-9 デウス・エクス・マキナは現れない。

 ──パタン。


 本が閉じられる音が部屋に響く。

 風は止み、光も収まり、人の声もが聞こえなくなった空間に再び静寂が訪れる。


 そこに、一つの吐息がささめいた。


「全く……何をするにも世話の焼ける奴め、転んでも転ぶだけで済まないのは一体誰に似たんだかな……。」


 くしゃり。

 微かな音が空気を撫でる。

 やや乱暴気味に後頭部を掻き回して響く、ハシバミ色の髪が擦れ合う音が静かな部屋に小さな騒音を掻き立てる。

 そして続くは溜め息交じりの呆れ声、やれやれと仕方なさげに呟いた。

 しかし、その裏腹で口元には薄らと笑みが浮かんでおり、どちらかと言えば機嫌が良さそうでもあった。


 暫くすると、髪を掻き乱していた手がピタリと止まり、我に返ったかの如く落ち着きを取り戻す。

 すると乱雑に掻き撫でて乱れ跳ねた髪を指の合間に通してすき、少々雑ながらも元の形に戻そうと手櫛にて整えていった。


 上から下へを数度繰り返す手。

 軈て満足のいく状態に戻していくと、下ろした手はそのまま腰へと付ける。

 それから自ら以外に無人となったがら空きの部屋を目の前にして、漸く一仕事を終えたのだと息を吐いた。


 たった今、姿を失せた小さな来訪者。

 それは光に包まれ消え去った──のではなく、吸い込まれて・・・・・・いったのだ。


 それは何処に?

 答えは簡単だ。

 書机の上にて浮遊する、象牙色アイボリーカラーの本にである。

 それが閉じられるその寸前に、光を呑み込むと共に本は少年をも取り込んでいったのだ。


 そう、それは──元の場所へと戻す為にであった。


「此処はお前らが存在する次元とは全くの別モンだからな。長居するのは余り良くない。内側の者が外側に深く干渉し過ぎると、いつしか元に戻れなくなっちまう。」


 淡々とした呟きを溢しつつ、部屋の主は差し出した手の人差し指を逆さに伸ばしてそれからくいくいっと数度折る。

 まるで何かを招くような仕草である。

 すると、宙を浮くだけで書机上を留まっていた本が、それに呼応するかのように再び頁を捲り始めるのだった。


 さらららっ……と紙が擦れる耳に心地好い音が微かに鳴り響く。

 指を伝わせて流していくような、規則的な紙束の波が弧を描いていく。

 それがやがて、左右に別れた頁が均等な量に揃えられた次の瞬間、本は分かれた左右の頁の束を上下に揺らし始めたのだ。

 そして宙に浮かんでいただけだったそれは、ふわりとより高く浮き上がっていったのだった。


 ぱた、ぱた。

 緩やかに、本の表紙が見え隠れする。

 ひらり、ひらり。

 天井付近まで浮かび上がったその本は、軈て悠然と宙を滑り出す。


 優雅に、軽やかに、開かれた本が背表紙を軸に、翼の如く上下させては滑空する。

 その姿はさながら、蝶が羽ばたいている仕草を連想するもの。

 ゆっくりと飛び漂う本は数度空中を旋回すると、軈て差し出されていたその掌の上へと自ら収まっていった。

 まるで元のあるべき場所へと戻っていくかのような、そんな自然な流れで。


 ──ぱたん。


 掌に着地した本を、受け止めた掌がそっと閉じる。

 蝶のように軽やかだった本は、その手に触れられた途端に自らが本である事を思い出したかのように落ち着きを取り戻す。

 そしてその次の瞬間には、本を乗せた掌に本来のずしりとした重みが現れた。

 突如出現した重みから小さく上下に揺すられる手。

 しかしそれは決して手放さないまま、しっかりと本を掴んでいた。


 部屋の主は暫し自らの手の内にある本を見下ろしたのちに、それを傍にある書机の上に置いた。

 そして自らも定位置に戻るべくして椅子を引き、そこに腰掛ける。

 人一人分の重みを乗せられた椅子が、きぃきぃと軋むスプリングの音を静かな部屋に響かせていった。


「ふぅ………。」


 椅子の背凭れに身体を預け、長い足を放り出す。

 上向いた顔がその双眸に天井という景色を映させる。

 次第に脱力していく身体、そこに柔くのし掛かるような疲労感が降って湧いてくる。

 軈てそれはじわりじわりと睡魔を誘き寄せてきた。


 瞬くその度、上下の瞼が引っ付くような感覚を覚える。

 どうやら自分は存外疲れているらしい。

 寝たくないのに眠くて堪らないのはきっと、今己が責務をこなす為の手を休めてしまっているからだろう。

 頭では今すぐに筆を手に取らねばと、腕を持ち上げるべくして四肢に指示を与えている筈。

 だと言うのに……如何せん、脱力し切ってしまった腕はぴくりとしか動いてくれない。

 それ所か、抗い難い眠気にいよいよ身を委ねたくなってきてしまうのだった。


「(まァ………たまには、このまま……。)」


 そんな普段ならば思わないような意思の揺らぎに、遂に瞼が閉じられてしまう。

 ちょっとくらい、仮眠を取る程度なら大丈夫だろう。

 部屋の主はぼんやりとし始めてきた頭でうつらうつらとそう考えると、ゆっくり、徐々に、自身と意識を編んで繋ぐ張り詰めていた糸を一つずつ断っていくのだった。




 


 *****





『──お兄ちゃん!』




 ……懐かしい声が聞こえる。




『お兄ちゃん! ねぇ、お兄ちゃんってば!』




 楽しげにはしゃぐ声。

 握り締められた手、引かれる腕。

 息を切らしながら走る自分の目の前には、自分よりも一回り小さな子供が木々を掻き分け駆けながら、時折此方を振り返っては無邪気に笑っていた。


『ちょっ、待っ……おい、待てって!』


 自分の腕を引くその子供は此方の事など一切お構い無し、気の向くまま強引に引っ張っていく。

 それ故に、背丈の違いから小さければ何て事の無い障害物を避けきれずにいた自分は何度と木々の葉や枝を頭に顔面にとぶつけながら、二人で緑生い茂る自然に満ちた森の中を走り続ける──そんな、いつかのある日の出来事、その風景が閉じた瞼の裏に浮かび上がってくる。


『あははははっ! お兄ちゃんってば葉っぱまみれだー! だっさーい!』

『なっ…誰のせいで──ぐあッ!?』


 ごちんっ!

 盛大な音が辺りに鳴り響く。

 余所見をしたその瞬間に若干太めの枝が額にぶち当たる。

 それが結構な勢いでぶつかった為に、激痛が走った顔面を押さえて思わずもんどり打つ自分。

 そこへけらけらと腹を抱えて愉快そうに笑う声が、踞る自分の頭上から降ってくる。


『あはははははははっ! 今スッゴい音がしたねぇ! とっても痛そう!』

『ぐうっ………ああそうだよ、目茶苦茶痛ェよ! ったく……何だってそんな急いでまで、こんな道無き道を走り回らにゃならんのだ! 良い加減、そろそろ説明の一つや二つくらいしてくれたって──』

『良いから良いから! ほら、あとちょっと何だからさっさと行くよー!』

『おあっ!? ちょっ……だからッまだ立ってもねェんだから腕引っ張んなって………ああもう! 解った! 解ったから少しは待ってくれっつーの!!』


 青々と繁る木々のさざめきと、何処か近くにあるのであろう川の水のせせらぎ。

 蹄が土を蹴る音、鳥の囀り。

 獣の鳴き声に、獣道を往く誰かが草木を踏み締める音。


 自分達以外に人の声など聞こえなくとも、森に生きる者達の息遣いだけが穏やかに、賑やかに、絶えず音を奏でているそんな世界。

 そこを駆け往く自分と子供が向かっていく、その先には──。




 さああっ……。




 心地好い風が頬を撫でる。

 開けた視界が見渡す限りの景色を映す。

 そこには風に揺れて光沢の波を打つ爽やかな草原と、雪混じりの山脈を背に広大な湖が青空を反射させている、胸がすく程に清々しい大自然の光景があった。


『着いたよ! ココが目的地さ!』


 その風景を背にして、自分の腕を引いていた子供が目の前へと躍り出る。

 くるくるとステップを踏みながら両腕を広げる様は如何にもご機嫌且つ、とても誇らしげなものであった。

 それを思わず、息をするのも忘れて呆然と見詰める自分。

 軈て、吐息を溢しながらにポツリと呟いた。


『………凄いな。』


 それは無意識に口を衝いた言葉だった。

 今まで募り募った鬱憤や文句など他に言いたい事は山程あったと言うのに、それら全て頭の中から吹き飛んでしまう程の衝撃がその景色を見た瞬間胸を打った。


『でしょ? ココはぼくの中でも一番の取って置きの場所なんだ!』


 自分が口にした言葉を聞くや否や、殊更機嫌を良くした子供が更に明るんだ声を上げてそう言った。


『ココをね、お兄ちゃんに見せてあげたかったんだ! ……ね、どう? この景色を見て、お兄ちゃんはどう思った?』


 手を後ろで組んだ子供が得意気ににやりとした笑みを浮かべる。

 そして目の前の景色を見詰めたまま惚け固まって動かない自分を見上げながら、そんな問い掛けを自分へと投げ掛けてきた。


 その様子からしてきっと、自分の答えなどお見通しなのだろう。

 解っているからこそ改めて言葉にして聞かせて欲しいのだとでも言いたげな、察するまでもないその表情が視界に映る。

 それには何だか負けたような気がして、つい悔しく感じてしまうのだが……。

 しかし、それ以上に自身の胸を熱く強く脈動させてくる、この素晴らしい景色を前にしてしまった自分は、そんな浅はかな感情など蹴殴り捨てて思うがままにこう口にするのだった。


『ああ……もう、“凄い”としか言いようがねェよ。この景色を、こんな“異世界”みてェなこの風景を、まさかこの目で直に見る事が出来る日が来るだなんて──!』




 ──ヒヒィィンンン……!




 その瞬間、轟く馬の嘶く声。

 それは目の前の湖の畔から響いてきたものだった。


 こうも自然豊かであるのならば、野生の生き物達がそこにいるのは当然だろう。

 しかし、自分はそんな当たり前の景色を前にして、まるで恋する乙女にでもなったかのような錯覚を感じながら、胸がいっぱいになる程の感動に打ち震えるのだった。




 ばさり。

 大きな翼が羽ばたく音が辺りに響き渡る。

 付近に風を巻き起こし、今正に飛び立とうとしているのは轟く嘶き声を響かせていた──純白の翼を携えた大馬だった。


 呼応して咆哮する群れを成した生き物達。

 そこには輝く螺旋状の角を額から伸ばした、白や黒に身を染めた別の馬々が身を寄せ合いながらも点在していた。


 その先の湖から突き出た大岩の上。

 4本指の合間に水掻きの大きな膜を携えた手を伸ばして水面から顔を出したそれが、悠然と日光を浴びつつ下半身に伸びた魚のヒレを揺らしながら海草のような髪を撫でつけている──身体中が鱗で覆われた半人半魚とも言えるであろう奇怪な生物が腰掛けていた。


 それだけではない。


 自身がいる場所から少し離れた小さな花畑には、虫の羽根を携えた小さな小さな人影がキィキィと甲高い声を上げて花の蜜を舐めて戯れている。


 その背後には、腕を振るうかの如く枝をしならせて花畑の彼らを啄もうと狙う鳥共を追い払わんとする──樹齢何百とありそうな太い幹にしわくちゃの大きな顔を携えた動く大樹が、どっしりと大地に腰を据えていた。




 それは、自分にとって“非現実”を体現させた光景だった。

 それは、自分にとって夢にまで見た景色だった。


 それは遥か昔の、名も顔も知らない誰かが幻視したもの。

 それは遥か昔より、誰もがその存在を疑ってきたもの。

 そしてそれは──自身が生きてきた時代世界において、子供に夢を与えるだけの“幻想ファンタジー”でしかないものなのだと、頑なに実在を否定され続けてきたもの。


 最早子供と呼ぶには相応しくない自分が今でもずっと焦がれているなんて口にするのも憚ってしまう程に、些か不釣り合いだと思われてしまうような──思ってしまうような──そんな陳腐で幼稚なものと化してしまっていたもの達であった。


 そんなものが、今自分の前で息づいていた。

 そんなものが、さもそこにいるのが当然であるかのように暮らしているのだ。

 自分はそれを見て余りの歓喜に打ち震え、頬を紅潮させて笑みを浮かべて見とれていた。


『凄ェ……凄ェ、凄ェ、凄ェよ…!! こんなもの、一生かかってもこの目で直に見る機会があるなんて、露程にも思ってもみなかった!! これを──お前が創ったのか!?』


 年甲斐もなくはしゃぐように、興奮交じりの爛々と輝く眼差しを下方へと向ける。

 そこにいた子供はそんな嬉々とする自分を見て、にんまりとした笑みをほんの少し照れ臭そうなはにかんだ笑顔に変えた。

 そして、心から嬉しそうにこう口にするのだった。




『そうだよ! 何てったって、ぼくはこの世界の──“神様”なんだから!』






 *****






 ぱちり。

 うとうとと微睡んでいた目が眠気を振り払って開かれる。


 一体いつ振りなのだろう、悪夢以外の夢を見るなんて。

 嘗ての記憶を想起させるその夢は、甘えた寝惚け眼を気付けするには十分なものであった。


「クソッ………寝てる、場合かッ………!」


 机につく掌にぐぐぃっと力を込めて、だらけてしまいそうな身体に叱咤し頭を起こす。

 気を抜けばぼんやりとしてしまいそうな頭を無理矢理にでも覚醒させるべくぐしゃりと頭を掻き髪を乱してでも、構わず向かうは本の面前。

 それから伸ばした手は卓上へ。

 端に転がる筆を取り上げ、しかと握り締めたのだった。




 カツカツ、カリカリカリ………。




 静かな部屋に、強かに筆が走る音が響き始める。

 真っ更な白い紙の上を、インクが黒に塗り潰していく。


 踊るように軽やかに、駆けるように絶え間無く。

 只ひたすらに紙に書き綴るは、自分が脳裏にて垣間見た今を生きる誰かの物語。

 それを無我夢中にて紙に納めていくのは、届けたい誰かがいる為にこそ文字にしたためていく物語。


 自分にとって、走り続ける理由はそれだけだった。

 自分にとって、走り続ける為の理由はそれだけで十分だった。

 だから、こうして今も筆を取るのだ。

 何度も、何度も、幾千、幾万もの文字を書き綴り続けながら、あの日、あの時、あの頃に見てきた素晴らしい世界とその光景を、この一冊の本に宿していかんが為に。




 ──もう良いよ、こんな世界。

 ──どうせ最後にはまた最悪な結末バッドエンドで終わるんだ。

 ──何度やり直したって同じことの繰り返し。

 ──始めは良くてもこれから何度も散々な目に遭って、最後には見るに堪えない結末が訪れるだけ。

 ──……そんなもの、もう観たくない。




 いつか自分が耳にした誰かの声。




 ──だからね、もう一層のこと“全て”を消してしまってやり直そうって決めたんだ。

 ──ココにあるものは全部キレイになるまで棄ててしまって、白紙に戻ったらもう一度一から創り直すの。

 ──それで今度は同じ失敗をしないように、ぼくに逆らうことのないように自由なんて取り上げて、全てぼくが望んだ通りに動くようにするんだ。

 ──そしたらきっと、全てがうまくいくハズ。

 ──皆が仲良く出来て、争いもない、そんな世界になってくれるハズなんだ。

 ──……ね、きみもそう思うでしょう?




 それは全てを放棄し、全てを無に帰そうと、自身が今まで培ってきたものを諦めてしまおうとする……そんな声だった。


 こんなにも素晴らしい“生きた”景色を、無かった事にしようとしていたのだ。

 こんなにも素晴らしい“自由な”世界を、創った本人が“失敗作”だと罵ったのだ。

 自分には、それが心底信じられなかった。

 許せなかったのだ。




 ──だったら、そのお前が棄てようとしているモン、要らねェってンなら俺にくれるってのは……どうだ?




 あの素晴らしい世界を卑下する言葉が許せなかったからこそ、あの時の自分はそんな世迷い言を口走ってしまったのだ。

 それがまさかあんな長い旅の始まりになるだなんて、あの頃の自分は思いもよらなかった。




 カッカッ──カッ!




 紙を走る筆がステップを踏むようなリズムを奏でてピタリと止まる。

 満足気に鼻先を通っていく細く長く出す吐息。

 見下ろした先には嘗て自分と共にあの世界を駆け回った仲間達の、あの日終わらせた物語から続いた愉快に劇的に繰り広げられる“後日談アナザーストーリー”。


 今ではもうそこに自分はいない。

 けれども、代わりにその空いた席にいるのは──。




「これでもう、お前も寂しくないだろう? なァ──“神様”。」




 ずっと、ずっと、この世界が生まれてくるよりも前から、外側から彼らを見守っていた“誰か”がいたのを自分は知っていた。

 それは他者の目に見せる姿はなく、他者と交わす声もなく、只ひたすらに“不干渉関わらず”を貫きながら世界の平穏無事を願う者だった。


 何せ、それには膨大な力を宿していたのだ。

 それは創造主たる絶対の権限を持ち合わせていた。

 故にこそ、人前に出ようものなら世界のバランスを崩しかねない、小さな身体に不釣り合いな重責を抱えた者でもあった。


 それが“こうだ”と思ったならば、世界は正しくそれに添って変貌していくだろう。

 それが“違う”と思ったならば、世界は正しくそれ否定し打ち下すだろう。


 だからこそ、その存在が地に降り立つと言う事は余りにも重大且つとても危うい事象であったのだ。

 本人が望もうと望むまいと、この世界程度思考一つで幾らでも作り変える事の出来る、唯一無二の破格の存在であったのだから。




 故にこそなのだろう。

 それはこの世界が生まれてからずっと──ひとりぼっちだった。




 ──助けて…。




 周りには誰もいない。

 頼れる誰かもいない。

 話せる相手も、触れ合える相手も、全てを拒絶してきたそれには自らの手に残されているものなんて最早限られているも同然だった。


 自身に残っているものは、世界を鏡写す一冊の本。

 それから、嘗て自身が手ずから組み上げ創ったカスタマイズした──“何か”を模した一つの星が収められた宝箱。

 それらは何処を探したって他の何処にだってない、自らの理想を形にした只一つの掌の上の小さな楽園。

 いつか焦がれた、夢の名残。




 ──……誰か、助けてよう……!




 その楽園は本の中と結び付いた、物語の中にこそ実在する世界だった。

 なのにいつからかその物語達は、残酷に、残虐に、中身から腐り崩れていくように自壊するようになっていってしまった。

 それを只の観測者読者に過ぎなかったそれは幾ら万能の力を持っていても所詮無力でしかない事を、そこで初めて思い知ったのだ。


 幾ら世界一つどうとでも出来る力を持てども、それは所詮諸刃の剣。

 理由も過程も全てを無視して無理矢理世界を改変してしまう、強大な力はあらゆる矛盾をも生み出してしまう。

 軈てその矛盾を無視したままに、全てを無理矢理こじつけていってしまうのだ。


 そうして矛盾を残してでも無理矢理解決しようものならば、いずれ何処かに綻びが現れるだろう。

 一時はそれでどうにかなったとしても、今度はそれが全てを崩壊させていく原因となっていくに違いない。


 故にこそ、万能と呼ばれる神の行き過ぎた力は使い処を間違えればいよいよ台無しにしてしまいかねない……そんなものでもあったのだ。




 だから、幾ら世界が、そこに存在する人々が破滅の運命を辿ろうとも、万能の神には手出しする事が出来なかった。

 叶わなかったのだ。

 力を持ち過ぎるが故に、その神は無力でしかなかったのだから。




 ──誰でも良い、何でも良いから……誰か助けてよぉっ……!




 見ているしか出来なかった。

 納得のいかない結末でも、指を咥えて堪え忍ぶしかなかった。

 もしかしたら他にも方法はあったのかもしれない。

 万能の力を上手く使えば、どうにか崩壊を免れて世界を現存させることが出来たかもしれない。


 けれども、幼くて孤独な神は一柱ひとりで考えるしかなかった。

 上手く力を使う方法なんて教えてくれるものはおらず、相談出来る相手とて誰もいない。

 かと言って無闇矢鱈に力を使うのはやはり恐ろしくて、どんなに考え巡らせたって未熟な頭ではそれくらいの解決策しか思い浮かばない。

 だからこそ万能の神は世界に踏み込む事も出来ないままで、孤独で在り続ける他なかったのだった。




 そんな中で唯一白羽の矢が立ったのは、他でもない──“自分”だった。




『──お兄ちゃん。』




 嘗て生まれ育った故郷とも言える、此処とはずっとかけ離れた世界で命を落とした自分。

 それをこの広大な宇宙の中で見付け出して拾い上げてくれた“誰か”が、親しみを込めてそう呼んでくれていた。




『ねぇお兄ちゃん、ぼくと“約束”して。この先何があっても、始めてしまったゲームは終わらない。それはきみが完遂クリアするまで、或いは世界が正しく終わるその時まで……いつかきみが根を上げようったって、途中で降りるなんてことはきっと出来ない。』




 ……そう、自分は拾われた・・・・のだ。

 あの無限の白に染まる、虚無の中で。




『でもね、それでもどうか諦めないで進み続けて欲しい。いずれ来るかもしれない最悪の“もしも未来”に屈しないで欲しいんだ。確かに時間は限られているけれども、出来ることだって限られているけれども、万能のぼくには出来ないことを凡庸なきみならばきっと、何か新しい道を拓くことが出来るハズだから……。』




 あの日、あの時、あの瞬間。

 終わった筈の自分の人生が、時間が、再び進み始めた時の事は今でもずっと覚えている。

 白いそらの中で永久の眠りに浸り揺蕩う自分の手を、握り締めてくれた“誰か”の事を、どんなに時が経とうとも自分だけはずっと忘れない。




『だから………だからね、最後には必ず無事にぼくの元に帰ってきてね。それから………そう、沢山お話しをしよう。きみが歩み続けた旅の中で、どんなことがあったのか。どんな人がいて、どんな結末を迎えたのか。いっぱい話を聞かせてよ。もちろん、それは本の中の物語じゃなくて“想い出話”として、お兄ちゃんの口から直接……ね?』




 人として成熟し、人として人生を終え、後はもう消え失せるだけしかなかった者。

 神として外側から世界を見守り続け、誰とも関わり合う事のないまま永遠の時間を過ごすしかなかった者。

 その二つの出逢いが、互いの運命をこうも劇的に変えてしまったのだから。




『……約束、してくれるよね? 神様でも何でもなくて只の“人間”でしかない、異世界から来たきみ。子供のままのぼくと違って、成長して大きくなった──“大人if”のぼく。』




 ……あれは最初の別れ際の事だったか。

 思い起こせば今でもはっきりと目に浮かぶ、旅立つ自分を見送ろうとする幼い頃の自分と同じ“誰か”の姿。


 初めて目にしたその時にだって酷く驚愕した程に、その姿は何処からどう見たって昔の自分だった。

 しかし出逢ったそれは記憶の中の嘗ての自分とは余りにもかけ離れた性格で、尚且つ、人知及ばぬ人ならずの存在でもあった。


 それだけではない。

 人ならずの存在である上に、決して善なるものでもなかったのだ。




 一世界を手中に収める支配者であるが故に、傲慢であり。

 万能であるからこそ自らが望めば何だって手に入るが故に、強欲であり。

 支配者であり万能であるからこそ、常に己が中心。

 自らの目的の為ならば、他者の事など省みない。


 それを横暴だ、非道だと、非難の言葉で言い表すのは簡単だ。

 だがしかし、それは考えようによっては仕方のない事だとも言えよう。

 人が地べたを這ってせかせかと生きる小さな蟻の気持ちなど理解出来ないのと同様に、高次元に位置する神が高が矮小なる人の気持ちなど到底理解出来る筈がないのだから。


 それは、そんな存在だったのだ。

 しかし同時に、あの素晴らしい世界を心から慈しみ、庇護しようとそれなりに奮闘する程度には、確かに慈悲をも兼ね備えた存在でもあった。

 ……いつからか、掌の上のどうしようもない現状に打ちのめされ、諦めに心が折れてしまうまでは。


 「だからこそ」と言うべきなのだろうか?

 そんな“誰か”の事を、自分は「助けてやりたい」、「手を貸したい」と心から強く思ってしまったのだ。




『──おう、その“約束”受けて立つとも。時間はかかっちまうかもしれねェけどよ、俺は必ず此処へ戻ってくる。そしたらお前がいよいよ聞き飽きちまうくらい、目一杯語り尽くしてやっから。』




 そう言って、その小さな頭を撫でるフリ・・をする嘗ての自分。

 あの白い虚無の中この手を取ってくれたその存在には、いつしかこの手も届かなくなってしまっていた。


 それもそうだろう。

 相手は“神”で、自分は“人間”。

 住む次元世界が違い過ぎるのだから、届かなくて当然だった。


 初めて出逢ったあの瞬間だけが特別だったのだ。

 只単に“同一人物”であるが為に、最も遠い存在を最も身近な存在へと変じさせていた。

 互いにそう思い込む事で、辛うじて果てしなく遠い距離を無視する事が出来ていたのだった。

 しかしそれを穿ったその瞬間から、唯一自分とそれが持っていた“特別な繋がり”は絶たれてしまっていた。

 姿は見えても手が届かない、互いに近しくも遠い存在となっていた。


 そうして旅立つ自分を見送ろうとするあの時の、幼い頃の自分の姿。

 それが尊大で我が儘な神様だと思うには、余りにも“らしく”なかった。

 寂しげで、悲しげで、それでも笑みを作って気丈に振る舞おうとするその様に、自分はどうしても無視出来なかった。


 その姿が嘗ての自分と重なったのだ。

 “両親”を失う前の……不器用で我が儘の一つも溢せなかった、両親を失う前の幼い頃の自分に。


 故に、「だからこそ」なのだろう。




『だから今は待ってろ。いつかその内、万能の神のお前に飛びっきり最ッ高の“大敗北ハッピーエンド”をくれてやる!』





 いつからか滅亡と逆行を何度と繰り返すようになり、正しく“結末終わり”を迎えられなくしまった本の中の世界。

 そこで自らが啖呵切って始まったのは、終わらない物語を等しく“結末終わり”に導く為の、一人の人間と一柱の神の一本勝負。


 勝てば世界征服、負ければ自己共々世界消失。

 そんな命懸けのゲーム開始のその間際、人間自分の口を衝いたのは対立者に向けた勝利宣言。


 それは無謀極まりないゲームに挑む自分を奮い立たせる為の言葉。

 そして、敵対しているにも関わらず自分を見上げて泣きそうな顔をしている相手に「大丈夫だ、心配すんな」と安心させる為の激励。


 その時最後に見たのは少年の笑顔。

 涙混じりの笑みを浮かべて「いってらっしゃい」と手を振る姿だった。




 ………あれからもう何十年と経った。

 嘗て自分が駆け回ったあの世界は今や、何の諍いや異常も無くなった。

 平穏無事な毎日が続き、一つの星に多くの命が暮らしている。

 各々がそれぞれ思うがままに、様々な運命を辿りながら……。


 正に平和そのものだ。

 そんな彼らはきっと、まさか百年にも満たない過去の時代に世界滅亡の危機があっただなんて誰も思いもしないだろう。

 時代変革の真っ只中にいた観客達とて、大方老衰などで疾うに世を去っている頃なのだから。




 そんな時代に一人の少年が地に生まれ堕ちたのだ。

 人の身に有り余る可能性を秘めた、出自が稀有な存在として。


 その存在を知れば誰もが必死に手を伸ばす事だろう。

 何故ならそれはあらゆる願いを叶える“全知全能”。

 思い込めば思考一つでたちまちに世界を作り替えてしまう、正しく“神に等しき存在嘗ての創造主”なのだから──!




「思うがままに往くが良い。そしてお前の知らなかったものを知れ。そこには良きも悪きも様々いるが……それらは皆、誰かや何かを思っての事。この世界を創り上げたお前が無関心でいられなかったのと同じ様に、息づく者達もまたお前に似て、誰もが誰かを想い繋がっている──。」


 ぴっと天差す筆の先。

 漸くこの時が来たのだと、綻ぶ顔には両端が釣り上がった薄い唇。

 そこには、ずっと待ちわびていた喜びが色濃く浮き出ていた。


「──故にこそお前もまた、誰かと出逢い、対話し、そして相手を知ると良い! そうすればきっとまた、お前もまたこの世界がどんな景色をしているのか理解出来るようになる日が来るだろう!」


 一人言葉を紡ぐその胸には、嬉々として走り出す鼓動の響きが弾む。

 それはいずれ来る楽しみに胸を踊らせてしまう、身体はどれだけ成長しようとも衰えを知らぬ幼心。

 どんなに長く時を重ねてきても、自分の内側にあるそれがずっと自分に筆を持たせ走らせ続けていた。


 それが生き続けてきたからこそ、“結末終わり”を迎えた筈の夢はまだ終わらないのだ。

 何故なら終わった先にはまた、次の新たな物語が生まれてくる。

 だから、それを見届けるまでは止まってなんかいられない。


「その果てに、再び相まみえた時には共に話そう。どんなものに出逢い、どんな景色を見聞きしたのか、互いに気が済むまで思う存分語り合おう……日が沈み、夜が明けても語り尽くそう。」


 そして、本に囲まれた部屋の主は言う。

 自分の次に旅立っていく あの“少年”、嘗て“神”であったものの成れ果てに向けて。




「だから、今度こそ前を向いて歩み続けるが良い。目を逸らさずに向き合うと良い。お前が創り上げたこの世界は、こんなにも──素晴らしいものに満ち溢れているのだから!」




 故にこそ、こうして自分は再び筆を鳴らすのだ。

 全てを知った今だからこそ言える事を伝える為に。


 数奇な運命を辿った“if”の自分が創ったこの世界はきっと、紛れもない“愛”で出来ているのだ──と。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る