-6 その手紙の宛先は。

「きみは──!」


 ローブの下から一本、また一本と触手が現れ出てくる。

 それがぼくの周りで蠢き、とぐろを巻き、水の底に生える海藻のように上へ伸びてはゆらゆら揺れる。

 その上部の尖りが頭を垂れるように曲がり下がる様からは、まるでそれらがぼくを見下ろしているかのようだった。


「にゃる、らー。」


 今度は頭に響く音ではなく、複数の声が入り交じった音が鼓膜を震わせてきた。

 初めて聞いたならばそれは思わず全身の肌が粟立ってしまいそうな程の、悪寒を誘う気味の悪いノイズの音。

 だと言うのに、もうすっかりその音に聞き慣れてしまったぼくはその黒い触手達を見上げて喜びに目を輝かせていくのだった。


 目を覚ましてから姿を見なくなっていた彼女。

 すっかり、てっきり、もうお別れしてしまったのか、あるいははぐれてしまったのかと思っていた。

 ぼくはすかさず傍にあった一本の触手に手を触れさせると、感極まって涙ぐむ頬を擦り寄せた。


 その触手の先端には、破かれる寸前であった手紙が握り締められていた。


「……ありがとう。また、助けられちゃったね。」

「にーうー。」


 甘えるような鳴き声が耳元にて囁かれる。

 そしてぼくの頭にのし掛かってくるとくしゃくしゃと髪を掻き回していた触手がその先端を持ち上げた。

 先端を視線に見立て向いているその先には、ようやく拘束を解かれたらしい黒髪の彼が俯き加減に、カーテンのような長い前髪の合間から憎々しげにこちらを睨む姿があった。


「ッ……いつから、その子に取り憑いて・・・・・……!?」


 痛むのか、締め付けられていた腕が庇うようにもう片手で押さえ付けられている。

 寄せて眉間に皺立たせた額、しかめられた顔。

 恐らく腕の痛みが相当なものなのだろうと、それを察するは容易いが向けられている眼差しの鋭さは背筋が凍り付いてしまいそうな程だ。


 幸い、こちらを向いていても視線が合わないことから彼が怒り染みた敵意を向けているのは彼女の方なのだとぼくにも直ぐに察することが出来た。

 だがその睨んだ眼差しが決してぼくに向けられているものではないにしても、その刺すような視線の恐ろしさに、つい恐怖に身が竦んでしまいそうになってしまう。


 けれども、そんなぼくの傍でゆらゆら揺れている彼女は、彼の凄んだ眼差しなんてどこ吹く風。

 恐れも無ければ何てこともないかのように「くとぅ、うるるうくるぅ……」と不思議な鳴き声を溢していた。

 それからうねうねと管の身体を捩ったかと思えば、黒髪の彼などお構いなしにぼくの掌へと手紙を乗せたのだった。


 かさり、と微かな音を立てて手紙が再びぼくの手に戻ってくる。

 どうやら破かれてしまったのはまだ封筒だけのようだ。

 掌のそれを見下ろしたぼくはそれにほっと息を吐き胸を撫で下ろした。

 そこへ、手紙を渡してきた触手がそれをちょんちょんと爪先で突ついた。


「開けろってこと?」

「くぷー。」


 ゆさゆさ、触手が上下に揺れる。

 ぼくは促されるがままに封筒に手をかけると、それを開封しようと恐る恐るに指へと力を込めていった。


「待っ──!!」


 封筒を開けようとするぼくを見や否や、慌てて制止の声を上げる彼。 近付こうと身動ぐ身体にすかさず周りを触手がぐるりと囲む。

 ぼくに気を取られている内に一瞬で四方八方を塞がれた彼は、そのまま呆気なくも捕らわれてしまった。

 止めようとした声もまた、触手によって口を塞がれ続きが吐き出されることはなかった。


 それでも言葉にならないくぐもった声を上げてどうにか抜け出そうと必死にもがく彼。

 その姿を見て、ついぼくは手を止めてしまう。


「……これ、開けたらあとで怒られない?」


 ぽつり、ぼくは不安を吐露する。


『だいじょうぶ。』


 鈴の音は言った。


『その時は、わたしが、まもる。』


 てけり・り。

 脳裏に響くその音を感じると、関連付けるには程遠い言葉の意味が自然と頭に浮かんでくる。

 まるで、普段使う言語とは丸切り異なる遠い異国の言葉なのに、自分はそれを知っているかのような感覚だった。


 彼女の『あけて、あけて』と開封を促す声に、後が怖くてまごついていたぼくは意を決して爪先に力を込めていった。




 ぴり、ぴりりりっ!




 繊維を引き千切る軽やかな音を奏でて、封筒の口を開けていく。

 ゆっくり、丁寧に中身を傷付けないよう力を込めていけば、やがて中身を閉じ込めていた封が解かれていく。

 少し離れた場所からは今もくぐもった声が聞こえてきているけれども、彼女の触手が背中に添えられてからは、それに勇気付けられたのか、先程に比べもう大分気にならなくなっていた。


 そして封筒の口を開け切って、中身の手紙を取り出そうとパカリと開けてみると──、


「うーん……中身は紙が一枚、かな?」


 焦げ痕だらけの封筒に比べ、滑らかで綺麗な白が中身を覗き込んだ目に映る。

 引っくり返して掌の上で上下に振ってみれば、素直にすとんと落ちてきたのは確認した通り二つ折にされた一枚の便箋。

 それを広げて見てみると、何やら便箋いっぱいに文字が書き綴られているのが一目でわかった。

 幸い、その文章はぼくにも読めるもので……と言うより、一番馴染みの深いぼくの母国語──“イーリシュ語”で書き綴られていたので、難なく読むことが出来たのだ。


 その手紙の内容はと言うと……まだじっくりと読んだ訳ではないと言うのに、目に映る文章の悉くが宛先人に対する小言ばかり。

 やれ「どうして返信の一つもないの」、やれ「どうせ貴方の事だから読まずに捨てているのでしょうね」……と、どうやら何度も手紙を送っているのに、読みもせずに捨てて返事もない相手にお怒りらしい文面が非難と皮肉を込めてしたためられていたのだった。


 図らずも、他人への説教文を読んでしまったぼくはつい苦笑いを浮かべる。

 それから胸に宛先人へのほんのちょっぴりの同情を抱きつつ、「ここまで言われるまで放っておいたのが悪いのでは?」と言う差出人の苦労を思い、何だか気まずくなって本文をじっくり読むのは止めにした。


「ンンーッ!!」


 その時、黒髪の彼が悲鳴染みた声を上げた。

 驚いたぼくは一体何事かと思い、手紙から視線を外し顔を上げる。

 そこでは塞がれた口でも、何かもごもごとこちらに訴えているらしい彼の姿が。

 何やらぼくの後ろを見ているらしいので、何だろうと振り返ってみてみると──、


「あー、んっ。」


 ばくん。

 後ろへ振り向いていくその間際、ぼくは何だか物々しい音を耳にした気がした。


 くるりと身体の向きを変えそちらに視線を向けてみれば、そこには一際大きな彼女の触手がもぞもぞとうねっていた。

 ただそれだけであったならば他の触手と指して変わりのないもの。

 だが、それを見たぼくは訝しげに肩眉を下げた。


「……何食べてるの?」


 三角柱の如く伸びた触手の下方の太い部分、そこが何やらもごもごと蠢いている。

 まるで咀嚼でもしているかのような仕草に思わず訊ねてしまうぼくだけども、彼女はきょとんとした様子で「んむー?」と鳴くだけで答えてはくれなかった。


「──ッ……!!」


 そんな彼女を信じられないものを見る目で凝視する彼、拘束を解かれると共に力無く膝から崩れ落ちていく。

 床に膝を付き茫然とする彼の蒼白な顔から生気が抜けていく。

 あんなにも恐ろしく感じていた黒い瞳もすっかりと力を失い、虚空を見詰めている様は見ているだけでつい憐れに思えてしまう程。


 如何にも絶望にうちひしがれていると言う様となった彼はがくりと項垂れると、掌を付いた床を見詰めながら力無く半開きとなっている口からは何やら絶えずブツブツと何かを呟き始めた。

 それはとても小さな声でぼくですらとても聞き取り辛かったのだが、その一部で「マズイ」だの「見付かってしまった」だのと何かを恐れて震える声が呟かれていることだけは辛うじてわかった。


「(“見付かった”って……誰に?)」

「にゃるー。」


 彼の様子が気になって余所見をしていたところを、彼女が甘えた声と共に寄り掛かってきた。

 びっくりしたぼくは思わず「うわっ」と悲鳴を上げ、よろけた足がたたらを踏むが、彼女の触手に背中を支えられ転ぶことはなかった。


『てがみ、みた?』


 彼女が頭に響く声でそう訊ねる。

 ぼくは体勢を整えながらに「手紙?」と聞き返す。

 しかしその直後に彼女が「読んで」と遠回しに言っているのだと気が付くと、ぼくは複雑な表情を浮かべて手紙を見下ろした。


「……見た、けど……これ、ぼくの手紙じゃないよ。別の人へのものだ。」


 ぼくはそう言って、もう読む意思はないこと示すように手紙から視線を外す。


「誰に宛てられたものかわからなかったから、つい見ちゃったけど……こう言うのってね、勝手に他の人が読んじゃダメなんだよ。」


 他人の手紙を読むなんて、失礼だからね。

 そう諭すように、わかったような口で言うと彼女はへにゃりと触手の先端を曲げた。

 その仕草は何だか首を傾げているみたいだった。


『てがみ、あなた、みつけた……。』

「見付けたのは確かにぼくだけど、本来の持ち主は別の人なんだよ。いくらあの白いトコロが落とし物を見付けたらその人のものになるって言ったって、ここに送り先の人の名前が……ってそうだ。これ、読めないんだった……。」


 話の流れのまま、つい焦げ痕で読めなくなっている封筒に綴られた宛名を指差してしまうぼく。

 きょとんと見詰める彼女の前で、どうしたものかと困ってしまい頭を掻く。


「……そう言えば、宛先って手紙に書かれてるかな?」


 そこでふと思い付いたのは、存外無事であった封筒の中身の方。

 そちらであれば、もしかしたら文章の何処かに送り先の人物の名前が書かれているかもしれない。

 そう思ったぼくは閉じ書けていた便箋をもう一度広げようか、止めようか、しばし迷った。


「(勝手に見るのは失礼だけど……でも、このまま手紙が届かないでぼくが持ち続けているのはなぁ……。)」


 ぼくは悩ましげに便箋を見下ろし、考え込んだ。

 この手紙を拾ったのは、彼女曰く、誰かが失くして行き場のなくなったものが行き着く場所らしい。

 一体どんな経緯を経てこの手紙があそこへと行き着いてしまったのか、それはぼくには検討も付かない。

 開封すらされていないこの手紙が貰った人が読まずに捨てたのならまだしも、そもそもその人にすら届かずにあそこに行き着いてしまっていたのだとしたら?


 どうしてそんなものがぼくにとって必要なものなのか、彼女に聞いても凡そ言語と言うには不可解な動物的な鳴き声で返されるばかりで、結局わからずじまいでいたのだ。

 しかしこうして中身を少しばかり見て他人のものだとわかった今、これ以上勝手に見るわけには行かないと思って閉じてしまったが……ならば、この手紙はこれからどうしたものだろうか?


 自分には関係ないからとこのまま捨ててしまうのは簡単だ。

 しかし、そうすればこの手紙は本来の宛先の元へはきっと最後まで届かないままだ。

 そうして手紙が届かないで放ったらかしになってしまったら、宛先人だけでなく、手紙を送った誰かだって可哀想だ。


 先程ちらっと覗いてしまった文面にも、手紙を何度送っても返事が来ない旨が書かれてあった。

 小言や皮肉にまみれた文章の中には所々で相手の安否を気にかけている文面もあり、故にこそ最後に「早く返事を頂戴」と言う言葉で締め括っているのは催促も含まれているのだろうが、一番はやはり心配してのことなのだろう。


 そう考えれば尚のこと、この手紙は正しい持ち主の元へ届けた方が良いかもしれない。

 例え持ち主には届けられずとも、手紙の差出人の元へ返すのも一つの手だ。

 そうやって思考を重ねていけば、ぼくの中から放棄する選択肢は自然と消えていった。


「(うーん……だったらやっぱり、この手紙を調べる他ないか…。)」


 ふむ、と悩ましげに顎を撫でながらぼくはしばし便箋を見下ろし熟考する。

 だが、それもやがて決心が付く。

 そうと決めるとぼくは胸の内で見知らぬ誰かに謝りつつ、再び便箋を広げたのだった。


 他人の手紙を勝手に見ているのだと自覚して読んでいると、無自覚だった先程とは違って何だか悪いことをしているみたいで気が滅入りそうになる。

 それでも苦し紛れに目を細めて内容を深く読み込まないようにしつつ、文章をなぞっていけば──、


「……あった。」


 意外にも、目的のものは簡単に見付かった。 

 なんと文章の冒頭に、丁寧に便箋にまで宛名が書き綴られていたのである。

 どうやら差出人はよっぽど几帳面で真面目な人物らしい。

 ぼくはその文字に指を添えると、書かれている文字を読んでみるのだった。


「ええと、何々………? あ………アル……ううんと、違うな………アー……サー……?」




『To.Arthur』

 手紙の宛名にはそう書かれていた。




 こてん、頭が左に傾く。

 小さく唸る声、再び頭が揺れて右へと傾く。


「にゃーるー?」


 横から彼女が顔を覗き込んでくる。

 不思議そうに身体をうねらせ、ぼんやりとするぼくを見詰めていた。

 身体を擦り付け懐く彼女に、ぼくは便箋から目を離さないまま、黒く滑らかなその身体に掌を触れさせた。

 やんわりと横にスライドさせれば、彼女が嬉しそうに鳴き声を溢すのだった。


 しかしぼくはそんな彼女には一切目もくれず、ただただじっと便箋を見詰めるばかり。

 そこに書き綴られたその一文字に心を奪われたかのように視線が釘付けとなっていた。


 やがて、小さな息を吐くと共にやや俯いていた頭を持ち上げる。

 相変わらず便箋の文字には目線を向けたままだったが、何とも言えない神妙な面持ちをしていたぼくはもう一度横に頭を傾けると、やがて小さく開けた口からポツリ一人言を溢すのだった。




「──“アーサー”って、誰だっけ?」




「………は?」


 ぼくがそう呟いた時、遅れてそんな声を溢したのは黒髪の彼だった。


 床に肘と掌を付き項垂れていた彼が、目を大きく見開いてぼくの方を凝視する。

 それからよろつきながらも駆け足で傍まで駆け寄ってきたかと思えば、その勢いのままぼくの肩に掴み掛かってきた。


「今、君、何て──、」


 少し強い力が込められて、ぼくの肩が揺さぶられる。

 それにはほんのちょっぴり痛みが走るけれども、ぼくは迫ってくる彼に戸惑いながらも答えようと口を開く……が、上手く声を出せれない。


「え、えっと……ええと……!」

「自分の名前は? 家族の事は? 何処までなら覚えている?」

「うう……!」


 捲し立てるように質問が繰り出される。

 肩を揺さぶる力は次第にやや乱暴に、肩を掴む指先の当たる箇所には耐え難い痛みを覚えるようになり、思わず顔をくしゃりと歪める。


「あ、あのっ………その、い、痛い、です……!」

「──!」


 ようやく絞り出せたその声に、ハッとした彼。

 すると直ぐ様バッと手を離して、よろけるように後退っていった。


 彼の手が離れていくと、ぼくは痛む肩へと手を触れてみる。

 今は目が届かないからどうなっているのかは確認出来ないけれども、触れれば痛みが走ることからもしかしたら痣くらいにはなっているのかもしれない。

 撫でていれば誤魔化すくらいは出来るだろうか?

 存外痛みを発する肩を恐る恐るに押さえて堪えていると、そこで彼とふと視線が合った。


 肩に手を当ているぼくを見た彼は、一瞬顔を強張らせたかと思うと次の瞬間には罰が悪そうに視線を逸らしていった。

 そして顔を伏せて沈黙していたのだが、やや間を置いて彼の口から「…ごめん」と小さく呟く声が聞こえてきた。


「フーーッ……。」


 直ぐ隣から彼女が威嚇音らしき音を立てて、普段より鋭くさせた触手の先端を彼に向けている。

 どうやらぼくの為に怒っているみたいだ。

 そんな彼女にぼくは「大丈夫だよ」と声をかけると、宥めるように触手を撫でた。


 しばらくして彼女がようやく落ち着いたところで、ぼくは改めて彼へと向き直す。

 彼に対する恐れはまだ抜けきっていない。

 けれども、今はそんなことを気にしている場合ではない。

 ぼくは一度ごくりと喉を鳴らして気を引き締めると、ゆっくり足を進めいった。


 こつ、こつ、と小さな足音が静かな空間に鳴り響く。

 ゆっくりとした歩幅で彼の元へと進んでいくと、やがて彼の目の前に行き着く。

 そこで立ち止まり見上げてみれば、ぼくよりも背丈が頭二つ三つくらい差のある彼が気まずげに視線を逸らしている姿が目に映った。


「……あの。」


 話し掛ければ、黒い目がこちらを向く。


「さっきの質問なん、ですけど……。」


 彼の瞼がゆっくりと瞬いていく。

 まるで頷いているかのようなその仕草に、彼が真摯に向き合ってくれているのだとわかった。

 ほんの少しだけ緊張が和らいだ……気がした。


「ぼくは確かに、“向こう”で一度……その、全部の記憶を失くしました……でも、今はもうちゃんと思い出せています。爺やの……家族のこともわかるし、あなたやナイトくんのことだって。どこまで覚えているのかって言うのはちょっとイマイチわからないけど……それにぼくの名前だって、ちゃんと、覚え、て……。」


 その時、ぼくは視線を彼から外し泳がせた。

 言うべきことは決まっている──そう思っていたハズなのに、いざ声に出してみようと思った瞬間、頭の中が霞がかって上手く思い出せないことにそこで初めて気が付いたのだ。


 自分の名前だけが思い浮かばない。


 思ってもみなかった異常に、ぼくの額から冷たい汗が浮かび上がる。


「えと………ええっと………そのぅ………。」


 どうして。

 そんなハズは。


 自分のことだけが思い出せないと言う事に不安と焦りが募り始める。

 視線は右往左往と忙しなく動き回り、やり場のない手が不安を表すように自らの手を撫で擦っていく。


「(さっきまで、さっきまでちゃんと覚えていたハズなのに……どうして思い出せないの……!?)」


 今までだって、ちゃんと名乗れていたハズなのに…!

 過去のことを思い返してみようと頭の中記憶を思い返しても、何故だか靄が張っているかのようにぼんやりとしてうまくハッキリ浮かんでこない。

 何なら、折角白い世界で思い出した黒髪の彼のこと、ナイトくんのこと、グリモアのことだって、彼らのことはちゃんと覚えているハズなのに過ごした時間がいつの間にか曖昧模糊にぼやけ始めている。

 まるで古くなった記憶が次々色褪せていくような感覚だ。


 それは爺やとの想い出も同じだった。

 今まで何度も繰り返し思い起こし、彼がいなくなった寂しさを紛らわしていたからこそ覚えていた記憶達だと言うのに、思い出そうとするとどんな話をしていたのかすらノイズがかってわからなくなっていた。

 記憶の中で、ぼくが爺やだと思って笑い掛けている相手の顔も、ペンでぐちゃぐちゃに描き潰したかのように黒色のモザイクに潰されてしまっていて……もう、原型が思い出せない。


 全部忘れていた時には感じなかった、今正に“失っていく”感覚にぼくは恐怖に近しいものを感じてしまった。

 このままではまた全部忘れていってしまうのでは?

 そんな不安が募りに募り、じわりと浮かんだ涙が溢れそうになる。


 その時、ぼくは白い世界の果てで出会った人物との出来事を思い出した。


「(そうだ、あの時……。)」


 姿の見えない何者かの前で、ぼくは確かに名を名乗ったことをまだ覚えていた。

 他はもう随分と忘れかけているのに……もしかして、一番“新しい”記憶だからだろうか?

 ぼくはやや乱暴に袖でくしゃりと目元を拭うと、再び彼に目線を合わせた。


 そうして静かにこちらを見詰める黒い目と真っ直ぐ向き合って、ぼくはそこで自分の名だと思うそれを口にするのだった。




「アルト──“アルトリウス”のアルト。それがぼくの名前……ね、ちゃんと覚えているでしょ? だから大丈夫だよ。」




 その時、ぼくは彼の表情がくしゃりと歪むのを見た。

 長い前髪が奥の瞳を隠していき、辛うじて見える震える唇からはささやかに言葉が紡がれる。

 しかしそれには音がなく、耳が良くてもわからないもの。

 でも、その唇の動きを見ていたぼくには、何となくにでも彼が何を呟いたのかわかるような気がした。




 ──どうして。




 それでも、彼がその時呟いた言葉の意味までは、ぼくにはやっぱりわからなかった。





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