-2 頭痛の種。

「──落ち着いた?」


 立てた膝の上に突っ伏していたのを、ぼくは徐に顔を上げていく。

 そこへ、隣に腰掛けた黒髪の彼が静かにそう声をかけてきた。


「うん……もう平気、大丈夫。」


 こくん、と控えめに頭を上下に揺らしてそう答えれば、彼は「そう」とだけ言ってまた沈黙した。

 返事だけを聞いたならば素っ気なく感じるであろう彼。

 けれども、背中に感じる添えられた手の感触が心地好さと安心感をぼくへとじんわり与えてくれていた。


「……ごめんなさい。あなたのこと、嘘吐き呼ばわりして。」


 あなたの言う通りだったよ。

 ぼくはポツポツと呟くように彼へと言う。

 そんなぼくの腕の中には銅色の本が抱えられていた。


「この本は確かに爺やの本だ。題名タイトルだってこれであっている。」


 そこまで言って言葉を区切るぼく。

 「……でもね、」と続け、浮かべる表情に影を差す。


「実感が湧かないんだよ……全然、これが自分の名前なんだって。心からそう思うことが出来ないんだ。ぼくの名前は間違いなく、この本の名前と同じものであるハズなのに、それだけはちゃんと覚えているのに……どうしても“これじゃない”って思えてしまうんだ。」


 ぼくはそう言ってまた黙り込むと、ゆっくりと下ろしていった頭を膝の上に当てた。


「ぼく……おかしくなっちゃったのかな……? こんな初歩的なことなのに、気持ちだけが追い付かないんだよ……。」


 自分のことなのに、自分のことが不思議に思えてならないんだ…。

 そう言葉を続けていくと、今まで黙ってぼくの話を聞くだけだった彼が「それでも…」と静かに口を開いた。


「今はこうして納得はしてくれた。なら、まだ大丈夫。」


 そう言って、ぼくを安心させるように声をかけてくれた。

 ……けれども。


「でも、これでもし完全に自分を見失っていたら、もう元に戻ることは難しい。その時はきっと、今までの君とはもっと別の誰かになっているだろうね。」


 ハッキリと、彼はそう言った。

 それを聞き、ぼくは僅かに顔を強張らせていった。


「そうなったら……今までのぼくは一体どうなっちゃうの?」


 ぼくは彼を見上げ、不安げな顔を浮かべる。

 すると彼は一つ瞬いてこう答えた。


なかった事・・・・・になる。誰の記憶からも忘れ去られ、本来の事実は後付けの理由に塗り潰されて、淘汰されたのちに消えてなくなる。……それの存在した証明が、この世の何処かに残っていない限り。」


 忘却こそ、そのものの“死”である。

 彼はそう言ったのだ。


「それは………嫌だな。」


 眉を潜めてぼくは呟く。


アーサーぼくはちゃんとここにいる。あの森で生まれて、ずっと爺やと祖父さんと一緒に暮らしていて……その分、沢山の思い出だってある。なのに……それアーサーを忘れてしまったら、その全てがなかったことになるなんて……。」


 あの森で暮らしていたのはもうぼくだけ。

 あの森で育ったアーサーぼくや、そんなぼくと過ごしてきた爺や達との思い出を知るのは、つまりもうぼくだけ。


 そんなぼくが、完全に“アルト”と言う別人へと変わっていってしまったら。

 そんなぼくが、彼らのことを忘れてしまったら。

 彼らが生きていたことを証明するぼくが、それを忘れてしまったら……爺や達のことは、一体誰が覚えていてくれるのだろう?


 彼は確かに、ぼくが忘れてしまったら“アーサー”が消えてなくなるとは言っていた。

 けれどもぼくは、きっとそれだけではないとその話を聞いて思ったのだ。

 だって、あの森にはぼくと爺やと祖父さんだけで暮らしていた。

 この世を去ったあの二人を、残されたぼくがそれを忘れてしまうと言うことは。

 それはつまりぼくの記憶一つで、三人分の生きた軌跡が一緒くたに消えてしまうと言うことなのだ。

 ならばそれはどう考えたって、ぼく一人だけで済む話ではない。


 爺や達が生きた証のない世界。

 爺や達の存在がそもそもこの世になかったと淘汰された世界。

 そんな世界、ぼくは嫌だと思った。

 ぼくはこの世界がそんな風になって欲しくないと思ったのだ。


 だからぼくは、爺や達が育ててくれたアーサーぼくと言う存在を忘れるワケにはいかない。

 今はもう“アーサー”と言う名前に自分との繋がりを感じられなくなってしまっているけれど……それでも、これだけは絶対に忘れるワケにはいかなかった。

 ぼくが失い掛けている、自分自身を完全に見失ってしまわぬようにしなくてはならないと、使命感のような思いがぼくの胸に芽生えたのだった。


 ならばもう、どんな手を使ってでも繋ぎ止めなくてはならない。

 彼らに愛されて育てられた、“アーサー”と言うただ一つの存在を。

 その記憶を、名前を、失くしてしまわぬようにしっかりと握り締めていなくては。

 その為には、何だって──。


「ならさ……やっぱりぼくは、あなたに“アーサー”になって欲しいと思うよ。」


 決意を胸に、ぼくの口から出た言葉。

 黒髪の彼の視線がこちらに向く。


「だってさ、そしたらあなたのことを呼ぶ度に、ぼくはあなたに預けたぼくの名前を何度も口に出来るんだ。そしたらきっと、もうぼくの名前を見失うことはきっとなくなる……そうは思わない?」


 ぼくがどんなに意識していようが、恐らくきっとぼくはまた、忘れかけてしまうのだろう。

 ならば、この本が切っ掛けで気付きを得た今のように、ぼくの傍にあるものに刻んでしまうのが良いのかもしれない。

 そしたらきっと、それを見たら忘れたものも思い出せるだろう。


 そんな風に考えたぼく。

 そこで目を付けたのが“彼”だった。


 あの日、爺やが姿を消した時に出逢った彼は、何がともあれぼくと共に来てくれることを約束してくれた。

 あの頃には旅をする理由は見付からず、ただ漠然と信疑相反する思いのままに姿を消してしまった爺やとの約束──“必ず会おう”と言う言葉を胸に宛もなく探し続ける他なかった。


 けれど、今はもうそうじゃない。

 もう一つ、旅する理由は出来たのだ。

 それは、あの白い世界で出逢った姿無き誰かとの勝負ゲーム──“七つの特別な本”を探すこと。

 どうもこの世界全てを舞台に始まったらしい、あまりに規模の大きいそれにぼくは挑む必要が出来たのである。


 そしてぼくは彼にそれを手伝ってもらおうと考えたのだ。

 だって、折角只者ならぬ彼が自分の傍にいるのだ。

 これを利用しない理由はない。

 何も出来ない自分一人だけよりも、彼がいてくれた方がよっぽど心強い。

 だから彼とはこの先も行動を共にしなくてはならない……と言うよりも、何がなんでも繋ぎ止めておかなくてはならないと考えたのだ。

 そしてぼくはその為に、理由作りに思考していたのである。


 だがそんな下心のある思惑は一先ず胸の内で押し留め、表向きに伝えられる尤もな理由だけを彼に伝えてぼくは説得を試みる。

 すると、今まで頑なに拒否し続けていた彼が初めて一瞬視線をさ迷わせる素振りを見せたのだ。

 何だか迷っているかのようなその様子に、思わず「おや?」と思うぼく。

 ただ付けるだけの名前なら嫌でも、理由次第なら彼も承諾してくれるだろうか?

 僅かながら手応えを感じて、そうぼくは思った。

 だがしかし、結局彼は「でも…」と渋る声を溢すのだった。


 ……そうか。

 これでダメなら……“これ”はどうだろうか?


「じゃあ。……じゃあ、こんな名前はどうかな──。」


 そうしてしばし考え込んでいたぼくがそこで口にしたのは、たった今思い付いたばかりの真新しい名。

 備忘録のように自分の名を残し、捩り、全く新しい形へと作り替えたそれは、彼の為だけに用意した彼だけの特別な名前でもある。

 それを耳にした瞬間、黒髪の彼が目を見開いて驚きの表情を見せたのだ。


「──ね、どうかな? “アルト”のぼくと“ナイト”くんの名前に倣って、そういうのは。確かに語呂合わせっぽくはあるけれど……うん、悪い名前じゃないと思うよ。」


 これでも、ダメ?

 ぼくはそう言って頭をこてんと横に傾ける。

 そんなぼくをしばらくじっと見詰め、沈黙し続けていた彼。

 きゅっと唇を噛み締めていただけだったのが、くしゃりと顔を歪ませたかと思うと俯いてしまって顔が見えなくなる。

 黒く長い前髪のカーテンが目元を囲って隠す中、表情の見えない彼をぼくは黙って返事を待つ。

 何も反応が返ってこないことから、一瞬「やっぱりお気に召さなかったかな……?」と少し不安を覚えたりもしたのだけど……。

 どうやらそれは杞憂に終えるようだ。

 伏せていた頭が徐にこくりと頷いたのである。


「じゃあ、決まりだね。」


 遅れて見せた彼の反応にホッと安堵しつつ、ぼくはそれからこう口にする。

 互いに向き合い、相手へ手を差し伸べて「それじゃあ改めまして、」と前口上を付けてから。




「これからよろしくね──“アサト”さん。」




 そうして黒髪の彼──アサトさんは、ぼくの手をじっと見下ろしたのちにやや時間を掛けておずおずと手を差し出すと、まるで壊れ物にでも触れるかのような本当に細やかな力で、きゅっと握り締めてくれたのだった。


「にゃるー。」

「あ、ネコさん。」


 ぼくとアサトさんが握手をしたところで、背後からネコさんが不思議そうにぼくらを覗き込んできた。

 「んにー?」と鳴きながら繋いだ手を興味深げに観察している彼女を見て、「あ、そうだ」とぼくは声を上げた。

 そして今度はネコさんの方へと手を伸ばすと、彼女の触手を撫でながらこう話し掛けるのだった。


「ネコさんにも名前を上げなきゃね。」

「んむー?」


 きょとん、とした様子でぼくを見上げる彼女。

 首を傾げるみたいに先端を折り曲げている様からは、何のことかわかっていなさそうだ。

 そんな彼女をじっと見詰め、顎を撫でつつ考えること約数十秒。

 ティンと閃いたそれに目をキラリと光らせたぼくは、人差し指を立たせてこう口にする。


「……よし! じゃあ、ネコさんにもぼくの名前を託しちゃおう! 手掛かりって言うのは一つだけよりも、二つ三つ残してあった方が心強いもんね!」


 そして「ねっ!」と同意を求めるように二人に視線を送る。

 アサトしんはこくりと頷いてくれたのだが、ネコさんはやっぱり何のことかわからないと反対側へと触手を傾けていた。


「“アーサー”はアサトさんにあげたけど、ぼくはミドルネームもあるからね。折角だからネコさんにはそっちの名前を付けてあげようね。」

「にぅ?」

「ネコさんに名前をプレゼントしてあげるって話さ。どう? 受け取ってくれる?」

「にっ! にゃるら~っ!」


 そう言ってあげるとようやく理解が出来たのか、ネコさんは嬉しそうに触手を揺らし始めた。

 それからくるくるとぼくの身体に巻き付いてきたかと思うと、きゅっと締め付けて密着する。

 当の本猫としては抱き付いているだけなのだろう。

 彼女がとても喜んでいるのがわかってぼくも嬉しいのだけれど、ほんのちょっぴり苦しかった。


「それじゃあネコさん、きみにもとっておきの名前をあげるね!」


 ようく聞いて、覚えてね!

 ぼくの声に触手が頷く。

 ネコさんの触手はそわそわと落ち着きなくも、期待に満ちた眼差しを……いや、雰囲気オーラをふんわりと醸し出しながらじっとぼくを見詰めている。

 隣でアサトさんが見守ってくれている中、ピシッと人差し指を突き立てたぼくはネコさんに向けて、それから宣言するようにこう口にしたのである。




「今日からきみの名前は“キャスパー”──ぼくのミドルネームの“キャスパリュグ”から取って“キャスパー”だ!」




 これからよろしくね、キャスパー!

 そう言うとネコさん──改め、“キャスパー”は「んにー!」と嬉しそうな声をあげたのだった。


 名前を与えられて余程嬉しかったのか、ぼくの顔を嘗めるみたいに頬を何度も撫でてくるキャスパー。

 もぞもぞと身体を這われているのも相まって、身を捩りながら「くすぐったいよう」とぼくは笑う。


 キャッキャうふふと和やかにじゃれあい、出来たばかりの名前を呼んで遊び始めるぼく達。

 そんなぼくらを端から眺めて、しばし魂が抜けていくかのように固まっていた誰かさんは、気が遠くなりそうになるのを堪えながら、痛む頭を抱えて一人悩ましげに呻くのだった……。






 *****






「(や……やられた……!)」


 冷や汗だらだら、頭が痛い。

 悩みの種はどれだけ摘もうと、次から次へと現れてくる。

 今もそうだ。

 一難去ってまた一難、折角これで脅威も失せたかと思った矢先に、飛んでもない爆弾発言が彼のこれまでの努力全てを無に帰した。


 思わず気が遠くなってしまいそうだ。

 この先自身に降りかかるであろう気苦労を考えて、視線を遠くへと向けた彼──アサトは……今だけはもう、考えることを辞めることにした。




 ──きっひひひひっ!




 頭の奥、鼓膜を必要としない場所から。

 キシキシと軋むような音を立てる何者かが彼の度重なる気苦労を面白おかしがってせせら笑う。


『折角あのアマを無力化出来る絶好の機会だったのによォ、ザマァねェなァ、アサト爺サマ・・・?』


 人を馬鹿にした笑い方。

 敢えて神経を逆撫でするよう吐く言葉。

 頭の中でキンキンと喧しく騒ぎ始める声。

 それにアサトは人知れず、煩わしげに眉を潜めていった。


『“キャスパリュグ”! 聞いた事あるぜ。かの有名な・・・・・“騎士物語”に出てくる、凶暴・凶悪のトンデモねェ怪猫の名だ! そんな名を付けられてるだとか……きっひひひ! 一体どんな意味が込められているんだかなァ?』

『……五月蝿いな。良いから今は大人しくしていろって。ただでさえお前は羽音が喧しいんだ、頭に響くから余り騒がしくしないでよ。』


 口は開かず、表情には極力出さずに。

 騒がしくする声にアサトは頭の中でそう言葉を思い浮かべる。

 すると頭の中を響く声は彼の言いつけに反して、またゲタゲタと嗤い始めるのだった。


『ンだよ、冷てェ奴だな! 折角この俺が“汚染”されちまう前にアンタを正気に戻してやったってのによォ……そりゃあねェんじゃねーか?』

『あれもやりすぎなんだよ。加減をしろ、加減を。これで意識を飛ばしたら元も子もないんだから。』


 きっひひひひひっ……。

 笑い声が聞こえてくる。


 じゃれあう一人と一体を静かに眺めているアサトは、その傍らで嗜めの言葉を送ったつもりなのだが……どうも相手は反省の色がまるでないらしい。


 姿の見えないその相手は、何を隠そうアサトの頭の中の住人・・・・・・だ。

 思い浮かべるだけでそれはこちらの考えを汲み取ってくれるものだから、声や音を発して伝達する必要がない。

 だがしかし、こちらは思い浮かべれば伝わってくれるのだが、相手は頭の中……つまり、そんな場所で騒がれてしまってはアサトの頭に直に響いてくる。


 だからそれを嗜めたアサトであったのだが、相手は言う事を聞いてくれる様子はない。

 それどころか、面白がって性懲りもなく続けてくる有り様だ。

 ならばポーカーフェイスを装うアサトの眉間に皺は立つし、思わずこめかみにもうっすらと青筋が浮かんでしまったって仕方がないと言うもの。


 さして辛抱強い方ではないアサト。

 いい加減、そろそろ堪忍袋の緒も切れてしまいそうだ。

 だからと言って頭の中に居着いている相手に、何をどうすることが出来ようか。

 手が出せないのは重々承知であったアサトは、ならばと思い、こう相手に伝えるのであった。


『……大体ね、お前、面白がってやってるでしょ。余りふざけて度を越すようなら“それ”、返して貰うから。』


 それは、頭の中の住人に対し恐らく今一番効くであろう言葉。

 すると案の定、そう言葉を思い浮かべた次の瞬間には頭の中に響いていた嗤い声はピタリと止んだのであった。


『ンな笑えねェ冗談言わねェでくれよ。こんな面白ェ“オモチャ”、返すだなんてモッタイナイ。結構気に入ってンだぜ? コレ。』


 勘弁してくれよ、悪かったって。

 そう言ってくる辺り、やはりこの人物にはこれが効果覿面のようである。

 アサトはしめしめと思い、これでようやっと静かになる……そう思ったのだが……。


『頼むよ、許してくれよ。悪いことには使わないからさァ。コレ……ええと………何て言ったっけ?』


 ありゃ、度忘れしちまった。

 そう一人ゴチた相手が、今度は何やら思い出そうと悶々とし始めた。

 あれだっけ? これだっけ?

 あーでもない、こーでもない…。

 そうやって、度忘れしてしまった記憶をどうにか掘り起こそうとうんうん声は唸り出す。

 今度はそんな一人言が頭の中でブツブツと呟かれるようになってしまったのだ……。


 やっと静かになってくれると思っていたアサトは、何だか肩透かしを食らった気分になった。

 それに、その一人言はどうも思い出すまで続きそうだ。

 呆れたように溜め息を溢したアサトは、聞くに聞かねて仕方なく助け船を出すのであった。


『“神経ムチ”──ね。』

『そう! それそれ!』


 きひひひひっ!

 アサトが伝えたその道具・・の名称を聞いて、それをお気に入りだと称した声は愉しげにキシキシとした不快音の笑い声を上げた。

 その時同時に、耳にするだけで背筋にぞわりとしたものが走りそうな虫の羽音が頭の中にて響き出した。


 耳を塞ぐも無駄な騒音のオンパレードだ。

 これにはアサトも絶えかねて、つい表情が険しくなる。

 何せ、その羽音と言うのは耳障りなだけでなく、アサトに不快感と嫌悪感をどうしようもなく煽ってくるものなのだ。

 これは当人が意識しようがしていまいが関係のないことでもあった。

 だから『五月蝿い、大人しくしろ』ともう一度、しかし先程よりも厳しい口調で嗜めた時、今度はエサ・・が効いて直ぐ様大人しくなってくれたのは非常に助かったのであった。


『何て言うかなァ、偉く手に馴染むんだ。ついこないだ貰ったばかりだってのにな? 扱い易いと言うか……まるで俺の為に在る・・・・・・みたいな使い心地なんだよ。』


 今までに比べ随分と大人しくなってくれた相手が、ポツリとそんな事を呟く。

 全く、不思議な話だよなァ?

 そして頭の中響く声は、くつくつと喉を鳴らすように控えめに笑った。


 しかし、それにアサトはしんと沈黙、何を答えることもなかった。

 それが何故かと訊ねられたところで、彼には答える気が毛頭ないのだから。

 だが相手はアサトが何も答えずとも構わず、尚も言葉を続けていく。

 そして声は沈黙するアサトに探るよりも直球に、こう問い掛け訊ねるのであった。 


『なァ爺サマよ。アンタ、こんなけったいなモン、一体何処で手に入れたんだ?』


 黙。

 その問いを最後に、声は止んだ。

 羽音は消え、騒音は失せ、頭の中が静かになる。

 今、彼にとって聞こえてくるものは、子供のはしゃぐ声が鼓膜を震わせ伝わってくる音のみ。


 沈黙を守ったままの彼の視線の先、そこには今も子供が無邪気に戯れている姿が見えている。

 彼は地べたに腰掛けたまま、それをぼんやりと静かに眺めていた。


 楽しそうに、嬉しそうに、子供は初めて得た遊び相手に心からの笑顔を顔に咲かせ、笑い声を上げる。

 その光景がなんと眩しいことか。

 照る日もないのについ目を細めてしまう。


 何せ、生まれてこの方、年の近い者もいない閉鎖的な空間で育ってきた子だ。

 生まれて初めての遊び相手に、ついはしゃいでしまうのも無理もない。

 ただその傍らにいる蠢く影がその相手と言うのが、どうにも気掛かりとなってしまうのだが……しかし、それが今子供にとって丁度良い遊び相手なら、まぁ良いだろう。

 見た目はおぞましくとも、本来はどれ程危険な存在であろうとも、子供にとって今それは目にするだけで身も凍り付きそうな狂気と恐怖を撒き散らす脅威ではない。

 それが何なのかが正しく理解出来ていないが故に、そんなものを前にしても子供の心は今も平穏を保たれているのである。


 実のところ、見るものを恐怖させる狂気さえなければ、元より“アレ”はあの子供にだけは何の害を及ぼすことはない。

 寧ろ、“アレ”自らあの子供を守ってくれようとしているくらいだ。

 ならば彼にとって“アレ”が傍にいることは別段気に病む程の事ではない。

 寧ろ守ってくれると言うのであれば、彼にとってもその存在はとても都合の良いものであった。


 今まではとある事情から、子供から怯えられ避けられてと少しのコミュニケーションも上手くいかず、気を揉む要素の事のが多かった彼。

 それももう解消された今では、ようやくまともに会話が成り立つようになった。

 だとしても、それでもまだ行き届かないことはあるだろう。

 だから、それにその気はなくとも今後自身の助けとなってくれるであろう“アレ”の存在は、アサトにとって棚からぼた餅……いや、怪我の功名・・・・・とも言えるものであった。


 ……確かに、先程はそれとの衝突は多少あった。

 何せ、彼が極力避けたいと思うものを“アレ”が無理矢理に引っ張り出してきたのである。

 故に、どうにかそれを排除したかった彼だったのだが失敗してしまい……だが、今はもうそんな事はどうでも良い。

 過ぎてしまったものはどうしようもないのだ。

 だから、後の事は後でどうにかしようと、半ば諦め気味に気にすることを辞めた。

 その為今は下手に藪を突つくよりも、放置の方が良いと判断したのである。

 ……まあ、どうしても問題を先伸ばしにしただけ感は否めないが。


 そして今、そんな一人と一体を眺めていた彼。

 ずっと閉ざしたままだった口から「フー…」と一つ、小さく息を吐く。

 それから視線を子供の方からずらしていき、もう一人の子供・・・・・・・からの問いにそっと口開く。

 しかしそれは子供の耳には決して届かぬように声を出すことはない。

 誰に届けるつもりもない独り言のように、唇のみを動かして、密やかに、ささやかに、そっとこう答えるのであった。




 何、ただの“昔取った杵柄”さ──と。





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