-11 扉の向こうは不思議な世界?

 彼女は言った。


『……あそこにおちたら、もう、もどれなくなる。じぶんがなにかもわすれて、じぶんがどんなものかすらわからなくなって、かたちまでもがさだまらなくなっていく。なにもかもかとけて、こわれていく。そうなったら、もう、たすからない。』


 だから、ぜったいにわたしからはなれないで。

 ネコさんはそうぼくに釘を刺すと、その大穴の縁に沿って悠々と宙を漂い進んでいった。

 どうやら、あの危険そうな大穴の上を越えていくワケではないようだ。


 彼女が長く細い身体をくねらせながら漂っていく中、その背中に跨がっていたぼくは何となくにその大穴を見下ろした。

 そこに何がいるのかすらわからない黒塗りの空間は、見ているだけで背筋にぞわぞわとしたものが走る。

 黒以外何も見えてこないと言うのに、じっと見詰めているとあそこから何かが急に出てくるのではないだろうか?

 ……なんて、嫌な想像がつい脳裏に浮かんでしまう。

 思わずぶるりと身体が震えた。


 やがて余りにも気味が悪く感じてしまうものだから、遂には今直ぐにでも目を背けたくなってきた。

 だけど……どうしてだろう?

 何故だかぼくの目はその大穴から視線を逸らすことが出来なくなっていた。


 嫌な感じがする……。


 得も言われぬ妙な心地を胸に抱きながら、そんなことを考える。

 一瞬だけではあるのだが、ぼくはあの大穴の縁から何かざわざわと蠢くものを見た気がした。

 それが何なのかは遠すぎてわからなかったのだけれども……それが気になって、気になって、何なのか知りたくなってしまい、つい視線が釘付けになってしまう。

 しかしながらその裏腹で、ぼくはあの大穴から何か不吉なものもひしひしと感じ取ってもいた。

 だからぼくはつい気を引かれてしまいそうになる大穴へは決して目を向けないようにしながら、その周りの白と黒の境界線からこちら側──白の果てから視線を動かさないよう、必死に見詰めていたのであった。


 その時だった。

 ふと、ぼくはその大穴の傍に何かがあることに気が付いた。


「………ねぇネコさん。あれ、何?」


 ネコさんが向かっていくその先にて見付けたものに、ぼくは指差して声をかける。

 するとネコさんはその場で緩やかに停止した。

 まだまだ遠くてあまり良くは見えないのだけれども、ぼくの指差した先を確認するや否や、彼女はちゃぷちゃぷと跳ねる水のような鳴き声をあげたのだった。


『あそこが、あなたのもくてきち。あなたがむかうべきばしょ。』


 鈴の音が響き、ぼくの頭にそんな言葉が伝わってくる。

 彼女は再び身体をくねらせ泳いでいくと、段々近付いてきたそれが何なのか、次第にぼくにもわかるようになっていった。

 

 真っ白な空間の中、真っ黒な空間を背にして妙な場所にポツンと佇んでいたのは、何てことない、一つの“扉”だった。

 しかし、それはとても妙なものだ。

 周りに壁はない、建物もない。

 ただ扉一つだけがそこにあるだけ。

 そしてそれは、頑丈そうな黒金で作られているようだった。


「あれが、ぼくが目指していた場所……?」


 随分と見えるようにはなっていても、まだ上空から小さく見えるだけのそれを見下ろしていたぼくは思わず困惑を口にする。

 するとネコさんが「くぷるるるっ」と小さく頭を振るいながら鳴いて、それからこう言った。


『あのとびら、そのむこう。かぎをもつあなたなら、いける。』


 そして彼女はかぱりと大きく口を開いた。


『いこう。ここは、ながいするのはよくない、から。』


 鈴の音がそうぼくに伝えると、彼女が開いていたその口からごぽぽっと泡の群れが吐き出された。

 それは寒空に吐いて白くなった息の如く、上へと昇っていった。

 かと思えば、それはやがて周りの白に溶け込んで消えていく。


 ついそれを目で追ってしまうぼく。

 ぼんやりと頭上を見上げていたら、くんっと身体が引っ張られる感覚を覚えた。


「──え?」


 ひくり、思わず口の端が引き吊っていく。

 嫌な予感を感じ取ったと同時に、彼女の身体がぐりんと身体をくねらせた。

 勿論、それは方向転換する為の動作である。

 彼女は目的地に向けて身体の向きを変えると、頭を垂れた先──下に向かって駆けていくのだった。


「───ッッ!?!?」


 恐怖、再び。

 涙目となったぼくは突然の降下と恐ろしいばかりの浮遊感に絶叫を上げた……いや、あげられなかった。

 殆んど不意打ちに等しい形で、それもものスんゴいスピードで下っているものだから、声を出そうにも出せれなかったのだ。

 ぼくは余りの怖さに気が遠くなっていくのを感じた。


『あとすこし………もうちょっと………。』


 独り言なのだろうか?

 ぼくの耳が、聞こえるかどうかと言った程度の小さな鈴の音を拾う。

 その声音もやっぱり抑揚はないのだけれども、ぼくにはそれがどこか緊迫したものに聞こえた。


 どうしたのだろう?


 いつものぼくなら、そんな疑問を脳裏に浮かべるだろう。

 しかし、只今絶賛急降下中のぼくには周りを気にするだけの余裕なんて、これっぽっちもないのであった。


 そして、次の瞬間──。


「きる、るるるっ……!」


 苦し気な声を上げてネコさんの身体がガクンッと跳ねた。


「──へ?」


 途端、ぽーんと投げ出されるぼくの身体。

 宙を舞ってくるりと一回転していく。


「うわああああっ!!?」


 一体何事か。

 空中でバタバタと手足をばたつかせながらぼくはパニックになって悲鳴を上げた。

 それから………ぽてっぽてんっと地べたを二度跳ねて、不時着。

 「あいてっ」と間の抜けた悲鳴を溢しながら、ころころんと転がっていくのだった。


「いっ、たたた……し、死ぬかと思った……!」


 思いの外、地面に墜落したその衝撃はそんなになく、少々痛む部位とて擦れば何とか誤魔化せる程度のものだった。

 触った感じもどうやら骨が折れたりはしていないらしく、大事に至らなかったようだ。

 それを知ってぼくはほっとした……のだが。


「……そうだ! ネコさん、ネコさんは……!?」


 途端、ハッとしたぼくは直ぐ様ネコさんの姿を探し出す。

 地面に落ちるその間際、ネコさんの苦しそうな声を聞いたのだ。

 何か、不測の事態でもあったのかもしれない。

 ぼくは慌てて右へ、左へ、それから後ろへと見渡していく。

 すると少し離れた場所で、真っ白な床をぺしょりと黒く塗り潰すものを見付けた。


 ネコさんだ。


「ネコさん! ネコさん、大丈夫!?」


 すかさずぼくはネコさんの元へ駆け寄った。

 それからその真っ黒なものを椀の形にした手で掬い上げる

 すると、でろりと融けたその流体の身体は床に一滴と残さず掌の中に収まっていった。


「ネコさん、ちっちゃくなっちゃってる……。」


 掌の中の黒い液状を見下ろして、ぼくは呆然としそう呟いた。

 初めて出会った時に比べ、ネコさんの身体はとてもとても小さくなってしまっていた。

 今思えば、これまでの道中でも進めば進む程に徐々に徐々にと小さく萎んでいっていたかのような気がする。

 ネコさんの姿は初めて出会った時には見上げる程に大きかったと言うのに、一体どうして……?


 極めつけはあのお魚の姿だ。

 確かに、長く延びた身体はとても大きく感じていたのだけれども、それはぼくが大きなお魚を見たことがないからだ。

 ぼくが跨がったところで簡単に爪先を触れ合わせることが出来たり、腕を回せば容易く指を絡めることの出来る程度の細さでは、背に人を乗せようったってぼく程度の子供を一人乗せるだけですら、きっと精一杯だったことだろう。


 今更になってそれに気が付いたぼくは、掌の中の小さく憐れな姿になってしまったネコさんを見て悔しくなり、唇を噛んだ。


「ごめんね、ネコさん。ぼく、ネコさんを頼りすぎちゃったんだね。」


 そう言うと、その黒い流体がぷるりと震えた。


「ぴるるる……。」


 か細く、痛ましい鳴き声が掌の中から聞こえてくる。

 鳴き声に合わせて柔らかな身体がプルプルと揺れている。

 それがぼくには何となくに首を左右に振っているような気がした。

 りん、と小さな鈴の音が鳴る。


『ダいジょブ。シボんダ、ダけ。』


 いつにも増してぎこちない口調となったネコさんは言う。

 大丈夫かと訊ねても『ダイジョブ。ダイジョブ。』と返すばかり。

 どうも、本当に怪我や不調があったワケでもないらしい。

 それを聞いたぼくは一先ず安心し胸を撫で下ろした。


『そレヨリ、ハヤく。トビラ、いッテ。ハヤく。』


 彼女はそう言うと、液状となった身体の表面からにょきりと小さな腕を生やし、ちょいちょいっと扉を指した。

 それからも頻りに『ハヤク。ハヤク。』と急かしてくるものだから、ぼくはのっしりとしゃがみこんでいた身体を起こし、扉の方へと向かうことにするのだった。


「……何だか、変わった扉だな……?」


 遂にその扉を目の前にしたぼくはそんなことを呟いた。


 木材は一切使われずに、一枚の黒金で出来ているらしいその扉。

 それはネジの頭の一つすら見掛けない、やけに質素な造りで出来たのっぺりとしたものだった。

 凹凸はなく、錆びもない。

 精々あるのは銀色のドアノブと、中心やや上部にちょこんとある謎の穴……と言うより、あれは窓なのだろうか?

 覗き込めたなら中の様子を伺うことの出来そうな、ほんの小さな窓がある程度。


 それを覗き込むことが出来たならば、扉を開ける前に中の様子を見ることが出来たことだろう。

 しかし、ぼくの身長ではあの高い位置にある小さな窓を覗き込むのは困難だ。

 なのでぼくはそんな扉の前にて立ち止まると、でろりと融けて液状の身体が落ちてしまいそうになりながらも尚ぼくにしがみついているネコさんを片手で抱え直したのち、意を決して手をドアノブに触れさせてみたのであった。


 カチャリ。


 硬質かつ軽い音を立ててドアノブが回る。

 どうやら鍵は掛かっていないようだ。

 しかし、押してみたところ……開かない。

 ならば逆かとドアノブを引いてみれば……どう言うことだろうか?

 どうも鉄らしきもので出来ているようなのに、引けば開いたその扉は不思議なくらいに重みを感じられなかったのだ。

 いとも容易く開けることが叶ったその鉄の扉に、ぼくは思わず面食らってしまう。

 ぼくはごくりと息を飲み込んだ。


 だが、折角ここまで辿り着けたのだ。

 今更臆病風に吹かれて引いてしまうだなんて、そんなことをするワケにはいかない。

 だからこそぼくは弱気を振り払うべく、頭をぶんぶんと左右に振って気を紛らわせた。

 それから開いた扉の向こう側へとようやく足を踏み入っていくのであった。




「────。」




 ぼくの身体がその扉の向こうへと入っていくその最中、ふと、誰かに呼ばれたような気がした。


「………?」


 ぼくは振り返ろうと首を回した。

 立ち止まって、一体誰がぼくを呼んだのか、確かめようと思ったのだ。

 でも、それは出来なかった。




 ──りん。




 鈴の音がぼくを引き止めたのだ。


『みちゃダメ。』


 途端、振り返った先に真っ暗闇が視界を覆う。

 それは、するりと掌から滑り降りた彼女がぼくを覆い被さろうと広げた身体だった。

 夜の帳が降りるように、舞台に幕を下ろすかのように、黒いものが目の前を隠していくその様に、ぼくは──。


「(あれ? この風景、何処かで見たような──?)」


 その時、ぼくは既視感を感じたような気がした。

 しかしそれがいつどこで見たものなのか思い出そうと思ったところで、ぼくの身体が扉の向こう側へと押し込まれてしまい、バランスを崩した身体はぺしょりと尻餅をついてしまうのだった。


「あいたっ!」


 腰に受けた衝撃に、思わず悲鳴をあげる。

 じんじんとした痛みが腰辺りに走る。

 ぼくはつい涙目になりつつもその痛みを感じる部位を擦ろうと身体を起こすと、向かいから扉が独りでに閉まっていく音を聞いた。




 ギィ……バタン。




 ぼくがそれを見上げた頃にはもう扉が閉まる直前だった。

 それから次に、真っ白な空間にて延々と鳴り響いていた、身体の奥深くへと響いてくるあの音楽が扉が閉まったと同時にピタリと止む。

 すると辺りはしんとした静寂に包みこまれていった。


 完全に閉じきったそれをぽかんと見詰めていると、何やら胸元がむず痒いような気がしてぼくは俯いた。

 何だろう?

 するとそこには、ぼくの胸元からだれていくように、へばり付いている小さな姿のネコさんがいた。

 ネコさんはもぞもぞと流体の身体を蠢かしており、どこか居心地の悪そうな様子であった。

 しばらくすると「ぴぃ」と小さく鳴いたかと思えば、次の瞬間、彼女はぼくが羽織っていたローブの中へと姿を隠してしまうのだった。


「ネコさん?」


 どうしたのだろう?

 ぼくは、彼女に声をかけてみる。

 しかし、応答はない。

 何度声をかけてもネコさんから返事はなかった。

 ローブの下を覗き込んでも、ネコさんの姿はどこにもなかった。


 あれれ? ネコさん、一体どこへ行ってしまったんだ?

 ぼくはネコさんを探すべく、そこでようやく周りを見渡したのだった。


「ここは……。」


 ぼくがそこで目にしたものは、思ってもみなかった光景だった。




 目の前、部屋の中心には華奢な鉄の筒で組み作られた一人分のベッド。

 部屋の端には、豪勢さはないがシンプルにしっかりとした書机。

 それらをぐるりと囲い、部屋の端を陣取っているのは小さな棚々。

 その棚の中身を埋め尽くしているのは、多種多彩何百とある本の群れだ。

 この空間でも最も数多く存在しているそれらは棚に収められるだけでは飽き足らず、机の上、ベッドの脇、それから床にまで塔を築いて積み重なられている。

 その為か、只でさえ狭い部屋をより窮屈に思わてしまう原因となってもいるようだ。


 そんな、簡単に周り全てを見渡せる程度の小さな空間だった。

 そんな、誰かのものと思わしき部屋だった。


 ぼくはそんな光景を見て驚きを隠せなかった。

 何せ、今までが異常や異端染みた空間ばかり。

 次はどんなヘンテコでおかしな世界が広がっているのだろうと、少なからず身構えていたぼく。

 なのに、それらを乗り越えてようやく辿り着いたそこは何処よりも平凡で、何よりも普通で、それから……。


「質素なのに平民の部屋っぽくない……なのに、貴族や商人にしては豪勢さがない……ここは一体、誰の……どんな人の部屋なんだろう?」


 見たことがあるもの。

 見たことのないもの。

 知っているもの。

 知らないもの。

 見たことはないが、似たようなものに心当たりがあるもの。

 既視感も何もなく、目新しいと感じるもの。


 そこは先程までに訪れてきた空間の中で、若干の不思議は確かにあれども一等変哲もない部屋。

 その部屋に飾られた目新しく感じるものはとても興味をそそられるものばかりであったのだが、何よりも気になって止まないのが自身も知っているものの方であった。


「スゴい……こんなもの、どんな職人が作ったんだろう?」


 机やベッドに使われている複雑な形状に鍛えられた鉄のパーツ。

 寸分違わず同じ色、同じ材質、同じ形状に同じ大きさに揃えられた幾つもの棚。

 それらを見て目を丸くしたぼくは思わず感嘆の声を溢す。


 その部屋にあるものは皆どれもが見たことのないデザイン……言うなれば“先進的”とも言えそうな、洗練されたものばかりだったのだ。

 一見只のベッドや棚だとしても、それらに使われているパーツや造りを見れば、その節々からは尋常ではない技術力の高さをそこはかとなく滲み出しており、別段専門的知識のないぼくの目から見てもそれがわかる程だ。


「ここまでそっくりそのまま、それも精巧に沢山作れるなんて……余程腕の良い家具職人なんだろうな。」


 部屋の壁に沿ってずらりと並ぶ本棚の一つに歩み寄り、自分の背丈よりも低いそれの天井を撫でながらぼくは呟く。

 しかも、見たところ中に収められている本とて、見たことのない装丁のものばかりである。


 艶々とした表紙には色とりどりの色彩でそれぞれ違った……それも一風変わった絵画が描かれており、絵の具で描いたにしては見たことのない色彩に興味をそそられ触れてみれば、それの手触りがなんともツルツルと滑らかで滑りの良いこと良いこと……。

 タイトルらしき文字を背表紙に書き綴られているようのだが、只の文字にしては中々凝ったデザインのも中にはあるようで、それが読めないぼくは「一体これはどんな本なのだろう?」と興味を持たざるを得なくなってしまうくらいだった。


 そうして本棚の本を興味津々に眺めていく内に、ふと、ぼくはとある棚に目を奪われた。

 それはこの部屋の中で一等その存在を主張する、とても分厚く高価そうな本が収められている棚だ。

 ぼくはその本棚に引き寄せられていくように近付いていった。


 不思議と興味をそそられてしまうその本棚は、思うにどうやらこの本の持ち主のお気に入りが収められているかのようだった。

 ぼくにはそう感じて止まなかった。

 では、何故そう思ってしまうのか?

 それは、ここの本棚だけが他の本棚と違い、本の表紙を大々的に飾っているかのように、背表紙ではなく表紙がこちらを向いて棚の中に収められていたからだ。




 青のドレスに白のエプロンを身に纏う金髪の少女と、服を着た頭に尖った二本の何かを生やした白い生き物が描かれた本。

 奇抜な色彩ででかでかと表紙いっぱいに一匹の芋虫を描いた本。

 被った少年と、青と黄色の横縞模様の身体に翼を携えた魔物らしきものが抱き合っている本。

 星空の中、まん丸なボールの上で佇む少年の本。


 他にも様々な本が並べられているが、その中でも最も存在感を放っているのが、真っ赤な装丁に2匹の蛇が尾を噛み合って円を作っている絵を、色ではなく凹凸のみで描いた、それらの本の中でも一番大きくとても分厚い本だった。




「………これ、何処かで見たことがような……?」


 それを目にしたその時だった。

 ぼくは見たことのないハズの本に、何か既視感のようなものを感じた。

 しばし見入ってからそっとそれを手に取ってみると、馴染みのある重みが手に、腕にと、ずんとのしかかってくる。

 その不思議な感覚にしぱしぱと目を瞬かせると、ぼくはその本を開くことのないまま、じいっと見下ろした。


『きに、なる?』


 ふと、りん、と小さくささやかな音がした。

 そしてぼくの羽織ったローブの襟元から、黒いものがぴょこりと顔を出したのだ。


「あ、ネコさん。そこにいたんだね。」

『いた。ずっと。』

「なぁんだ、よかったぁ。どこにも見当たらないからどっか行っちゃったのかと思ったよ。」


 ちょっぴりびっくりしてしまったのだけども、先程に何れだけ探しても見付からなかった彼女が存外身近にいたことに安堵するぼく。

 するとネコさんは「にー」と小さく鳴いたのちに、身体からにゅっと腕を一本伸ばすと本棚の本を指差してこう言った。


『ふしぎのくにのありす。はらぺこあおむし。えるまーのぼーけん。ほしのおーじさま……。』

「……もしかして、ネコさん、これが読めるの?」


 淡々つらつらと言葉を並べていく彼女に、ぼくは目を丸くしてそう言った。

 すると彼女はプルプルと黒い身体を震わすと「ぴぃ」と嬉しそうに鳴いた。

 どうやら、彼女にはそれが何かわかるらしい。

 それを知ったぼくは輝く眼差しを彼女へと向けて「スゴい!」と声を上げた。


「ネコさん、文字も読めるんだね! スゴいなぁ! ぼく、イーリシュの文字しか読めないから、尊敬しちゃうなぁ!」


 そう言うと、ネコさんはプルプルと震わす身体をよりプルプルとさせて「んぴぃ」と照れ臭そうに鳴いた。

 そして、


『これ、あのひと、の、たからもの、だから。』


 と彼女は言った。


 あの人って誰?

 ぼくは彼女にそう聞こうと口を開いた。

 しかし、その前に彼女がにゅるりと腕をこちらへと伸ばしたかと思えば、ぼくが手にしていた真っ赤な本に触れた。


『はてしないものがたり。これが、あのひと、の、いちばん。』


 りん、と響く静やかに鈴の音が耳に届くと共に、その音に乗って淡々とした抑揚のない言葉がぼくの頭に伝わってくる。

 その時に……気のせいだろうか?

 ぼくがその時に聞いた鈴の音の言葉の意味からは、最後の一言だけ、どこか不満そうに1トーン落とした声音を感じた気がした。


『あなた、ホン、すき?』


 ぼくがずっと本を眺めていたからだろうか?

 続けて彼女はそう訊ねてきた。

 伸びていた腕をしゅるしゅると流体の身体の中へと戻していきながら、目も鼻も口もない、何ならそれが頭なのかすらわからない風貌で、どうやらぼくを見上げているようだった。

 そんな彼女からの問い掛けに、ぼくはきゅっと口を閉ざした。

 そして気まずそうに口をもごつかせると、とてもとても小さな声で、視線を逸らしながらこう言った。


「本、は……うんと、苦手、かな……。」


 すると彼女は『どうして?』と問い掛けてきた。

 いよいよ罰が悪そうに顔をしかめてしまうぼく。

 遂にはヤケっぽくガリガリと後頭部を掻くと「はぁ」と大袈裟に大きな溜め息を溢した。

 それからもう一度本に視線を落とすと、仕方なく口を開くのだった。


「読めないんだ。文字は読めるんだけどね。本の中身を見ようとすると、どうしても眠くなっちゃうんだ。」

『どうして?』


 ぼくが答えれば、彼女はまたも問い掛けてくる。

 それに困ったように笑ったぼくはこう答える。


「わからないんだ。どうしてこうなっちゃったのか。…昔はそうでもなかった気がする。でも、ある時から読めなくなってしまってたんだ。」

『どうして?』

「え? ええと、切っ掛けは……何だったかな……? うーん……原因はなんだったっけ…。」

『どうして?』

「……覚えていないんだよ。随分と昔のことだった気がするし、最近のことだったような気もする。今のぼくには他の記憶だってあやふやなんだから、もっと前から忘れていることなんて、おいそれと直ぐには思い出せるワケないでしょ。」

『どうして?』

「だからっ……~~~っしつこいなぁもう!」


 度重なる問い掛けに、いよいよ我慢の限界となったぼくは声荒くそう怒鳴った。


「わからないって言ったらわからないんだよ! 思い出せないんだから! 何回も聞かないでくれ!」


 そしてぼくは苛立ち露に強く地面をダンッと踏み鳴らした。

 近くの本棚に並べてある本がその震動でカタカタと揺れる。

 幸い、本棚からそれらが落っこちてしまうことはなかったが、一部の本が棚の中でパタリ、パタリと横倒れてしまっていくの視界の端に映り込む。

 しかし、ぼくはそんなことに構っている余裕なんてなくて、俯きながら呼吸を荒くし肩を上下させた。


『…どうして?』


 そんなぼくに、彼女はまた問い掛けてくる。


 ああもう、またか!


 そのしつこい質問の繰り返しに、最早怒りと呆れがごちゃ混ぜになったぼくは目を釣り上げて、「いい加減にしろ!」と彼女へ怒鳴り付けようと口を開いた。

 ……しかし、ぼくがその言葉を吐き出す前に彼女は静やかな鈴の音を響かせたのだ。


『どうして、じぶんのこと、そんなにわからないの?』


 それを聞いたその瞬間、ぼくは思わず吐き出そうとした言葉を呑み込んでしまった。


 どくり、と心臓が強く跳ねる。

 息が止まる。

 彼女がぼくに訊ねてきたその問いは、誰よりもぼく自身が気になって止まないことだった。




 ぼくには、ぼくの知らないところが沢山ある。

 それは記憶を失うよりも以前からだ。

 もしかしたら、それよりももっとずっと前からなのかもしれない。


 やけに途切れ途切れな記憶、おぼろげな想い出。

 確かに覚えはないハズなのに、既視感ばかりがぼくの心を苛む現象さ。

 理由も切っ掛けも思い出せない、心と身体に深く染み着いた恐怖対象トラウマ


 どうして? と思うことは今までにもあった。

 何故? と聞きたくても、自分のことを代わりに誰が答えてくれるものか。

 産まれた頃からずっと一緒にいた爺やと祖父は既にいない。

 他にぼくが知る人やぼくを知る人なんて、まだいるとは到底思えない。

 だからこそ、ぼくは胸の奥底に封じ込めたのだ。

 誰かに聞きたくても、誰かに教えて欲しくとも、自分の望む答えが返ってくるとは思えないのだから。




 Q.自分は一体、何なのか──と。




「──その問い、お前の代わりに俺が答えてやろうか。」




 その時、ぼくがぼくの奥深くに秘めていたその問いに、ぼくが密やかに知りたがっていたその疑問に、そう答えてくれる“誰か”の声を聞いた。


 明々朗々、声高らかに。

 一言一句、ハキハキと。

 若々しくも男らしく、発すれば良く音の通るバリトンボイスを響かせて。


 初めて聞くハズのその声は、不思議とどこかで聞き覚えがあるように思えた。





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