-22 遺された爪痕。

 ──ここは、どこだっけ?




 ぼんやりと浮上してきた意識から、何となくにそんなことを考えてみる。


 白い視界、白い世界。

 右を向けど左を向けども壁らしき壁もなければ、天井すら在るのかどうかすら怪しい、静やかなる無の空間。




 ■■はそこでただじっと佇んでいた。




 アンティーク調の大きな椅子の上、足をぶら下げて。

 膝の上には大きな本が閉じて置いたままに。

 それを読もうとする気は、今はもう起きない。

 それなのに、■■はそれでも手離せないままに大事そうに抱えていた。


 染み一つない、白ばかりの虚無が広がるその空間。

 そこで唯一動きを見せている存在は、■■を中心にしてゆったりと回る一つの箱。


 緩やかにそれ自体が回転しながらも、まるで風船が揺蕩うようにくるり、くるりと旋回している。

 一定の速度で何度とそれが目の前を通りすがっていくその光景は、目障りと言うには煩わしくなく、ただ無関心でいるには少々目を引かれてしまうものであった。 


 白ばかりが延々と続くこの空間には、頭上を見上げたとしても屋根はない。

 しかし、天井が無いからと言っても、そこに空が見える訳でもなかった。

 だからこそ、その決まった場所を延々と移動するその箱は、紐か何かで吊り下げられている訳でもない。

 当然その周りにだって、支えらしき何かがある訳でも無いのであった。


 どうやって浮いているんだろう?

 何となくにそう考える。

 錆び付いた思考が巡らす凝り固まった頭のまま、■■は暫しの間何もしないでただぼんやりとしたまま、何となくにその箱を眺めていた。


 すると、未知の物体を前にして次第に沸き起こり出す好奇心に、うずうず、そわそわとした感覚を覚え始めるのだった。




 あれは一体何なのだろう?

 とても気になる、スッゴく気になる。




 やがて■■の胸の内に「手に取って近くでじっくりと見てみたい」と言った欲求が徐々に芽生え始め、そして募りだす。

 いつしか、目の前を通りすがる様を眺めるだけでは飽き足らず、遂には自ら目で追い始めるようになっていった。

 その視線はもうすっかりと、あの箱に釘付けとなっていた。


 元はそんな良く解らない物体に近付こうと言う気は、これっぽっちもかったハズ。

 なのに、次第に“知りたがり”な欲求が抑え切れなくなって………遂に好奇心に負けてしまった■■は、それを手に取ろうと徐に掌を翳したのだった。


 するとその箱は■■の手に引き寄せられてきた。

 ……いや、それは引き寄せられると言うよりは“自ら近寄ってきた”と表現するべきなのだろうか?

 名を呼ばれ、嬉々として主の元へ駆け寄る犬のように、こちらへとゆったり近付いてきたそれは、水の流れに身を任せるかの様な動作で浮いたままに、■■の掌の上へと独りでに収まった。


 その自らの意思で動きを見せたかのような様は、まるで生き物のように思えた。

 しかし、それを生物だと考えるには喜怒哀楽の感情、或いはそれに近しい仕草らしき様子がこれと言って見られない。

 寧ろ、その無感情さからは無機質らしさの方が際立っているくらいだ。

 それでも手の内に収まった箱からは一瞬気のせいかと思ってしまう程にささやかな、命の鼓動の様な温もりを孕んだ生きたものの気配を感じてしまうのだった。


 間近となったそれを、■■はまじまじと眺めてみる。

 すると、その箱には小さく細やかな無数の穴が開いていることに気が付いた。

 どうやらそこを覗けば中身を確かめることが出来そうだ。

 そう思った■■は気の赴くままに、それに顔を近付けていった。




 その中には、箱の中目一杯に詰め込まれた一つの球体があった。


 まるでいつか何処かで見たような──いつ何処で見たのかは思い出せれないのだけれど──所々に緑や白などの斑模様を伴った“青い星”を模したものだった。




 ──おぎゃあ、おぎゃあ。




 ふと、何かの音を耳にする。

 何処からだろう?

 そう不思議に思うよりも先に、その音に重ねて別の音──いや、誰かの声までもが聴こえ始めた。




 ──ああ、神様。ありがとうございます。

 ──この子が無事こうして産まれてきてくれたのは、貴方様が私の祈りを聞き届けてくださったからなのですね。




 知らない人の声だった。

 一体何のことを言っているのだろう?




 ──ワアアァァ……!!




 今度は無数の凄まじい雄叫びが聴こえてきた。


 金物がぶつかり合う音。

 肉を裂く音。

 飛沫が弾ける音を交えて耳にした雄々しいその声は、どうしてだか怒気を孕んでいるようだった。




 ──おお、神よ! 貴方は我等をお見捨てになられたのですか!?

 ──我々は只平穏を望み、和睦を願い、互いに歩み寄れる世界を目指して心血を注いできたと言うのに……何故こうも非道な試練ばかりお与えになって、同じ人と人との無益な争いをお見過ごしになられるのか!




 ──貴方にはッ………血も涙も無く在られるのですかッ……!!




 ………知らない、何もわからない。


 それが一体誰に向けて言った言葉なのか、そもそも彼等が何処の誰なのかすら一切わからない。

 ■■は困惑と不快感、それから何故だか湧いてくるほんの少しの罪悪感に、くしゃりと顔を歪ませた。


 それからも次から次へとまた別の声が聴こえてくる。

 その内容は各々違うものばかりだと言うのに、皆揃って同じ単語を口にしていた。




 ──嗚呼、神様! おお、神よ!


 神様、どうか我等をお救いください!

 神様、どうして我等を救って下さらないのか!

 神様、神様、神様──!




 ──神はいつだって我等と共に在られます。

 祈りなさい、すれば我等の声はその御耳に届くでしょう。

 信じなさい、すれば我等をお救いになって下さるでしょう。

 神は今も昔も、永久に我等の味方なのですから──。




 “誰”が“誰”の味方だって?

 そんなの一体、誰が決めたんだ!




 その見知らぬ誰か達は、誰の事かも解らないその名称をひっきりなしに何度と繰り返していた。

 願い、訴え、希望、憎悪──様々な感情をせて、真っ直ぐな願望や想いを思うがままに、遠慮も無しに、力任せにぶつけてくる。


 名前も顔も知らないその誰かの言葉達は、■■からすればたった今……それも偶々気付いたもの。

 何せ、今の今まで認識してすらいなかったのだから。

 故に見捨てた覚えも無ければ、■■にはその一切を知りもしないのだ。

 それなのに、それらは皆一方的に思い切りに投げた意思を■■へとぶつけて来る。

 そんな言葉達を一身に浴びせられた■■は、次第に耳を傾けることまでもが嫌になっていくのだった。


 そして、いつしか彼等に嫌悪の感情を募らせた■■は「もううんざりだ!」と言わんばかりに箱ごと押し飛ばし、その全てを拒絶してしまったのだった。




 知らない。

 何もわからない。

 ■■には何も出来ないんだ。

 だから、もう■■に何も求めないでくれ…!




 嫌悪、拒絶、隔離、遮断。

 壁を作る。

 蓋をする。

 視界に入れぬよう突き放す。

 あの誰のものかわかりやしない声達が、もう二度と聞こえないよう耳を塞ぐ。

 今にも泣きそうな情けない顔を、隠す様に伏せていく。




 ──苦しい。




 思わず、声にもならない言葉が口から零れてしまう。

 しかし弱音を吐いた所で、慰めてくれる誰かはここにはいない。


 一層のこと、そのまま泣けたらどんなに良かったことか。

 それでも熱くなる目尻から涙は一滴たりとも零れる事はなく、溢れ出しそうな想いは塞き止められたまま。

 吐き出すことも出来なくて、息詰まって、ただただ静かに惨めに嗚咽だけを溢していた。


 ■■に拒絶され突き放されたその箱は、何事もなかったかのように独りでにふわりと浮かび上がった。

 そしてそのまま元の位置へと帰っていく。

 それから再び■■の周りをくるり、くるりと廻り始めると、変化するものなど何もない、どこまでも延々と続く不変の日常へと戻るのだった。




 無音の世界、真白の世界。

 アンティーク調の一人用の椅子が一つに、浮かんで付き纏う一つの箱。

 それから真っ白な装丁に金縁の、分厚かろうが中身の無い、読む者がいなければ最早ただのハリボテ置物でしかない本が一冊。

 そこには名前タイトルなんて贅沢なものは、書かれてなんかいやしない。

 他に何があるのかと問われれば思わず言葉に詰まってしまうような、そんな中で■■はずっと一人ぼっち。




 これで良いんだ。

 これが一番“最善”なんだ。

 ■■がいると、周りを不幸にさせてしまうから。




 そうやって何度も自分に言い聞かせる。

 ずっとこのままでいれば、もうあんなにも辛く苦しい想いはせずに済むのだから──本気でそう思い込んで、思い込ませていたのに。


 ………ああ、でも、もうダメみたいだ。

 忘れたままでいれば見て見ぬふりが出来たと言うのに、■■は“手離し難いもの大切なもの”を思い出してしまった。




 ──寂しい。




 それはいつか捨て去った想いだった。

 いつか手放した筈の感情だった。

 辛い思いをするくらいなら、苦しい思いをするくらいならば、一層の事消えてしまえと二度と手が届かなくなる程に、酷く遠い場所に置いてきたものなのに……。




 ある日突然かえって来てからと言うものの、■■はもう“それ”を手離せなくなっていた。

 諦めることが出来なくなっていたのだ。

 “それ”が何よりも大事なものへと形を変えて、再び■■の目の前へと現れたのだから。


 でも、もう“それ”が──“■■”が目の前に現れる事は二度と無いのだろう。


 何故ならここにはもう、“■■”が訪れる必要が無いからだ。

 勿論“■■”が文字通り手の届かない場所まで行ってしまったと言うのもその理由の一つでもあるけれど、それ以上に■■自身も他の誰と顔を会わせる為の術を失ってしまった事と、この空白の檻の中でただ独り、延々と孤独の時間に浸る他に道が無くなってしまったからでもあった。


 それを改めて自覚した■■は、途端に胸がきゅぅっと締め付けられるような痛みを覚えた。


 馬鹿馬鹿しい話だ。

 だってこれは■■が望んで、今まで続けてきた事だったのに。

 それがこんなにも辛く思う日が来てしまうだなんて、これっぽっちも思いもよらなかった。

 ■■はその胸を占める苦しさの余りに、椅子の上で膝を抱えて縮こまってしまうのだった。




 誰かの声を聞きたい。

 在るのか無いのか、不確定な良く解らないモノに向けた言葉ものではなく、■■が■■である事を確かにしてくれる唯一の声を。


 誰かの温もりを感じたい。

 空気の様に在る様で無いモノとしてではなく、それは確かに此処に存在しているのだと示してくれる■■に触れてくれる温もりを。




 ……ただ、誰かの傍に存在させて欲しいだけだった。




『可笑しな事を云う。其れは嘗て自らが不要と放棄したモノでは無かったか?』




 ククカカカ、と歯を鳴らしながら、嘲笑う声がそう言う。




『随分な心変わりよなァ。………ああいや、違うな、今迄が全て“虚勢強がり”であった、と云うが正しいか?』




 声が低く唸るように響き、ぼくの頭の中を苛んでいく。




『まァ何にせよ、自らが成した事が全て反っただけに過ぎぬ事。自業自得と云えば、永久に時が止まった侭の貴様とて多少は理解も出来ようぞ。』




 五月蝿いな、黙ってくれ。

 もう放っておいてよ。


 残酷に現実を突き付けてくる無情な言葉に、返す言葉もない■■は悔しさに下唇を噛み締める。

 カラカラと嗤う声が酷く神経を逆撫でする、その煩わしさからゆっくりと顔を持ち上げていく。

 そして、声の主が居ると思わしき方へとじとりとした睨む視線を送るのだった。


 そこには、見上げる程に巨大な蜥蜴の様な“何か”がいた。

 それは目の前の空いた空間をここぞとばかりに陣取って、図太くも堂々と横たわっていた。


 鰐のように鋭利な牙の刃。

 S字に曲がりくねる太く逞しい牛の角。

 それを生やした頭から伸びる、しなやかで且つ長い首。

 その背後には棘の様な背鰭が背骨を沿って、ずっと先には流れるようにくねる長い尾。

 魚鱗が並ぶ象のようなどっしりとした胴体の背には、屋根の如く生やした蝙蝠みたいな膜張った一対の翼が携わっていた。


 それをばさりと一振り扇げば、その力強い羽ばたきは周りの物を薙ぎ倒さんばかりの勢いの強風を起こした。

 ……が、幸いなことに周りにはそれによって崩れてしまうものなんてなければ、倒れてしまうものとて当然ない。

 精々■■の前髪がぶわりと巻き上げられただけで済んだ。


『貴様が誰に“認識されぬ”のも、貴様が誰に“触れられぬ”のも、己が“在らず者存在無き者”として虚無の在り方を選んだが故の事。其れを貴様自身、忘れた訳ではあるまいに……それとも何だ。今更に成って撤回したいとでも?』


 随分と都合の良い事を。


 そんな含みを込めた蔑む声に、思わず鼻の奥がつんと熱くなり、収まりかけた目尻にまた熱が籠り出す。

 しかし、やはり今にも溢れそうな熱は全くもって溢れ落ちてこない。

 やるせなさばかりが汲み上がって、そこから起きる胸の痛み。

 いたたまれずに眉を寄せ、再び膝の間に顔を埋めて隠した。




 言われなくたって、もうわかってる。

 気付いたんだ、理解してしまったんだ。


 ずっと見て見ぬ振りをしていたのは、自分自身の過ちであること。

 ああ、そうだとも。

 全部全部、■■が悪かっただけだった。

 ただ、それだけのこと。

 顧みてしまえば、簡単なことだったんだ。


 でも……それでも願ってしまうんだ。

 心から願ってやまないんだ。


 傷付きたくなくて傷付けたくなくて逃げ出した“あの場所あそこ”には、本心では求めてやまないものが無数に溢れている。

 だから意地を張って、知らんぷりをしても、そんな体裁なんて呆気なく崩れてしまうくらい、■■の心はどうしようもなく惹かれてしまうんだ。




 それもそうだろう。

 だって……だって“あの場所あそこ”は、そんな風に理想を模して■■が創った──ぼく・・が創った紙上の箱庭安息の地なのだから。






 *****






「ははあ、性が倒錯した神様ねぇ。」


 ぽつり。

 ぼくはグリモアの話を聞いて、その内容を確かめるように繰り返し呟いた。




 あれからぼくらは改めて並んで席につき、黒髪のあのヒト、ぼく、グリモア…の順番で隣り合って話し込んでいた。

 ……まあ、その中でも黒髪の彼はと言えば、相も変わらず会話の輪に入ってくることもあれ以来めっきり無くなっていたけれども……どうやらぼくとグリモアの会話に聞き耳だけは傾けているらしい。

 グリモアから聞く話の中でわからないことがあると、横から補足を挟んでくれたり、ぼくが質問すれば答えてくれたりと何かとフォローしてくれることがあった。

 何故かグリモアの言葉にだけは終始無視を貫いていたけれど。


 もしかして、二人は仲が悪いのだろうか?

 グリモアが黒髪のあのヒトに向ける好意はとても顕著なものだから、多分嫌っているのはあのヒトだけなのだろうけど……何にせよ、彼等二人の関係性は何も知らないぼくには計り知れないものなのであった。


 まあ、でも、今はその話は後回しである。




「グリモアが昔祀っていた神様がそうだったって言うのはわかったけど、それがどうして、グリモアまでもが女の人みたいなフリをする理由になるの?」


 納得がいかない、と言ったふてぶてしい態度でそう訪ねれば、困ったような笑みで眉を下げたグリモアがその問い掛けに答える。


「それがね、その御方は『男こそは華々しく愛らしく儚げに、女こそは強く猛々しく勇ましく』をモットーとした奇特な御人だったのさ。彼女に傾倒した者や身近な者程、その影響がより色濃く現れていてね……どうしてもその傾向が強く出てしまいがちなのだよ。…恥ずかしながら、私もその1体ひとりでね。フリと言うよりは最早癖みたいなものなのさ。」


 もう長い事続けていたものだから、すっかり身に染み付いてしまっていてねぇ。

 そう言うグリモアの遠くを見詰める眼差しは何処か懐かしげだ。

 ぼくはそんなグリモアを眺めつつ、そして溜め息混じりに、ぼやくように呟いた。


「まあ確かに? ぼくの思い込みが主な原因だったとは言え、あなたが男だってのにも驚いたけどさ、それよりも、耳が聞こえないから今まで唇の形で読み取っていたって方が、もっと驚きだよ。」


 まるで何かの達人みたいじゃないか。

 そう言えば、照れ臭そうにはにかんだグリモアはいたたまれなさそうに頬を掻いた。


「そう大したものではないよ。そうするしかなかったから、身に付いただけの事さ。……まあ、だから此方に顔を向けてくれないと相手が何を言っているのか、寧ろ話しているのかすらも解らなくてね……いやはや、伝えるのが遅れてしまって申し訳ない。」


 余り不便に思った事がないから、つい。

 そう言ってグリモアはへらりと気の抜けた笑みを浮かべ、手持ち無沙汰に掻いた頭を項垂れさせるのだった。




 それからと言うもの、ぼくは改めてグリモアのことやこの空間のことを色々と聞いた。


 不思議と親近感が湧いてしまうグリモアや、彼の同胞である“奉仕人形ガラテア”と言う種族は人間でも魔物でもない、勿論先祖に魔物の交わって生まれた人種……所謂“亜人”とも全く別個の存在であること。

 それは大昔にぼくらが住むこの地に降り立った……それこそ遠い異邦の“星”からやってきた、ぼくらとは異なったことわりの下に生きる者達であること。


 “奉仕人形ガラテア”と呼ばれる彼等は、人や動物、魔物のように、同じ種族が交わって種を繁栄させる生き物ではなく、グリモアを含む7体が初めて生まれてからずっと、代を替えることを必要としないまま、途方もない長い時を生きてきた者達であること。

 それは生物と言うより、自己と意思を持たせた“概念”に近い存在故に、極一般的な生物とは生存するに必要なものが根本より違うこと。


 そう言った“概念”が人や犬猫等の生き物の形を成して存在する者のことを、彼等は自らをも含めて“擬人”、或いは“擬獣”と呼ぶのだと言うこと。


 そんな彼等を創った・・・とされる産みの親と呼べる者が、彼等の故郷に置いて“神”と呼ばれる存在であったと言うこと。

 その“神”のお気に入りであり、7体の奉仕人形ガラテアの中でも“特別個体”とも言えるのが、7体全ての魔導書グリモワールの擬人において唯一“グリモア”の名を冠している“グリモワール・レメゲトン”その人であると言うこと。

 それからそのグリモアが特別たる由縁と言うのが、彼がかつて故郷たる星で“王”として君臨していたことと、もう一つ、彼がその星の主人たる“神”に見初められた“花婿”であったということ。


 しかし、その“神”は既に消滅しており、今はもうこの世には存在していないこと。

 そしてこの空間、グリモアが“ゼノンの間”と称したこの特別な部屋は、その“神”が彼に残した……謂わば形見のようなものであると言うこと。




 余りにも長い話だからか、ぼくが聞かされたのはどうやら所々はしょったものではあるらしい。

 しかし、それでもグリモアの過去の話は十分に長く、話の最中にはついうつらうつらとしてしまったものだ。


 グリモアの語りを子守唄に舟を漕いでいたところを、反対隣に座る黒髪の彼がこつんと肘で突つかれたりとされつつも、何とか清聴を貫き切って……そして今に至る。


「昔はとても良い方ではあったのだけれどね、色々あって聞こえなくなってしまったんだ。慣れるまでは確かに大変だったのが……今ではもう何不自由なく、心行くままに過ごせていたくらいには、聞こえない事に随分と慣れてしまったものでね。」

「耳が聞こえないのに? 変なの。何も聞こえないって不便なんじゃないの? 普通。」


 グリモアの話を聞いて、片眉を上げたぼくが訝しげにそう言う。

 するとグリモアは「色々と事情があるのさ、色々とね」と困ったように笑んだ。


「それこそ、私にも一言では済ませられない様々な過去があったのさ。」


 そんなグリモアからの返答にぼくはどうしても腑に落ちないまま「ふぅん」と声を溢すと、もう一度「変なの…」とぽつり呟くのだった。


「……ねぇ、それって、ある日突然失くなってしまったの?」


 少し考えて、ぼくは思ったことをグリモアに訊ねてみた。

 グリモアは考える素振りを見せたのち、こくりと頷いた。


「そうだね。そうとも言えるだろう。」

「ならさ、それまで聞こえていた音が聞こえなくなってしまった時、グリモアはどう思った?」

「どう? どうって言うと……。」

「寂しくはなかった?」


 グリモアの目がほんの少しだけ、大きく見開かれた。

 ぼくはそのまま言葉を続けた。


「だってさ、急に聞こえなくなったってことは、今まで聞こえていたものが突然失くなっちゃうってことでしょう? ってことはさ、家族とか、大事な人の声だって当然聞こえなくなったってことでしょう?」


 あ、でもグリモアは神様から創られた人形だから家族はいないんだっけ?

 なんて、言った矢先にそう思ってしまうぼくだけれども、当のグリモアと言えば、微笑みを絶やさないままぼくのことをじっと見詰めているだけだった。

 しかし、視界の端でグリモアの右手が左の二の腕を擦ったのを、ぼくは見逃さなかった。

 

「ああ、そうだね。そうだとも。確かに寂しくはあったさ。」


 そう言ったグリモアは、続けてこうも言った。


「それでも、私は良く聞こえる耳を失くせて、本当に良かったと思うよ。」

「どうして?」


 ぼくはもう一度訊ねた。

 グリモアは「どうしてもさ」とだけ返し、静かに微笑んでいた。

 その答えを聞いたぼくはやっぱり納得がいかなくて、唇を尖らせてしまうのだった。




 ぼくにはグリモアの気持ちが理解出来なかった。

 何せ、ぼくの長所を挙げるとするならば、先ず第一に、昔のグリモアもそうだったと言う“耳の良さ”である。


 耳が良ければ、どんなに遠くからの声でも、とても小さな声だとしたって音を拾うことが出来る。

 そのお陰で、今までだって何度も助かったことはあったし、便利だと思ったこととて沢山あった。


 かつての生活の中でだって、三人が暮らすには少々大きな家にて掃除や洗濯、炊事にと常日頃より忙しない爺やが、何処にいてもぼくが寂しくないようにと普段から腰に鈴を付けて過ごしてくれていたことで、ぼくもそれを聞いて爺やの居場所を把握するに活用したりだってしていたものだ。


 だから、耳が聞こえることこそ当然だったぼくには、それが失くなってしまうと言う“もしも”を今まで一度たりとも考えたことがなかった。

 けれども、その話を聞いてより改めて考えてみてみれば、それはぼくにとってとても“寂しい”と感じてしまうものであることに気付いた。

 そして、それは同時に、不思議と“恐ろしい”ことでもあるのだとも思ってしまうのだった。




「ぼくは嫌だよ。大事な人の声が聞こえなくなるのなんて。無音の世界だって、真っ平ごめんだ。」


 ぼくは俯いて──勿論、グリモアに伝わるように、俯いたのはほんのちょっぴりだけだけど──膝の上に拳を握る。


「だって何も聞こえないのは、ぼくにとっちゃ周りに誰もいないのと同じだ。傍に誰もいないって言うのは、ものスゴく寂しいんだよ? とっても苦しいことなんだ。それがずっと、ずっと、ずぅっと続くのなら尚更だ。」


 そう言って、ぼくは前を向く。

 グリモアはそれでも微笑んでいる。

 でも、その笑みからは何処か“寂しさ”を感じて止まなかった。


「それでも?」


 ぼくは、もう一度訊ねる。

 グリモアはほんの僅かに視線を揺らしたのち、ゆっくりと頷いた。


「ああ、それでもだ。」


 その答えに、ぼくは思わずくしゃりと顔を歪めた。

 すると徐に持ち上げられたグリモアの手が、ぼくの頭の上へと乗せてきた。

 その手がやんわりとした手つきで左右に動かされ、さらさらと髪が擦れる音が耳元でささめいた。

 ぼくはその音を聞きながら、項垂れるように顔を伏せていった。


「……私はね、人の声を聞くのが恐ろしくなってしまったのだよ。」


 少しの沈黙ののち、グリモアが静かに語り出す。


「私は、私の“役割”は、人々の声を聞き届ける事だった。人々の願いを聞き届け、それに尽くすのが私の“役目”だった……。」


 ぼくは見上げた。

 グリモアは長い睫毛を下ろし、瞼を伏せていた。

 その表情は何だか今にも目尻から涙が零れてきそうな程に悲しそうで、それでいて何処か苦しそうにも見えた気がした。


「その為に私の耳はこうも長く、多くの声を聞き届けられるようにと設計されて創られているのだよ。私にはそんな“役目”があるからこそ、人々から必要とされるものだったのだ。………なのに……なのに私は、それを放棄する事を望んでしまった……。」


 グリモアの、感情を圧し殺したような淡々とした口調が、徐々に徐々にと震えを帯びてくる。

 泣いているのだろうか?

 伏せた長い睫毛は乾いている。

 しかし、俯きかけたその顔が長い睫毛を揺らして持ち上がっていく。

 そこに浮かべられた表情からは、沈むような悲しみの奥に何処か安堵のような色を交えたものが映っていた。


「でも、でもそんな私に、“あの人”が言ってくれたのだ。『辛いのなら、一層の事休んでしまえ』って。苦しいのなら、無理に続ける必要はない。だから『後は俺に任せとけ』って……!」


 グリモアの目から一筋の雫が頬を伝う。

 そこには微笑みとはまた違った、喜びの色をも含めた笑みが口角を釣り上げて浮かんでいた。


「ああ……! あれ程嬉しい言葉は未だかつてない! “あの人”だけだった、私にそう言ってくれたのは……“あの人”だけが、役目を放棄した私でも最後まで見棄てないでいてくれた……!」


 左手が胸を押さえ、口元は笑み、はらはらと涙を落としながら言うグリモアの背は丸く小さくなっていく。

 さらりと長い髪を撫でた右手が、愛おしげに横長な耳へと触れた。


「だから……これは私の“罰”であり、“救い”でもあるものだ。役目を放棄した私の“咎”の証。そして同時に、私の為にと“あの人”が奪ってくれた想い出の傷。だから………だからこそ“あの人”の為にも、この恩義を忘れぬように私は此処に、隠り…………此処に………?」


 言葉の最中に、グリモアの様子に異変が起きた。


「グリモア?」

「え? あ……あれ? ええと………おかしいな………私はどうして、此処に………?」


 揺れる視線、頭を抱える手。

 頻りに疑問符を連ねた声が口から零れ、狼狽えるグリモアは独り言のように戸惑いを露にする。




「“あの人”って………誰だっけ?」





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