-14 夢の中を往く。
*****
ふと、気が付く。
いつの間に眠っていたのだろう?
意識が浮上してくる感覚を覚えて、ぼくはパチリと目を覚ました。
目の前に広がるは真白の世界。
右も左も、上も下も、前や後ろを向いたって景色一つ変わりやしない、そんな光景が視界一杯に映る。
はて、自分は一体、どうしてここにいるのだろうか……?
思い出そうと思考を巡らせるも、どうにも頭の中が霞がかっていて何も思い浮かばなかった。
それどころか、自分の事すらもが思い出せなくなっているのだ。
どこからここに来たのかも、自分がどこにいたものなのかもわからない。
あるはずの名前だってわからなくなってしまっているくらいだ。
ぼくは一体、誰だったっけ……?
するり。
不意に、掌から何かが抜け落ちていこうとする感触を覚えた。
そこで初めて何かを持っていたことに気が付くぼく。
反応が遅れて、それはぼくの手を離れて下へと落下していった。
──ぱしん。
ぼくがそれに視線を向けるのが先か否か。
足元へと落ちていこうとするそのキラリと輝く何かを、ぼくの背後から伸びてきた“腕”がタイミング良くキャッチした。
一瞬、焦ってしまうぼく。
理由はわからずとも、落としたそれは“決して手放してはいけない”と言われていたような気がしたのだ。
それを失くしてしまいそうだったことへの危機感と、それを自分の代わりに受け止めてくれた誰かがいたことへの安心感に、思わず強張ってしまっていた肩から力が抜けていく。
「ありがとう。それ、ぼくの大事なものなんだ。拾ってくれて助かっ──。」
ぼくはその腕へと視線を向けながら感謝の言葉を口にする。
それからその相手へ、落としてしまったものを返して貰おうと手を伸ばそうとして……そこでぼくの口は止まった。
うぞり。
何かが蠢いているような這う音を響かせて、落としたそれを掴んだ“腕”がぼくの目の前まで伸びてくる。
そこでようやくその“腕”だと思っていたモノを視認したぼくは、その相手の姿を見て言葉を失ってしまった。
うねり伸びてくるのは、黒色に照る管のようなぬめらかな肢体。
渦巻く長いものの集合体。
それらは軟体動物の腕らしきものを一点に敷き詰めて、黒色の肉の塊を彷彿させる容貌から溶け出した肉体を携えていた。
うねうね、ぐねぐね。
絶えず形を変えていくその様は、今正にそれが何かの姿へと変貌しようとしているかのよう。
そしてそれは、ぼくの直ぐ傍に佇んでいたのだ。
──りん。
鈴の鳴る音が聞こえる。
それは目の前の黒色の肉塊から聞こえる音だった。
自分の喉から“ひゅっ”と息を飲む音がした。
大きく見開いた目はそれから視線を外せなくなっていた。
突如目の前に現れた不可解な存在に、ぼくの身体は次第に震えを帯びていく。
そして黒く長い腕らしき触手がより傍へと近付いてくる様に、ぼくは身体をびくりと大きく跳ねらせた。
思わず悲鳴をあげそうになる。
ぼくは身体を仰け反らせ、後ろへと下がろうとした──のだが、
「………!」
チャリ、と微かな音を立てて、その触手は掴んでいたモノをぼくの前で摘まんで見せてきたのだ。
目の前に差し出されたのは、銀色に鈍く輝く掌サイズの“鍵”だった。
触手はその頭にある輪っかに先端を通し、ぼくの目の前へと近付けてくる。
その様子からは、どう考えたってその鍵をぼくへと渡そうとしているとしか思えないものだった。
ぼくは戸惑った。
その肉塊が何を思ってそれをぼくへと渡そうとしているのかがわからない。
もしや、ここで受け取ろうとした途端、あのよくわからない何かに襲われたりするのでは? ……なんて、嫌な想像ばかりが脳裏に浮かんで止まなかった。
ぼくの心は困惑だけでなく、恐怖の色にも染まっていた。
──り、り、りん。
差し出されたそれを受け取ろうとせず身体を震わせるぼくに、その黒く蠢く物体が再び鈴の音を響かせる。
それは明らかに無機質な音だったと言うのに、不思議と感情の揺れらしき音色を感じさせた。
そして今聞こえた音色は、何故だか物悲しそうな音を響かせていたような気がしたのである。
うねりこちらへ伸びていた触手が項垂れていく。
まるで落ち込むかのような意気消沈していく様に、恐怖で身体を縮込ませていたぼくは恐る恐るにそれの様子を伺い見る。
その時、ぼくは不思議な音を耳にしたのだった。
「に、ぁ、う……。」
それは人の声だった──いや、人の声
何人もの老若男女多伎にわたる肉声を一つに纏めたかのような奇妙な声だった。
「にぁ、う………にゃう………にぁるる………。」
肉塊が何やら妙な音を頻りに鳴いている。
ぼくにはその意味が理解出来ない。
しかし、その声を聞いたぼくは目をぱちくりさせて肉塊に不思議なものを見る目を向けるのだった。
「にゃう、にゃるるる、にー。」
「………にゃあ?」
不思議な鳴き声を上げるその物体につられて、ぼくは思わず真似をして言葉を返してしまった。
するとどうだろう。
落ち込むように項垂れていた触手が顔を上げるかのように持ち上がった。
「にゃあう、にゃるる、るるる……!」
「にゃー………にゃー?」
「にー。にゃる、にゃー。」
ぼくがその声の真似をすればする程、肉塊は嬉々として繰り返し鳴き声を響かせる。
その時に上下に揺れ動かされていた触手を見ていると、何だかそれが頷いているかのように思えてしまう。
そんな奇妙な生き物の相手をしている内にぼくは次第に恐怖心を忘れていって、意味はわからずとも不思議で奇妙な会話らしき鳴き合いっこに段々興じてしまうようになっていった。
「にゃー、にゃー。………ふ……ふふふ、ふふふふ! 何を言ってるのかさっぱりだけど、何だか楽しくなってきちゃった。……ねぇ、きみ。きみは一体だぁれ? 見たことない生き物だけど、どこからここへやって来たの?」
今やすっかり平気となったぼくはくすくすと楽しげに笑うと、不思議な生き物へとそう訊ねてみた。
だけどもその生き物はぼくの言っていることを理解していないのか、「にー」や「にゃるる……」と不可解な鳴き声を上げるばかりで会話が成り立つことはなかった。
しかしぼくは何となくにそれと会話による意志疎通は難しいだろうと、薄々ながらも気付いていた。
故にそんな回答をされたところで怪訝な顔を浮かべることはなかった。
「にー。にー。」
「ん、なぁに?」
その生き物がまた鳴き声を上げた時、ぼくはどうしてだか呼ばれたような気がしてそう返答した。
するとその生き物が再び触手の先に引っ掻けていた鍵をぼくの方へと近付けてきた。
「ああ、そう言えばきみがそれを受け止めてくれたんだっけ。ありがとう、助かったよ。これはとても大事なものだから、絶対に失くすわけにいかないんだ。」
そう言って、ぼくは今度こそそれを受け取ろうと手を伸ばす。
何の気なしににその触手へと手を伸ばしていくのだった。
ちゃらん。
触手が鍵を手放してぼくの掌の上へと転がり落ちる。
それをしっかりと受け取ったその瞬間、ぼくの脳裏に立ち込めていた霧の一部があっという間に晴れていったのだ。
ぼくはここに訪れた理由を思い出した。
ぼくは
「──そうだ、思い出した。」
無意識にぼくの口が呟く。
「ぼく、行かなきゃ。」
──“失くしたものを取り戻す為に”。
ぼくは一人言のようにそれを口にすると、再び周りをぐるりと見渡した。
自分が行くべき先は何処だろう?
意識だけは先を行かねばと気が逸ってしまうと言うのに、こうも景色が白ばかりではどこへ向かえば良いのかわからない。
やがて考えても仕方ないかと思ったぼくは、適当に選んだ方角へ歩みだそうと足を踏み出すのであった。
『──りん。』
すると、足を一歩踏み出したところで鈴の音が鳴り響いた。
その時にぼくは、その鈴の音が『ダメ』と制止の言葉の意味が込められているような気がした。
初めて、それが響かせる音に意味を感じ取った瞬間だった。
後ろから伸びてくる触手の群れがぼくの手足に絡まる。
ぼくの身体はいよいよ動けなくなってしまう。
進もうにも進めなくなってしまったぼくは首だけを振り返らせると、背を向けていたその生き物へと視線を向けた。
それはぼくの背後にぴったりと溶け出した身体を引っ付けて纏わり付いていた。
『………だめ。そっち、違う。』
鈴の音が鳴る。
ぼくの耳は鈴の音色を拾っているハズなのに、頭の中でその言葉の意味を理解出来る。
不可解な現象にぼくは疑問を感じつつも、ぼくはその生き物が“ダメ”だと制止する理由の方が気になってしまい、問い掛けてみることにした。
「違うの? でもこうも白い景色ばかりじゃ、どこに向かえば良いのかわからないんだよ。きみはわかるのかい?」
ぼくは正直に本音を口にした。
地図もない。
向かうべき先もわからない。
どこに何があるのかだってわからない。
ここへ来る前に誰かと何かを話していたような気がしたけれど、依然その“誰か”の事は思い出せない。
困ったことに、自分の名前だってまだわからないままなのである。
何もわからなければ立ち往生する他ない。
しかしそれでは何も変わらないのだから、ならば手当たり次第に向かうしかない。
そう思っての行動だったのだけれども………どうやらその生き物はぼくが進もうとすると、何やら必死な様子でぼくを引き留めてしまくのである。
『こっち。こっち。』
ぼくがその生き物に訊ねると、それはぼくの腕をくいくいっと引いて別方向へと促す。
それが指し示したのは、恐らくぼくが目を覚ました時正面であった方角だろうか。
「そっちに行けば良いの?」
『んー。』
「……わかったよ。じゃあ、きみの言う通りに向かうとしよう。他に宛に出来るものはないしね。」
ぼくはそう言うと、触手に手を引かれるがままにその方角へと足を進めた。
するとその生き物がまた「にゃるぅ、るるる……。」と色んな声が混ざった鳴き声を上げたのだった。
その声音は何だか嬉しそうだ。
ぼくは、ぼくの手を引く触手を握り締めると、少し前を緩やかな速度で這い進む不思議な生き物の後を歩き始めるのだった。
「にー。にー。にー。」
前を行く生き物が嬉しげに鳴き声を上げる。
一本の触手を掴んだ手に、一本、また一本と纏わり付いてくる触手の数が増えていく。
余程手を繋いでいるのが嬉しいらしい。
始めは恐ろしいものとしか思えなかった奇妙な生き物だったけれども、今となっては何だか人懐こい可愛げのある存在にしか思えない。
ぼくはそんな不思議な生き物の喜ぶ様を見て、微笑ましげに目を細めるのだった。
「そう言えば、きみは一体何て言う生き物なんだい? 名前とかあるの?」
ふと疑問が浮かんだぼくは何となくそれに問い掛けてみる。
「にゃー?」
「どう見ても人間じゃないし……魔物? にしては怖くないし……。」
「るるる………。」
「なぁんか、どっかで覚えがあるような気がするんだけどなぁ。何だっけ……?」
ぼくはぶつぶつと呟きながら思考する。
少ない記憶の中から手がかりを探り、あーでもない、こーでもない。
うんうん唸って頭を捻り、考えて、考えて、考えて──。
「………あ! わかった!」
ぽんっ。
ぼくは唐突にそう大きな声を上げると掌を打つ。
びくりと目の前の生き物が驚いて身体を揺らし、足を止めたのだった──その流動体に足らしきものなんてないけれど。
「にっ?」
「昔、爺やに聞いたことがあるんだ! ぼくはその生き物を見たことがないんだけど………多分、きっと、きみは“それ”なんだと思う!」
「…にぅー?」
そしてぼくはその生き物の触手の一本をそっと引き寄せる。
一瞬、それはぴゃっと震えて身を強張らせるも、直ぐに脱力してぼくの掌に擦り付いてくる。
それ以外の触手がいたたまれなさげにうねうねと蠢き、先端から丸まって身を縮込ませていくのが見えた。
何だか照れているみたいだ──その生き物の様子を見て、ぼくはそう感じた。
感情を表す顔や表情もないのに随分と感情豊かなその生き物の姿が何だか微笑ましくって、ついくすりと笑ってしまうぼく。
ただ手を握って……いや、触手がを握っただけなのに、偉く喜んでくれる様に少しばかり嬉しく感じつつ、それを空いていた手で撫でながらそのままぼくは言葉を続けることにした。
「あのね、その生き物はね、ふわふわしてるの。」
『ふわふわ?』
「うん。きみみたいに、ふわふわしてるんだ。」
そう言って撫でる手がその生き物の触り心地を確かめる。
柔らかくて、触れるとぷにっとしていて、弾力がある感じは“ふわふわ”しているかのようだ。
その生き物は擽ったそうに身を捩るも、逃げない。
寧ろ「もっともっと」とより身を寄せて甘えてくるくらいだ。
「それからね、甘え上手なんだって。きみも甘え上手だねぇ。」
引き寄せてきた身体に、ぼくはきゅっと抱き寄せた。
触った感じは何だかほんのり人肌程度に温かい。
抱き着いた瞬間、その身体がしぴぴぴぴっ…と震え出した。
かと思えば、どこに口があるのかもわからない風貌で「ぴー」と不思議な鳴き声を発し始める。
それにはちょっぴり驚いてしまうぼくだけども、どうもそれは嫌がっているわけでもないらしい。
おろおろと行き惑っていた触手が直に恐る恐る近付いてき始め、それからぼくの真似をするみたく背中へと回っていきそっと触れてきたからだ。
そしてぼくが頬擦りしたのと同じように、半溶解したみたいな身体がぼくに身を寄せてずりっ……ずりっ……と這い蠢くものだから、どうやらぼくの行動の真似をしているだけだと言う事を察して、何ともそれが堪らなく可愛らしく感じてしまって、抱き締める腕に少しだけ力を込めた。
「ぴー。」
少し切なげに鳴いたその声からは何とも幸せそうな、仔鳥が親に甘える時みたいな、そんな雰囲気を感じて止まない。
「にゃあう、にゃるるる……。」
その生き物がまた言葉にも満たない鳴き声を発した。
それからうねる触手が数本伸ばされ、それがぼくへと近付いてくる。
するとその内のまた数本が首元へと緩く巻き付いてきたかと思えば、残りの一本がぼくの頭上へ凭れ掛かるように乗せられた。
ぼくの頭の上に乗っかった触手の先端がくしゅくしゅと髪を掻き分け始めたのだった。
しばらくそれが何をしようとしているのかわからなかったぼく。
けれども、少々間を置いてぼくはハッとする。
多分だけれど、それはぼくの頭を撫でてくれているのだ。
髪をくしゃりと掻き回しては、乱れた髪を整えようと撫で付け、またくしゃりと崩してしまってはアワアワと慌てふためく。
いつからか髪を整えようとする触手の数が増え、ボサボサになった頭をどう直そうかと試行錯誤する……そんな様子に気付いてしまい、ぼくは思わず噴き出してしまいそうになるのをぐっと堪えた。
なんて健気な子なんだろう。
ぼくはより一層、その子のことが愛おしく感じて止まなくなってしまっていた。
「……それと、その生き物はね。独特な鳴き声をするの。」
「にー?」
ぼくの言葉にその子が相槌を打ってくれる。
まるで小首を傾げるかのように触手を捻る様には、それを撫でる手が止まらなくなってしまうのは最早仕方のないことだろう。
すると「んにー」とこれまた可愛らしい鳴き声を溢してその触手がぼくの手に擦り寄ってきたものだから、顔がふにゃりと蕩けそうな程ににやけそうになってしまうのをぼくは口をきゅっと搾ると、その満たされるような幸福感を噛み締めたのだった。
「その鳴き声って言うのがね。」
「にぅー。」
「確か爺やが言うには、その生き物は“にゃー”って鳴くんだ。」
「にゃー?」
「そう、それ。ぼくは見たことがないんだけどね、爺やがそんな“ふわふわ”で、“甘え上手”で、“にゃー”って鳴く、“可愛い”生き物のことを“ネコ”って呼ぶんだって教えてくれたんだ。……ね? きみにとってもぴったり、当て嵌まっているでしょう?」
だからきっと、きみは“ネコ”って言う生き物なんだ!
そうに違いない!
そうして、人伝に聞いた情報を頼りに「この生き物の正体、見破ったり!」と自信たっぷりに断言するぼく。
すると“ネコ”と呼ばれたそれは不思議そうにぼくを見上げて──ついそう感じてしまったけど、この子の目はどこにあるんだろう?──ピンときていなさげに「うにぃ?」と疑問符混じりの鳴き声を上げては、首を傾げる代わりに触手を捻るのだった。
りん、と再び鈴の音が鳴り響く。
『………ねこ?』
「うん。」
『ねこなの?』
「そう、“ネコ”! きみは“ネコ”なんだよ、きっと。だって爺やが言ってた通りだもん!」
『そっか………ねこかー。』
「ネコ……違うの?」
『んー………んーん。あなたが、言う。なら、きっとそう。』
「じゃあネコだ! ネコなんだ! わぁあ…ぼく、ネコを見るの初めて! 話には聞いていたけど、こんな可愛いものなんだねぇ!」
『かわいー……? ねこ、かわいーの?』
「うん、可愛い!」
『……そっか………そっかー。ねこ、かわいーのかー………えへへ。』
そうしてぼくが可愛い可愛いと連呼して撫で繰り回していると、“ネコ”は嬉しそうに、照れ臭そうに、身を捩って触手を渦巻かせていく。
うごうご、うねうねとうねる様はぼくの目にはもじもじとしているかのような仕草に見えてしまうものだから、尚更可愛がってやりたくなる。
どうせなら、この子の可愛らしい姿を他の人にも見せて自慢したいくらいだ。
そう思ってぼくはふと掌の鍵を視界に入れた。
別段、それには特に意味もなく「そう言えば何か持ってたなー」くらいに思って、何となくにした行動だった。
しかし、そこで不意に“誰か”の顔がふっと脳裏に浮かび上がったのを見たような気がしたのである。
それは霞がかっていた景色から途端に晴れやかな青空が現れたかのような感覚だった。
目をぱちくりとさせていたぼくは頭をふるりと振ると、それから掌の中の鍵を見下ろした。
たった今ぼくが思い出すことが叶ったのは、この掌にある銀の鍵をぼくに渡してくれた人のことだ。
「ナイトくん……。」
無意識にその人の名が口から溢れ落ちる。
思い出したその瞬間、脳裏に浮かんだのは、最後に見たナイトくんのいつもの笑顔ではない真剣な表情をした、そして何処かちょっぴり悲しそうな顔。
そんな彼の最後に見た姿を思い起こすと、ぼくの鍵を握る手に力が籠る。
急に寂しさが思い出したかのように胸の内を占めていく。
ぼくは何だか無性に彼に会いたくなってしまった。
すると、ふと背中に触れられた感触を想起した。
彼がぼくから離れるその間際、温かな掌の温度がこの背中を押してくれたことだ。
臆病者なぼくはいつだって肝心な時にビビって臆して足踏みばかりしてしまう。
そんなぼくの背中をいつだって支えようとしてれる彼の存在は、とても大きくてありがたいものだった。
──大丈夫、オレがいるよ。
──オレがキミのコトを守ってあげるから。
そんな彼の言葉が、どれだけぼくの心の支えになったことか。
ぼくは彼が側に居てくれるだけで、何があっても大丈夫で居られる気がした。
しかし、今はナイトくんは側にいない。
離れ離れになってしまったのだ。
この先ぼくは一人でも歩み続けなくてはならないと言うのに、ホームシックのような寂寥感がぼくを襲う。
思わずこのまま足を止めて、彼の元へと引き返したくなる想いに苛まれてしまう。
だけども、折角彼に背中を押されてここまで来たのだ。
今更戻るワケにはいかない。
「(だったら早く行かなくちゃ。ここでずっともたもたしてたら、ナイトくんに心配かけさせてしまう。)」
彼ならきっと、ぼくのことをずっと、ずっと、待ってくれているハズ。
それこそ、どんなに時が経とうとも彼はきっとぼくの帰りをまってくれているだろう──そんな気すらもした。
ならば早く目的を果たして彼の元へと戻ろう。
いつまでも待たせてしまうのは、勿論ぼくとて不本意だ。
だって、ぼくのことが大好きで、ぼくのことをこれでもかと大事にしてくれている彼を、ぼくも同じように大事にしたいから。
彼はぼくの、大切で大好きな──初めて出来た唯一の“友達”なのだから。
それと彼の元へと戻ったら、その時はナイトくんにこの子のことを紹介してあげよう。
ナイトくんもこの子と仲良くなったら、二人一緒になって目一杯可愛がってあげるんだ。
ああでも、ナイトくんはネコ、好きかな?
……好きだと良いな。
友達が自分と一緒のものを好きになってくれるのは、とても嬉しいことだと思うから。
それから、この離れ離れになっている間の出来事を沢山彼と話そう。
お互いあれから何があったのか、どんな出来事があったのか。
いっぱいいっぱい話し合って、驚いたり、感心したり。
それから二人一緒に笑い合ったり……。
そんな風に彼と想い出話に耽れたら、きっと心から楽しくなれるに違いない。
そしたら彼の、いつもの無邪気な笑顔だってまた見れるようになるハズ。
ナイトくんには悲しい顔なんてさせていられない。
だって、ナイトくんと言ったらやっぱりあの屈託のない笑顔が一番なんだもの。
だから早く、彼の元へ帰れるように頑張らなくちゃ。
ぼくはそう思って、銀の鍵を持つ拳に力を込める。
そしてぼくが行くべき先を知ると言うその“ネコ”に──ううん、ネコさんに力を借りて、先に進まなくては──ぼくはそう心に決めたのだった。
ぼくを送り出してくれた、ナイトくんの為にも──!
「そうと決まれば善は急げだね。早く帰ろうったって、進まなくっちゃ何も始まらないし。……ねぇ、ネコさん。きみさえ良ければなんだけど、ぼくと一緒に来て──………あれ?」
銀の鍵を見下ろしては悶々と一人考え事に耽りに耽り、ようやく顔を上げるぼく。
この先はネコさんを頼るべきかと判断し、折角会えたのも何かの縁かと旅を共にしないか声をかけようとして……そこでぼくはピタリと言葉を止めた。
「………ネコさん?」
ぼくは恐る恐る声をかけた。
いつの間にだろう?
ネコさんは静まり返り、うねうねと天に向けてうねる触手が静かに蠢いていた。
これで色が赤やオレンジだったならば、まるで焚き火で燃え盛る炎を眺めている気分になっていたことだろう。
黒く波打つ管の群れが不穏に揺れはためく姿を見上げていたぼくに、ネコさんから“りりり……”と鈴が震えるような声が聞こえてきた。
その音からは………どうしてだろう?
腹の底から響かせているような、怒りに震える声音のようなものを感じた気がした。
『………ゆるすまじ……。』
「……えっ?」
『“ウワキ”、ゆるすまじ……!! あなたは、わたしの! 他のヤツ、の、とこ、いっちゃ
「浮気…!? え? ええっ?? 何っ……それってどういう──って、待って、何か触手がいっぱい来……うわあああっ!?」
突然憤慨し始めたネコさんが沢山の触手をぼくに向かって伸ばし、雪崩のような、津波のような、そんな黒い波にぼくの身体を呑み込んでいく。
流石のぼくも、突拍子もなくネコさんに襲われたことに心底びっくりしてしまう。
けれども………それから起きたことは、何てことない。
いっぱいある触手達で、ネコさんはぼくの身体をぎゅうぎゅうと抱き締めてきただけだったのだ。
そしてもう二度と離すものかと言わんばかりに、触手の群を纏わり付かせてきては『あなたはわたしのなのーっ』『他のコのとこ、いかないでよぅ』とぴぃぴぃ鳴き始めてしまったのである。
『やだやだ。あの
「まざりもの……? え、ええーっと……ナイトくんのこと、なのかな? ネコさん、ナイトくんは“イヌ”じゃないよ。だってナイトくんは人間で、“イヌ”は『わん』って鳴くモフモフする生き物なんでしょ?」
『やーっ。いぬ、キライ! しつこい、し、ねちねち。うざー!』
困惑するぼくの上で、乗っかったネコさんが触手を振り回してはぺちぺちと地べたを叩き抗議する。
それからネコさんは『うわき、めーっ』と訴えるばかりで、すっかりこちらの話に聞く耳を持たなくなってしまい、ワケもわからず途方に暮れてしまうぼく。
結局、その後のぼくはどうにかこうにかネコさんを落ち着かせられるまでのしばらくの間、前にも後ろにも進められずに立ち往生するハメになってしまうのであった。
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