-12 誰かの忘れ物。

 ぱしゃんっ。


 解けて崩れた身体が形をなくし、床のないそこに黒い水溜まりが横たわる。

 あれほどあった触手達も同じように、あっという間にドロリと溶けていく。

 やがて泥の山のようであったそれが完全なる流動体に融けきっていくと、掴もうとしたってぬちゃりと音を立てて指の合間を擦り抜けていく粘着性のある泥のようになっていき──、


「──あ。」


 さぁっと血の気が失せて青ざめていくぼくの顔。

 遂に、ぼくは唯一の支えであった彼女の手もが掴めなくなってしまった。




「うあああああーーーーっっっ!!!」




 轟く絶叫、襲い来る浮遊感。

 支えを失った身体は重力に引き摺り込まれていくかのように、ぼくを果ての底へ、奥深くへと連れ去っていく。

 助けを求めて手を伸ばした先では、ネコさんの姿がどんどん小さくなっていくのが目に映る。

 遠退いていく──いや、遠ざかっていく。

 それをただ呆然と眺めるしか出来ないぼくは、絶望と恐怖を胸に零れた涙の雫をそこに置き去りにしたまま、底なんてものがあるのかどうかすらわからないこの真っ白な空間を急降下していった。


 まるで、見えない手がぼくを地獄の底へと連れていこうとしているかのようだった。




 ぼくは、もう、ここで“終わり”なのだろうか?

 ──そう思ったその時だった。




 ぱしゃん。

 水が跳ねる音を耳にした。


 瞬いた瞳から雫が零れる。

 涙が視界を歪め良く見えなくなっているそこはやはり真っ白でしかない。

 けれども、ぼくは真っ白なその中にポツンと黒い影を見た気がした。


「(ネコ、さん?)」


 そう頭の中に彼女を思い起こすが先か、それとも後か。

 ぼくがそれを視認したその次の瞬間、ぼくの身体がぐわっと持ち上げられる感覚を覚えた。


「うわっ──!?」


 落下していく浮遊感が、途端に急に重力の重石を乗せられたかのような上へと向かう衝撃へと切り替わる。

 驚いたぼくは咄嗟に身を屈め、縮こまるように背中を丸めた。

 そしてじっとして暫く、ぼくはその重みの衝撃を耐え凌いでいたのだけれども……ふと、それが痛みも苦しみを起こしていないことに気が付く。


 ぱちり。

 ぼくは今までぎゅっと瞑っていた瞼を開いた。

 すると……これは一体、どういうことなのだろうか?

 気付かぬ間にぼくは黒い何かの上に踞っていたのだ。


「なんだ? これ……。」


 何よりも真っ先に困惑の声が零れる。

 掌をつくその黒いものの感触は、すべすべしていて滑らかだ。

 それから固くも感じる何かが表面を覆い、それが階段状に重なり合ってもいることにも気付いた。


 何だろう……鱗?


 なでなでと触って確めながらぼくは不思議そうに首を捻る。

 それは床にしては何だか、膨らみと言うか、滑らかな曲線を描いていて平坦でもなく、何ならしっとりひんやりとした感触もあった。


 びゅうびゅう。

 それを確かめている最中にも、凄まじい向かい風がぼくの前髪を浚おうと棚引かせていく。

 無理に前を向こうとすればその風が顔面にぶち当たって上手く目を開けていられない程ぁ。

 ぼくはそれでも何とか堪えながら、やっとのことで前を向く。

 そこで見たものに、ぼくは驚きに目を見開いた。




「うわあぁ……! でっかいお魚……!!」




 ぼくが身体を預けているもの、ぼくをその背に乗せているもの。

 それは頭や腹には長く伸びる鶏冠のような、背には背筋に添って生やした、波打つレースのような透かし色のヒラヒラしたもの──ヒレを後ろに向かって揺らめかせている、ほっそりとした身体を前から後ろへ長ーく伸ばした生き物。

 とてもとても大きなお魚だったのだ。

 ぼくはいつからか、そのお魚の背に跨がっていたのである。


 初めて見る大きなお魚に思わず感嘆の声を上げたぼくは、目をキラキラと輝かせてそれを観察する。

 すると、長く平べったい身体を揺すりながら風を浴びる旗のように泳ぐそれから、泡を吐くかのようなぶくぶくとした音が聞こえてきた。


「くぷぷぷ……。」


 ……鳴き声なのだろうか?

 ぼくは興味津々に前のめりになって音がした方を伺ってみる。

 まだ背中側からしかぼくはそのお魚の姿を見ていない。

 一体この子はどんなお魚なんだろう?

 そう思って身体を傾けていこうとして──、


「うわっ!?」


 バランスを崩したぼくはお魚の背中から落ちそうになった。


『あぶない。』


 りん。

 鈴の音色が聞こえたと同時に、背後から細くて長いヒレがぼくの身体に巻き付き、支える。


『しっかり、つかまってて。』


 りん、とまた聞き覚えのある音が響き、言葉の意味が脳裏に浮かぶ。


「ネコさん!」


 ぱっと表情を明るめたぼくが弾けるような声音で彼女を呼んだ。


「ネコさん! きみはネコさんなんだね! スゴい、“ネコ”ってお魚にも変身出来るんだ!? 知らなかった!」


 びゅうびゅう、ごうごう。

 耳元で風の音を唸らせながら猛スピードで前へと突き進む中、思わずと言った調子でぼくは感嘆の声を上げる。

 すると、ぼくの言葉に反応してか、長い身体が大きく縦に揺れた。

 どうやらそれは「そうだ」と肯定しているようだ。

 ついでに前からくぷくぷと鳴る水を吹く音が泡を伴い流れてくる。

 表情こそ見えないけれども、ネコさんのその様子は何処か得意気そうに思えた。

 それを見たぼくは安堵すると共に、へにゃりとした笑みを浮かべた。


「ありがとう、ネコさん。危ないところを助けてくれて。足元の変なのに気を取られちゃってて……ぼく、もうダメかと思っちゃった。」


 前のめりだった状態からヒレに抱えられ、引き戻された身体が彼女の背の上へと再び座り直させられる。

 途端、ぼくの身体は重たい荷物を漸く降ろすことが出来たかのような、解放された時の疲労感に包まれた。

 くらり、と眩暈を感じたぼくの身体がよろついていく。


「あ、あれ……? 安心したら、力が、抜け………。」


 またもや傾きそうになるぼくの身体。

 今度は倒れる前に、直ぐ傍にあったヒレがぼくの背中を支えて倒れるのを防いでくれた。


「ありがとう、また助けられちゃったね。」


 へらりと笑ってぼくは言う。

 するとあの鈴の音色がぼくへと語りかけてきた。


『“へんなの”?』


 その言葉には疑問符が含められていた。

 全身で浴びていた風がピタリと止む。

 景色は一向に変わっていないのでわかりにくいが、どうやらその場に止まったらしい。


「ん? ああ、そうそう。へんなの。」

『どんな?』

「え?」

『どこ? どんなの?』

「え、ええーっと……。」


 どうしたのだろうか?

 ネコさんは食いぎみにぼくが口にした“変なの”のことを執拗に訊ねてきた。

 ぼくは思わず顎を引き、目をぱちくりと瞬かせた。


「ううーん……それが何かはわからないんだけど、下の方にあったよ。さっきぼくが落ちていった辺り──」

『わかった。』


 ぼくがそこまで言うや否や、ネコさんは身体を捩り翻した。


 真っ黒に塗り潰された顔が一瞬横切る。

 そしてぼくが次に言葉を口にするよりも先に、ネコさんは猛スピードで来た道を駆けていったのだ。


「うわああああ!」


 お魚になったネコさんが泳ぐそのスピードは、気を抜いたら身体が持っていかれそうな程にとてつもなく速い。

 ぼくは必死になってネコさんの身体にしがみつき耐えていたのだけれども……正直、ぼくの身体を支えるネコさんのヒレがなければあっという間に後ろへと吹き飛ばされていたことだろう。


 やがて……数分くらい経ったくらいだろうか。

 物凄い速さで一直線に進んでいたネコさんがキキキーッとストップした。


『どこ?』


 次に、ネコさんは手短にぼくへとそう訊ねた。

 しかしその時ぼくはしがみつくのに必死になりすぎて、もうくたくたのヘロヘロとなっていた。

 訊ねられても「へぁい…」と間抜けた声を溢すだけで、くらくらする頭にぐるぐる回る目でふらりふらりと身体を揺らしたのちに、折角起こした身体をまたぺしょりとネコさんの背中に横たわらせてしまうのだった。


『しっかり。どこ? おしえて。』


 頭の上で星がくるくると廻っているような感覚に陥っている中、そんなことはお構い無しにネコさんが長く伸ばしたヒレを使ってペシペシとぼくの頭をはたく。

 まだ回復しきってはいないものの、催促をされてしまったのでぼくはくらつく頭を押さえながら身体を起こすと、きょろりきょろりと辺りを見渡してみた。


 止まったと言うことは、多分、ここがさっきまでいたところなのだろう。

 周りを見渡しても何もない、真っ白な空間を見詰めていたぼくはそれに気が付くと、今度は下を覗き込んだ。


「あった、あれ!」


 思った通り、それは下方にあった。

 ぼくはそれを指差してそう声を上げると、ネコさんは心得たとばかりに身体をくねらせ急降下。


 ………そう、垂直に下っていったのだ。


「あああああッ落ちるうううっっ!!!」


 落下の速度よりずっと速く、口からごぽぽっと大量の泡を吐きながら、ネコさんはそれ目掛けて駆けていく。

 同時に、ぼくの口からけたたましい絶叫が辺りに響いた。

 再びあの恐怖がぼくに襲い掛かってきたのだ。

 心臓がひゅっとするような感覚がずっと続く感覚に、悲鳴を上げる口が塞がらなくなる。


『おちない。だいじょぶ。』

「無理無理無理ムリィッッ!! これだけはホントに無理ッひぎゃああああっ助けてええっっ!!!」


 背中でぎゃいぎゃいと騒ぐぼくにネコさんは抑揚なくも自信に満ちた言葉を鈴の音に乗せる。

 けれども、殆んどパニックに近い状態のぼくは首をブンブンと横に振りながら尚も騒ぎ続けていた。




 ……まぁ、そうなってしまうのも無理もない。

 何せぼくは、浮遊感を感じてしまうととても平静ではいられなくなってしまうのだ。

 物心ついた頃にはもう、地に足が付かなくなってしまうことが──落ちていく感覚がとても苦手落下恐怖症になっていたのだから。




 その理由は……やっぱりわからないけど。




『む、あった。』


 ぎゃあぎゃあ騒ぐぼくを余所に、ふとネコさんがそう呟く。

 それから目的のもの目掛けて更に急降下を続けていったかと思えば、ある地点でパシンッと身体を方向転換。

 レの字のように跳ね上がるが如く、また上昇をし始めた。


 地獄のような浮遊感がなくなり、ぼくはようやく落ち着きを取り戻す。

 疲れたように大きく息を吐いて、それから項垂れてぐったりとするのだった。

 すると、そこへ一本のヒレがぼくの方へと近付いてきた。


『ん。』

「え、なぁに?」

『ひろった。あげる。』


 どうやらそれは何かを持っているようだ。

 何だろう? と首を傾げつつ掌を差し出すと、ヒレはぼくの掌の上にぱさりと何かを乗せた。


「………何これ、手紙?」


 彼女から差し出されたもの、それは真っ白な封筒だった。

 触れればそのさらりとした手触りから誰もが質の良さに気付くであろう滑らかな紙。

 開封されていないことの証明である手付かずの封蝋。

 その真っ赤な蝋には薔薇の紋章が刻まれている

 摘まんでみたところ、僅かな膨らみを感じることからどうやら中身が入っているようだ。

 まじまじとそれを観察し、くるりと返して反対側を見てみる。

 そこには宛名らしき文字が綴られていた。

 しかし、


「何か書いてある、のはわかるけど………これ、焦げ痕かな?」


 封筒の端にあったその文字は真っ黒に塗り潰されていた。

 顔を近付けた際にふわりと仄かに香ってくる焦げた臭い。

 それに手紙の端々に燃え掛けらしき黒と茶色のグラデーションがちらほらと残っていることから、ぼくはその黒塗りをそう感じ取った。


「焦げてるのは封筒だけで、中身は無事みたい。でも、どうしてこんなものがここに……?」

「くぷー。」


 すると、ネコさんがこぽこぽと泡立たせるような鳴き声を上げた。

 それから鈴の鳴る音を響かせると、ぼくはそれをこんな意味で受け取った。


『ここが、“そーきのたいが”だから』

 

 ぼくは手紙から彼女の方へと視線を向けた。


「そうきのたいが?」

『ん。“そーきのたいが想起の大河”。それは、ここにいきついた、おとしもの。』

「落とし物って……誰の?」


 その言葉にぼくは首を傾げる。

 彼女はこぽぽぽ……と水に息を吹きかけるような鳴き声を上げたかと思えば、前から小さな泡の群が流れてきた。

 それはぼくの横を通りすぎていくと、何てことないように後ろの方でぱちんと消えた。


『“だれか”は“だれか”。どこかのせかいで、どこかのだれかが、てばなしてしまったもの。わすれていったもの。いくあてがなくて、ここにいきついた。』


 先程と比べて少し言葉が流暢になったネコさんがぼくにそう言う。

 それを聞いてぼくは一つ瞬くと、また手紙を見下ろした。


『でも、それをあなたがみつけた。なら、あなたがいま、それをひつようとしている。』


 続けて、彼女はこうも言った。


『あるいは、それがあなたをひつようとしている。』

「手紙がぼくを? どうして?」

『あなたがみつけた、から。』


 ぼくはよくわからないと言った調子で言葉を返すと、ネコさんはキッパリとそう言いきった。


『ここには、たくさんのおとしものがある。それも、いたるところに。』


 至るところに?

 つい視線が外を向く。

 真っ白な空間がこれでもかと広がっている。

 どんなに進んだところで、その景色が変わることは一切ない。

 当然、そこには何か、些細なものですら異物らしきものが見えてくることはなかった。

 今はもう自身の手にある、この手紙を除いて。


『でも、それはだれもがきづくことのできるものじゃない。そのそんざいをみつけることができるのは、それがひつようとする“だれか”だけ。』


 彼女はそう言うと、長く伸びた身体の先端にある頭を持ち上げた。  そして、真っ黒に塗り潰されたのっぺらぼうな顔をぼくへと向けると、こう言葉を続けた。


『ここでなにかをみつける。それだけで、それはとても“とくべつ”なこと。とてもじゅうようなこと。だから、あなたはそれをだいじにしなければならない。てばなしてはならない。』

「……じゃあ、またこれを失くしてしまったり、手放してしまったら、これはどうなるの?」


 また、ここに行き着くの?

 そう訊ねようとしたぼく。

 しかし、彼女はごぼぽっ…と音を鳴らすと、少し低い鈴の音を響かせた。


『もう、にどと、あなたのてにはもどらない。このかわにふたたびきついても、だれからもきづいてもらえないまま、だれからもわすれさられてしまったまま、やがてさいはてへながれていく。』


 彼女はそう言うと頭を前方へと向けた。

 そして、遠くを見遣るように首を伸ばすと、振り返ることもないままこう言ったのだった。




『あそこに。かえらずのおおあな、そのそこ──“ぼうきゃくのたいかい忘却の大海”に。』




 そしてぼくはそれを目にするのだ。

 彼女の向く先へと視線を向けて、思わず絶句するのも否めない“それ”を初めて認識したのであった。




 “それ”は、まるで一歩先が異世界かの如くそこに存在していた。

 突如として真っ白な空間を区切り断つ異色の断崖。

 覗き込まなくともわかる、底の見えない暗黒の絶界。

 ぼくの耳に届いていたあの音楽もまた、そこを中心にして今も尚響いていた。


 大穴と呼ばれているのにも関わらず、向こう側には対岸らしきものかま視界に捉えられない程に闇が視界を黒く塗り潰す。

 その暗闇から果てが見えないことからは、恐らくその広さは絶する程なのだろうと見るものに想像たらしめた。

 そしてぼくは異質さを孕んで視界一杯に映り込んでくるその異空間に、無意識に息を呑み込んでしまうのであった。





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