-3 銘々命名。
「え、あの子の名前? “ネコさん”じゃないの?」
キョトンとしながらぼくがそう答えると、目の前で黒髪の彼がガクッと身体をよろけさせた。
「それは……謂わば種族名でしょ。君は人間に“人間さん”と呼ぶの?」
あっ、そっか!
「言われてみれば」と掌を叩くぼくに、呆れた顔した彼が溜め息を溢す。
「………はぁ……そう呼んだ時、“彼女”は何も言わなかったのか?」
「うーん? 別に、特に何も……強いて言えば『あなたがそう思うなら、きっとそう』とは言われたけど。」
彼から訊ねられたことで彼女の本来の名前を聞いていないことに気が付いたくらいなのだ。
ぼくは彼女のことを殆んど知らないことを、そこでようやく思い出した。
「あの子に聞いてみるよ。見た目はちょっと変わってるけど、あの子、優しいからね。」
きっと教えてくれるハズ!
そう思ってネコさんを呼び掛けようとするぼく。
けれども黒髪の彼はそれを止めた。
「多分だけど、彼女は答えないよ。」
「え、何で?」
ぼくは首を傾げて彼を見上げた。
何で彼がそう断言出来るんだろう?
そう考えて頭に疑問符を浮かべていると、黒髪の彼はこう言った。
「今まで君に伝えていないんだ。必要がないとでも思っているんだろうさ。」
それか別に理由があるか、ね──そう言って彼はネコさんを見た。
ぼくも釣られて彼女の方を見る。
あれからと言うもの、ネコさんは飽きもせずにひたすらグリモアと追い掛けっこをして遊んでいた。
触れるか触れないかギリギリの瀬戸際を攻めて、逃げるグリモアを煽りながら。
泣きながら逃げ惑っているグリモアが流石に憐れに思えて、止めてあげようと思ったのだけれど……。
そんなぼくを止めたのは、言わずもがな黒髪の彼だ。
曰く「あれはあのままにしておこう。その内、奴も彼女に慣れる」とのこと。
それを聞いてぼくは「なるほど、それは名案だ!」と拳を打ったのだ。
ぼくはネコさんと知り合って、“ネコ”と言う生き物の良さを知ったのだ。
触ればふわふわ、愛嬌良し、癒しアリ。
見た目はちょっぴり変わっているけど、困った時は助けてくれるし、言うことも聞いてくれる上に知能もどうやら高いみたい。
そんなネコさんが怖いだなんて、グリモアは案外見る目がない。
しかし、今はネコが苦手なグリモアだけれど、それが克服出来ると言うのならぼくも協力する他ない。
だって、ぼくはもうすっかりと“ネコ好き”なのだ!
ネコ好きな仲間が増えてくれるのならば、ぼくも協力するしかないよね!
そうして納得したぼくが頷いた時に見た黒髪の彼が浮かべた笑みは、どこか清々しげで、嬉しそうで……。
それでいて何だかこう……ほんのちょっぴり怖かったのは内緒である。
「……しかしまぁ名前が解らないとなると、呼ぶ時に不便だな。」
ぽつりと隣から聞こえた一人言。
え? 自分のこと言ってる? と思いながら彼を見上げてみれば、ぼくの視線に黒髪の彼が気が付く。
「“彼女”の事だよ。猫なんて世界中何処へ行っても居るもの。他にも猫が居る場所で“ネコさん”だなんて呼んだ時には、どの猫を呼んでいるのか解らなくなってしまうかもね。」
言われてみれば……とぼくはその話を聞いて、つい納得。
猫はネコさんだけではないと言う極々普通のことを、ぼくは今まで考えもしていなかった。
そもそもの話、ぼくは猫をネコさん以外に見たことがない。
だから猫が沢山いることがあるかもしれないだなんて、思いも寄らなかったのである。
けれども、彼の言う通り、この先他の猫と出会うようなことがあった時、ネコさんと他の猫の区別が付かない、なんことになってしまったら確かに困ったことになりそうだ。
もしも、そんなことになってしまったら……。
もしも、ネコさんを見失ってしまった時に、ネコさんにネコさんだけの特別な名前があったなら……!
「確かに、名前は必要だな……。」
「でしょう?」
ネコさんとはぐれた時のもしもの未来を想像して。
ネコさんが他の見知らぬ猫に埋もれてしまった、もしもの事態を想像して。
彼女には彼女だけの特別な名前を考えねば、そう思ってぼくは考え始めた。
うーん、うーんと唸りながら、頭を捻るぼく。
悩みに悩んでどうにか知恵を絞ってみるけれど……。
「ん~……どうしたものか……。」
いざ考え出してみると、良い名前と言うのは中々上手く思い付かないものだった。
もう何度目か、こてんと頭を傾けたぼくは助け船を求めて彼を見上げた。
「ねぇ、何か良いアイディアとかない? ええと──。」
ぼくはそう言って彼のことを呼び掛けようとして……ふと思い止まり、
「……そうだ。ぼく、あなたの名前を知らないんだった。」
そう、ぽつりと呟いた。
どうして今まで聞かなかったんだろう?
ぼくは疑問に思った。
名前を知らないだけで不便なことは多いハズなのに、知らないことは自覚していたハズなのに、知らないことが何だか当然のように思えてしまい気にならなくて、これまでも一度足りともぼくは彼に尋ねようとは思い至らなかった。
なんで? とぼくはぼく自身に問い掛けてみる。
けれども……うーん、どうも良く思い出せない。
「(……まぁいいや。ただ忘れていただけかもしれないし、そもそもこう言うのって聞けば済む簡単な話だし。)」
ぼくはそんな軽い気持ちで頭に浮かんだ疑問を放り捨てた。
それから改めて彼の方を向くと、ぼくは何でもないように口を開くのだった。
「そう言えば、あなたの名前は?」
すると彼は答えた。
「名前は、ない。」
即答だった。
思わず「えっ」と溢してしまうぼく。
まさか、名前がないだなんて思わなかったのだ。
予想外の回答にぼくは戸惑いを露にした。
すると長い前髪の向こうで垂れがちの黒目をやや細めた彼は、次にこうも言ったのだ。
「……なんで?」
“なんで”??
突然自分へと向けられた質問に、ぼくはつい質問で返してしまう。
彼が何に対しての疑問をぶつけているだろう?
わからないぼくは直接訊ねてみることにした。
すると言葉少なな彼はこう言った。
「怖くないの?」
………うーん???
まだ何のことかわからない。
「何が怖いって?」
「………僕が。」
彼の言葉にぼくは首を傾げた。
「どうして? なんでぼくが、あなたを怖がるの?」
きょとんとしたぼくはついそう訊ね返す。
一体どうして彼はそんなことを聞いてくるのだろう?
今までのことを思い返しても心当たりがなくって……と言うか、何だか彼を見ている時ぼんやりしていたような気が。
彼との出来事を思い返そうとしても、その時だけは何故か意識がぼやけていて、ハッキリ思い出せやしないし妙な心地を覚えてならないのである。
別にその時のことをぽっかり忘れてしまったワケではない。
何があったのかくらいはうっすらにだけれど覚えている。
しかし……何故だろう?
その時ぼくが何を考えていたのかだけは、これと言って思い出せなかった。
まるで他人の視界を借りて覗き込み、盗み見ているかのように、それらの出来事が妙に他人事みたいに感じてしまうのだった。
彼は細めていた垂れがちの黒目をゆっくりと瞬かせた。
そして再び開いた瞼の向こうで視線を下へと落とした。
俯いて前髪がカーテンを閉めるかのように表情を伏せると、その向こうから小さく「何でもない」と呟く声が聞こえた。
それからと言うもの、彼はすっかり沈黙してしまった。
妙に気まずい空気がぼくらの間に漂う…。
「ちょ、ちょっと待って! だとしたら、名前のないあなただってよっぽど不便じゃないか!」
ぼくは思わず声を上げた。
「名前がないにしたって、
せめてそれくらいは教えてよ!
そうぼくは名無しの彼に訴えるのだけれども、それでも彼は頑なだ。
何を聞いたってただ一言、ハッキリキッパリ「ない」と答えるのであった。
ぼくはいよいよ困り果ててしまった。
「……わかった。わかったよ。そこまでして、あなたはぼくに名前を教えてくれないんだね?」
そしてぼくは腕を組んだ。
頬を膨らませ、じとりとした視線を彼に送る。
ぼくはわかってしまったのだ。
彼はぼくに、名前を教えるつもりがないことを。
隠してるのだ、本当の名前を。
ぼくは気付いてしまったのだ。
「そんなに知られたくないんだったら、良いもん。こっちは勝手にあなたの名前を付けて呼ぶことにしてやるんだから!」
どう呼ばれても文句言わないでよね!
ぷりぷりと怒りながらぼくは沈黙する彼にそう言い放つ。
だって、しょうがないでしょう?
名前がないのは、呼ぶ時にとっても不便なんだから。
だからぼくは決めたのだ。
彼にはぼくが“とっておき”の名前を考えてやろう!──って。
「じゃあ、そうだな……あい…あう…あえ………。」
ブツブツ、ブツブツブツ…。
考えながらぼくは一人言を溢す。
何てったって、ネコさんにすら良い名前が思い付かないぼくなのだ。
これと言ったアイディアはやっぱり思い付かないので、取り敢えず“あいうえお順”でとにかく字を組み合わせていくことにしたのである。
手抜きっぽく思えてしまうかもしれないけれど、これでもぼくは至って大真面目だ。
……センスがないって言うなよな!
「…あお……アオ? んー……あか……あき………あけ………あさ……アサ……?」
順に当て嵌めていって少々の間、しばらくピンと来るものがなくて頭を悩ませていたぼく。
しかし、遂に終着点は見えてきた。
……うん、うんうん。
そうだ、これだこれ、これにしよう……!
しっくり来る組み合わせが見付かり、ぼくは一人こくこくと頷く。
そしてこちらをじっと見詰めていた彼の方に向き合うと、ぼくは自信満々に腰に手を当て胸を張り、ビシッと人差し指を突き立ててこう言い放ったのである。
「よし、決めた! 今日からあなたの名前は──“アーサー”だ!」
「ダメ。」
すぱーん!
ぼくの宣言は一秒と持たず
ががーん!
ショックを受けてたじろぐぼく。
さっき文句は受け付けないって言ったのに…!
と言うか、即答する程嫌がられるなんて……。
「な、なんでダメなんだよう……折角良い名前思い付いたと思ったのに……!」
考えた時、思い付いた時。
彼のことを考え順に当て嵌めていって見付けたのは、いつか爺やから寝物語に聞かせてもらったお話に出てくる“勇者”の名前だった。
何故だか不思議としっくり来るので、折角だから勇者の名前をお借りしよう。
そう思っていたぼくだったのだけれども……こうも呆気なく拒否されてしまった。
それでぶちぶちと一人ゴチていると、変な顔をした彼がこんなことを言ったのだ。
「それは……君の名前だから。」
「ぼくの?」
彼の言葉に、はて? と疑問符を脳裏に浮かべたぼくはこてんと首を傾ける。
「ぼくは“アルト”だよ? アルトリウスだ。アーサーって名前じゃないよ。」
そうだ、ぼくは“アルト”だ。
確かにあの白い世界では自分のことをすっかりと忘れていたぼく。
けれども今はこうして確かな記憶はあるし、自分が何者かくらいはわかっているつもりだ。
しかし、ぼくの言葉に彼はふるふると首を横に振る。
「違う……違うんだ。君の
変な顔──それは何だか言葉に表すのも難しい、しかめっ面のような、どこか苦しそうな…何とも複雑な表情だ──をした彼は不思議そうに見上げるぼくを見てくしゃりと眉間の皺を際立たせた。
それから彼は静かに口を開くのだった。
「かの大国“ハイブラシル王国”の前国王“ソロモン”を、生涯忠義で尽くした王弟“アルクレス・B・ハイブラシル”殿下。その彼が最期に遺した忘れ形見のご
彼はそう言って、自らの胸元へと手を伸ばしていった。
「……あなたって、案外変な冗談を言う人なんだね?」
ぼくは彼の話を聞いて、肩を竦めてそう言った。
「ぼくはそんな大層なものじゃないよ。だってぼくはずっと森の中で、爺やと
呆れたように、溜め息まじりに、軽くそうあしらって返すぼく。
しかし、それに彼は言葉を返すことはなかった。
代わりに胸元から取り出したものを、ぼくの前へと差し出したのだった。
それは一冊の本。
大きくて、分厚くて、表紙が
「……あっ、それ──!」
ぼくはそれを知っていた。
どうして今まで忘れていたのかわからないほどに、ぼくは確かにそれを覚えていた。
それは
彼と出会って、共に行動するようになって、“本当の自分”を隠し他人を装っている時にぼくは何度と自分を見失いそうになったことがあった。
そんな時に、この本の表紙に書き刻まれたその“名前”を眺めると、何だか心が落ち着くし安心出来るからずっとずっと手に持っていた本だった。
今はもう帰れない我が家から、唯一持ち出してきた故郷の名残でもあった。
一体、いつからこの手を離れてしまっていたのだろう?
いつもあんなに大事に抱えていたハズなのに。
それを上手く思い出せないぼくは、それを差し出した彼の手からそっと受け取った。
やっと自分の元へと帰ってきた本をぎゅっと握り締めるぼく、手の内にあるそれにゆっくりと視線を落としていく。
そこでぼくは本の表紙を目にした。
しかし、それを見たぼくの目は大きく丸く見開かれていったのだった。
「……違う……。」
今度はぼくが首を横に振る。
そこには信じられないものがあったのだ。
「これ……ぼくのじゃない。ぼくの本じゃない……ぼくは、ぼくは“アルト”のハズなのに……!」
動揺し狼狽えるぼく。
震える声でそう呟いて、ぼくはその本を彼へと突き返す。
「ぼくの本はどこ? ぼくの大事な本、爺やから貰ったぼくの本はどこ? ぼくの名前が載った、ぼくだけの本はどこなの……!?」
けれども彼はこの本を受け取ってくれない。
ぼくをじっと静かに見下ろしたまま、何も言ってくれやしないのだ。
その本に載っていた名は“アーサー”。
正しい題名は──“勇者アーサーの冒険譚”。
*****
『………坊、ちゃん………。』
血溜まりが広がる地べたの上、そこに横倒れる見慣れた人物の姿。
年老いて髪の色は薄れ、皺の多くなった頬にいつも絶えず微笑みを湛えていたその人。
年老いても働き者だった彼のゴツゴツとした掌は触れればとても優しく温かくて、その手で頭を撫でられるのがぼくはとても好きだった。
その手はもう随分と冷たく、触れた瞬間ぼくの頬は赤く染まった。
『どうか………どうか、この、爺やめの話、を……ようく……お聞き、ください、ませ………。』
今にもその命が途切れていこうとする中で、最期の力を振り絞る彼。
信じがたい出来事に、受け入れがたい現状に、堪えた涙が今にも落ちそうなぼくは必死に首を横に振る。
そんなぼくに、別れを嫌がるぼくに彼はそっと頬を撫でながら笑みを浮かべて、無慈悲にも今生の別れへと言葉を続けていったのだ。
『もう………この
ぼくはその言葉に「嫌だ」と返した。
「あなたを残してはいけない」「一人でなんて、どこにも行けやしないよ」と涙ながらに訴えた。
爺やは困ったように笑っていたけれども……ぼくは彼を困らせてしまったとしても、彼と離れ離れになるのが耐え難かったのだ。
何せ、ずっと家族同然に日々を過ごしてきた人なのだ。
ぼくは彼を親のように思っていたし、誰よりも大好きで大好きで、とても慕っていた人だった。
そんな人を失うことになるなんて、今まで少したりとも想像もしたことがないくらいで………そんな彼を無しに日々を過ごすことは、ぼくにとって何よりも耐え難い日々でしかなかった。
嫌だよ、ぼくはまだあなたの傍にいたい。
ぼくはまだ、あなたと同じ時を過ごしたい。
あなたが作ってくれたご飯だって、これからもずっと食べていたいんだ。
あなたが枕元で聞かせてくれたお伽噺だって、まだ続きを聞かせて貰えていない。
ここでお別れなんて嫌だ。
ぼくはあなたと一緒が良い。
行くならぼくも一緒に連れていってよう……!
『ひとりに……しないで………っ。』
血濡れの彼の胸元に額を当て、ぐすぐすと啜り泣くぼくは彼にそう訴える。
いつもはぼくのお願いを、どんなものでも叶えてくれる彼なのに、その時だけは酷いくらいに意地悪で……。
『お行き、ください……坊っちゃん……。』
肩に置かれた手が弱々しくぼくを遠ざけていく。
大好きな爺やがぼくを突き放すのだ。
こんなに悲しいことはない。
だがしかし、そこはぼくも頑なだ。
必死に彼の服にしがみつき、涙に血にと顔を濡らしていく。
ぼくが顔を上げたそこには、胸を一突きに貫かれた痕がだくだくと血を垂れ流し続けていた。
きっと、涙が出る程に痛いハズだ。
こんなに痛々しい傷なのだ。
ぼくが想像出来うる以上に辛く苦しいに違いない。
なのに爺やは少しも苦しげな顔なんて見せないで、いつもの優しい微笑みのままぼくの頭を撫でているのだ。
『ならば………坊っちゃん……
ぐすん。
鼻を鳴らしたぼくは、そして彼を見上げたのだ。
『私めは……必ずや、貴方様の元へと戻りましょう……ですから……どうか、今だけは私めの願いを、お聞き届けくださいませ……──。』
そして、爺やの願いを聞いたぼくはそれから一心不乱に駆け出した。
背後から迫る足音、ぼくらを襲った化物が響かす意味不明の何かの唸り声。
それをどうにか振り切りながら、ぼくは脳裏に爺やの言葉を思い返す。
──屋敷の一階、渡り廊下の最奥。
日の当たらぬ薄暗きその突き当たりにあるのは、
その部屋を封じる錠前を、小さな錆びた黒い鍵で抉じ開ければそこには、塵降り積もる書庫があるでしょう。
空の本棚が立ち並ぶそこで、中心奥部に座する位置に一冊の“本”が残されている……。
『それを貴方様に託しましょう。それはいつか、貴方様に捧げるつもりでいたもの。いつか貴方様の為になればと、生涯私が残してきた“大事なもの”──。』
渡すのがこうも遅くなり、申し訳ございません…。
彼はそう言って、ぼくの背中を押したのだ。
“前へ進め”と言ったのだ。
爺やと離れ離れになるのが嫌だったぼくだけども、それでも涙を拭って走り出す他なかったのだった。
必死に、必死に駆けていき、それから本を手にして爺やの元へと戻ってきたぼく。
幾ら“進め”と言われたとしても、名残惜しさにもう一度爺やに会いたかった。
けれどもそこは既にもぬけの殻。
残されていたのは凄惨に飛び散った血溜まりと、無惨に散らばる何かの肉片。
そして背筋が凍る程の静けさが包む中、血みどろの剣を片手に持ち多量の返り血を浴びた青年が一人、その中心にて佇んでいた。
たった今肉を断ったばかりを思わせる剣先の滴る血雫に、その剣を片手にぼくの方へと視線を向けたその人に、全く見覚えのないぼくは恐怖を覚えた。
次は、ぼくの番なのだろうか……?
凶器を手にしてぼくを見詰める相手に、茫然自失となったぼくはへたり込む。
『(だとしたら……ぼくも、爺やと同じところへ……。)』
そしてぼくはそのまま項垂れた。
逃避を放棄し、自暴自棄となる。
活力の失せた眼差しが、ただただ茫然と地べたの血溜まりへと向けていた。
大事な人が最期に遺したのは、見え透いた嘘の約束。
別れ際残した『
それは今にも息絶えそうな彼には難しいことくらい、幼いぼくにだってわかること。
ぼくはもう、爺やとは会えない。
だって、亡き人との再会は叶うハズがないのだから。
『(どうせ、もう爺やすらいなくなってしまったんだ……ひとりぼっちでいるくらいなら、いっそのこと、ここで死んだ方が……。)』
そう、頭の中で思う。
だが地べたに付いたぼくの手がその時、土を掻きむしった。
『……たくない……。』
ぽつり。
徐に無意識に溢れる呟きが一つ。
『……死にたくない……。』
ぽつり。
自覚と共に自分の本音がついまろびでる。
『死にたくない……死ぬのが怖い………痛いのも苦しいのも嫌だ……!』
ぱたり、ぽたたっ。
真っ赤な血溜まりの池に、澄んだ雫が沈み行く。
でも……一人になるのは、もっと嫌だ──!
『ならば──。』
その時、ぼくの前に手が差し伸べられた。
それは血に濡れた手、皺一つなく若々しい手。
ぼくは見上げた、その人を。
初めて出会ったハズの、その人を。
爺やと祖父しか知らないぼくにとって見知らぬ人でしかないその人は、誰かの面影を彷彿させる風貌をして涙を浮かべるぼくの手を取ったのだ。
そしてぼくとその人は、その森を出た。
ぼくの生まれ故郷であるその森から、見きりを付けて逃げ出すように──。
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