいていく。

 そしてもう幾つ目なのか数えるのも止めたコマ結び状態の毛を、引っ張らず、千切らずに解そうと爪先で転がした。


 ちなみに都合良くあったこのブラシはアサトさんから借りたものだ。

 どうも普段から持ち歩いているらしい。

 「昔の名残だ」とも言っていたが……何の名残かは教えてくれなかった。


 始めは「どうしてそんなことを」と疑問だらけであったぼく。

 しかし良く良く見聞きしてみれば「ああ、なるほど」とわからなくもない解答に思わず苦笑いを浮かべてしまう。


「グリモアは昔王様やってたって言ってたもんねぇ。なら身嗜みは周りがしてくれてたってのも、当然か。」


 何せ、それにはぼくにも身に覚えがある。

 人里離れた森の中とは言え、家は大きなお屋敷、使用人が一人。

 お金や食糧に困ったことはないし、多分他所と比べてもまぁまぁ良い暮らしをしていたと思う。

 そもそも爺やから「坊っちゃん」と呼ばれていたくらいだ、それなりに裕福な家だったのではなかろうか?


 そうは言ってもぼくには身近に比較対象がいないから詳しくは知らない。

 そもそも今まで気にしたことがなかったから考えたこともなかったくらいだ。

 けれど、貧富については少しだけ話に聞いたことはあった。


「ぼくも爺やに身支度して貰う側だったし、その気持ちはわからないでもないよ。服を着るのも、髪を整えるのも、全部爺やがやってくれるのが当然だったもん。」

「ははは……そう言う割には手際が良い気がするなぁ。私の気のせいだろうか?」


 そうやって雑談に花を咲かせるぼくとグリモア。

 最中にもブラシで髪を撫でていると、グリモアが心地良さげに軽く上向き瞼を閉じた。


「ぼくはね。爺やに教わったんだ。」

「へえ、何故?」

「うーん……単純に、ぼくが出来るようになりたかったから、かなぁ。」


 話しながらも手は止めずに、グリモアの髪の淡色を見詰めながらぼくはいつかの出来事を思い起こしていく。


「……褒められたかったのもある。よく出来ましたって、爺やに。でも一番はやっぱり、早く一人前の大人になりたかったからかなぁ。」


 あまり爺やを困らせてばかりは嫌だったからね……。

 そう言って、ぼくはグリモアに「持ってて」とブラシを手渡す。

 受け取って貰い手が空けば、今度は両手の指で髪をすきかき集めていく。

 そこで出来た幾つかの束に、ぼくは指の合間に並べて挟み込んだ。


「ぼくの爺やはね、腕が片方しかない人だったんだ。」

「ふむ? ……ああ、隻腕か。」

「そう。だから何かと不便そうでね……時折ぼくも手伝うこともあったんだ。」


 見下ろした先の指先が、時に交差しながらくるくる回る。

 それに伴い髪の束が交互に並び変えられていけば、その軌跡が編み込まれて続いていった。


「……とは言っても、とても器用な人だったから対して困ることはなかったみたいだけどね。今思うと、手伝いも殆んどぼくの自己満だったと思う。」


 丁寧に、丁寧に編んでいった先で、今度は手首に嵌めていた輪っか状の紐を編み込みの末で束ねて留める。

 そうして左側のこめかみから続くそれに一旦手を止めると、今度は反対側、右側のこめかみからまた指で髪をすき、指の合間にて束を作っていく。


「それでね、せめてこれくらいはって思って、いつも爺やの髪を結っていたんだ。いつも適当に束ねているだけで、邪魔そうだったから……でも切って欲しくはなかったし。だからこう言うのは、お手のもの……っと。」


 はい、出来た。

 グリモアの肩をぽんと叩いてぼくは言う。

 そしてくるりと前へ回り込み、正面から見たその出来映えにぼくは満足げに頷いた。


 そこにあったのは背後に流れる滑らかなウェーブが艶めく、こめかみから伸びる細い三つ編みを後ろで一つに纏めたグリモアの姿。

 束ねた二つの三つ編みの先はまた二又の三つ編みにして波打つ髪に交えていた。

 今まではもっさりと広がる毛並みが時に身体を隠し大きな毛玉を彷彿させていたが、整えられた今はもうそれはない。

 元よりあった目を見張るほどの美貌が、より際立っているくらいだ。


 右から左へと流した前髪は顔を隠さないまま華やかさを足しているし、髪に隠れがちだった横向きに尖った耳も露になって窮屈さはない。

 時折顔にかかった髪を邪魔そうに耳の裏へとつまみ上げていたくらいだ。

 顔周りがスッキリするよう束ねたのだから、これでもう気にならないだろう。

 癖なのか、肩の辺りで弧を描いて毛先が上向く一対の束だけがどんなにブラシですいても他の毛と纏まってくれなかったので出ばったまま。

 もう少しどうにか出来ないか悩んでいたが、グリモア自身が「これで良い」と言っていたのでそれならばとぼくも気にするのを止めにした。

 あとは床に引き摺らないよう毛先を纏めて置こうかと思ってもいたのだが、それも要らないとのこと。

 どうやら、そもそも髪を纏めるのが好きな方ではないらしい。

 ぼくには纏めていない方が邪魔そうに思えてならないけれども、本人がそう言うのであれば仕方がない。

 これ以上は断念しよう。


「どう? スッキリした?」

「ええ……とても。」


 改めて本人に訊ねてみれば、部屋の片隅から掘り起こして持っていた鏡に目を向けるグリモアが、自らの姿を映してほうと息をつき見入っていた。

 その様子を見る限り、どうやらお眼鏡には叶ったらしい。

 爺やの髪で鍛えた腕に、ぼくはちょっぴり誇らしくなった。


「髪の量も多かったし、絡まってるのもあって手強かったからちょっと時間かかっちゃった。でも、これでもう大丈夫かな。」


 そう言ってぼくは振り返った。

 少し離れたそこには退屈そうに頬杖をつくアサトさんが、ぼくの本を膝に乗せて床に腰掛けている姿があった。


 そしてぼくは用は済んだとばかりにそこへ向かおうと踏み出す。

 が、引っ張られる感覚に身体がつっかえ思わず止まってしまった。

 何事かと思ってそちらに視線を向ける。

 そこにはぼくの羽織るローブの端、それを摘まむグリモアの指先が。


「グリモア?」


 どうしたの? とぼくは訊ねる。

 けれどもグリモアは沈黙したまま。

 またもや右往左往する視線が、彼が何か考え事をしていることだけがぼくにも察せられた。


「………ねぇ、グリモア。」


 ぼくは、そんなグリモアの手を取り、名を呼んだ。

 眉の両端を下げたグリモアの瞳がぼくの姿を映す。

 その表情からは、何だか悲しそうな色がちらついて見えた。

 鮮やかな彩りの瞳は瞬く度に星のように輝いていたが、見詰めている内にほんのり水気が帯びていくのがわかる。


 それを見てぼくはグリモアの手を握り締めたまま、彼の瞳を真っ直ぐに見据えるとこう口にした。


「一緒に、来る?」


 するとその瞳が大きく見開かれた。

 後ろでガタタタンッと何かが倒れる音が聞こえてきた。


「何、で。」

「だって、寂しいんでしょう? だからそうやって、ぼくらを引き留めようとする。……今だって、ぼくらを引き留める為の理由を考えているんでしょう?」


 わかるよ、それくらい。

 そう言ってやれば、図星だったのか、グリモアは罰が悪そうに視線を逸らした。


「……そんな、ことは……。」

「グリモアはぼくらがここに来るまでにも、ずっとここで一人でいたんでしょう? ぼくだったらそんなの堪えられないなぁ。誰かに会いたくていてもたってもいられないし、誰かと話したくて堪らなくなっちゃうと思う。」


 ここにひとりぼっちで閉じ籠っているのは、きっととっても寂しいんだろうなぁ。

 ぼくはそう言葉を続けていった。


「多分だけど、ぼくらはとても似ているんだよ。だってぼく、あなたのその気持ちスゴくわかるもの。……だからなのかな? 何だか、あなたのことが放っておけなくて……。」


 グリモアはくしゃりと顔を歪めた。


「だからさ、グリモアも一緒に行かない? アサトさんにはぼくが言っておくから。」


 ね? と言って振り返ってみれば、さっきまで頬杖ついてぼうっとしていた彼がさっきの格好のまま、ごろんと横倒れている姿が見えた。

 その顔はものスゴく嫌そうにしかめられている。


 しかしグリモアは少し悩む素振りを見せたのちに、ふるふると首を横に振った。


「行かない……行けない。」


 此処を、出る訳には。

 そう言ってグリモアは手を引こうとする。

 けれどもぼくはその手を引き止め、もう一度握り締める。


「どうして? 寂しいんでしょう?」

「………どうしても、さ。」


 そしてグリモアは一度瞼を伏せた。

 それから、ふ、と笑みを浮かべると、悲しげだった顔色をからりと変えた。


「すまないね、お前達を困らせてしまって。少しばかり我が儘を言いたい気分になってしまったのさ。」


 悪く思わないでくれ。

 そう言って持ち上げられた瞼の向こうから鮮やかな色の瞳が現れる。

 彼は今までの表情とは打って変わって涼やかな表情をぼくに見せると繋いだ手を緩やかに解いて落とした。

 そうして徐に持ち上がっていった腕は、ぼくの頭の上に掌を置く。

 かと思えば、それがポンポンと軽く叩くように撫でていった。


「……ホントに?」


 ぼくはそう言って彼を上目見る。

 頭に置かれた腕がその視線を遮り、グリモアの表情はぼくからは見えなかった。


「ああ。」

「嘘じゃない?」

「本当さ。」


 だから、大丈夫。

 グリモアはそう言って今度はぼくの肩に手を置く。

 そしてくるりと振り返らせると、とんっと背中を軽く押した。

 とと、と、とたたらを踏むように、背中を押されたぼくの身体が覚束ない足取りで前へ進む。


「お行きなさい。行くべき所が出来たのだろう? 」


 後ろからそんな声を投げ掛けられて。

 振り返れば、そこにはたおやかに笑むグリモアの姿が。


「ならば、私はその足を停める訳にはいかない。歩む者の足を停めてしまえば、きっと──“彼女”が怒ってしまうだろうからね。」


 彼女? それって……。

 今度はローブへと視線を落とす。

 今は姿を見せていないキャスパーは、恐らくこの中にいるのだろう。

 けれどもグリモアは首を横に振った。


「お前は呼ばれたのだよ、その手紙をしるべとして。それネコはお前に行く先を示した。ならば、お前は行くしかない。“彼女”の元へ──、」


 そしてグリモアは掌を翳す。

 ぼくに向かって差し出すように。




 緩く折っていた指がはらはらと広がる様は、春の開花を思わせるように。

 涼やかなる落ち着いた声音は、春の冷ややかにも温かな陽射しのように。

 身動ぐ度に揺蕩う淡色の長髪は、雪解け水のせせらぎに降り落ちた桃色の花弁の彩りを彷彿させて。




 そんな景色を連想する姿だった。

 美しくも儚い夢のようだった。


 そして、何処か春風を思わせる彼はミュールを履いた片足を踏み出した。

 トン、と一際鼓膜を震わす軽やかな足音が、その声と共に辺りに響いていった。




「──“赤き女王”の元へ。」




 ゴ ゥ ン。

 その時、重苦しい音が空気を震わた。


「うわ、わ──!」


 腹の底に響く重低音。

 床をも揺らす振動に足元がぐらりと狂わされる。

 次第に立っているのもままならなくなっていき、やがて耐え切れなくなっていく。

 やがて、遂にバランスを崩してしまうぼくの身体。

 支えを求めて腕を振り回しながら、ゆっくりと後ろへ倒れていく。


 せめてよろついた足がしっかりと地を踏み締めていたならば。

 だけどもさっきまで床があったそこには、いつの間にか足の踏み場はなくなっていた。

 代わりにあったのは大きく口を開こうとする一対の扉。

 重々しい軋む音を奏でながら、今正に落っこちようとするぼくを真下にて待ち構えていた。

 その先、扉の向こうには灯り一つとしてない暗闇が広がっていた。


「(落ちる──!)」


 地に足が付かない浮遊感を感じた直後、襲い来るのは真下へ向かおうとする重力の圧。

 ぼくは声をあげることも忘れて、さっと顔を青ざめさせた。


 グリモアの姿があっという間に頭上へと昇っていく。

 扉の向こうへと落下していくぼくは、助けを求めるようにグリモアに向かって手を伸ばした。

 けれどもグリモアはぼくのSOSには応えてくれない。

 その顔に微笑みを湛えたまま、代わりにぼくを見下ろしてこう囁いた。


「大丈夫、安心なさい。お前には“彼”がいる。」


 そんな声を耳にした次の瞬間、落下していくぼくの身体がふわりと支えられる感覚を覚えた。

 ぼくの胸元に、とさりと重みが置かれる。

 見れば、ぼくの腕の中には銅色の本が。

 顔を上げれば、目の前には彼──アサトさんの姿が。

 彼はいつの間にかぼくの傍にいて、その両腕をぼくの背中と膝裏を掬うように抱えてくれていた。


「掴まってて。」


 彼の口から響くテノールの音がそっとぼくの耳元で囁かれる。

 それに頷き彼が羽織ったコートを握り締める。

 すると彼はぼくを抱える腕に少しだけ力を込め、そしてこう言った。


「──キャスパー!」


 瞬間、ぼくのローブの下からぬるりと黒い影が。


「にゃる?」


 彼に呼ばれ現れ出たのは、複数の音を重ねたような奇妙な鳴き声を発するキャスパーだ。

 管の身体をぐにゃりと伸ばして弧を描いた彼女は、不思議そうにぼくらを見下ろして首を傾げるように先端を傾けていた。


 アサトさんが駆け付けてくれたとは言え、ぼくらは今も暗闇の中を落下している最中。

 真上の扉が口開いてる場所以外、黒に包まれたそこは何処へ続いているのかも、底がどれ程先にあるのかすらわからない。


 そんな中でもアサトさんは真っ直ぐに彼女を見据えていた。

 そして静かな声音は力強くこう言った。


「僕らを、“向こう側”へ。」


 こくり。

 アサトさんの言葉に彼女は頷く。

 そしてアサトさんの腕に抱えられたぼくの視界の中、彼女は管の身体をはらりと崩していくのだった。


 固形は無形へ。

 有は無へ。


 形を無くした彼女の身体は濃霧のように朧気となっていく。

 影すら見せなかった真っ黒の身体は、次第に向こうを透かして見せるように。

 やがて真っ暗の中で、それでも不思議と目に見える真っ黒の身体からは、その向こう側の景色を──頭上のずっと向こうでぼくらを見下ろすグリモアの姿を映し出すように。


「──ああそうだ。一つだけ、お前に。」


 その時聞こえた、グリモアの声。

 あまりに距離が遠すぎてか細いものとなっていた音。


 それはぼくの耳が特別良いものでなければ、こうして聞き取れることはなかっただろう。

 アサトさんやキャスパーは気付いていないのだから。

 ぼくだけがグリモアの声に耳を傾けている中、立てた人差し指を唇に当てた彼はぼくを見詰めてこう言った。


「向こうで、私の“弟”に出逢ったら……どうか宜しく言っておいてくれ。」


 私は元気にしているよ、と。

 そうして手を振る彼の姿は濃霧のそのまた向こうへと、よりどんどんと離れ遠ざかっていく。

 やがて、いつしかそれも見えなくなる頃、ヴェールのような身体となった彼女はその身でぼくらを覆っていくと──、




 ──暗転。

 舞台に幕が降りるように、ぼくの視界は闇に閉ざされていった。






 *****






 照る陽がさんさん、ぽかぽか昼下がり。

 吹く風ぴゅうびゅう、木の葉を乗せて。


 ある日の昼下がり、何処かの原っぱにて。

 一人の“青年”が青々と茂った草の上に寝転がり、すうすうと静かに寝息を立てておりました。


 今日は珍しく良いお天気。

 普段は雨雲に包まれて涼やかなことの方が多いその地域。

 ですが、その日は特別です。

 天上は鮮やかなる晴天からニッコリ笑顔のお日様がこうこうと日差しを落としておりました。


「………平和だな………。」


 おや?

 いつからか、寝息は聞こえなくなりました。

 代わりに、より静やかとなった原っぱでぽつりと小さく響いたのは、溜め息混じりの退屈そうな声。


「戦争もない……内乱もない……民が飢える事はなく、圧政に苦しむ事もなく、これと言った不平不満を拗らせる事もない……。」


 組んだ腕は枕にして、柔らかな芝生を背に敷いて。

 見上げた空はいつもより眩しい。

 その光を遮るように、周りと比べてやや浅黒い掌が翳して目元に影を落としました。


「……貴族連中とて自らの立場を良く解っているモンだから、欲に溺れ変な気を起こしてトラブルを起こすこともない。………はあ………実に完璧で、平穏で……全く退屈な世の中になったものだ。」

「それはそれは、大変喜ばしい事ではございませんか。」


 おやおや?

 そこには青年だけではなく、他にも誰かがいるみたいです。


 原っぱに寝そべっていた青年がむくりと身体を起こしました。

 そしてくるりと──と言うより、首の座っていない赤子のようにぎこちなくカクンと──頭を傾けると声がした方へ、インクで塗り潰したかのような光を映さない真っ黒な瞳を向けました。


 青年が視線を向けた先には、黒い燕尾服に身を包んだ男が少し離れた大きな木の陰にて、礼儀正しく佇んでおりました。

 その人と青年の目が合うと、燕尾服の男は恭しげに頭を下げました。

 すると、一つに結んで肩に垂らした少々長い髪が、頭上より射す木漏れ日の元に晒されました。

 銀の色一色に染まるその糸々達は、日の光を浴びてよりキラキラと輝やきました。


「それもこれも、全て貴方様の──陛下の見事な手腕による統治の御陰にございましょう。流石は偉大なる先王の御子息・・・・・・であせられる御方。天に召された御父君も、さぞや誇らしく思っていらっしゃる事でしょう。」

「止せ、ベディヴィア。要らん世辞を口にするな。」


 穏やかなる微笑みを浮かべて青年を褒め称える燕尾服の男に、青年は掌をひらりと振ってそれを止めました。

 すると燕尾服の男──“ベディヴィア”と呼ばれたその人は、直ぐ様口を閉ざして唇に弧を描きました。


「思ってもいないことを言うんじゃあない。耳障りだ。俺の折角の休暇をお前の無駄口で潰そうってンなら、今直ぐ俺の視界からその顔面に張り付けた嘘臭ぇニヤニヤ面と共に失せやがれ。」


 そう言った青年の口調はまるで吐き捨てるかのよう。

 しかめた顔だって、燕尾服の男に向ける嫌悪感を隠す気なんて一切無しに剥き出しです。


 燕尾服の男はそれでも笑みを崩す事なく、悪態なんて何処吹く風と涼しげな顔でこう言いました。


「いいえ、それは出来ません。何故ならば、わたくしめは常に陛下の御側に在らねばならない身。幾ら陛下の御命令だとしても、離れる訳にはいかないのです。」


 そしてベディヴィアは深々と頭を下げ、言葉を続けます。


「貴き血筋の貴方様の御身を護る事こそ我が役目、我が宿命にございます。故にこそ、陛下の御身に何かあった際には………そうですね、我が身を呈して・・・・・・・でも貴方様を御守り致しましょう。」


 ベディヴィアはそう言って、にこりと笑みを浮かべました。


 それはとても穏やかな微笑みでした。

 口にした言葉もとても忠義に満ちたものでした。


 それもその筈、彼は“この国”で最も王様に忠実な臣下であるからです。

 誰もが認める忠義に満ち溢れた人物であるからこそ、彼は“この国”で最も偉い王様の信頼の下、常日頃からその傍に侍っておりました。


 そんな彼の物腰柔らかな態度からは、誰が見ても人が良さそうな人物であると思うでしょう。

 そして彼を知る多くの者もまた、彼は情け深くも温情ある人物であるのだと声を大にして褒め称えています。


 それもまた当然でしょう。

 何故なら彼は、困っている者には手を差し伸べ、苦しむ者には慈悲を与えます。

 相手が誰であろうと老若男女貧富問わず、どんな人々にも心を寄せて。

 誰もが彼を素晴らしき人物であると称賛する、正に“聖人君子”そのものでなのですから。


 しかし、彼のその言葉を耳にした青年は酷く不快そうに表情を歪めました。

 いたく嫌悪感を露にして、それからこう口にしました。




「良くもまぁヌケヌケと、思ってもみない事を抜かしやがる。お前程“不忠”な奴は他にいねぇってのによ。」




 低く、唸るような声が厳しい言葉を吐きました。

 爽やかは途端にしんと静まり、凍り付いた空気が漂い始めます。

 それは暫しの間続きました。

 ですが、のちにその静寂は笑い声で壊されます。


 ころころ、くすくす。

 上品に、それでいて如何にも面白おかしそうに。

 葉擦れのように細やかな声は笑い続けました。

 やがてそれも静まる頃、声は存分に心赴くままに笑い終えたようです。

 そして凍てついた静寂を素知らぬフリして、こう言葉を紡ぐのでした。




「ふふふ。やはり、貴方様と共に在ると飽きる間もございませんね。




 ──“アルトリウス・C・ハイブラシル”陛下。」





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