-15 名を持たざる者の正体。
「………結局、最後まで信用されなかったな………。」
ふう、と口から溜め息一つ、疲れたように吐き零れる。
呟く声は億劫そうに、意識の途切れた
「だからお前と二人になるのは嫌だったんだ。“僕”が相手となるといつもこれだから………“ナイト”の時なら多少は物わかりも良くなるのに。」
そうぼやく“彼”。
まるで面倒なものの相手をするかのように、その声音は気怠げだった。
しかし、“彼”は知っている。
その“器”の少年がどうして自分に対し、こうも態度がコロコロと変わる理由を。
何故ならば“彼”は“彼”でなくなる時、模した“
“器”の少年が自身と同じ名を名乗る青年を前にした時、それは親愛を込めて“彼”に相対するだろう。
何せその相手は少年に取って、とても思い入れのある人物であるからだ。
親しみを持ち、敬意を払い、花が咲くような喜びと幸福に満ちた笑みを向けて“ナイト兄さん”と呼ぶ様からは好意以外感じられない程。
故にこそ、その青年に少年が牙を剥く筈がなかった。
しかし、そうでない“彼”そのものの時には、それは敵意を込めて“彼”に相対するだろう。
何せ、その相手は少年に取って“裏切り者”に他ならない物であるからだ。
それが、何を思ってか“彼”が過去に一度手に掛けかけた、少年にとって“庇護すべき人物”の傍に常日頃より侍っているのならば尚更の事。
故にこそ、その“彼”の事を少年が快く思う筈がなかった。
だからこそ少年は、“彼”の思惑が何であろうと何度も妨害を重ねるのである。
実際、その目的が自身と
それもこれも、少年が“彼”を信用が出来ないばかりに。
「(まあ………それもこれも、“自業自得”か。)」
“彼”はもう一度息を溢した。
そして再び目を開く時に現れるであろう“次の人物”に、今度はどうやってその場を凌ごうかと思考を巡らせていく。
「………どうして。」
瞼の向こう側から、聞き覚えのある声が響いてくる。
それは少年の声ではなく、少しトーンが高い程度の年若い大人の男の声だった。
「どうして、私を
すん、涙まじりの上擦った声が“彼”に問い掛けてくる。
“彼”はゆっくりと瞼を持ち上げた。
すると目の前にあった筈の幼く小さな“器”は、瞬きの内に姿を消していた。
代わりにあったのは、成熟した大きな姿の見知った人物。
長い長い鮮やかなローズブロンドに輝く髪を携えた、人ならざる者。
「
はらはら。
閉じた瞼から白糸のように流れ落ちる涙が頬を濡らす。
そしてその名を口にすると、それは長い睫毛を揺らしゆっくりと瞼を持ち上げていった。
怪しく輝く極彩色の瞳が“彼”の姿を映す。
「どうして、あの“子供”を見逃したのですか? どうして、あの“子供”を
ゴウッ!
鮮やかな色の長髪を棚引かせるそれの足元から、円を描いて凄まじい突風が吹き上がった。
暴風が周りのあらゆるものを吹き飛ばしていく。
正面からそれを浴びせられた彼もまた、腕を盾にして吹き荒れる風を耐え凌ぐ。
しかし、さして重量のない痩せた身体はその風圧に勝てる筈もなく、ざり、ざりざりっと足が地を引き摺る音を吹き荒れる風の轟音の中で微かに響かせていく。
「───っ……!」
“彼”はそれでも足に力を込め、踏ん張った。
尚も身体はずるずると押し出されていく。
暫くして、辛うじてではあるものの後退する身体が漸くピタリと止まった。
腕の盾の隙間から正面の様子を伺い覗いてみる。
すると、暴風の中心地にあるそれの頭上で、何かが煌めき輝いているのが“彼”の目に見えた。
それは、宙に浮かぶ光球だった。
四方八方へと目を焼かんばかりの光を放ち、パチパチと弾ける音が絶えず鳴り響いている。
その表面では波打つように小さな稲妻が弧を描き走り回っていた。
鬼気迫る程に眩しいばかりのその光景は、当然“彼”にとっても何処かで見た覚えのあるものだった。
「あの“依代”は何処?」
暴風と雷鳴の耳をつんざく轟音に包まれた中、不思議と良く通る声が“彼”にそう尋ねてくる。
「お前も、あれも、私の許可がない限りこの部屋からは出られない筈。それを……一体何処へ隠したのです?」
しかし、彼は何も答えない。
身動ぎ一つ、瞬き一つ見せないまま、視線を真っ直ぐにそれへと向けていた。
耳障りな騒音の中ではあの落ち着いた寝息が聞こえてこない。
………あの子は大丈夫だろうか。
腕で隠した目線で辺りを探る。
ほんの少々の焦りから額に汗が浮かぶ。
軈て動かしていった先に見た光景に、“彼”の目がとあるものの姿を見せた。
それは“彼”の目にしか映らない、本来姿を見せない筈のものだ。
案の定、極彩色の目を持つそれはまるで気が付いていない。
幸い、先程の突風でかいつの間にやらコロコロと転がっていったらしく、微弱な気配は不可視の姿のまま、比較的安全な離れた物陰の下で横たわり眠っているらしい。
“彼”は緊張感から僅かに強張っていた表情を緩め、胸の内にて安堵した。
「………答えないつもりですか。」
呆れたような吐息が聞こえたかと思えば、その次にそう呟く声が響いた。
「何故です? 何故なのですか? お前と私は同じ目的の筈……なればこそ、此処を離れられぬ身である私はお前を助力し、お前は私の手足の代わりとなる。嘗て、そう約束したではありませんか……!」
それなのに、何故?
声が問い掛けてくる。
すると、今まで何を言われても言葉を返さなかった“彼”は頭を掻いた。
心底どうでも良さげに肩を竦め、煩わしげに視線を反らし、少々の間を置いてあからさまにうんざりとしているのが明け透けな溜め息を溢す。
そしてカクンと頭を傾けると、静かに視線をそれへと向けた。
「だから……何?」
「ッ………お前は、あの御方がどうなっても構わないと言うのですか……!?」
漸く返された所で余りにも素っ気ない“彼”の返答に、それは訴えるように声を荒げた。
「あの“依代”がこの世に存在しているせいで! あの御方は身を引く羽目になったのですよ……!? あれが存在している限り、主様は戻ってこられない………いいえ、戻ってきて下さらないのです……!」
言葉を吐き出す程に徐々に激しさを増し、感情を露にしてそれはヒステリックに声を荒げ始める。
頬を流れる涙は止めどなく、顔を震う度に雫がパラパラと舞い散り輝いた。
「なればこそ、あの“依代”はあの存在は私達にとって邪魔な障害物に他ならない! だからこそ、お前はずっとあの存在を亡き者にせんと、いつ、何処で、誰の元から
「煩いな、喚くなよ。」
ぴしゃり。
涙ながらに訴え掛ける声に、容赦のない拒絶の声が叩き返される。
濡れた極彩色の瞳が大きく見開き、“彼”を見ていた。
「悪いけどさ、僕はもうアンタの協力をするのは止めにしたんだ。だから僕はアンタに従わない。やりたいなら後はもう、一人で好きにやってくれ。」
そして“彼”はヒラリと両掌を見せた。
勿論それは“降参”の意味ではなく、その役割から“降りる”の意を込めて。
戦慄く身体、震える吐息、打ちのめされんばかりの絶望感。
極彩色の瞳が信じられないとばかりに見開かれ、愕然とした。
その口からは「そんな筈は……!」「嘘ですよね……?」と微かに零れていた。
「お前だって解っている筈……! あれを野放しにすれば、周りがどうなるかくらい……!」
「それでもだよ。何があっても、僕はあの子供を殺さない。そう決めたんだ。都合の良い手足が欲しいのなら僕以外の余所をあたってくれ。」
「どうして!! どうしてなのですかッ……!? よもや、お前はあの御方よりも彼方を選ぶとでも……!?」
“彼”が口にしたその言葉に、それは火が点いたように食い掛かった。
激昂し、涙ながらに怒鳴り上げ、今にも殴り掛からんばかりに怒り昂っていく。
しかしそれは同時に藁にもすがる想いで“彼”を引き留めようとしていたのだ。
その理由は簡単。
彼らが住む世界にはもう、“あの御方”とそれが呼び慕う人物を記憶しているものはもう居ないにも等しいからだ。
同じ人物に関わりを持ち、尚且つただならぬ関係を築いた者はこの場にいる二人を残して、記憶も記録も全て抹消され、そして遥か遠くへと立ち去ってしまっているのが原因だった。
だからこそそれは、“彼”ならばこれからもきっと同志で居られる筈、“彼”ならばいつかきっと“あの御方”を引き戻してくれる筈……そう思い、そして信じて止まなかった。
………だが、それを“彼”はその為の手段を取り上げた上で放棄すると言ったのだ。
“彼”が口にしたその宣言は、それにとって反旗を翻されたも同じだった。
“彼”は、それが記憶する中で
──自分が良く知る“彼”は、そんな事をするような人物ではなかった筈なのに。
今までとて、自身の身に何があろうとも与えられた役割や職務に厳格だった彼が、一体どうして……。
そんな嘆く想いを胸に、涙に濡れる極彩色の瞳が揺れる。
落ちても落ちても浮かび上がる雫が視界を滲ませていく中、意識がこうもはっきりしているというのに……どうしてなのだろう、まるで悪夢でも見ているかのような心地を覚えてしまう。
そして、今も尚自分を真っ直ぐに見遣る“彼”のぶれのない眼差しを見たそれは、軈て諦めがついたように息を溢すのだった。
「……解りました。お前がそこまで言うのでしたら、私もそれなりの手段を取るとしましょう。」
静粛たる声がそう言葉を響かせると、俯くように極彩色の瞳が瞼に覆われた。
ごうごうと鳴り響く風の轟音はまだ止まない。
いつからか見えない拳の如く横殴りに吹き荒んでいた暴風は目に見えて回転する白い筋を伴った旋風となり、二人の髪を荒々しく巻き上げて、周りの至るものを薙ぎ倒していった。
その中心部に立つ長い髪を風に揺らめかせるそれは、頭上にて輝く光球目掛け、徐に右手を翳したのだった。
「ならば、今より我等は明確に敵対者と相成りましょう。……嘆かわしい限りですが、仕方ありません。我が悲願にとって障害でしかないお前は、今此処で、私の手で下す他ないのですから。」
そんな声を耳にしたその時、“彼”は皮膚がぴりつく感覚を覚えた。
それは周りの空気が突如質量を持ったかのような、或いは凄まじい圧を放つ気配に空気までもが震え上がったかのような、そんな感覚だった。
“彼”は咄嗟に身構えた。
今にも自分の首を狩り取らんばかりの殺気を真正面から浴び、自らの手は無意識の内に拳を作っていた。
額に一筋の汗が伝う。
緊張感が全身に走り、考えるよりも先に我が身を護らんとこの身体が動きそうになる。
しかし、それを今行動してしまうのは考えるまでもなく愚策である事など、“彼”はそこにいる誰よりも理解していた。
「(まだだ……もう少し、あと少しだけ………。)」
駆け出しそうになる足に力を込めて、何とかその場に踏み留まらせる。
握り締めた拳は力を込めすぎて皮膚が白くなりつつある。
胸の奥では心臓がばくばくと跳ね、全身の毛が逆立っていくかのように、自身に迫る危機に次第に心は逸り気は猛っていく。
「──逃げないのですね。一層の事、このまま逃げ出してくれたら良かったのに。」
頭上に伸ばした手が光球を掴む。
ぱきん、と微かな音を響かせて、掌の中から輝きを増した光が指の隙間を縫って四方八方へと飛び散っていった。
「本当に、お前が諦めてくれたらどんなに良かった事か……。私は……私は、お前を殺したくないのに──殺さなくてならないのだから。」
光を掴んだ手を胸元へと運び、それを払うように勢いを付けて腕を振るう。
すると先程まで光を手にしただけで何もなかった筈のその右手から、シュンッと光の筋が延びて長い柄が突如出現した。
黄金に輝くそれは、何処かで見た覚えのある風貌をした“槍”であった。
細く長い柄の表面を絡み付いた蔦のような模様が浮き出ており、それがぐねぐねと絡み合って柄の先端へ、捻れた矛先となって鋭利な刃を作っていた。
そしてそれは仄かに光を放っているらしく、黄金色がより際立ち、その“ニ叉の槍”の存在を主張させているのであった。
──ジジッ。
槍を目にしたその時、“彼”の脳裏で雑音が響いた。
次の瞬間、
ぐわん。
世界がぐるりと回った。
「───ッぐ、ぅ……!」
脳が揺すられているかのような心地に、微かに零れる苦悶の声。
すかさず頭を抱える手、足元が途端に覚束なくなる。
幸い少しふらついた程度で堪える事は出来たものの、“彼”は凄まじい頭痛とノイズのような耳鳴りに苛まれた。
「う゛、ぐ。」
声を噛み殺して何とか頭痛と耳鳴りを堪える。
けれども、どうやら身体は直ぐに限界を悟らせた。
遂には吐き気まで込み上げてきた。
「(……ッ馬鹿! 良いから、今は、まだ堪えていろって………!!)」
さながら頭の中で何かが暴れ狂っているかのような、もしくは騒ぎ立てられているかのような感覚を覚える。
それに誘因され喉の奥から込み上げてくるものを感じ、咄嗟に口元を押さえて堪える。
苦悶の表情を浮かべる“彼”は、声もなしにその言葉を頭の中にて思い浮かべた。
ジジッ、ジジジッと鳴り響く音はあれからずっと脳裏に響いている。
その頭の中の雑音にいよいよ眩暈と気が遠くなりそうな感覚を覚えた頃、漸く落ち着きを取り戻す事が叶ったらしく、それからは徐々に頭痛も耳鳴りも収まっていった。
ただ、静まり往く頭の中で、その虫の羽音のような雑音が止んでいく代わりに不意にざりざりとした不快音が脳裏を掠めた。
まるで苦しむ自分を見て、面白可笑しくケタケタと嗤っているかのようなノイズだった。
“彼”は催した吐き気から口の端を伝っていた唾液を拭うと、誰もいない空間に向かって忌々しげに睨み付けた。
「(くそっ……ここぞとばかりに人の身体を玩具にしやがって……。)」
後で覚えておけよ…!
“彼”は頭痛を引き起こした犯人に今直ぐにぶん殴りたい気持ちを抑えつつ、再び意識を正面へと戻していく。
そこでは異様な装飾の槍を手にしたそれが、その矛先を“彼”へと向けていた。
「もし、先程の言葉を撤回すると言うのでしたら、今ならまだ聞く耳を持てます。……どうでしょう、気が変わっては貰えませんか?」
尚もまだ未練がましいのか、刃を向けていてもそれは“彼”へとそう問い掛けてくる。
余程“彼”との対立が望ましくないのだろう。
どうにか争いを避ける道はないのかと対話を重ねてくるその言葉は、それ自身が如何に争いを好まない、温厚な性格がよく現れた発言であった。
しかし、それでも“彼”にはどうしたってその誘いには拒否する他ない理由がある。
故に如何に慈悲深く情けをかけられた所で、今がどんなに危機的状況だったとしても、“彼”はそれを受け入れる訳にはいかなかった。
「何度も言ってるけど、アンタの案には乗らないよ。良い加減諦めてくれ。」
だからこそ“彼”は今一度ハッキリと拒絶の言葉を口にしたのだ。
例えこのまま争いとなった所で、自分に勝ち目などない事を理解していたとしても。
「………左様ですか。それは残念です。」
肩を竦めたそれが溜め息まじりにそう呟く。
残念そうに呟く言葉と共に“彼”に向けていた矛先が項垂れていく。
そして下を向き掛けた極彩色の瞳は再び“彼”の姿を捉えるのだった。
「ならば御覚悟を。お前が何故そこまでしてアレを庇うのか、私には理解し難いのですがこの際仕方がありません。………あの存在が今のこの場に見えないのは気掛かりでこそありますが……それも、今の私にとっては寧ろ好都合。何故ならば、今がお前を御して我が僕に仕立て直すには絶好の機会なのですから。」
次の瞬間、“彼”は凄まじい突風をその身に受けた。
ゴウッと大きな音を立てて、それに気付いた頃には壁に勢いよく衝突したような衝撃が全身に走る。
構える間も無くぶち当たった風圧のハンマーに“彼”の身体は呆気なく後方へと弾き飛ばされた。
──ゴシャンッッ!
そして、身体は今正に壁に叩き付けられた。
その風圧は余りにも強く尋常でない勢いで“彼”へとぶつけられ、その身体がめり込んだ場所だけでなくその周り半径一メートル程の一帯までもがクレーターとなって固い壁が一瞬で凹んでいった。
「がはッ……!」
込み上げた血反吐が口から吐き出される。
びしゃりと音を立てて零れたそれは地を濡らした。
その夥しい量の血により、そこには小さな池が作られた。
壁に打ち付けられた一瞬、衝撃による痛みが全身に走る。
それだけでも十分に一気に意識が持っていかれそうな程の痛みがあったと言うのに、次の瞬間、今度は内外問わず至る所から凄まじい激痛が“彼”に襲い掛かってきた。
「ぐ………う………ッ!」
まるで痛みの大波に呑まれて溺れているかのような凄まじい苦痛だった。
“彼”は咄嗟に痛む腹部を抑えようと腕に力を入れる。
しかし、そこでもまた激痛が走り、思わず口から呻き声が零れてしまう。
どうにかぎこちなくとも頭を動かしそちらを見てみると、そこにあるべき筈の自身の右腕の袖がまるでそこに中身が入っていないかのように潰れて壁に張り付いていた。
その周りの壁は一面が真っ赤に染まり、鮮血を滴らせていた。
「(肋や背骨の骨折………肩の脱臼………内臓破裂………庇った右腕が潰れて、足も今ので折れてしまったか………。)」
痛みに顔をしかめつつも、遠退きそうになる意識を何とか手放さずに“彼”は冷静に自身の身体の状況を確認する。
激痛を感じる部位、感覚のない部位、他にも皮膚の上を血が伝う感触や動かそうと思っても動かせない四肢の状況を見てそれらの具合を一瞬の内に把握したのである。
しかし自身の身体を診る最中にも、“彼”の口の端からは絶えず真っ赤に染まった唾液が零れ落ちていく。
胸元を濡らしては下へと落ちていき、足元の血溜まりはみるみる内により大きく末広がっていった。
徐々に身体から磨り減っていく血液から朦朧とし始める意識の中、軈て重たげに持ち上げた顔からまだ光を失せていない瞳が前を向く。
そこで、今や随分と距離の離れた場所で振るい終えた槍の石突を地に着けたそれの姿を見ると、“彼”は苦々しげに眉を寄せるのだった。
吹き飛ばされるその直前、槍を持つ手が振り上げられる様を一瞬垣間見た。
以降、その挙動を視界に納める事が叶わぬまま、気付けば先程立っていた場所からずっと後ろの壁へと“彼”の身体は打ち付けられていた。
そして先程の凄まじい突風を引き起こした張本人は、自らの獲物を手に今にもトドメを刺さんと再び腕を振り上げようとしていた。
「抵抗はするだけ無駄です。今のお前と私では、比べるまでもなく力に差がありすぎる。何せお前は、あの存在の秘めたる力を借りなければ嘗ての力を取り戻す事も出来ない、今や只の“人間”なのですから。──ね、そうでしょう? “アーサー・トライデン”。」
──“アーサー・トライデン”。
その名を口にされた時、“彼”は黒曜の瞳をギトリとそれへとぶつけた。
「………その名で呼ぶなよ。そいつはもう死んだ
そう言うと、口の中に残っていた血交じりの唾液を地べたへと吐き付けた。
そして──がらん。
瓦礫が崩れ落ちる音がなると同時に、“彼”は倒れていくように貼り付けられていた壁を降りていった。
前のめりになっていく身体はそのまま地に向かって墜ちていく。
そしていつか地べたに惨めに伏せてしまうかのと思いきや、ダンッと力強く地を踏む音が空間に響いたのだ。
極彩色の目が見開く。
信じられないものを見るかの如く、それは驚愕の色を映していた。
それもその筈。
それはたった今、あり得ない光景を目にしてしまったからである。
ぱき、ぱきぱきぱき……。
いつからか風の止んだ静かな空間にて、何かが軋むような微かな音が響く。
それは何かがひび割れていく音──ではなく。
それは何かが壊れていく音──でもなく。
形の失せたものに芯を持たせ、肉を纏わせ、元あった形へと戻ろうと徐々に徐々に整形していこうとする──繊維や組織が組み立てられていく音だ。
「人間だろうが何だろうが、上等だ。力がなくたった所で、僕には他に戦う手段は幾らでもある。……いや、可能性があるなら、何だって使ってやる。死に物狂いで足掻いてやるよ。」
潰れた腕を引き下げて、折れた足を引き摺って。
尚も立ち上がらんと前を向くそれの身体は、淡くも眩い翡翠の色の輝きを放っていた。
光が放つ場所は総じて損傷を負った箇所ばかり。
しかし………。
潰れた腕があった部位は根元から脹らみを増していく。
腕らしき残骸だったものは軈て傷一つとしてない腕へ。
へしゃげた足は蠢きを見せ、ぐねりぐねりと衣服の下で肉らしきものが渦巻く。
ぐにゃりとへし折れぐねった関節なき軟体の如くであった足は、しゃんと自立を可能とする立派な足へ。
衣服や皮膚の下は目に見えなくとも、“彼”には整形されていく潰れた内臓の蠢きもよく解った。
血はまだ足りないのか、くらりとする頭のふらつきはまだあれども、それも直に治まっていった。
「変なものにばかり執着される身になってみろ。何されるか解ったもんじゃあないんだから、僕だって無策でノコノコとお前の前に現れるか。………だから嫌なんだ。“主人公”なんて立場。ホントに、良くも悪くもロクな目に遇わない。」
“彼”の身体がいよいよ五体満足と戻っていった時、その手は背後の壁へと触れた。
途端、がらがら……と瓦礫がぶつかり合う音が部屋に響き始める。
そして瓦礫が独りでに動き始めたかと思いきや、何とその欠片の一つ一つが翡翠色の光を発しながら、皆宙に浮かび始めたのである。
その光景はまるで──損傷し飛び散ったものが元あった場所へと戻っていくかのようだった。
「こちとらな──大事な可愛い“
そうして傷一つない壁の前に立った無傷の“彼”は、立てた親指を自らの首の前にて横に一線指してみせたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます