-16 遥かなる旅路への門出。

 その時だった。


 ぼくは表情の薄い黒髪の彼の顔から、極僅かな感情の揺れを見た。

 それは本当に小さな、何となくとしか言い表せない些細な変化であった。

 けれどもぼくはその瞬きの間にしか現さなかった、彼の表情がぴしりと強張る様を見た気がしたのだ。


 ぼくはその一瞬だけ見えた彼の感情の変化が何だか気になって、顔はナイトくんへと向けつつも肩を竦めて密やかに横目見上げた。

 その視線に気付いていないらしい彼はぼくに視線を向けることなく、僅かに眉間に皺を寄せながら不満と呆れをまぜこぜにしたような声を溢した。


「お前な、良くもまあそんな事を……。」

「へへーん! だって言ったでしょぉ? 役に立ってみせるって!」


 頬に額にとうっすら汗を浮かべながら苦々しい顔の彼とは相反して、ナイトくんの方はと言えば得意気で上機嫌だ。


「オレが無策でアーサーをこんなトコロに行かせるワケないじゃん! ……まぁ確かに? ちょーっぴり、想定外のコトはあったけど? だとしても、兎にも角にもこうして無事合流出来たワケなんだし~終わりよければすべてよしってもんだよ!」


 ナイトくんはそう言って「アッハッハ!」と声高らかに朗らかに笑った。

 見ている側まで清々しく思える程の、真夏の晴天の如くカラッとした良い笑顔だった。

 楽しそうで、何処か愉快そうにも思えるその笑顔には、思わずぼくまで釣られて微笑んでしまいそうなものであった。


 そう……黒髪の彼の顔を見ていなければ、の話だが。


 明朗快活としたナイトくんを前に、黒髪の彼の表情がより一層引き釣っていく。

 開いた口は塞がらないままに、そして──血色の悪い色白な顔を更に青ざめさせていきながら。


「───。」


 愕然。

 彼が浮かべるその表情は、正にその一言で言い表せるものだった。

 それはぼくにとって初めて見る、感情表現の少ない彼の目に見えて露にした感情の色だった。


 ふらける身体が一歩二歩とたたらを踏む。

 俯いた頭を支えるように、或いは痛む頭を労るように添えた手が前髪を掻きながら額を覆う。


 その余りにも今までと違う彼の様子に、思わず身構えて……と言うより、心配になってしまうぼく。

 顔が隠されてしまい今では彼の表情は見えなくなってしまったのだけれども、そこから聞こえてくる深い深い溜め息からは彼の心情が痛いくらいにこちらへと伝わってくるのであった。


 「頼むからもう、勘弁してくれ……!」──そう、微かに聞こえた小さな小さな呟きからも。




「え、ええっと……ナイトくん? 幾ら弟が相手だからって、人の物を盗むのは良くないよ。その、弟……くんはナイトくんがそれを持ってるって知らないんでしょう? 大丈夫? 大事な物なんじゃないの?」


 疲労感たっぷりに項垂れる彼から視線を逸らしたぼくは、苦笑を交えつつそう言ってナイトくんを諭す。

 何せ、普段ならば問答無用とばかりに罵倒も叱咤も好き放題口にしていた彼が、最早言葉を失うまでに意気消沈してしまっているのである。


 その気の落ち込みようは尋常ではないものだった。

 この世の終わりとでも言いそうなくらいだ。

 流石のぼくもそんな彼には見ていられず、どうにか助け船を出せないかとナイトくんへの説得を試みるのであった。


 しかしナイトくんは一切悪びれもせず、けろりとした顔でぼくにこう返した。


「知らないけどー、変なコトに使うつもりはないしだいじょーぶだいじょーぶ!」


 そして、ナイトくんは続けてこうも言ったのだ。




「だってコレ、弟の大事なモノだからね!」




 だから失くしたりしないように大事にするよ!

 ナイトくんの問題発言に思わず“ガビーン!”と衝撃を受けるぼく。


「それって尚更ダメなんじゃないの……!?」


 そう声を上げるぼくの隣からは、これまた大きな溜め息が聞こえてくるのであった。






 *****






「何がともあれ、ココを脱出するよりも先にまずはやるべきコトから潰していかなくっちゃ! あんまし“ゆーちょー”にもしてらんないしね!」


 くるりと身を翻し、何やらヤル気満々のナイトくんが言う。

 彼一人意気揚々と拳を握って突き上げているが、その背後にいるぼく達──と言うより、主に黒髪の彼の方であるが──ナイトくんの自由奔放さに最早突っ込む気力すらもう残っておらず、すっかりと疲れ果ててしまってぼくは項垂れていた。


 隣の黒髪の彼とて、最早呆れを通り越してしまって口出しするのも諦めたらしく、遠くを見詰めて沈黙していた。

 つい先程にも「先が思いやられる」と酷くか細い声でぼやいていたくらいだ、彼がその胸に抱えた心労は何も知らないぼくよりもよっぽどのものなのだろう。

 彼の滅多に感情が現れない黒い目もより一層生気を失ってしまい、今ではすっかりと据わってしまっている。


「んじゃ、アーサ……じゃなくて、“アルト”! ちょっとコッチ来て、手伝って貰って良いかい?」


 ナイトくんが振り返りながらぼくを呼ぶ。

 しかしナイトくんが口にしたのは、ぼくの名前ではないものだった。


「う、ん……わかった。」


 ぼくは頷きつつ素直に返事をする。

 しかしその口を衝いて出た声は不満げなのがあからさまなものであった。

 思わず「しまった」と口を押さえてしまうぼく。

 自分でも驚いてしまうくらい嫌そうな声が出てしまっていたことに焦ってしまい、額には冷や汗が浮かんでくる。


 ぼくは恐る恐るナイトくんへと視線を向けていった。

 故意ではなかったとは言え、露骨に嫌そうな声音で返事をしてしまったのだ。

 気を悪くしていないだろうか、なんて考えながら俯かせた顔から上目遣いにてナイトくんを見上げてみたのだが……どうやらその不安は杞憂に終わるようだ。

 ナイトくんは別段何を気にする様子もなく、ぼくと目が合うや否やにこりと微笑みかけてくれた。


 笑顔を崩さない彼の掌がぼくに向かってちょいちょいっと手招きする。

 もしかして聞こえなかったのだろうか?

 ぼくは「そうだったら良いな」と思いつつ、おずおずとナイトくんの隣へと足を進めていった。


「ごめんね、コレばっかりはオレ一人じゃあどうにもならないんだ。“アルトキミ”の手が必要なんだ。」


 直ぐ傍まで来たぼくに彼はそう言って眉を八の字に傾けた。


「キミにとっては嫌かもしれないけれど……ごめんけど、ちょっとの間だけ、今だけは我慢して欲しいな。」


 ……どうやらさっきの自分の声は、ばっちり彼に伝わっていたらしい。

 ナイトくんがそう言って申し訳なさそうにするので、ぼくは焦ってこう言った。


「い、いや! 大丈夫だからナイトくんは気にしないで! さっきのは、その…違うんだ。嫌とか、別にそう言うつもりなんじゃなくて──!」

「良いんだ。キミがそれを嫌がっていること自体、最初っからわかっていたからね。」


 ナイトくんがそう口にした時、ぼくは驚いて思わず閉口してしまった。

 普段、緊張してしまうとどもってつっかえつっかえにしか喋れなくなるぼくに対し、嫌な顔一つせず最後まで話し終えるまで待っていてくれていたナイトくんがぼくの言葉を遮ったのだ。


 その時、そこでようやくぼくは気付いた。

 向かいで彼が浮かべている表情が、いつもの気の抜けるようなニコニコとした笑顔ではなくなっていることに。

 どんな時でも陽気で朗らかであるのがナイトくんだったと言うのに──そう思っていたのに──今の彼はまるで同一人物だとは思えないくらい真剣そのものであったのだ。


「それでもね、キミにどうしても頼みたいコトがあるんだ。……キミにしか頼めないコトなんだ。オレのお願い、聞いてくれる?」


 ナイトくんの目がぼくを真っ直ぐに見詰める。

 怖いくらい真剣で、身構えてしまうほどに大真面目な様子に、ぼくはつい臆してしまいそうになる。


 彼からの“お願い”なんて、今までだって何度もされたことはある。

 でも、それでもこんなに真剣な顔をしてお願いなんてされたことは一度たりともなかった。

 そんなナイトくんの頼みと聞いて、ぼくはごくりと息を呑みつつも力強く頷いた。


 ……でも、ナイトくんのお願いって一体何だろう?


 そんなことを考えていると、真面目な顔のナイトくんがそっと手を添えるようにぼくの右手を取った。

 握手をするようにナイトくんの手に包まれたかと思えば、それがゆっくりとひっくり返される。

 そしてナイトくんは天を向いた掌をじっと見下ろした。

 少しの沈黙の後、小さく息を吐いて何かを決心したかのように一度瞬くと、瞼の奥からターコイズ金春色みたいな“碧色・・”が現れる。


 ………ん? あれ?

 ナイトくんって……こんな目をしていたっけ?


 その眼差しは掌からぼく自身へと昇っていく。

 そうして再び真っ直ぐにぼくと視線が合わさると、徐に口を開いた彼はこう言ったのであった。


「オレの弟のアルト・・・・になって欲しい。今だけで良いから、キミが“アルトリウス”であることを受け入れて欲しいんだ。」

「………はい?」


 ぱちくり、ぼくは目を瞬かせる。

 彼の言う言葉に考えが追い付かなくてぼくは固まった。


 ぼくが何を受け入れるって?

 “アルトリウス”の名前を?

 って言うか、“アルト”がナイトくんの弟……!?


 訳もわからず混乱するぼく。

 確かに、ぼくが“アルト”と黒髪の彼から呼ばれていた時に“ナイト”の彼は「自分の事は兄と呼んで」と言われていたので、ぼくは言われるがままにそう呼んでいた。

 始めはどうしてそんなことをするのか全くもって意味不明だったのだけれども、必要なことだからとしか教えて貰えず結局理由なんて今の今まで知らないままだった。

 それが今になって、今度はナイトくん自身から「弟のアルトになって」だって……!?


「(な、なんで? だってナイトくんにはその、本当の“弟のアルト”がいる……んだよね? なのに、どうしてぼくがその代わりに……?)」


 そんなことを考えていたぼくの手を握ったままだったナイトくんは、不意に重ねていた手に何かを握らせてきた。

 それをしっかりと掴むようにとナイトくんの両手はそっとぼくの指を折っていく。

 やがて僕の手に拳が作られたかと思えば、それを包み込んでいた両手はするりと離れていく。

 最後に掌の内側に何かを残して、僕の手からナイトくんの手の体温と感触は消えていくのだった。

 拳の中で何か硬くてひんやりとしたモノを感じる。


「(何だろう…?)」


 ぼくは離された手を見下ろし拳を解く。

 そして、そこにあったモノを見たぼくは、そこでまた驚くのだった。


「こ、これって、“銀の鍵”……!?」


 そこにあったのは、さっきナイトくんがぼくに対して「渡せない」と口にしたものだった。


 ぼくはバッと勢い良くナイトくんを見上げる。

 頭の中を混乱と困惑が占めていく。

 他人に渡せない程大事なものであるハズなのに、どうして今になってナイトくんが他人ぼくにそれを渡してきたのか、それがぼくには理解出来なかった。


 ぼくはそう思って不安そうに彼を見遣る。

 しかしナイトくんはそんなぼくにこくりと頷いた。

 そして今度はぼくの腕を持ち上げると、こう言うのだった。


「鍵を持って、それを宙に差し向けて。」


 ナイトくんはぼくの鍵を手にした右腕を正面へと伸ばした。

 鍵の先端が宙を向く。

 ぼくの肘に手を添えて支えたまま、ナイトくんのもう片方の手がぼくの背後へと回り込んでいく。

 すると彼はまるで弓を教授するかのような近さでぼくの傍に立った。


「動かしていくから、何か違和感があったら教えて。」


 直ぐ傍から耳打つようにナイトくんが言う。

 訳もわからず頷くぼく。

 すると彼は言葉にした通り、腕が向かって正面のところでゆっくりと円を描き始めるのだった。


「(違和感……? 違和感ってどういうことなんだろう?)」


 されるがままのぼくはそんなことを思う。

 だって今のぼくは後ろからナイトくんに腕を支えられながら、大広間から廊下に向かって鍵を持って、それをぐるぐると回しているのだ。

 端から見たら何をしているのかてんでわからない、言ってしまえば謎の行動だ。

 ぼくには彼が何をしようとしているのか、からっきしさっぱりだった。


 それでもナイトくんは依然として真剣な表情をしている。

 だから多分、これは遊びとかそんな悠長なものではないのだと思う。

 ならばぼくも彼に倣って真剣にやらねばいけない………のだけども………それにしたって、これは………。


「………おや?」


 そうして暫く宙に向かって回していると、不意に鍵の先端から“こつん”と何かに当たる感触が手に伝わってきた。

 見たところ、そこには壁も障害物もない空間だ。

 だと言うのに、不思議なことにぼくの意識は“それ以上先へは動かせない”と判断してしまったのである。

 一体どうして……?


「“あった”みたいだね。」


 ぼくがそれを変に思って首を傾げると、隣にいるナイトくんがそう囁いた。


「じゃあココから上下に動かすから、また違和感があったら教えて。」


 こくり、ナイトくんの言ったことにぼくは素直に頷いた。

 そしてナイトくんは宣言通り、ぼくの腕を下へと動かしていく。

 特に何の感触もないまま、今度は上へとスライドさせていった。

 ……丁度ぼくの顔面前と言ったところだろうか、そこで鍵がピタリと止まった。


「差し込んで。そこが鍵穴だ。」


 ナイトくんの手が離れていったかと思えば、それだけを言い残してぼくの傍から離れていった。

 彼に言われた通り、ぼくはそこへと鍵を押し込んだ。

 今度は鍵が何かの奥に当たる感触がした。

 多分、彼の言う鍵穴に上手く嵌まったのだろう。

 ならばと思い、ぼくは鍵を右に回してみる。

 ………固くて回らない。


「(じゃあ左に……。)」


 今度は鍵を左に回していく。

 ぐるん。

 鍵は容易く反時計回りに回っていった。

 すると──、




 ──ごうん。




 突然、腹の底に響くような重低音が部屋の中で鳴り響いた。

 何か重たいものを引き摺るかのような音だった。

 その音を始まりに、宙に向けた鍵の先端からは突如光が放たれ始めた。


「うわっ!?」


 眩い輝きが視界を焼き、驚いたぼくは思わず悲鳴を上げる。

 キィィィン…と甲高い音が耳鳴りのように響き出し、絶えずぼくの鼓膜を震わせてくる。

 たじろいだ足がぼくを鍵穴から遠ざからせていく。

 鍵穴から溢れ出す光は耳鳴りの音を強くさせていくと共に、その光量をどんどんと増していった。


 目の前で繰り広げられていく怪現象に、ぼくはいよいよ臆してしまう。

 今すぐにでもその場から逃げ出したくて堪らなくなって、つい鍵から手を離してしまいそうになる。

 けれども、その寸でのところで後ろからナイトくんの叫ぶ声を耳にした。


「絶対に鍵を手離さないで! この先何が起きても、キミが“アルト”であり続けてくれている限り、必ず鍵がキミを護ってくれる!」


 必死な声だった。

 つんざく耳鳴りが響く中、それでも彼の声を聞き取ったぼくはすかさず離し掛けた手にぐっと力を込めたのだった。


 本当は今すぐこの鍵をほっぽりさって逃げたくてしょうがないのが本音だ。

 しかし、他でもない友達のナイトくんがそう言うんだ。

 ならば、今は彼を信じるしかない。


 鍵はまだ半回転、まだまだ動きそうな手の感触からはもう少し回せそうだ。

 だからぼくはもっと手に力を込めていき、手首を回していくのだった。


 鍵は回る、半回転から一回転へ。

 いつしか両手がその鍵を握り締め、力一杯に回していく。

 やがて聞こえてくるのは解錠の音。

 “ガチャリ”と重硬い音が響くと共に、溢れる光は強くなってぼくの身体を包み込んでいく。


 そして視界は真白の景色へ。

 見るもの全てが無彩色の世界がぼくを包み込んで──呑み込んでいって──。




 ──プツン、と途切れた。






 *****






 すぅ、すぅ。

 ささやかな寝息が無音の空間に微かに響く。

 すや、すや。

 規則的な音は何とも心地良さげなものだ。


 その寝息の主が今はもう安らかな眠りに沈んでいる事くらい、目に見えずとも“彼”が察するに容易いものであった。


「──っ……。」


 ぐらり。

 不意に眩暈を感じて身体がふらつく。

 たたらを踏む足は辛うじて持ち直す事が叶った。

 しかし次第に遠ざかっていく意識の中で、その頭の中の揺らぎが“彼”にもう時間がない事を悟らせてくるのであった。


「……なん、とか………間に合った…かな……?」


 顔面を掌で覆った“彼”──ナイトはそう呟いて、顔をしかめた。


 頭が痛い。

 鐘の音が響くような鈍痛が頭の中で徐々に徐々にと増していく。

 まるで誰かに頭を石か何か打ち付けられているかのようだ。

 ナイトはそれを想像してその痛みを忌々しく思いつつも、同時に“してやったり”とどうにか思い通りに事を運べた事へ喜び、そして誰かに対しての嘲る感情を胸に抱いて青ざめた口元に静かに笑みを浮かべるのだった。


「ああもう……本当に、憎たらしい……オレだって元は同じだったって言うのに……それすら認めてくれないんだから………。」


 そう文句を溢すようにぼやきつつ、ぼやけ始める視界を睨みつけた。

 向けた視線の先には、遠巻きに彼を見詰め佇む“誰か”の姿があった。


 その“誰か”は弱っていくナイトに対しても何をするでなく、只静かに眺めているだけだった。

 心配し傍に駆け寄るもなければ、大丈夫かと声をかける事もなく、かと言って蔑み見下す事もなければ、ここぞとばかりに貶す事もなく。

 只々粛々とナイトの行く末を見守るだけ。


「後は任せた…なんて、言うつもりはない、よ……どうせキミは、自分の、目的外のコトなんて……どうだって良いんだろう……?」


 重石を背負わされたかのように重くのし掛かってくる眠気に抗いながらも、ナイトはポツポツと呟くようにその相手へ語りかける。

 目の前の人物が自身を助ける気など毛頭ないことくらい、元よりナイトは理解していた。

 そもそもナイト自身にだって、その人物に助けを求めようと言うつもりだって更々なかった。


 ナイトが何を言おうと、沈黙を突き通す相手は一向に微動だにせぬまま。

 じっと此方を眺めているのか、それとも全く別のところを見ているのか、長い前髪に隠された目元からはその目線が向く先は計り知れない。

 何を考えているのかすらも想像し難いその様に、ナイトは口元に浮かべていたニヒルな笑みを消すと悔しげに歯噛みした。


 ナイトもが沈黙すると、物音一つ立てない空間の中ではささやかな寝息だけが鼓膜を震わせた。


「キミの力なんて、借りなくたって………オレは……あの子を、護っ──。」


 がくん。

 言葉の途中、今度は膝から力が抜けかけて身体が傾いた。

 地べたに片膝着いたナイトはせめてまだ意識だけはと歯を食い縛るのだけれども、今にも目を閉じそうになっていく瞼はこれ以上無いと言う程に重たい。


「くそっ………もう時間切れか………。」


 止めどない睡魔に苛立ちを込めて悪態吐く。

 ナイトはそれでも朦朧としていく意識の中力を振り絞る。

 何とか眠気を堪え、少しでも多く時間を稼がなくては……と、遠くなっていく意識を掴み続けていた。


「ごめん、ごめんね……オレ、もう、ココには居られない……キミの傍で、キミを護りたくても、それが出来なくなっちゃう……。」


 誰も居なくなった場所に視線を向け、何もないところに手を伸ばそうとするナイトは目を細めてそう呟く。

 それは一見、独り言のような声だった。

 しかし、それは微かに聞こえる寝息を便りに無人の空間に向かって囁いているものでもあり、伝えたい相手に語り掛けた所で当人にはもう届かないものでもあった。

 軈て手は地に落ちると力を込められた。

 握り締めて作った拳にはこれ以上なく力が入り、ギリ、と小さな音が鳴った。


「でも、だからって、手を抜くつもりはない、よ………今度こそ、誰にもキミを……傷付けさせや、しない、んだから……!」


 くしゃりと歪む俯く顔。

 そこには今にも泣き出してしまいそうな悲しみと、自身を奮い立たせる後悔の色が滲み出ていた。

 しかし、それでも自身の不安を噛み殺し、意識のない相手へと「大丈夫だよ」と安心させるように、慈しみを込めて吐き出したその言葉には胸を締め付ける程にとても優しい響きもが切ない程に込められていた。


 そして彼は視線をその空間にいるもう一人の人物へと戻されていく。

 向けたその眼差しは今までになく鋭く、碧色の瞳は燃えるように爛々と輝いていた。

 凄められたその視線は、誰が見ようとも怒りを燃え滾らせているのが歴然だ。

 彼はその眼差しで向けた視線の先の人物を睨み付けると、獣が敵を目の前にして低く唸るように、念を押すようにこう言うのであった。




「──次、また・・あの子を殺そうとしたその時は………お前があの子に触れるよりも先に、オレがその首を噛み切ってやる。」




 ナイトの意識はその言葉を最後に、プツリと途切れてしまうのだった。





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