-8 夢に見たもの。

 *****






 夢を見た。

 夢の中で、自分は“本”を読んでいた。

 それは夢だと自覚するのが余りに容易い程に、現実味のない夢だった。


 薄暗い部屋の中、小さな明かりを傍らに置き静かに読書に浸る自分。

 気が付いた頃にはもう既に頁を捲っていた。

 夢だと自覚した時にはもう既に分厚い本を半分まで読み進めていた。

 ただ、それが現実ではないと言うことだけははっきりとわかっていた。




 何故なら自分は──ぼくは“本”が読めないからだ。




 普段ならば、いつもならば。

 本を開き中身を覗き込んだだけで目がそれを視界に入れることを拒むかのように、頭がそれを理解するのを拒むかのように、途端に眠気が生じて意識が遠退いていく。

 なのに今は気付いた時にはもう本を開いていて、不思議と眠気が現れることはなかった。

 幾ら頁を捲っても、紙を撫でる指が文字を辿っても、夢の中のぼくの頭は妙にはっきりとしていて、夢中になってその本を読み進めていた。


 頁を捲る音がさらさらとささめく。

 一枚一枚、指が紙を撫でていく。

 文字を追う目が止まらない。

 頁を捲る手が止まらない。


 時間を忘れてまで本を読み進め続けていたぼく。

 なのに、その胸は凪いだ水面のように落ち着き払っていた。

 どうしても、義務感でしか読み進めることが出来なかったのだ。

 “読まなくてはいけない”と、無意識に思い込んでいたのだ。

 無心で本を読むぼくには、それが楽しいものだとは微塵も思えなかった。


 一体いつからそうしていたのだろう?

 記憶が曖昧過ぎてわからない。

 随分と長いことそう過ごしていたようにも思えるし、気が付いた時から始まったようにも思える。


 そんなぼくが読んでいる本の中には、こんな文章が書きしたためられていた。






 ▼▼▼▼▼






 夜空に月が輝く頃、暗い暗い森の奥。

 頭上に屋根を作る程に生い茂るハシバミが周りに立ち並ぶそこには、アーチ状に開けた空間が緑のトンネルを作っていた。


 人が二人並んで優に歩けるその場所は、自然に満ちた地にしては中々便利が良い。

 土は平坦で草も疎ら、頭上は木々が高くで塞いでいる。

 その為夜は酷く暗くなるものの、昼間は日差しを遮り水も通さぬ屋根となっていた。

 お陰で雨が降ろうが身体を濡らすこともなく、雨宿りにうってつけの為か森の動物達とてよく利用していた。


 そんな自然が作った緑のトンネル。

 人にとても都合良く作られているが、そこを訪れるのは精々森の動物達程度である。


 何せ、そこは人の住む地からもう随分と離れている。

 一等近い町の者が訪れようとしたって辿り着くのが困難な程に、森のトンネルはとても深いところに存在していた。

 だから幾ら整備の必要がない程人にとって都合の良い土地でも、そこに人が足を踏み入れることはないのであった。


 そんな森の奥にある緑のトンネルに、その時は特に物珍しい通行人がてんてんと跳ねていた。


 月明かりすら通さない深い森に、小さな明かりがゆらゆらと揺れる。

 広く長く開けた道を右往左往としつつ跳ねるように進んでいたのは、青白い焔を揺らめかす一つの“火の玉”。


 手鞠程度の大きさをしたその火の玉は跳ねて進んでは立ち止まり、跳ねて進んでは立ち止まりと、些かそそっかしい様子であった。

 玉のような身体をくりんくりんと回しながら、周りを見渡している様子からは迷っているかのよう。

 だが、それがもし“鬼火”と呼ばれる死霊の類いであったのならば、恐らくそれは間違いである。


 何故なら“鬼火”は火の玉の如き身体を揺らして、暗がりを行く人々を惑わす存在だ。

 例えば、もしも夜遅くまで遊びに夢中になる子供がいたならば「暗がりに突如として現れた明かりには決して付いて行ってはならない」と大人達は口酸っぱくして注意するだろう。


 その言い付けを守れば事が起きる事はない。

 しかし言い付けを守らなかった子供達がいたとしたならば、夜も更けた頃暗闇の中その子供は忽然と姿を消してしまうのだ。

 そして姿を眩ませてしまったその子供達は大抵、もう二度と親の元に帰ってくる事はないのであった。


 運良く再び姿を見せる事が叶ったとしても、それが再び動き出す事はないだろう。

 何せ、辛うじてそれが行方知れずとなっていた子供だと解ったとしても、精々それは崖から落っこちて息絶えてしまった形ある骸。

 或いは、町の外を彷徨く獣達の食い残しである残骸だろう。

 でなければ、行方知らずの子供の生死など解らず終いとなる事が世の常であるのだから。


 しかし、そこは人気のない森の奥深く。

 人を惑わそうにも、惑わす人などいる筈もない。


 ならば、その落ち着きなくてんてんと行き来する様からして道に迷ってしまったのだろうか?

 人を惑わす“鬼火”が逆に道に迷ってしまうだなんて、笑い話としか思えない事象である。 


 しかし、それには少しも不安そうな様子はない。

 鼻歌でも歌い出しそうな程に機嫌良く跳ねている様からは、どちらかと言えばわくわくうきうきと楽しげだ。

 兎にも角にも目に映るもの──何処からどう見ても火の玉でしかない身体の何処に目があるのか、甚だ疑問ではあるのだが──全てに興味津々にキョロキョロと見渡し、燃ゆる身体からパチパチと火花を散らし鳴らしていた。


 その姿はさながら、観光気分で辺りを見て回っているかのよう。

 夜風に揺れてささめく木葉の音や、生き物達の寝入った森の冷たい空気に、その身にない目や耳をそれらに傾けながら火の玉は緑のトンネル内を行ったり来たりとしていたのであった。


 あっちこっちと落ち着きなく動き回る小さな火の玉。

 道の端に慎ましく咲く花を見付けるや否や、すかさずてんてんと跳ねて近寄っていく。

 そして花の目の前にてピタリと立ち止まると、焔を揺らめかせながらそれをじぃっと見詰めるのだった。


 その時、ぴゅぅっと笛の音が鳴った。


 耳の裏を掠めていく甲高く鳴り響く。

 その音は、直ぐ傍を通り風が吹き抜けていく音だ。

 すると目の前の小さな花が頭をくらくらんとたゆませて、火の玉の身体の焔が風の行く先へと薄く伸びていった。






 ▲▲▲▲▲






「──くしゅんっ!」


 ……ずびびっ。

 静かな部屋にくしゃみが爆ぜる。

 それから鼻を啜る音が響く。


 鼻を擦る指先、もう片手が腕を擦る。

 不意に身体を撫でていった風の冷気に、思わず身体がぶるりと震えが走っていった。


 これは夢であるハズなのに、不思議と肌寒いような気がする。

 そう思ったぼくは本から視線を外すと、はて、と首を傾けた。


 今夢を見ているぼくは、嘗て住んでいた屋敷の自分の部屋にあるベッドの上に座り込んでいた。

 そこで膝の上に一冊の本を広げて、何と無くに頁を捲っている。

 見渡した部屋の扉は締め切られている……なら、この冷たい風は何処から入り込んだのだろう?

 そう思って上げた顔をぐるりと回していくと、この部屋で唯一外界を望むことの出来る両開きの窓が片側だけパカリと開かれていることに気付いた。


 ぼくの身体に再び震えが走っていった。


 窓の向こうに見える景色からして、青々とした木々の緑が見えることから恐らく季節は夏の頃。

 曇天が覆いがちの空からは燦々と照る太陽が時折熱い日差しを降り注ぎ、地上に這う暑い空気がじんわりと額に汗を誘う。

 けれどもそんな暑い季節でも、日が落ちて夜になればやや肌寒い。

 地上を熱する日光を失い、冷えた風が汗滲む身体を冷やしてしまうのだ。


 背中に羽織っていた毛布が薄目のもであるのも相まって、普段であれば丁度良い気温も冷えた部屋で窓を開放すれば、それは風邪を引いてしまいかねないものとなる。

 そう考えたぼくは徐にベッドから降りると、靴も履かずに窓辺に寄った。


 ひた、ひた。

 冷えた床を鳴らす裸足の音。

 普段からよく手入れされている床には埃や汚れなんてものはなく、普段ならば靴で歩くそこを踏み締めても不快感は湧いてこない。


 そのままゆっくり歩みを進め続けて少々、ぼくは風が吹き込む窓の前に立つ。

 片方だけ開け放たれた窓からは、その向こう側に夜空が見える。

 今も尚薄く雲の張った夜空からは、時折雲の合間を縫って星空が顔を出すこともある。

 しかし今はすっかり隠されてしまい、月明かりとて降ってこない真っ暗な夜の景色が目に映っていた。


 そんな空を暫しの間見上げていたぼく。

 軈て腕を伸ばして窓の取っ手を掴んで引き寄せた。

 今はもう夜中だからと音を立てぬよう丁寧に窓を閉めると、真っ直ぐにベッドへと戻っていくのであった。


 背中に毛布をふわりと羽織り、再び膝の上に本を乗せる。

 それから今この部屋を唯一照らすランタンを手元に寄せると、本の上を照らし続きに目を向けるのであった。






 ▼▼▼▼▼






 びくんっ!

 その時、火の玉が身体を大きく跳ね上がらせた。

 どうやら何かに驚いたらしい。

 途端にわたわたと大慌てで跳ね上がったかと思えば、火の玉はぴょんこぴょんこと森のトンネルその奥深くへと、一目散に駆け出していった。


 ハシバミのトンネルが続く先

 そこには少し開けた場所がある。

 変わらず木々が生い茂っているそことて、塞がれた頭上からは空を望む事は困難だ。

 ならば、月明かりが差し込まない深い森の奥は暗過ぎて周りが見えないのは当然の事。

 夜目が利けば多少はマシだろうが、夜を生きる者達でなければそんな便利な目などある筈もない。


 しかし、その時だけは違っていた。

 燃ゆる身体の火の玉が近付くよりも先に、暗闇の中にある筈の広場は既に煌々と明るんでいたのだ。

 何故なら火の玉が駆け込んでいったその広場には、既に先客がいたのである。


 広場の中心地にて焚き火を焚き、それを囲んで傍に腰掛ける誰か。

 その背中を見付けるや否や、火の玉はぽーんと跳ね上がった。


「大変! 大変! ねぇ、聞いてよ! スゴいことがあったんだ! 驚くことがあったんだ!」


 男児とも女児とも取るに悩ましい、中性的な幼声が広場に響く。

 その声の主は火の玉だ。

 ぱちぱちと爆ぜる音を鳴らして投げ込まれた枝を燃やすオレンジ色の焚き火の周りを、青白い色の火の玉がぽーんぽーんと跳ね回りながら忙しなく声を上げていた。


「ねぇ、ねぇ、気になるでしょう? 聞きたいでしょう? 一大事なんだもの、聞きたいよね? ねっ!」


 火の玉の騒がしい声に、焚き火の傍にいた先客は丸めていた背中を億劫そうに伸ばして身体を起こす。

 そして「……はぁ……」と一つ溜め息を溢すと、舌を打ってこう言った。


「……喧しいな。静かにしろよ。お前は落ち着いて話す事も出来ないのか。」


 若いテノールの声を低く唸らせ、不機嫌な声が素っ気ない言葉を口にする。


「大体な、こんな人気のない場所で一大事な事なんてあるものか。さしずめお前がまた何かをしでかしたかどうかくらいだろう。」


 無邪気に騒ぐ火の玉に吐き捨てられたのは、あからさまに苛立ちの籠った言葉。

 そしてその人物は、腰掛けている大木の自身の隣を掌でやや乱暴且つ軽く数度叩いた。


「良い加減、あちこち飛び回っていないで此処に座ってろ。それから夜が明けるまで大人しく眠っているんだ。……これ以上僕の仕事を増やしてくれるな。」


 どうやらそれは「此処に来い」と言っているようだ。

 言われた火の玉はもう一度ぽーんと高く跳ね上がっていくと、焚き火の先客の隣へとぽすんと着地。

 素直にそこに収まるのだった。


 焚き火の明かりが青白い火の玉をも照らして温もりを放つ。

 火の玉は先客から言われた通り、大人しく隣に座る事にしていた。

 漸く辺りを好き勝手駆け回っていた火の玉が傍にて落ち着いた事で、先客は小さく鼻を鳴らした。

 それから再び背を丸めていくと立てた膝に肘を付いた。

 そうして彼らは森の奥、並んで静かに焚き火を眺めるのだった。


 ぱちぱち、ぱちぱち。

 火の粉が弾ける音だけが辺りに響く。

 暫くそれをじっと見詰め、静かに大人しくしていた火の玉。

 けれどもくるりと玉の身体を回したかと思いきや、隣に座る先客を見上げた。


 淡くも煌々と照らす焚き火が隣人の姿をぼんやりと映し出している。

 そこにいたのは、角はなく、尾もなく、鱗も、鋭利な爪も、岩のような筋肉もなければ、獣のように毛深くも尖った耳もない、何の変哲もない身体の持った“誰か”だ。


 それはとても“人間”と呼ばれる生き物に似た姿をしていた。

 この野生の生き物に溢れた森の奥に、人が立ち入る事なんて滅多にないのに。

 寧ろないにも等しいと言う程なのに……おかしな話である。




 もしも人がこの森に入ろうものならば、洗礼として暗闇がその視界を奪う筈だ。

 ランタンを片手に灯りを灯し先へ進もうとしたところで、一寸先は闇の暗がりは夜目の利かない人間に先の見えない恐怖を与える事だろう。


 木々が密集し入りくんだそこには当然整備された道などなく、奥にある森のトンネルとは違って真っ直ぐに進める道などない。

 それでも木々の間を縫ってうねうねと蛇行しながら進もうならば、軈て行き着くは果てのない迷宮。

 方向感覚を狂わせる掴み所のない道なき道に、踏み入った探索者はたちまちに帰路を見失うだろう。

 そうなってしまえば、永遠と森の中をさ迷い続ける事となってしまうに違いない。


 そこで遭難者に提示されるのは、進むか止まるか二択の選択肢。

 進み続ければいつしか何処かに辿り着くだろう、危険とは隣り合わせだがそこは自身の幸運に頼る他ない。

 停滞すれば深みに入り込む恐れはないだろう、進歩がない代わりに軈て訪れるのは緩やかな死が待つのみ。

 しかしそのどちらを選ぶにしても、結局抱えていた備蓄は時間と日が経つ程に磨り減っていく。


 腹を空かせても、その深い森の何処に行けば実りある草木に巡り会えるのか解らない。

 獣を狩ろうにも、その深い森の何処に人の力で太刀打ち出来る獣が身を潜めているのか解らない。

 先を見るには欠かせない光源を失ってしまえば、果てのない暗闇は探索者に止めどない不安と恐怖を与えるだろう。

 自らの掌すらもが見えない暗闇の中、腹を空かせても何処に何があるのかも解らぬまま、いつしかその絶望に心は折れて自ら息絶えてしまうのが常であった。


 もしも目印を残し帰路を見失わずに進む、賢い者がこの森に挑んだとしよう。

 そんな者に襲い掛かるのは森に住まう獣達だ。

 光なくしては進めぬ人は、謂わば居場所を露にする格好の獲物。

 腹を空かした肉食獣達は、ここぞとばかりに狙いを定めるに違いない。

 危険を察知し灯りを消したところで、今度は人の臭いが居場所を伝える目印となるだろう。

 普段森に関わらない者が暗闇に身を潜めても、夜目が利かないばかりに知らぬ内に敵に囲まれてしまい、気付いた頃には退路を失っているに違いない。

 そうなれば大抵、その探索者の最期は獣の腹の中と言う無惨な死を遂げる事になってしまうのだろう。


 その森はそんな場所であったのだ。

 故に、人が足を踏み入れるには余りに危険な場所であった。




 ならばその人物は“人間”ではないのだろうか?

 しかし、その問いを胸に抱く者はその場に一人として存在しなかった。


 木々の合間を縫って微かに流れる風が、その者の面前に垂れた長い前髪を揺らす。

 けれども影に覆われた顔だけは、火の玉のいる方からではよく見えなかった。

 特に何をするでなく微動だにしていないものだから、もしや眠っているのでは? と火の玉は思う。

 しかし、その矢先に傍らに落ちていた枝を徐に革のグローブをはめた手が拾い上げては、焚き火に投げ入れていったのだ。

 それを見て、火の玉はその人物が眠っている訳でもない事を知った。


「……ねぇ。ねえ。聞いてもいい?」


 火の玉は隣人にそう問い掛けた。


「良いから、黙って寝てろ。」


 隣人はキッパリ、バッサリとそう答えた。

 しかし、火の玉は言葉を続ける。


「怒ってるの?」


 ばきんっ。

 火の玉がそう訊ねた次の瞬間、隣人が手にしていた枝を握り折った。

 次に聞こえてくるのは深い深い溜め息の音。

 見上げていた火の玉の視界の中、影の差す顔面を革のグローブが覆っていく。


「……人の話を聞いていなかったのか? 僕は黙ってろって──」

「なんで?」


 無邪気な質問が繰り返される。


「どうして? 大人しくしていないとダメなの? 寝てなきゃダメなのはなんでなの?」


 ねぇ、ねぇ。

 なんで、なんで。


 重ねて何度も繰り返される質問。

 影が差すその横顔のこめかみに、ひくりと青筋が浮き上がっていく。

 そこでギリッと小さく響いたのは、苛立たしげに噛み締めた歯が擦れる音。

 伴って口の端に開いた僅かな隙間から、鋭利な牙が並んでいるのがチラリと見える。


 その肉食獣の如き尖った牙は凡そ人間のものではなかった。

 次の瞬間、「ゥヴルルル……ッ」と地を這うような低い声が鳴り響いた。

 毛を逆立てて牙を剥き出した獣が出す威嚇音のような声だった。



「黙れ、良い加減にしろ…! 折角人気のない静かな所まで態々足を運んだのに、お前がそう騒がしくしたら意味がないだろうが……!!」


 最早激昂寸前の声が上がる。

 怒りが露に、一気触発の空気になる。

 その様子からは、次に火の玉がしつこい問い掛けをとう一言でも口にすれば今にも襲い掛かってきそうなものであった。


 だと言うのに、火の玉は構わず声を上げるのだ。


「いるよ。誰かいる。おれ、さっき誰かの声聞いたもの。」

「……!」


 ぎくり。

 激怒寸前であった隣人の身体がぎこちなく揺れる。


「………何だって?」

「そう、そう。それでおれ、びっくりしてここに戻ってきたんだ。おれ、聞いたんだ。お花を見てたら、どこかから──“くしゅん”って!」






 ▲▲▲▲▲






 ふと、本に綴られた文章から視線を外す。

 肩に掛けていた毛布がずり落ちてしまったのだ。

 滑り落ちていくそれをそっと掴み、肩へと引っ張り羽織り直す。

 そして満足のいく形になると居住まいを正し、それから本へと視線を落とすのだった。






 ▼▼▼▼▼






「そんな筈はないだろう。此処に人が入り込める訳がないんだから。」


 気のせいか、或いは聞き間違いだろう。

 一先ず怒りを抑えた隣人はそう言って火の玉の言葉を否定する。

 しかし、火の玉はぷるぷると震え出した。


「そんなことないもん! おれ、ホントに聞いたんだ! 嘘でもないし、気のせいでもないよ!」


 火の玉が身体を震わせているのは、さながら首を横に振っているようなつもりなのだろう。

 そして言葉をこう続けていく。


「確かに聞いたんだよ、気のせいなハズがないんだ! だっておれは耳がとても良いんだもの、聞き間違えるハズがないよ!」






 ▲▲▲▲▲






 そこでぼくは小さく息を吐き出した。

 軽い深呼吸と共に、本を読むのに丸めていた背中をゆっくりと伸ばしていく。

 それから顔を天井へと向けてはくるりと首を回し、腕も交互にぐるりと回す。

 間接からはパキポキと小さく音が鳴り、それなりに身体が凝り固まっていたことにそこで気が付く。

 そうして凝り固まっていた身体の軽いストレッチを終えると、ぼくは「ふぅ」と息を吐くと肩を竦めるのだった。


 ……何だか、偉く久し振りにこの感じを覚えた気がする。


「(まだ本が普通に読めていた頃にも、こんな風にしていたっけな……。)」


 物思いに耽るぼく、昔の記憶を思い起こしていく。


 本を読んで、夢中になる。

 夢中な余りに段々と身体が前のめりになっていく。

 すると読み終えた頃には読破した達成感と冒険欲、それから知識欲が満たされて満足感に浸る。

 ついでに、暫し身体を動かさなかったからこそ固まった身体に積もった疲労も相まって、それをも吐き出そうと深く深く息を吐く。


 嘗ては自分も普通に本を読むことが出来ていた。

 ある時から突然読めなくなっていたのだ。

 それもつい最近のことだった。

 その割には酷く昔から読めなくなっていたようにも思えてならないところが不思議でならないのだけれども……やはりそれも、どうしてそうなったのか、切っ掛けや原因を思い出すことは出来ないのであった。

 ただ、それでも何となくにわかっていることもある。




 それは──“本を読むと良くないことが起きる”と言うこと。




「(それにしても、不思議だな……。夢の中だって言うのにこうも意識がハッキリしているし、感覚も残ってる……。)」


 まるで、現実と差程変わりないみたいだ。

 何だかむず痒く感じる首を擦るように掻きながら、ぼくはそんなことをぼんやりと考える。


「(それに……この本だって。)」


 膝に落とした視線が本を見下ろす。


「(不思議と先が気になってしまって読んでいたけど、まさかまたこうして本を読める日が来るなんて……。)」


 物思いに耽りながら紙を撫でるぼく。

 掌には滑らかな感触が伝わってきた。

 羊皮紙ではない上等な白紙を何百枚何千枚と束ねて作られたその本は、痛みや汚れ、それから破れていたり折れていたりと偉く劣化や破損が激しい。

 パッと見ただけでもとても古いものであることがわかる程でもあって、言うなればそれは辛うじて形を残していると言っても過言ではない、そんな状態のものであった。


 それを手に取り、並ぶ文字列に視線をなぞっていく。

 じぃっと見詰め眺めてからぼくは、吐息交じりに一人呟いた。


「……気のせいかな? ぼくがくしゃみをしたのと同時に、本の中でも誰かがくしゃみがしたみたいだけど……。」


 彼らの他に誰かがいるのだろうか?

 ぼくは考えながらにこてんと首を傾げる。


 先程からじっくりとその物語を読み耽っていたぼく。

 その文章からは火の玉と人間擬き──人間みたいでもどうやら人間ではなさそうなので、“モドキ似て非なるもの”と呼ぶことにした──の二体ふたりしかいなさそうであると言うのに、その内の片方である火の玉が誰かのくしゃみの音を聞いたと言うのだ。

 彼らの口振りからしても、どうやらそこには他に誰かがいるような様子はない。

 

 はて、もしかしてぼくは何かどこかで見落としでもしているのだろうか?

 頭を捻っても良くわからない。

 結局ぼくは少し戻って文章を読み直すことにするのだった。






 ▼▼▼▼▼






 あっちこっちと落ち着きなく動き回る小さな火の玉。

 道の端に慎ましく咲く花を見付けるや否や、すかさずてんてんと跳ねて近寄っていく。

 そして花の目の前にてピタリと立ち止まると、焔を揺らめかせながらそれをじぃっと見詰めるのだった。


 その時、ぴゅぅっと笛の音が鳴った。


 耳の裏を掠めていく甲高く鳴り響く。

 その音は、直ぐ傍を通り風が吹き抜けていく音だ。

 すると目の前の小さな花が頭をくらくらんとたゆませて、火の玉の身体の焔が風の行く先へと薄く伸びていった。


「───。」


 ぴくん。

 その時、火の玉が身体を小さく揺らした。

 どうやら何かに気を取られたようだ。

 途端に一際大きくぴょーんと跳ね上がったかと思えば、火の玉はぴょんこぴょんこと森のトンネルその奥深くへと駆け出していった。






 ▲▲▲▲▲






「………ん?」


 本の文字列を辿るぼくの指先を見詰めていたぼくは、小さく声を上げると共に怪訝な顔をした。


「あれ……? さっき見た時、こんな文章だったっけ………?」


 再びこてんと首を傾げる。

 しかし、先程に見た文章がどんなものだったのか良く覚えていない。

 気のせいなのだろうか?

 腑に落ちないものを感じつつも、ぼくは続きを読むことにした。






 ▼▼▼▼▼






 ハシバミのトンネルが続く先。

 そこには少し開けた場所がある。

 変わらず木々が生い茂っているそことて、塞がれた頭上からは空を望む事は困難だ。

 ならば、月明かりが差し込まない深い森の奥は暗過ぎて周りが見えないのは当然の事。

 夜目が利けば多少はマシだろうが、夜を生きる者達でなければそんな便利な目などある筈もない。


 しかし、その時だけは違っていた。

 燃ゆる身体の火の玉が近付くよりも先に、暗闇の中にある筈の広場は既に煌々と明るんでいたのだ。

 何故なら火の玉が駆け込んでいったその広場には、既に先客がいたのである。


 広場の中心地にて焚き火を焚き、それを囲んで傍に腰掛ける誰か。

 その背中を見付けた火の玉は、さも当然の如くその隣に腰掛けるように、そこへひょいっと飛び込んだのだった。






 ▲▲▲▲▲






 ぼくは本を見詰める目をぱちくりと瞬かせた。

 キョトンとした呆け顔を浮かべ、何が何だかわからないと言った困惑と戸惑いに声を失う。

 気のせいなんかじゃなくて、その本の物語は本当にさっき読んだ時と内容が変わっているようなのだ。


 一体いつの間に話が変わってしまったのだろう?

 ぼくはただ、少し頁を遡っただけなのに。


 驚きが胸を占めていく。

 ごくり、と思わず喉から音が鳴る。

 緊張の面持ちとなるぼくはバクバクと強く脈を打ち出す胸を押さえると、再び続きに目を向けていくのだった。






 ▼▼▼▼▼






「──ねぇ。」


 男児とも女児とも取るに悩ましい、中性的な幼声が広場に響く。

 その声の主は火の玉だ。

 ぱちぱちと爆ぜる音を鳴らして投げ込まれた枝を燃やすオレンジ色の焚き火の傍、倒木に腰掛けた先客の隣で青白い色を灯す火の玉が静かにない口を開いた。


「気付いてる?」


 端的に、簡易的に呟かれた言葉足らずな一つの問い掛け。

 すると小さく肩が上下して、溜め息交じりの声が響く。


「……ああ、気付いているよ。」


 前屈みになっていた頭を徐に持ち上げて。

 同時にその閉め切っていた薄い唇を開き呟かれたのは、ハスキーで気怠げな声音のそんな返答。


 そして、その声はこう言葉を続けるのであった。




「──“誰か”が、見ている。」






 ▲▲▲▲▲






「────ッ!?」


 瞬間、ぼくは思わず本を投げ出しながら仰け反った。

 ガタタンッと若干大きな音を立てて床に落ちる大きくて分厚い本。

 薄暗がりの中にぼんやりと薄色の表紙が天井を向く。


 バクバクと心臓が跳ねる。

 走ったわけでもないのに荒い呼吸が肩を揺らす。

 引き釣った顔に見開かれた目が、恐ろしいものを見るかのように床に転がる本を見下ろしていた。


「(……い、今……何か見えたような…。)」


 文字の並びを指で追い、それを辿って黙々と眺めていたぼく。

 その最中、脳裏に一瞬何かの映像イメージを垣間見た。


 真っ暗闇に包まれた空間。

 辺り近辺のみを淡く照らす焚き火。

 開けた空間の向こうには密集した木々の群れがぼんやりと照らされており、中心である焚き火の傍には一本の古木が横たわっていた。

 そこでぼくは青白く燃える火の玉と、人と思わしき“誰か”の後ろ姿を幻視した。


 穏やかに流れる風が肩まで伸ばした髪を揺らす。

 オレンジ色の明かりがそれを照らし、浮かび上がるのは淡い毛色。

 その下には真っ赤なスカーフが首に巻かれており、素肌が露になるのを拒んでいた。


 それは、ぼくの知らない景色だった。

 見た覚えも、縁も所縁もない風景だった。

 なのにぼくはその景色を、ハッキリと脳裏に浮かべることが出来てしまったのだ。


 ぼくは見てしまったのだ。

 その淡色の髪の人物がゆっくりと振り返り、こちらを見る姿を。

 いつか見た鮮血のような、燃えるように真っ赤に輝く双眸を。

 その瞳には凡そ人間にはない異様なものが浮かび上がっていることまで、ぼくは何故だかハッキリと認識出来ていた。




 ぼくがそこで目にしたもの。

 それは真っ赤な瞳の中心にある、二本の線が交差した瞳孔──十字架クロスの形をした瞳孔だ。


 その振り返ってこちらを向いたその瞳が、ぼくにはどうしても自分の目と確かに合ったような気がしてならなかった。





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