-23 ガラテアとおかしなお茶会。③

「………これを? ぼくに?」

「ああ。これをね、お前に食べて欲しいんだ。」

「え、でも……良いの? 食べたかったんでしょう?」


 ぼくは戸惑った。

 さっきまで躍起になる程に欲しがっていたものを、この人は自分に与えようとしているのだ。


 その行動の意味不明さに困惑して、受け取ることもせずにクッキーとグリモアを交互に見ていると、相手は照れ臭そうに頬を掻いてへらりと笑った。


「そうだとも。これは私が一番食べたいと思ったもので、一等好きなものだ。だからこそ、これをお前にも食べて欲しいのだよ。」


 そう言うとグリモアはぼくの手を取り、そこにジンジャーブレッドを置いた。


 硬いけど、少し指先に力を込めれば簡単にポッキリと折れてしまいそうな、その感触。

 そこからふんわりと漂ってくる、甘くも刺激的な香ばしさ。

 その香りを飲み込んだら、思わずごくりと喉が鳴った。


 食べて良いと言われたのならば、折角なのでその好意に甘えて直ぐ様齧りついてしまいたい、とぼくは思った。

 しかし同時にぼくの胸の内では、このまま口の中に放り込んでしまうのは何だか勿体無い、と言う気までもが徐々に芽生え始めてきてもいた。


 ぼくは、どうしたものかと掌の上のジンジャーブレッドを見下ろした。

 しばし考え、思考し、悩んで、迷って。

 やがて最終的にどうしたのかと言えば、先ずその芳しい香りを楽しんでからどうするか決めよう、と言うのが熟考の末のぼくの出した答えであった。


 ぼくは手にしているジンジャーブレッドを鼻と口の真ん前へと運んだ。

 すうっと軽く息を吸い込む。

 砂糖の甘い香りと生姜の清涼感ある香りが鼻を通り、それを胃に溜め込む。

 そして深呼吸をするが如く、口から息を吐き出すとつい“ほう…”と感じ入るような吐息となって零れた。

 

 それからも一時の間、ぼくはその香りを堪能し続けた。

 何度嗅いでもその芳しい香りには飽きが来ない。

 嗅げば嗅ぐ程に「良い香りだ」と思うと同時に「美味しそうだ」と食欲をそそられる感覚を覚えてしまうのだ。

 しかし、それでも齧ってしまえば直ぐに無くなってしまうと思うと、これがもう堪能出来なくなるのが何だか勿体無く感じてしまって、名残惜しむようにずっと香りを楽しんでばかりいた。


 すると不意に、ぼくのお腹から“くうぅぅっ”とささやかな鳴き声が響いた。

 自分のお腹を見下ろし、撫で、それからちらりとグリモアを見る。

 始めはグリモアもきょとんとしていたが、やがて堪え切れなかったのか、小さく吹き出しては肩を揺らし始めた。


「なんだ。お前も腹が空いていたのか。そうならそうと、早く言ってくれたら良かったのに。」


 クスクスと笑いながらグリモアは言う。

 ぼくは何だか気恥ずかしくなって、唇を尖らせて視線を逸らした。


 別にそこまで笑わなくたって良いのに……。


 そう胸の内でぼやいて不貞腐れていると、ぼくの頭をグリモアの手がぽんと叩いた。


「お食べなさい。何も、これがお前の最後の食事って訳ではないんだから。」


 また食べたいと思ったのならば、きっとまた次の機会があるだろうよ。

 グリモアのそんな言葉に、ぼくは再びジンジャーブレッドへと視線を落とす。

 口の中に湧いた唾液を飲み込み、こくりと頷く。

 そしてぼくは口をかぱりと開けると、そこでようやくクッキーに齧り付いたのだった。


 ぱきんっ。


 口の中で硬いものが砕ける音が響く。

 次の瞬間、舌の上をざらざら、ごろごろとした食感が乗り、喉を通って口から鼻腔へと菓子の甘味と生姜の風味がふわりと漂ってきた。

 さくさくと音を立てて何度も歯を立てれば、飲み下すには少々大きな塊であった欠片達はどんどんと数を増やしては小さくなっていく。

 丁寧に、丁寧に、入念に噛み砕いていけば、一口分のクッキーだったものはやがて跡形もなく、砂粒の如くさらさらとした細やかな残骸となっていく。

 そこでぼくは顎を少し上に傾ける。

 喉からごくりと音を鳴らしては、クッキーの一部だったものを胃の中へと落とし込んでいった。


 ふぅ、一息吐く。

 目を閉じたままに余韻を味わい、浸る。

 それからゆっくりと腕を持ち上げて、掌を頬っぺたにぴとりと当てると、ぼくは思わずと言った調子で声を溢した。


「お……おいし~~っ!」


 うっとりとした笑み、蕩けるような頬の緩み。

 咀嚼の最中に感じた味と言い、嚥下した後に口の中残った風味と言い、何処を取っても完膚なきまでに“美味”としか言い表せない甘露の余りの美味しさに、ぼくは感動を禁じ得なかった。

 思わず頬っぺたも落っこちてしまいそうだ!


「サクサクでー、甘いのにさっぱりしててー、とーっても美味しくってー…!」

「何枚でもイケそう?」

「そう、それ! これなら確かに、何枚でも食べたくなっちゃう!」


 クッキーの魅力を理解したぼくがそう言うと、グリモアがそれに賛同して「そうだろう、そうだろう。」と嬉しそうに頷いた。


「私だってそう思ったのだ。だからお前にもそのクッキーの良さが解って貰えたのなら、私も嬉しいよ。」

「でもこんなにも美味しいのなら、尚更ぼくにくれちゃって良かったの?」


 ぼくがそう訊ねれば、にこやかな笑みでこくりと頷いたグリモアは言った。


「言っただろう? 感情を食する私達の、もう一つの食事法があると。それが“これ”なのさ。」

「これ? ……んん?」


 イマイチ言っている意味がわからない。

 そんな風に片眉を持ち上げれば、グリモアはくすりと笑った。


「“共感”さ。他の誰かと同じ想いを共有する事で、一等多くの糧が得られるのだよ。何せ、これは互いに糧を与え合うだけでなく、むしろ相乗効果すらも見込める唯一の方法だからね。……私の仲間の中にはそれを“共鳴”と呼んでいる者もいるよ。」


 グリモアの話を聞いて、ぼくは「ふぅん」と唸った。

 何だ、そんなことでも良いんだ。

 なんてことを考えていると、「只…」とグリモアが話を続けた。


「共感するには当然、同じ感情を抱く相手がいると言う条件をこなさなければならないから、実はとても難しい事でもあるのだよ。何処かに少しでも相違があれば、得られるもとてそう大して見込めない。上手くいけば得るものが多くも、非常に難度の高い事でもあるのだよ。」


 そうなのか、それは意外だ。

 ぼくは目を丸くして驚いた。


「じゃあ今のも、全然だったってこと?」

「それが………。」


 ぼくがそう訪ねてみれば、グリモアは難しい顔をして言葉を止めた。


「それがね………お前から感じたものは、非常に多いものだったんだ。それこそ、一度で腹を一杯に満たせる程に大変質も良い。」


 そしてグリモアはぼくへと顔を近付けてきた。

 物凄く綺麗なグリモアの顔は、見ていると何だか不思議といたたまれなくなってしまうのを感じた。

 ……頬が熱く感じてしまうのは、多分気のせいだ。


「お前……さては、私に何の警戒心も持っていないな?」

「……へっ?」


 思わずすっとんきょうな声が零れる。

 グリモアは厳しい顔をして尚も話を続けた。


「質の良い共感と言うのはね、普通、信頼関係を成せている相手でなければ出来るものではないのだよ。何故ならば、人と言うのは見知らぬ相手に対して真っ先に抱くのは疑念だ。脆弱故に、先ず疑う事から始める生き物なのだ。それが身を守る為の最初の手段だからね、その為に人は総じて心を閉ざしているのが普通であり、それが当然である筈なのだよ。なのに──」


 グリモアの人差し指がぼくの額をツンッと突ついた。

 「あいたっ」と小さく悲鳴を上げたぼくは、ちりりと微かな痛みを感じた額に手を当てた。


「お前は“ノーガード”だった。微塵も他人に警戒心を抱いていない、完全なる無防備な状態だったのだよ。実に危なっかしい。そんな状態で、良くもまぁそうも平然としていられるね? 全く。これじゃあいつ誰につけ入られてもおかしくないだろうよ。」

「な、何だよう……別に、ぼくだって警戒心くらいは持ってるよ。」


 例えば………彼とか。

 決して口には出せないが、胸の内でそうぼやく。

 グリモアが「本当に?」と聞き返してきた。


「本当だよ。あなたは………確かに、余り怖いとは思えないけど。知ってる子に似てるから。」

「似ている? 私が? 一体誰に──?」


 ぼくの返答を聞き訝しげに眉を寄せたグリモアはそう言うも、直ぐに頭を振って「いや、今はそれを気にする必要はないか。」と呟いた。

 再び視線がぼくに向く。


「何はともあれ、お前のその無防備さは私達人形にとってはとても都合の良いものではあるが、同時に、それはとても危険な状態である事だって自覚しておくれ。世の中、人を騙す事に長けた者は五万といるのだから。そう言ったものに目を付けられぬよう、知った仲でないのであれば先ず、疑う事から始めなさい。良いね? アーサー。」

「むう………はぁい。」


 そんなこと、言われなくたってわかってるのに……。

 ぼくは腑に落ちないのを表情露にしつつも、そこは素直に返事をした。

 そしてまだ掌に残っているジンジャーブレッドへと視線を落とす。


 まだ右腕の部分しか齧っていないジンジャーブレッドは、たったの一枚であれどもまだ大部分を残している。

 思いもよらずお説教を食らう羽目となってしまったが、それを見詰めれば沈み掛けた気持ちも途端にワクワクとした気持ちの方が打ち勝っていく。


 そうだ、ぼくにはまだこれがある。

 これを一口齧れば、またあの至福な一時を味わえるのだから、落ち込んでばかりではいられない。

 そしてぼくはまた口をかぱりと大きく開けると、頭からがぶっと噛み付いた。




 バリンッ。




 ジンジャーブレッドが砕ける良い音が口の中から響く。

 バリボリ、バリボリと咀嚼すればまたも口の中を満たしていく、美味なる甘味を味わう幸せの時間。

 もぐもぐと口を動かせば揺れる柔らかな頬には自然と笑みが浮かび、美味しくて落ちないように添えた掌に頭を凭れさせながらぼくは念入りに噛み砕いていった。


「はあぁ……やっぱり美味しい。こんなの、何回でも食べたくなっちゃうに決まってるよ。…ねぇグリモア。これ、さっき手作りだって言ってたけど一体誰の──………ん?」


 はた、とぼくの視線がとあるものへと止まる。


「………何だこれ?」


 それは偶々ひっくり返して見付けた、ジンジャーブレッドの裏にあった模様──いや、文字だ。


 人を象ったジンジャーブレッドの顔や服の模様を描くのに使われたカラフルで甘い味のする彩りとはまた違う、何やら細く鋭利なもので引っ掻いたような傷で刻まれたそれは、どうにも元々あったものではないように思えて止まなかった。


「んー……何て書いてあるんだろ……?」


 文字であることは辛うじてわかるけれども、解読するには少々頭を捻る必要のある程に形が歪んでいるそれを、ぼくは目を細めてじぃぃーっ……と観察してみる。

 すると、しばらくして謎は少しずつ解けてきた。


「ええと………“ぐ”……………“ぐりむ”…………ううん、違うな………“ぐりもあ”………………“グリモア”?」


 ぼくは思わず「あれっ?」と声を溢した。

 ジンジャーブレッドの背中に書かれていた文字は、なんと“グリモア”──目の前の人物の名前だったのだ!


 戸惑いを隠せず、ぼくはグリモアを見た。

 ねぇ、これ何? と聞きたいばかりであったぼくだけれども……その質問を口にする前に、グリモアの様子がおかしいことに気が付く。


「グリモア?」

「……ああ、いや、何……気付いてしまったのか、と思ってね。いやはや……ふふ、気付いて欲しくもあった筈なのに、今となっては何だか………ふふふっ……恥ずかしいな……。」


 そう、よくわからないことをポツポツと、ぼくに言っているのかそれとも独り言なのかわからない調子で言葉を続けるグリモア。

 身体の前で組んだ手をもじもじと落ち着きなく動かしては、視線があちらこちらへと頻りに泳ぐ。

 色白な素肌を晒す頬とてどうしてか朱色に染まり、いたたまれなく動かす掌を時折頬に添えたりとしながら、何処か恥じらうような素振りを続けていた。


 その口振りからして、どうやら文字を掻き書いたのはグリモアのようだった。


 ………?

 今、背後から何か物音がしたような……?

 何だろう?


「ふふ……ふふふふっ……そう、それは“グリモア”と名付けられた人形のクッキー………そしてそれを美味しく頂くのは“アーサー”。つまり………ふふふ、うふふふふふ……!」


 不意にグリモアの赤く染まる頬がふにゃりと緩む。

 両掌を両頬に添え、小さく横に首を振りながら偉く嬉しそうにしていた。


「もうっ……大胆だなぁ、アーサーったら……! そんなせっつかなくたって、私はいつだってお前にこの身を捧げたって……!」


 ………どうやら、この人物は自分の世界に入ってしまったらしい。

 こちらが何も言っていなくても、一人で延々と何かを喋っている。

 その意味はぼくには不可解すぎて良くわからなかったのだけれども……何となく、別段知らなくても良いことだと言うことだけは、ぼくにも察することが出来た。


「ああっ…アーサー……アーサー……アーサーっ…! 私はっ……私は、お前が……愛するお前が望むのなら、幾らでも──!」

「“幾らでも”………何だって?」


 突然、ぼくの背後からぬっと腕が伸びてきた。


 ガシィッ!


 途端、その手にグリモアの顔面が鷲掴みにされた。

 グリモアの口から「あっ」と声が零れた。

 うっとりとしていた表情が一変、顔色は赤から青へ。

 グリモアの顔に焦りが見え始める。

 それを見てぼくは恐る恐る振り返ってみた。


 ……一体、いつの間にそこに立っていたのだろう?

 そこには無表情なのに嫌に鬼の形相を彷彿させる、怒りモード全開な黒髪の“彼”がぼくの直ぐ後ろに立っていた。


 こんなに近付かれていても、足音なんて一切聞こえてこなかったものだから、思わず驚いたぼくの口から「ひえっ」と悲鳴が上がった。


「あ、あー………ええと………そのぅ………。」


 額から汗をだらだらと流すグリモア。

 紡ぐ言葉はしどろもどろ、視線があっちこっちと泳ぎに泳いでいる。

 自棄に落ち着きのない手は、胸の前で人差し指の先同士をツンツンと小突かせていた。


「あの、だね……? 少しばかり………そのう、気の迷いを起こしてしまった、と言うか………えーと………魔が差した、と言いますか………。」


 そう言うグリモアは肩を竦め、尚もどんどんと縮こまっていく。

 へらりと笑って見せた笑顔はどうしようもなく引き釣ってぎこちなく、口を衝くのだってしょうもない言い訳ばかり。

 それに、低く唸る声がこう返した。


「お前の言い訳はいつもそれだな、グリモア? ………他に、何か、言いたい事は?」


 いよいよ涙目となり始めたグリモアに、毛頭怒りを納める気のない相手の掌が力を込め始めていく。


「あっあだだだだっっ!! ちょっ頭がっ!! 頭が割れちゃううっ!!!」


 上がる悲鳴、じたばたとばたつく腕。

 痛みを訴える悲痛な声が空間に響くも、情け容赦は欠片もなく。


「あ、アーサー! アーサーッ!! 頼む! 何とか彼を止めてくれ!! このままじゃあ私の頭がっあああーーっ!!」


 当人に言っても無駄だと理解したのか、必死な形相のグリモアがぼくに助けを求めてきた。


「ええっぼくがあのヒトに…!?」


 無茶を言わないでくれ…!

 ぼくは胸の中でそう叫ぶ。


「多分だがっ私が思うにお前の、お前の命令なら彼も従ってくれる、筈っ! だからっは、早くううっ!」

「そう言われても……。」


 あんな恐ろしいヒトに命令なんて……。

 つい怖じ気付いてしまうぼくだけれども、かと言ってこのままグリモアのあの綺麗な顔面が彼の怪力によって歪んでしまうのは何だかもったいないような気もするし、それに──。

 

 そうしてぼくは恐々としながらも、彼との対話を試みることに決めると、意を決して彼へと向かい合った。


「あ、あのっ!」


 ぎょろり。

 真っ黒な瞳がぼくに向く。

 それだけで思わず泣いてしまいそうになるけれど、それでもぼくは声を絞り出す。


「あ……あまり、グリモアを苛め──」


 そこまで言って、ふと違和感。

 ………うーん、これは何か、少し違うような……?


「──じゃなくて、あまり酷くグリモアを懲らしめないであげてくれませんか? 何かちょっと、可哀想だし………それに、“女”の人の顔は余り手を出さない方が良いと……思うし……。」

「………。」


 そう言うと、ぼくを見る彼の表情に、初めて雰囲気以外で見て取れる無以外の感情が見えた。

 ただそれは、どんな感情かと聞かれたらとても言葉にして言い表すにはやや難しいような……ぼくにはどうも形容しがたいものだった。


 伏せがちで目付きの悪い目は普段よりも少し大きく見開き、丸くして、まるで驚いているかのような。

 固く閉じた一文字の口は、口角が僅かに下がって、不満そうに。

 それがスッと目を細めたかと思えば、少し上向きに顎を上げて鼻を通して息を吐いたのだ。

 その様からは何処か満足そうにも思えてしまう。


 訳がわからない。

 目の前の人物が一体何を考え、今どんな感情を抱いているのか、表情や仕草を見たところで何れもてんでちぐはぐで察しにくい。

 そうして相手の反応に困っていると、グリモアの顔面から彼の手が離れた。


 ドサッと膝から崩れ落ちるグリモア。

 痛みに悶えるくぐもった呻き声が聞こえてくる中、今度はぼくの方が驚きに目を丸くした。


「(ほ、本当に言う事聞いてくれた……!)」


 グリモアの言う通り、彼は頼めばそうしてくれた。

 しかし──。


「……ひっ!?」


 安心したのも束の間、ぼくは彼を見てまた悲鳴を上げた。

 何と、彼は──“怒って”いたのだ。


 ぷるぷると震える肩。

 固く握り締めた拳。

 冷ややかにぼくを見下ろす目に、食い縛らん程にきつく閉じた口。


 そんな鬼気迫る様子から、ぼくはそこで初めて自覚したのだ。

 彼はぼくが頼んだからこそ止めてくれたのではなく、その怒りの矛先が自分の方へと向かってしまったのだと。


 ぼくは愕然とした。

 心の底から恐怖した。

 ぼくは……ぼくは、何て事をしてしまったんだ……!


 がくがく、ぶるぶる。

 膝を震わせ、涙目になって、今にも腰が抜けそうになるぼく。

 いつもならばここでナイトくんがすかさず助けに入ってくれていたのだが……如何せん、あの子は今この場にいない。

 今のぼくに頼れるものなんて、何一つとして残されていないのだった。




 正真正銘、ぼく、絶体絶命のピンチである……!




「あいたたた……全く、お前って奴は本当に容赦が無いんだから……。」


 一気触発の空気の中、足元で蹲っていたグリモアがむくりと起き上がる。


「お前、割と本気で力を込めただろう? 私でなければ顔が潰れていた所だったよ、もう………ん?」


 まだ痛みが残っているのか、顔面を押さえながら前を向くグリモア。

 そこで、涙目でぶるぶる震えるぼくと怒りの形相で戦慄く彼の姿を見て、不思議そうに首を傾げた。


「これは………どう言った状況かな?」

「ぐっ……ぐりもああーっ!」

「おわっと!?」


 状況を飲み込めないグリモアに、ぼくはすがり所を見付けたとばかりにその胸元へと飛び付いた。

 突然のことで驚き、ぼくを受け止めつつもたたらを踏むグリモアであるが、小柄なぼくが勢い良く飛び付いたところでその身体が後ろへと倒れることはない。

 彼の怒りが恐ろしくてしょうがないぼくは、まっ平らで少し固い胸元に無我夢中で顔を押し付けながら、グリモアにすがり付いて助けを求めた。


「助けてグリモア! ぼく、ぼく、あのヒトに怒られっ……殺されちゃう!」

「え? えーっと…?」

「グリモアのせいなんだからな! グリモアの言った通りにしたら、ぼくまで怒られる羽目になっちゃったんだからっ…!!」

「あ、アーサー、話すなら此方を向いて──」

「だから助けてよ! ぼくまだ死にたくないよう! あのヒトにボコボコにされるのはやだよう!」

「……ううーん、困ったなぁ……。」


 胸元でわあわあと騒ぐぼくに、グリモアは途方に暮れるような声を溢す。

 ぼくはそれに気付かないで尚も必死に助けを求めていたが……そこへ突然、フッと自分の身体が浮き上がった。


「離れて。」


 そう言ったのは彼だ。

 ぼくの身体を持ち上げたのも、勿論彼。

 首裏の襟をがしりと掴み軽々片手で持ち上げた彼を見て、ぼくは退路を絶たれてしまったとばかりに顔を青ざめていく。

 しかし、そんなぼくの傍でグリモアが安堵の息を吐いた。


「ああ、ありがとう。助かったよ。こうも顔が見えなくちゃ、何を言っているのかさっぱり解らなかったものだから……。」


 そう言って眉を八の字にして笑むグリモア。

 心なしか、横に長い耳が下に傾いたようにも思えた。

 そこで今までグリモアの様子など微塵も気にしていなかったぼくだけれども、その言葉を耳にして「んっ?」と違和感を抱いた。


 何を言っているのかわからなかった、だって?


 そんなぼくに、グリモアはこう言った。


「ごめんよ、アーサー。さっきお前は何て言っていたんだい?」


 きょとんと呆けるぼく。

 グリモアは何でそんな事を聞いてくるのだろう?

 思わず恐怖心すらふっ飛んでしまう程の疑問が浮かぶ。


「えっ? ええと………その、“助けて”って──」

「その前。」


 グリモアから訊ねられ、訳もわからず答えようとすると、後ろから彼にそんな事を言われた。

 思わずぼくの口から「えっ?」と驚きの声が出る。


「前……?」

「ん。それよりも、前。」


 彼の言う言葉に、ぼくはグリモアと顔を見合わせ首を傾げた。


「えっと………もっと前に言ってたこと?」


 恐る恐るにそう訊ねてみる。

 彼は「ん。」と言葉短に肯定らしき返答をした。


「ええと、ええと………前に言ってたことって………“グリモアのせい”?」

「えっ私?」


 記憶を辿りながら自分が口にしたことを思い出していく。

 ぼくが言ったことにグリモアが「えっ? えっ? 私のせいって何の事だ?」と一人困惑しているが、彼はと言えばそのことではないと首を横に振って否定した。


「“あのヒトに怒られちゃう”?」

「違う。」

「“殺されちゃう”?」

「もっと前。」

「ええ……? もっと前………?」


 彼の求めている答えがわからず、ぼくは困り果てる。

 もっと前に言っていたことって何なんだ……?


「私の知らない内に、何を話していたんだお前達は……。」


 そんな会話を続けていると、引いたような顔をしたグリモアがそんな事を言った。

 しかし、ぼくは未だに彼の言いたいことが良くわからない。

 頭を捻っても捻っても答えがわからず、難しい顔をしてうんうんと唸った。


 すると、しばらくして痺れを切らしたのか、彼が動いた。

 まぁ動いたと言っても“何処かへ行ってしまった”とかではなく、徐に腕を持ち上げるくらいだ。

 そうして人差し指を伸ばした手がグリモアへと向けられていく。


「“女”。」


 そう、一言だけ口にして。


 ぼくとグリモアが目をぱちくりと瞬かせる。

 そこで困惑の声を溢したのはグリモアの方だった。


「女だって? 私がかい?」


 そして視線がぼくへと向く。

 ぼくはこてんと頭を横に傾けた。


「え、だってそうでしょ? ドレス着てるし、仕草とかだって。それにカーテシーもしてたし……。」


 何処からどう見たって、女の人じゃないか。

 「それがどうかしたの?」と変な顔してそう言うと、今度はグリモアが「えっ?」と変な声を上げた。


「私は男なのだが?」

「そのくらい聞かなくてもわかるよ、何を今更………………うん?」


 ぱちくり。

 ぼくとグリモアが顔を見合わせる。


「……? 今、何か、幻聴が聞こえたような……?」

「幻聴? 一体どんな?」

「ええっと、“私は男だ”って……。」

「それは幻聴ではないね。紛れもなく、私がそう言ったのさ。」

「………? ………??? でも、でもでも、ドレスは女の人しか着ないし、カーテシーだって女の人がするものだって習ったよ? ってことは、ドレスを着ていたら女の人で、カーテシーをしたなら女の人ってことじゃないの?」

「うーむ………お前の中での男性と女性の区別がどんなものかは知らないが、それでも確かに私は男なのだよ。」


 それに間違いはないよ。

 グリモアがそう言うと、ぼくの頭の中では余計に疑問符がポコポコと湧き出てくる。


 絶えず思考はぐるぐる回り、ぐるぐる巡り、幾ら考えようとも答えが変わる筈なくたって、ぐるぐる、ぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐる………。




 ……ティン!




「……えっ、えええ~~~っ!!??? グリモア、男の人だったの!?」

「だからそうだって言っているじゃあないか。そもそも胸だって出ていないのに、女な筈がないだろう?」

「でも髪だって長いじゃん! 男の人はそんなに長くはならないよ!」

「男だって伸ばせば長くもなるって………もう! お前はさっきから笑い過ぎだ! こうなるって解っていたのなら、どうして早くに誤解を解いてやらなかったんだ!」

「えっあのヒトあれで笑ってたの!?? 怒ってたんじゃなくて!!??」


 わいわい、きゃあきゃあ。

 この短い間に、ぼくは何れ程間違いを重ねていたのか。

 ようやく誤解を解くことが叶い、真実を知ったぼくは愕然とする。




 存外、世界とは思い込みが過ぎると、こうも見える景色が変わってしまうらしい。




「あーもーっ訳がわからない! 一体全体、何が本当で何が間違っているのか、誰かぼくに教えてよおーっ!」




 ………兎にも角にも、ぼくはこうしてまた大人の階段を一つ、登ったのでした。


 めでたし、めでたし!





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