-20 過去と原罪。②
『──グリモア。』
誰かの声が聞こえる。
目の前の人物を呼び掛ける声が聞こえてくる。
それは何処かで聞いた覚えのある声だった。
耳から届くのではなく、頭の中に響く不思議な音だった。
ぴくり。
その幼さをも感じる声に反応してか、今まで微動だにしていなかったグリモアの身体が小さな動きを見せた。
柔くしかめられていく顔、ゆっくりと開き始める瞼。
そこから覗いた鮮やかな色をした瞳が、辺りの様子を伺うようにくるりと回る。
やがてその視線がこちらへと向く。
極彩色の瞳がぼくを見て瞬いた。
『おはよう、グリモア。』
再びあの声が聞こえてくる。
それは直ぐ傍から聞こえてくるようだった。
グリモアはもう一度瞬いた。
それから身体を起こそうと肘を付き、ぐぐっと背を丸めていった。
鈍く、重たそうに、ぎこちない動きで上半身を起こしたグリモアの口から息を吐き出す音が鳴る。
そして俯かせていた顔を持ち上げると、何を考えているのかわからない顔をこちらへと見せた。
ぼんやりとした眼差し、緩みきっても強張ってもいない頬。
つぐんでもいなければ開け放ってもいない口には、最早見慣れたあの穏やかな微笑みはなく。
ただただひたすらに無表情で、まるで完全に感情が抜け落ちてしまっているかのようだった。
そんな彼はしばしの間、黙したままにじっとこちらを眺めていた。
それが……こてん、頭が横へ傾く。
『おは……よう………?』
微かに開かれた唇から拙い言葉が紡がれる。
その声音は初めて聞く言葉を繰り返しているかのようだった。
『ぐり、もあ……?』
こてん。
頭が反対側へとまた傾く。
どうやら彼は口にした言葉の意味を理解していないようだ。
『それはきみの名前さ。』
くすくすくす……。
笑う声が聞こえてくる。
『ああ、やっぱり。もう自分のことすらわからなくなっているんだね。あんなにぐちゃぐちゃになっていた頭の中も、もうすっかり真っ更だ。』
視界の端から手が伸びてくる。
ぼくの方から現れたそれは、小さくて幼い子供の手だった。
その手がグリモアの頭上へと伸び、彼を労るように撫でていった。
『気分はどう? スッキリしたでしょ。』
グリモアは何も答えない。
ただ自分を撫でるその手が心地好いのか、自ら頬を寄せて瞼を閉じ、じっとそれを受け入れていた。
………?
奥の方から、何かが聞こえた気がする。
耳を澄まそうにも頭の中に響く音には意味がない。
それでもぼくは何とか聞き取ろうと、注意深くその音へと意識を集中してみる。
しかし、それを遮って声は続く。
『ねぇ、グリモア。ぼくのところへおいでよ。』
極彩色の瞳がこちらを見る。
彼の眼差しが真っ直ぐにこちらを見詰めてくる。
そこに反射し映っているのは、塞ぎ込んだ曇天の空。
彼に触れているその手の主が、そこに姿を現すことはなかった。
『どうせこのままここにいたって、この星と共にいつか朽ち果てるのを待つだけだ。それなら、ぼくの為にきみの力を使ってくれた方がよっぽど有意義だと思わないかい?』
ぱちくり、瞬く瞳。
『おいで、グリモア。』
彼から離れた小さな掌が、互いの間へと差し出された。
その手とこちらを交互に見るグリモア。
しばしの沈黙ののち、彼は恐る恐るに手を伸ばしていった。
『──駄目だグリモアッ其の手を取るなッッ!!』
不意に低く轟く怒鳴り声。
触れる直前、グリモアの手がぴくりと止まる。
そして、感情の籠っていない眼差しがつぅっと下方へと降りていった。
どうやらその眼差しは、手の主よりももっと向こうの方へと向いているようだった。
しかし──。
『ありがとぉグリモア、きみならきっと受け入れてくれると思ってたよ。』
引くよりも先に掴み取られてしまった手、ぎゅっと握り締められる。
見上げる無垢な目、
そんな無抵抗でされるがままのグリモアに、もう後には引けないのだと嘲笑う声が慈悲深くも無慈悲に宣告する。
『──これで“契約成立”だ。』
どくん。
その声を耳にした次の瞬間、グリモアの身体が大きく跳ねた。
『う………あ………っ!』
突如苦しみ始める彼、胸元を押さえる掌。
重ねた手は離せないままに、身を屈めて微かな呻き声を溢し出す。
グリモアの苦しむ声に混じって、奥の方からの声が次第に鮮明に聞こえ始める。
止めろ。
止めてくれ。
頼むから、そいつにだけは手を出さないでくれ……!
声は必死になって懇願するものだった。
泣いているのだろうか?
嗚咽が聞こえる。
怪我をしているのだろうか?
苦痛に呻く声が聞こえる。
聞くだけですら痛ましく感じてしまうそんな外野の声達なのに、くすくすと嘲笑う声の主はそれに一瞥たりともせず、相手もしないでグリモアへとこう言った。
『大丈夫だよ、グリモア。これでもう、飢えに苦しみながら朽ち果てていく恐怖に苛まれることはないのだから。だから、安心してぼくに身を委ねると良いよ。』
優しげな口調で、柔らかな声音で、慈悲があるかのように言葉が紡がれる。
なのにグリモアの苦しげな声は殊更に程度を増していき、呻きはやがて悲鳴へと変わっていく。
『ああ、ああああ、ああああっ……!!』
荒い呼吸を溢し頻りに上下していた肩が、背を弓形に反らして跳ね上がる。
震えは増して最早痙攣へ、目を見開いたままに身体がガクガクと大きく揺れる。
限界まで開かれた口からは、絶えず掠れた絶叫が鳴り響いていた。
ぼくはその光景を目の当たりにして、目を閉じたままに胸を押さえた。
つきつきと痛む胸の奥、冷ややかな心地がぼくを責め立てる。
止めて……もう止めてあげてよう……!
苦しむグリモアの姿を見るに見かねて、あの幼い手の主へとそう訴えたい気持ちに駆り立てられる。
しかし、これは今起きている出来事ではない。
ぼくは今、グリモアの“記憶”を観せられているだけなのだ。
つまり今目の前にて起きているのは、現在ではない“過去”の出来事。
この惨状を目の当たりにしたところで、観客でしかないぼくに出来ることなど何もない。
何も、出来るハズがないのである。
『ああああアアッ……!』
一際苦し気な悲鳴を上げるグリモアの胸から、次第に輝く光が現れてくる。
背中をしならせ張り上げた胸の上、輝きを放つそれは波紋のように波打ち渦巻いていた。
すると幼い手がグリモアの手を握ったままに、もう片方の手をそれへと近付けた。
奥から聞こえる制止の声が激しく訴える。
それでも構わず、手はその光の渦へと触れた。
『───ッッ……!!』
グリモアの身体がまた一際大きく痙攣する。
最早悲鳴の声も、掠れて消え失せた。
それでもその手は遠慮も無しに、グリモアの身体から放たれる光の渦へと沈めれていった。
『………あった。』
何かを探るように掻き回してしばらく、声が小さく呟いた。
そして腕がずるりと引き抜かれていくと、光の渦から戻ってきた手には大きな何かが掴まれていた。
それは一冊の“本”だった。
手に持つのも一苦労な重厚感ある厚みと大きさに、四方の縁を囲んで嵌め込まれているのは金色に輝くスペード型の金具。
染み一つとしてなく真っ更な象牙色に表紙は革のハードカバーに包まれて、そこに楕円を描く金色の蔦が描き飾られている。
そんな円の中心には、恐らくその本の
あれは一体何て書いてあるんだろう?
ぐ………ぐり、む………ぐれ…………?
………ううん、上手く読めないや。
そうしてその本が視界に入ると同時に、繋がれていた手が離される。
支えを失った身体はそのまま後ろへ、ぐらりと地べたへ倒れていった。
どしゃり。
硬い地べたに、砂埃を巻き上げながらグリモアの身体が再び地に横たわる。
それから微動だにしなくなった様は、まるで力尽きたかのようだ。
意識を失ったその顔は元より色白だったのがより血色悪く、死人の如く生気を失って息があるかも怪しい有り様となっていた。
それなのに、それなのに……!
『……ふふ、ふふふふ、ふふふふふふ……!』
笑う声が聞こえる。
楽しげに、嬉しそうに、その声は笑っているのだ。
『やっと、やっと手に入れることが出来た! ずっとずっと、これが欲しかったんだ! ああ……これで、これでようやく、ぼくの夢が叶うんだ……!』
喜びを露にするその声の主が視線を向けるは本にのみ。
直ぐ傍で横たわるグリモアには、最早眼中にすら入っていない。
『本当に、ありがとう。きみには感謝してもしきれないよ。こんな素敵な“
ねぇ、グリモア?
声はそう言った。
ぬけぬけとそんなことを言ってのけたのだ。
………何て白々しい。
殆ど強奪に等しい形で、それも騙すような形で、グリモアからそれを奪っていた癖に。
楽しげに、嬉しそうに笑う声。
やがてそれがピタリと止む。
ぼくの瞼の裏に映る視界から見える景色、その視線の行く先には象牙色の本の表紙。
ぼくからは見えないその“誰か”は、それをじっと見詰めていた。
『………これ、邪魔だな。』
ぽつり。
声が呟いた。
本の上に手が翳されていく。
……一体、何をするつもりだ?
そして、翳した手に力が籠る。
次第に指先が丸く曲げられていく様は、まるで硬質なものを握り潰していくかのよう。
徐々に徐々にと握られていく手。
気のせいだろうか?
微かにきし、きしきしきし……と軋む音が聞こえた気がした。
嫌な、予感がする。
そんな視界の奥で、グリモアの身体がびくりと跳ねたのを見た。
ぱきんっ。
その手に拳が作られた瞬間、軽やかな破壊音が小さく鳴り響いた。
ゆっくりひっくり返される拳、その指先が緩やかに広げられていく。
そこには、いつの間に握り締められていたのだろう?
金色に輝く砂粒がさらさらと流れながら掌の上に乗っていた。
指の合間から落ちては風に流され、砂粒達ははらはらと舞い去っていく。
やがて掌の上が空になると、その手はまるで汚れを払うかのように軽く振り、引き戻されていった。
後に残ったのは視線が釘付けとなったままの象牙色の本。
何の変哲もないその本は、いつからか先程とは違う姿を視界に映していた。
その光景に唖然とするぼく。
グリモアと良く似た雰囲気のその本は、ついさっきまであったハズの名前が綺麗さっぱりと消されていた。
元より飾りっ毛の無いシンプルだったその意匠はより特徴を掻き消され、如何にも真新しくなったみたいにその姿を虚しくも無情にぼくへ見せ付けていたのだ。
まるで、そんなものは始めからなかったかのように。
誰かの慟哭が聞こえる。
声にならない叫びが聞こえる。
悲しみが空を轟かせていた。
絶望が地を震わせていた。
泣き叫ぶ声は言った。
“グリモアが死んだ”。
“グリモアは殺された”。
“グリモアはもう、いなくなってしまった”。
ぼくは悲しくなった。
胸を絞め付けるような悲しみがぼくを苛んだ。
……あれは一体誰だ?
グリモアを酷い目に合わせたのは誰なんだ?
悲しみと絶望が止まない、荒れ果てた世界で一人愉悦に浸るあの“悪者”。
ぼくにはそれが誰か、わからない。
この視界からでは、その“誰か”の姿は見えないのだ。
この瞼の裏に映されていたのは、その“誰か”が見ている世界だった。
ぼくは知りたい、その人物が誰なのかを。
一体、誰がグリモアを殺したの?
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