-26 反転する世界。②

 只一人が残された部屋、静けさが包む空間。

 喧しく鳴り響く自らの心音を聴きながら、震える腕が額を撫でる。


 落ち着かなきゃ。

 平常に戻らなきゃ。

 そう思って胸元をきゅっと握り締めるも、暴れ狂う心臓は痛いくらいの速さで脈を打つ。

 少年は、深く、長く呼吸を繰り返して、どうにか落ち着こうと自分を宥める。


「(……キス、されちゃった……。)」


 それでも、どうにか落ち着こうと思った所で、どうしても脳裏に想起してしまうのは先程の出来事。


 寸での瞬間、薄目にて見たその景色。

 音もなく、感触もなく、それでも確かに自分の額に触れていたのは、自身に優しく囁き掛けてくれていた、薄く形の良いあの唇。


 脳裏で今見た景色が何度も再生、繰り返し見て、高揚する身体に逆上せ上がりそうになる頭。

 そう言う年頃である思春期の彼は、絶えず苦悩する羽目となったのだ。


 それもその筈である。

 いとも容易く他者を手玉に取り、調子を狂わしてはその酷く狼狽する様を眺めて面白がる……そこに愉悦を見出だす先程の存在に、すっかりと目を付けられてしまっている彼の心には、今や平穏と言う二文字は無いに等しい。

 近付けられたその顔が、その容姿が、生まれてこの方他に類を見ない程のものであり、人の目には目映いばかりに美しく、恐ろしいまでに貌の整った風体であるのものだから。


 長い睫毛を揺らして瞬く、青く透き通った空を宝石に閉じ込めたかのような瞳に見詰められて。

 陶器の様に色白く、滑らかで艶っぽい肢体に迫られて。

 揺蕩う袖、振り袖の下に隠されていた、線の細い手が、指先が、つぅと自身の肌を掠めるように触れていって。


 その身に付けた淡い空色の和装、着物姿にて露に見える首筋が。

 水晶のように美しく澄んだ色の長髪が。

 幼く見える小柄な容姿であるにも関わらず、時折垣間見える、途方もない程に歳を重ねてきたかのような、古ぶしくも目を惹き付けて止まない物言いや振る舞いが。


 それらを見て、正気でいられる筈がなかった。

 そんなものを目の当たりにして、取り乱さない訳がなかった。

 いつだって思わせ振りなその言動や態度を見せられて、距離を詰められてしまって、耐えられる筈のない彼の心臓はいつだって持ちそうにない程に脈打った。

 自分にはもうどうにも出来ないくらい、それは抑えられなくなっていたのだった。


 それは何故か? 答えは簡単だ。


 そのヒトの声が。

 そのヒトの視線が。

 そのヒトの仕草が。

 そのヒトの表情が。


 一挙一動に至るその何もかもが、どうしたって少年の心を無性に掻き乱してしまうのだから。


 顔が熱い。

 胸が苦しい。

 目を閉じれば、瞼の裏にそのヒトの姿が浮かび上がってくる。

 そのヒトが触れた所を思い起こすだけで、胸が高鳴っていく。

 空唾を飲み込んだ喉はもう、カラカラだった。


 少年は──麻兎アサトは布団の中で横になり、記憶を反復。

 思い出しては顔に、身体にと熱を込めて、無性に感じるむず痒さから背を丸め、身体を縮めていくのだった。




「──麻兎………おい、麻兎!」


 ぱちり。

 ふと瞼を持ち上げる。


 突然、覆い被さった布団の向こう側から振り掛かってきた大きな声。

 とても良く聞き慣れたその声に、麻兎はもぞりと身を捩り布団の端から顔を覗かせて外を見る。


 そこにはいつの間にか誰かが立っていた。

 ベッドの脇に立ち、その手に幾つかのフルーツを入れた小さな編み籠を抱えて自分に声を掛けていたのは、声を聞いて直ぐに頭に思い浮かばせた通りの人物だった。


「………ある、く?」


 掠れた声で、透明な口当て……もとい、呼吸器がいつの間にか外されている口で、麻兎が舌足らずに声に出したのは、自身が良く見知ったその人物の名。




 一等仲の良い友人──或駆アルクである。




 切れ長な釣り目、無愛想なしかめっ面。

 口調は荒く、目付きも悪い。

 如何にもガラが悪そう・・・で、見た目からイメージするのは素行の悪い不良のよう。

 しかし、皺も汚れも一つとしてない真っ黒な学ランを身に纏い、胸元のボタンはかっちりと漏れ無く止めてある、凛とした真っ直ぐなその姿勢を見たならば恐らくきっと、どちらかと言えば真面目そうだとも思わせてしまう事もあるかもしれない。

 勿論“”が付く方の、だ。

 まぁそれにしたって、良くも悪くも気難しそう、と言うのが極一般的な彼を見た感想となるであろう事は確かな、そんな人物。


 そんな彼の頭上、赤みを含めた黒色の短髪は、ふわりふわりと柔らかく浮かせ毛先が所々跳ねさせた風体でセットされている。

 そこに一際長く伸ばした右側の揉み上げが、如何にもな特徴こだわりであるような風貌をしている。

 ──そんな、少年でもあるのだった。


 或駆はのそりと布団から顔を出した麻兎を、切れ長の鋭い目で見下ろしていた。

 それを視界に映すや否や、常に波立たせている眉間の皺をより一層深めて、牙を向くようにかぱりと口を開いたのだった。




「お前っ……何度言ったら解るんだ! 身体が痛かろうが、絶対に横に向けるなって言ってるだろうがッ!!」




 開口一番、怒号が轟く。

 切れ長で釣りがちな目を怒り露により釣り上げて、鬼のような形相をして麻兎を睨み付ける。

 その声の余りの煩さに音が頭の中をキンキンと響き、ガンガンと痛みを誘発させてくる。

 堪えかねた麻兎は思わず耳を塞ぎ、肩を竦めた。


「あるく………うるさいよ。ここ、びょーいんだよ…? ほかのひとのめいわくに……。」

「ンなこたァ解ってる!! 今はそれよりもお前だッこの馬鹿が! さっさと身体を戻しやがれ!」


 「一体何を考えてやがンだ、テメェは!!」と罵りながら、此方の言葉など聞く耳持たず、怒鳴ってばかりの友人。

 半ば無理矢理に促された事で、麻兎は渋々仰向けへと身体の向きを変えるのだった。


 視界一杯に天井が広がる。

 身体を捩るだけですらも直ぐに疲れてしまう身体の為、麻兎は重労働した後の如き疲労に深く長く息を溢す。

 それから、身体からゆっくりと力を抜いていった。


 そうやって落ち着いていたのも束の間、力を抜いた表情だった麻兎の眉間にふと小さく皺が寄る。

 居心地悪そうに身動いだかと思えば難しい顔をして、ベッドの脇に置いてあった椅子にどかりと腰掛けていた或駆を徐に見上げた。

 或駆の細くて切れ長な眉が、片方だけくいっと持ち上がった。


「あるくぅ……。」

「ンだよ。」

「せなか……。」


 背中が痛い。

 麻兎は言葉短にそう訴えた。


 それを聞いた或駆は暫し黙り、顔をしかめ、眉間の皺をまた深くする。

 軈て、大きくて大袈裟な溜め息を溢すのだった。


「そのくらいは我慢しろ。」

「ええ……? でも……。」

「我慢しろって言ってンだろうが。背中の怪我はもうとっくに治ってンだよ。ンな事よりも、今は他ん所の怪我の為に安静にしてろっての。それともなんだ、オメェは怪我をより悪化させたいのか? え?」


 そう言うと、或駆は麻兎の額をぺしりと平手打った。

 「あう」と小さな悲鳴を溢し、そして叩かれた所を擦る。

 掻き上げたその長い前髪の下には、厳重に巻かれた包帯がちらりと見えていた。


 麻兎の額のその包帯は、ほんの一部に過ぎない些細なもの。

 全体に置いて只の一端に過ぎないものである。


 彼の身体には、至る所に包帯やガーゼが貼り巡らされていた。

 何本ものチューブに繋がった針が腕に脚にと皮膚を通して刺し込まれており、良く見ずとも何処も賢も怪我ばかり。

 そこら中に手当てされた形跡があった。


 今はもう外れてしまっていたけれども、ベッドの傍らには自ら息をすることも儘ならない患者の為の呼吸を促す機材とて、まだ置かれたままでもあるくらいだ。

 横たわった彼の傍には、何か異変があれば即座に人を呼ぶ為のナースコールのボタンが手に届き易いようにとコードを伸ばし、置かれているが、それはベッドの端に落とされて宙ぶらりんとなり、揺れていた。


 誰が見ようともその姿は、酷く痛ましい有り様であった。


 しかし、或駆の説得を聞いた所でそれでも納得がいかない、背中が痛いと顔をしかめて小さく呻く麻兎。

 そんな友人の駄々に、或駆はナースコールのボタンを摘まみ上げながら、仕方なさげにまた息を溢した。


「お前な………折角もうすぐ退院出来るって時に、階段から転げ落ちるなんて、んなヘマをしなけりゃこんな事にはならなかったんだぞ?」


 言いながらに、傍らのテーブルに置いていたフルーツを一つ手に取った。

 その傍に置かれた小さなナイフをも取り出す或駆。


 そうして彼がさくさくと丁寧に切り分け始めたのは、真っ赤でまん丸とした瑞々しい艶のある林檎だ。

 視線は手元に落としながら、彼は「調子はどうだ?」「具合悪ィ所はないか?」「腹ァ減ってるだろ」「飲み物、持ってこようか」と絶えず麻兎に声を掛け続ける。

 その最中にも、ベッド脇のテーブルに用意されていた皿の上には一つ、二つと小さく切り分けられた林檎が次々に置かれていく。


「良い加減、流動食にも飽きたろう? 医者先生もそろそろ固形に切り替えても良いっつってるし、消化に良いモンを持ってきてやったんだ。……食べれそうか?」

「うん。」

「そういやこないだ、看護婦さんがぼやいていたぞ? お前が飯を食ってくれねェってよ。好き嫌いしてねェでちゃんと食えっつってるだろうが。只でさえ弱った身体だ。食わねェと治るモンも治らねェんだし、我が儘言ってねェでちゃんと食え。」

「うん。」

「リハビリはちゃんとしているか? サボってねェでしっかりするんだぞ。漸く歩けるまで体調が戻ったってのにまた寝た切りになっちまって、折角作った体力もまたがた落ちだ。学校にはもう話は通してっから、こっちの事は気にする必要はねェけどよ……。」

「うん。」

「よし、切れたぞ。食うか? ……一人じゃ食べ辛ェか。ほれ、口開けろ。どうだ? 噛めるか? まだ顎の力が弱いままか。よし。もうちょい小さく切ってやっから、今は少しでも腹に入れとけ。な?」

「むぐ………う、ん。」


 ぽんぽこ、ぽんぽこ、絶えず話題を振って、飽きもせずに話を続ける友。

 こうも甲斐甲斐しく自分の世話を焼いてくれる彼は世話好きと言うよりも、どちらかと言えば恐らく“お節介焼き”である性分だろう。

 身体が上手く動かせないから彼の世話焼きには随分と助けられているのだが………それでもやっぱり、何処か些か度が過ぎているような気がしないでもない。


 でも、自分の世話を焼いている彼はいつも何処と無く機嫌が良くて、自分がそれを受け入れる度に嬉しそうだった。

 それでいて仕方がなさそうにしつつも目一杯手助けしてくれるものだから、いつだって彼が委ねる通りに麻兎は為すがままとなるのだった。


 ……しかし、それにしてもしゃりしゃり、しゃりしゃりと小気味の良い音が彼の声に混じって聴こえてくるそれが、何とも耳に心地好い音だった。

 此方がどんな単調な返答をしようとも、お構いなしで次から次にと話題を振ってくる友人の話をそっと聞き流し、瞼を落とした麻兎は静かにその音を聞き入っていた。


「…全く。只でさえ病み上がりで支えもなけりゃまともに動けねェ癖に、どうしてそんな事になっちまったんだ?」

「うん……。」

「……オイ、聴いてンのか?」

「ん………きいてる、よ。」


 訝しげな顔でじとりと自分を見る或駆。

 瞼を伏せたまま、こくりと頷いて返事をした。


「………あのね。おばあさんが、ね、おちそうに、なって、たの。かいだん、の、うえ。それで…あぶない、って、おもったら……つい………。」

「……またか! まァたそれか、お前は!!」


 麻兎が話した内容に、再び声を荒げる或駆。

 同時に響かせた果物ナイフを持つ手が直ぐ傍にある机の上に叩き付けられる。

 その大きな音に、驚いた麻兎の肩がびくりと跳ねた。


「何度言ったら解るんだ、何遍言ったら解ってくれるんだ! どうしてッ……何でお前はいつもそうなんだよ!!」

「あ、ある、く……?」

「どうしてお前はそうやって、他人なんぞの為に自分を蔑ろにしちまうんだッ…!!」


 或駆の手が肩に掴み掛かってくる。

 身体ががくがくと強く揺すられて、走った身体の痛みに麻兎は思わず顔を歪めてしまう。


 痛いよ、或駆。

 そう口にしようとした麻兎は彼を見上げて、それから言葉を飲み込むのだった。

 見れば、切れ長の鋭い目の端には、大粒の涙が浮かび上がっていたのだ。

 その雫は今にも落ちそうだった。


「お前っ、解ってンのか…!? 下手したら今頃、死んでいたかもしれねェんだぞ……!?」


 或駆の涙一杯の目が瞬く。

 ぽろりと溢れた雫は真っ直ぐに彼の頬を滑って落っこちて、間も無く白いシーツの海に小さな小さな染みを作る。


「ずっと……ずっと心配で、お前が目を覚ますまで俺はずっと不安で……もしかしたら、もう、二度と目を覚ましてくれなくなっちまうんじゃねェかって、思ったりして……。」


 ぐすっ。

 鼻を鳴らした或駆が、乱暴に目元を腕で拭った。


「……あの時だってそうだ! 何日経っても、怪我が治っても、全ッ然目を覚まさないままで丸一年。お前がいる病室にいつ来ようが何しようがずぅっと寝っぱなし……話し掛けた所で反応一つも返しやしねェ! それでもう、生きてんのか死んでんのかも、解らねェくらいでよ……。」


 涙を拭き取った或駆が再び麻兎を見て、言葉を続ける。

 しかしその目にはまた涙が込み上がり始めていた。


「お前は本当に、人が良い。誰にでも優しくて、誰にでも手を差し伸べられて、間違った事にはちゃんと“間違ってる”って言える。そう言う凄い奴なんだ。誰に対しても胸を張れるくらい、お前は出来た奴なんだよ。」


 或駆は言った──「皆だって、お前の事をそう思ってる。周りはちゃんと解っているんだよ。」と。

 麻兎は視線を外方へと揺らした。

 或駆はそれでも言葉を続けた。


「お前は誰よりも優しい奴だ。それも、お人好し“過ぎる”程にな。……でもよ、だからって自分を犠牲にしてまで他人を助けようとすることはねェだろっ……!」


 彼は顔を俯かせ、絞り出すように声を吐き出す。

 ぱたり、ぱたりと微かな音を立てて、また一つ、また二つ……と雫が布団を濡らしていく。

 麻兎は、そんな彼に一瞥すらもしないまま、上手く回らない舌足らずの口で「………どうして?」と小さく聞き返した。


 途端、バッと勢い良く顔を上げた或駆が歯を見せ、目を剥いた。

 必死の形相だった。

 彼はそのまま衝動的に麻兎へと迫り、胸ぐらを掴み上げるのだった。




「──お前がッ赤の他人如きの為に何度も死にかけてっからだよッッ!!」




 彼は吼えるように言った。


「……高々、偶々通りすがっただけに過ぎない奴に、お前は何回命を懸けてくれた? そいつらはお前に何をしてくれた? そいつらはお前に何を返してくれた? お前は何度も死にかけているってのに、助けられて今をのうのうと平穏無事に生きている奴らを見て、お前は何とも思わないのか……?」


 その問い掛けに、麻兎は答えようと口を開き掛ける。

 しかしそれを遮って「いいや、お前の事だ。そうは思わねェだろうな」と或駆が続けた。

 正に自分が言おうとしていた事だった。


「だが俺はそうは思わねェ、思える訳がねェんだよ……! 俺が知るお前はたった一人しかいない。ちっせぇ頃からずっと一緒で、血は繋がってなくても兄弟みたいなモンで、何年も一緒に暮らしてきてっからもう家族も同然で……そんで、俺の一番のダチなんだって。そう思える麻兎は、お前只一人しかいねェんだよ! お前がいなくなったら、代わりなんて世界中何処探したっていやしない! ……それがどうして、俺の知らねェ内に、俺の知らねェ奴らの為に、お前がこんなにもボロボロにされなくちゃならねェんだ……!」


 そう言って、涙を堪えようとくしゃりと顔を歪めた或駆だったのだけれども、それももう、難しそうだ。

 喉を鳴らすような呻く声が聞こえた。

 その次の瞬間、彼の身体がずるずると膝から崩れ落ちていった。


「なァ……頼む、頼むよ麻兎ォ……もうこんな事止してくれよ………こんな事ばかり続けてたらお前は………いつか本当に、死んじまう……!」


 麻兎の脇の辺りの布団に顔を伏せた或駆。

 今の今まで見せていた気丈な振る舞いが、憐れ脆くも崩れ去っていく。

 そして、堪えていたものが土砂崩れの如く溢れ出したみたく、堰を切ったように愈々泣き出してしまったのだった。


 すがるように、懇願するように。

 お願い、お願いだから、と自分にしがみつき同じ言葉を繰り返す友。

 その頭越しに見える小刻みに震えている背中は、何とも小さく感じて止まない。

 麻兎はそれを視線のみを向ける形で静かにじっ…と見詰め、そして口を開いたのだった。


「……だい、じょーぶ、だよ、あるく。」

「ッ……何が“大丈夫”だ! 何も大丈夫な訳が──!!」

「ほんとに、だいじょーぶ、だから。」


 起き上がるや否や、激昂し声を荒げる或駆。

 それを麻兎はやんわりとした声で宥めて言葉を続ける。


「ぼく、しなない、から。」


 自分を見遣る濡れた瞳が怪訝に歪む。

 構わずに、彼は口元にささやかな笑みを湛えると、こう言ったのだ。




「金花ちゃんが………“神様”が、まもって、くれてる……から。」




 向かいでぽかんと口を開け、唖然と呆け顔で言葉を失う友。

 それ前に彼はと言えば、自らの口で改めて言い表したその事に、無性に湧き起こる喜びから高鳴る胸を感じ、頬を染めた。


「な……に、言ってンだ……お前………?」


 麻兎の言葉を聞いて漸く返ってきたその声は、やっとの思いで絞り出したかのような声音だった。


「神様……? 守ってくれる………? 何寝惚けた事言ってやがンだ、そんなもんいる訳ねェだろうが。ふざけた事抜かしてねェで、ちゃんと俺の話を──」

「いるよ。神様はいる。ぼく、ふざけてなんか、いないもの。」


 麻兎の一際ハッキリとした言葉に、或駆は言葉の最中でもつい口を閉ざしてしまった。

 麻兎が或駆の言う事に口を挟んだのだ。

 或駆にとって、それは初めての出来事だった。


「あの時だって………ぼくがめをさますの、できたの、神様がたすけて、くれたから、なんだよ……? だからね、神様はいる。ちゃんといるんだよ。ほんとだよ。」

 

 さっきだって、ずっと一緒にいたんだから。

 そう言う麻兎の言葉に、間に皺寄せた細くて長い眉が片方だけピクリと痙攣する。

 咄嗟に自らの胸元を握り締めた或駆は、震える息を吐き出しながら再び口を開くのだった。


「………じゃあ、きっと、お前は夢を見たんだ。夢の中で、お前はその神とやらに会ったんだ。俺はずっと此処にいたが、俺以外にこの部屋に入ってきた奴は一人もいなかった。だから、お前は只夢を見ただけなんだよ。」

「うん。でも、そうだとしても、神様はいるよ。だって、ぼく、ほんとに会って──」

「だがな、夢と現実を混同するな。」


 或駆が断言する声で麻兎の主張をぴしゃりと叩き付けた。


「確かにお前は夢で神とやらと会ったかもしれない。でも所詮夢は夢だ。現実には程遠い。解るか? 夢ってのは自分の頭ン中が勝手に作り上げた映像もんなんだ。なら、それは実際にあった事じゃあねェ。お前を助けたって言うのも、それは神様のお陰なんかじゃなくて、お前を診てくれた医者の腕が良かっただけに過ぎないんだ。……いるかどうかも解んねェもんのせいにするな。」


 麻兎は黙った。

 黙って、じっと或駆を真っ直ぐに見遣り、静かに言葉を聞いていた。

 或駆はそんな麻兎を顔も見れないまま、俯いたままでいた。


「一年まるっと寝た切りだったお前だが、それでももう16歳だ。言う程子供って歳でもねェ。だからさ、ちゃんと現実を良く見ろ。神様なんてもんはな……いる訳がねェんだよ、麻兎。」


 そう言い切ったのちに、或駆は口を閉ざして黙ったのだった。


 気まずい沈黙が流れる。

 少々きつい言い方をしてしまった自覚もあってか、暫く視線を反らした或駆。


 軈てその沈黙に耐えかねて、或駆は麻兎の方へと顔を向ける。

 するとそこで、ずっと此方を見詰めたままであった麻兎の視線とばちりとかち合った。

 思わず、或駆は怯んだように開きかけた口をつぐんでしまった。


「………そっか。」


 或駆がそうこうしている内に、麻兎の無表情な顔から唇だけをほんの僅かに動かし、発せられた声が長い沈黙を破る。

 一つゆっくりと瞬くと同時に下向いた麻兎の視線。

 それを見て、或駆はずっと強張らせていた肩の力を抜くと、安堵の息を吐いたのだった。


 やっと此方の言い分を理解してくれた、解ってくれたんだ──そう、思って。


 或駆は、麻兎の無表情なその顔から落ち込でいるらしい感情の色を浮かべている事に気が付いた。

 今の歳になってもまだオバケや神なんてものを信じているらしいまだまだ子供っぽい面のある友人だ。

 そんな相手を諭してやった事で、少し先に大人になった気分となった或駆は「ちっとばかし言い過ぎちまったし、慰めてやるか」と思い至り、居住まいを直す。

 それから腕を持ち上げ、涙は無くとも悲しげに瞼を伏せる友の頭へと触れるべく、手を伸ばしていった。


 その時に、麻兎がぽつりと小さな声で




「またきみは、僕をしんじてくれないんだね。」




 と、呟いた。


 ぴしり。

 或駆の身体から動きが止まる。

 全身が凍り付いたように強張って、息までもが止まる。


 麻兎が口にしたその言葉は、物凄く冷たい水が入ったバケツを頭の上でひっくり返したような、そんなものに或駆は思えてならなかった。


「あ、あさ……麻兎………?」


 やっとの思いで口に出来たのは、動揺が目に見えて現れている、酷く震えた声だった。


「……お……俺、は……。」


 或駆は咄嗟に「そんな事はない」「そう言うつもりじゃない」と言葉を返そうとした。

 しかし、どうしてだか上手く声が出せない。

 何か言うべき言葉がある筈なのに、途端に何も思い付かなくなってしまってまごついてしまうのだ。

 そうして彼方此方へと視線を泳がし狼狽えていると、そこで麻兎が


「だいじょーぶだよ、あるく」

 ……と口にした。


 或駆の視線が怖々とそちらへ向く。

 麻兎の視線はもう、或駆へは向いていなかった。

 



「わかってた、から。きみが……そういうやつだ、ってこと。」




 ガツン。

 今度は大きく重たい岩で頭を小突かれた心地を覚えた。

 或駆はいよいよ言葉を失ってしまった。

 声もなくパクパクと開閉するだけの戦慄く唇。

 軈てそれを噛み締めると、頭を項垂れさせていくのだった。


 そんな彼に一瞥もせず、麻兎はころりと頭を転がしてそっぽを向いた。

 本当は身体ごと寝返りを打ちたい気分であったが、それで或駆にまた叱られてしまうのは嫌なので、向けるのは頭だけ、身体は仰向けのままにしたのだ。


 ……まあ、実際に麻兎が背中ごと身体を向こう側へと体勢を変えた所で、今の或駆にはそれを注意するだけの余裕はない、が……そんな事は麻兎には知る由もない。

 

 そうして、二人は沈黙した。

 それからはもう、二人の間に会話は無くなってしまった。


 気まずい空気が病室内を占めていく。

 時計が針を進めていく音だけが、やけに耳に響いた。

 一体いつまでそれが続くのか………どちらが先にそう思ったのかは解らないけれども、長く重たい空気の中、先に沈黙を破ったのは或駆の方だった。


「………帰る。」


 そう一言呟き、傍らのテーブルに置いていた果物のバスケットを手を伸ばしかけて、途中でそれを止める。


「まだ、食えそうか?」

「いらない。」


 伸ばした手はそのままで或駆が口にした問い掛けに、振り返りもせずに端的な言葉で返す麻兎。

 すると項垂れたままの或駆は、力無さげな声で「そうか……」と溢して、それ以上は何も言わなかった。

 ガタン、と音を立てて、椅子から立ち上がる。

 手に取ったバスケットを持ち上げて、椅子を元の位置に戻し、そして踵を返すのだった。


 麻兎の耳に、離れていく足音が聞こえてくる。

 軈て、カラカラ……とスライドドアを開く音が聞こえたかと思えば、直ぐに閉まる音が聞こえてくる。

 そして、客人のいなくなった病室の中には、静けさだけが残されるのだった。


 壁の方へと向いていた頭が、またも枕の上を転がった。

 見える室内には人の気配はなく、そこにいるのが自分一人である事が視覚にて解る。

 今度は顔を天井へと向けると、胸を膨らませ、息を吐く。

 そうして麻兎は漸く一人になれた事に、寂しさを感じつつも安堵を覚えた。


 それからどのくらい時間が経った事だろう。

 白い天井をじっと見詰めながら、痛む身体を動かせない麻兎は何もしない時間を過ごしていた。

 いつしか部屋は白ではなく、窓から差し込むオレンジ色に満たされ染まっていく。


 それをじっと眺めてまた暫く。

 徐に口を開いた麻兎は誰に言うつもりでもなく、一粒雫を溢すように、ぽつりと小さく呟いた。




「金花ちゃん様、早く帰ってこないかなぁ。」






 *****






 カラカラ………ストン。

 スライドドアが閉まっていく。

 今出た部屋が閉ざされて、見えなくなると或駆はドアに凭れかかった。


 長く深い溜め息が溢れる。

 すると膝から力が抜けていく感覚を覚え、吐き出した息と共にゆっくりと脱力した。


 病院の廊下、へたり込んで膝を抱く或駆。

 顔を俯かせ、額を膝に付ける。

 落ち込む気持ちが自分を鬱々とさせ、後悔ばかりが胸を占めていた。

 今にも涙が溢れそうになるけれども、近付いてくる足音に気付き、それをグッと堪える。


 足音はどんどんと近付き、軈て自分の傍でぴたりと止む。

 或駆はそれに見向きもせずにいたが、自棄っぽく息を吐いて立ち上がった。

 そして手にしていたバスケットを相手の胸元へと殴り付けるように、力任せに突き出すのだった。


「……要らねェってよ。」


 端的に、手短に、そう伝えれば相手はバスケットを見下ろしながらにそれを受け取る。

 黙した口はきゅっと閉ざされ、背中を丸めてより項垂れていく。


 或駆はその様子を見や否や、苛立ちを募らせ吐き捨てるように言葉を口にした。


「全部……全部、お前のせいだからな。アイツが屋上から落ちて死にかけたのも………アイツがおかしくなっちまったのも。」


 そう言えば、バスケットを持つ手がぴくりと震えて、俯いたそこからは息を呑む音が聞こえた気がした。

 それから沈黙が二人の間に流れると、ばたり、ぱたりと音を立てて落ち始めたのは、手付かずの林檎を濡らす透明な雫だった。


 それを見た或駆は、自分の中でぐわっと燃え盛るものを感じた。

 衝動的に自分の手が相手の胸ぐらへと、飛び掛かるようにして伸びていき、ガッと掴みかかる。

 そして自分より高い所にある頭を強引に引き寄せると、ずっと俯いていて見えなかった涙に濡れた頬が露となった。

 潤む瞳が漸く此方を向いた。


 或駆はそんな相手の姿に、尚更沸き起こる激情を抑える事が出来なくなっていく。

 元より釣り目の端をより上げて、敵意を剥き出しに牙を剥くように。

 そして鬱憤を晴らさんと遠慮も無しに、その相手へと吐き出した言葉を叩き付けるのだった。




「お前のせいでッ………お前のせいで何もかもが目茶苦茶だ!! どうしてくれやがンだよ──無緘ナイトッッ!!」




 人より色鮮やかな瞳が瞬いて、目尻に溜め込んでいた大粒の涙が落ちていく。

 色白の肌に目立つ赤くなった鼻、引き釣った吐息が溢れつっかえるような音を鳴らす。

 嗚咽を溢して震える唇からは「ごめんなさい」と、小さくも何度と謝罪の言葉が呟かれていた。


「ごめんなさい……ごめんなさいっ………俺、俺っ、こんなことに、なるなんて……思わなくって………!」

「どの口が言ってやがるッ! アイツを屋上から落ちる原因を作ったのは……いいや、アイツを屋上から突き落としたのは他の誰でもねェ、テメェだろうがッ……!!」


 或駆はそう言うと掴んでいた胸ぐらを無理矢理に引っ張り上げ、叩き付けるように放り捨てた。

 どしゃり、と音を立てて無緘の身体が床へと転がった。

 床に這いつくばっても尚涙を溢す彼。

 或駆はそれを冷ややかな眼差しで見下ろしていた。


 「ごめんなさい」と呟く声はまだ聞こえてくる。

 聞く度に苛立ちは尚更増していく。

 握った拳には無意識に力が籠り、ギリッと音を鳴らしたそこからは鈍く痛みを感じた気がした。


 視界の端で、通り掛かりらしい見知らぬ誰かが、此方を横目見てはこそこそと何かを話しているのが見えた。

 その目は明らかに自分へと向けられており、軽蔑と恐れの色が濃く現れている。


 彼らはきっと声を抑えて話しているようでも、そんな程度の声音じゃ嫌でも或駆の耳にその内容が入ってくる。

 それを煩わしく思って忌々しげに舌打つと、或駆ら彼らに向かってギロリと睨み付けた。

 そうすれば、真っ向から物申す程の器量のない者達は途端にそそくさと、逃げるように立ち去っていく。

 その後ろ姿が見えなくなると、疲れたように息を溢した或駆は肩を落としながらにこう言った。


「……なァ、無緘。おかしいと思わねェか? どうして俺の方が悪者扱いされてンだ?」


 お前の方がずっと悪いのに。

 そんな含みを込めて言えば、無緘がまた「ごめんなさい」と謝った。


「ごめんなさい、ごめんなさいっ……俺が、俺が全部悪いんですっ……俺がバカな事をしたからっ………!」

「そうだよなァ? お前が全部悪いんだ。お前のせいでアイツも……麻兎の奴もおかしくなっちまったんだ。」


 或駆はそう言って、俯せていた無緘の前髪を掴み上げた。

 ぽたりぽたりと涙を落としながら、腹立たしい程に整った顔が此方を向く。

 一層の事、その顔面に一発でも殴りたくなる気持ちが込み上がってくるが………流石にそれは何とか堪える。


「アイツは、以前は神がどうのこうのと言うような奴じゃあなかった。壁に向かってぶつぶつ話すような奴じゃあなかった。アイツは元々、あんなに頭のおかしな奴じゃあなかったんだ…! 他に誰もいない場所で、相手もいないのに一人で喋るような、気味の悪い奴じゃあなかったんだッ……! それもこれも、全部お前がアイツを追い詰めたせいだ!! お前は、アイツを殺しかけたんだ!! それなのにッなんでお前が被害者ぶって泣いてやがるッ!!」

「ごめんなさいっ…ひぐ、ごめんなさいぃっ……!!」


 或駆が怒鳴れば怒鳴る程に、整った顔が涙でくしゃくしゃになって歪んでいく。

 すると、涙が溢れてばかりの瞼に手の甲を瞼に押し付けた無緘は、いよいよ幼い子供のようにわんわんと泣き出してしまった。


 ごめんなさい。ごめんなさい。

 全部自分が悪かったんです。

 もう二度と、あんな事をしません。


 何度も何度も同じ事を口にして、身体を伏せては額を床に当て擦る。

 そんな相手の無様な姿を見下ろしていても、或駆の心は一向に晴れない。

 それもそうだ。

 加害者であるその相手がその罰に如何なる報いを受けて、どんなに無様を晒した所で、決して自分の友が元に戻る筈が無いからだ。


 しかし、そんな情けない姿をこうも見せ付けられていると、次第に怒る気力も失せてくる。

 如何せん、或駆には他者を痛め付けて喜ぶような、そんな性格のひん曲がった趣味は持ち合わせていないのだ。

 せめてそうすれば少しは気分も晴れるかと思いきや、寧ろ萎えてきてしまったくらいであった程に。


 そして或駆は気を落とすように深く息を吐き溢し、髪をすくように後頭部を掻いて、無緘の隣を歩いていった。

 しかし、そのまま去るかと思いきや、途中で立ち止まった或駆は背を向けたままに無緘へこう言った。


「もう、アイツには近付いてやってくれるな。謝る必要だって無い。……あんな事があった後だ。麻兎はお前の事を酷く怖がってる。だから、もう……二度と関わらないでやってくれ。」


 そう言って、相手の返事も聞くよりも先に言葉を続ける。


「あんな事をした理由がただ単に“仲良くなりたかっただけ”だってのもよ、ンなもん信じられる訳がねェんだよ。」


 嘘を吐くにしたって、もっとマシな言い訳があったろうに…。

 最後には誰に言うでもなくそう呟きながら、或駆はその場を去っていくのだった。




 一方、一人病院の廊下に取り残された少年は、涙に濡れた頬を長袖でぐいっと顔を拭った。

 それから床に転がされて付いた汚れをぱんばんと払い、身形を整える。

 そして………


「………林檎、買ったの無駄になっちゃったな……。」


 ひっくり返って中身がばら蒔きになってしまったバスケットを手に、散らばって転がる林檎を回収していく。

 それを終えて抱えると、彼はちらりと傍の扉を見遣るのだった。


 その扉に組み込まれた名札には“雷門麻兎”の四文字が書き綴られている。

 彼はその扉の向こうへと行きたかったのだけれども……それは今じゃもう、許される事ではないらしい。


 少年は後ろ髪を引かれる想いを胸に秘めつつ、俯きながらにその場を去るべく足を進めていった。




「──ねぇ見た? 今の子、スッゴく美人じゃなかった!?」


 とぼとぼ歩き、向かいから来る通行人の隣を通り過ぎるその間際。

 俯く自分の顔を見た見知らぬ誰かが、後ろ指を指してヒソヒソ話を始めた。

 それを小耳に挟んだ少年の肩がびくりと跳ねて、顔が強張っていく。


「ええっと、何だか何処かで見たことあるような……何処だっけ?」

「何言ってんの! あの子、チョー有名人じゃない! ほら、少し前までテレビに出てた……!」

「ああ成る程! それで見たことあるのか。」


 そんな会話まで聞こえてきて、殊更少年は青ざめていった。

 咄嗟に学ランの下に着込んだパーカーのフードを深々と被り、早足になって直ぐ様その場を離れていく。

 しかし、一度騒ぎ始めた者がいれば途端にそれは伝播していき、行く先行く先にて視線が自分に向く。

 そんな状況に、彼の肝はより冷えていった。


 少年は逃げた。

 そこから目を背けるようにして、逃げ出した。

 何処も賢も視線が自分を刺し、ヒソヒソ響く噂話が広がっていく。

 それを耳にしたくなくて塞ぎながら、彼はがむしゃらになって駆け出した。


 駆けて、駆けて、無我夢中で逃げ回って。

 逃げて、逃げて、いつしか行き場を無くして。

 人の声も、人の目も、何もかもを振り切って最後に辿り着いたそこには──。




 まだ外も明るい時間帯の病院内。

 何処へ行っても医者や患者、それから見舞いに来た者達が粛々と過ごしている。

 しかしそれでも廊下の延長線上、突き当たりであるそこには訪れる者の数は目に見えて少ない。

 そこら一帯に窓はなく、日差しが差す事がない為に、唯一の光源たる電光灯が煌々と光を放ってその辺り近辺を照らすのみ。

 それ故にか、他の空間と比べて光量が物足りず、訪れた者に何処かほの暗い印象を抱かせてくる事だろう。


 だからこそ、少年は逃避先にその病院内で奥まった場所を選んだのだ。

 此処ならばきっと誰もいまい──そう考えて、必死になってそこへと訪れたのだった。

 けれどもその日は珍しく、既に“先客”がいた。




 ぱら、ぱら。

 微かに聞こえる紙のささめき。

 組み重ねた長足、背凭れについた頬杖。

 眼鏡を掛けたその視線が向くのは、膝の上の文庫本。

 静かに、静かに、読書に興じているその人物は、見紛うこと無く、少年がよく知る者であった。




「──有睹アルト。」




 そこにいたのは自分と瓜二つの容姿を持つ人物であった。

 思わずと言った調子でその人物の名が少年の口を衝いたその直後、パタンと本を閉じる音が静かな廊下に響いた。


 「フーー……」と、吐息が溢す音が耳を掠める。

 徐に丸まっていく背中、伏せた顔。

 そこへ伸ばされた手が眼鏡を外した眉間に触れて、皺立つそこを揉み解すように摘まみ上げる。


「俺は事前に“止めとけ”と言っておいた筈だが……忠告を無視して此処へ来た結果、どうだったんだ?」


 億劫そうに、くぐもった声が言う。

 軈て眉間から離した掌の影の下、項垂れた頭から向けられた視線がギトリと少年を刺した。

 その目の下には色濃い隈が浮き上がっており、見るからに寝不足や疲労が溜まっているのが良く解る様子が伺える。

 更には醸し出されている雰囲気とて酷く不機嫌そうなものであった為に、気まずそうに視線を反らした少年は返事も無しに口を閉ざしてしまった。


「……まあ良い。お前が俺の助言言う事を聞かないのは、今に始まった事じゃあないからな。そこまでするなら、後は存分に好き勝手すると良い。」


 俺はもう知らん。

 そんな、見限ったような言葉を口にしながら、身体を重たそうにしながら立ち上がる彼。


「だが、余り面倒事は起こしてくれるなよ。只でさえ俺は忙しいんだから、お前の事ばかりかまけている余裕は──。」


 そこでぴたりと彼の話が止まる。

 暫くしてもその説教染みた話が再開する様子もなく、おや? と思った少年は恐る恐るに顔を上げてみた。

 すると眉を潜めた彼の視線は、少年の方……ではなく、どうやらその奥へと向いているらしい。

 釣られて少年もそちらの方を見てみれば、いつからそこにいたのだろう? 一人の男が立っていた。


 畏まった衣装を身に纏う所作の綺麗なその男は、此方と視線が合った事に気が付くと、少年達に向かって恭しげに頭を下げた。

 そして、歪みのない弧を描く唇をゆっくりと開くと、こう言うのだった。


「若旦那様、そろそろ御時間にございます。」


 途端、少年の後ろから舌打ちの音が響く。


「ああそうかよ、俺にはゆっくり本を読む暇すら無いってか!」


 振り返ると不機嫌オーラを更に増した彼がくしゃくしゃと頭を掻き回していた。

 低く唸るような声音が愚痴を溢す。


「あンの糞親父が! 我が子ガキに仕事ぶん投げといて、いつまで遊び呆けてやがるってんだっつの!」


 良い加減働きやがれ、放蕩親父め!

 悪態吐いていながらも、すごすごと男の方へと足を進めていく彼。

 少年はそれを只黙って眺めていたのちに、罰が悪そうにしてまた俯いた。


 そうして彼が少年の隣を通り過ぎていくその間際。

 容姿は瓜二つの彼らでも、俯いてはいてもしゃんと背筋が伸びているが故僅かに目線が上にある少年に、気怠げで猫背がやや目立つ事から少し目線が下にある彼が、上目遣い気味にキロリと視線を向けた。


「おい。」


 彼がやや乱暴な口調で少年を呼ぶ。


「………何だよ。」


 少年が素っ気ない口調で言葉を返す。


 すると彼は、そんな少年のささやかな反発心など手に取るように見透かしているにも関わらず、一切気に留める事もないままに、スッと伸ばした手で少年の腕を掴み取った。

 そして、目を丸くして彼を見た少年に対し、さも当然の如く自然体にこう言ったのだ。


「帰るぞ。」


 いつまでそこでぼうっと突っ立ってんだ。

 そう言って自分の腕を引く彼に、少年はまた目尻を赤くして顔をくしゃりと歪ませた。


「おや、坊っちゃんも御一緒されるのです?」


 彼の向こうで、畏まった白黒の衣装──燕尾服の男が怪訝な顔をしてそう訊ねる。

 その、さも少年の事は数に入れていなかったような男の口振りに、彼がすかさず、


「そうだ。何か問題あるか?」


 と口にした。

 すると男は細めた眼差しで冷ややかにも少年を見遣ったのちに、


「いいえ、何も。」


 と返すとパッと表情を変え、少年へ張り付けた笑みを浮かべて掌を胸に当て、


「では無緘坊っちゃんも、御車へどうぞ。」


 と何事もなかったかのように、そう口にするのだった。


 そんな様に、思わず溢れそうになる感覚を覚えた。

 少年は肩を竦めながらに下を向いた。

 ずずっと鼻を鳴らし、唇を噛み締める。

 自分でも情けなく感じてしまうそんな様に、彼は軽蔑、侮蔑、冷やかしも笑いもしないまま、ふいっと顔を反らして半ば無理矢理に掴んだ腕を引き、そして歩き出す。




 彼に手を引かれながら、少年は声を押し殺し、泣いていた。

 嗚咽を堪え、肩を震わせ、自分の惨めさを悔やんで涙した。


 どんなに一人でやりきろうと思っても、いつだって自分の前を歩く彼からその器の違いを思い知らされる。

 どんなに何かを成し遂げようと思っていても、いつも最後には自身の狭量さを目の当たりにして打ちのめされる。

 今日だってそうだ。

 どんなに自分が「こうすれば、きっと」と思った事を行動した所で、恐らく彼にはこの結末なんて他愛もなくお見通しだった事だろう。

 だからこそ、何も伝えていないにも関わらず、偶々此処へ辿り着いた自分の前に、こうして当たり前の如く待っていたのだ。


 少年は、どうしたって自分の愚かさと彼の優秀さを比べてしまう。

 アイツが出来るなら、自分だって──そんな焦る気持ちは日に日に強まって、淡い期待を自分に向けても、最後は結局何も成せずに後悔ばかり残してばかり。


 そんな毎日だった。

 そんな悔いの多い自分であった。

 なのに彼は、そんな自分の事をいつだって見限る事無く、最後にはこの手を取って、自分の傍にいてくれるのだ。

 周りにいた者はどんどん少年を見放していっても、彼だけはずっと隣に残っていた。

 例え、少年がどんなに彼を蔑ろにしていたとしても。


 そして、そんなやりきれなさからつい堪え切れず、少年はまた性懲りもなく、噛み締めていた唇から小さく声を溢すのだった。




「……お前なんか、大嫌いだ。」




 すると彼はからりと笑って、




「奇遇だな? 俺も大っ嫌いだぜ、馬鹿兄貴。」




 と返すのだった。


 少年は──無緘はまた泣いた。

 自分が不出来な兄であるばかりに、出来の良い弟に何も返してやれない事に。

 自分の片割れとも言える双子の弟に、そんな事くらいしか言えない自分の不甲斐なさに。


 誰の役にも立てない無緘は今日もまた、“ごめん”も“ありがとう”も何も言えないまま。

 只、声を殺して涙するしか出来ないのであった。






 そんな、現実を受け入れられずに、目を背ける者がいた。

 そんな、周りを見放し孤立を選び、耳を貸さぬ者がいた。

 そんな、言いたい事も伝えられず、口を閉ざした者がいた。




 見ざる、聞かざる、言わざるとは言うが、結局は総じて“去る者”だ。

 かの者ならば“ありのままたれ”と、只その行く末を見守るだけであろう者達であった。

 助けを求められたならばきっと多少の助力しようが、その本質は自力で為した結果を求める者故、ほんのささやかなものでしかない。




 しかし、そんな彼とは相反して、それを黙って見ていられぬ者もいた。




 西に争い有らば、そこへ駆け付け、その悔恨を解決すべく奔走し。

 東に仲違いする者有らば、そこへ割って入り、仲裁すべく取り持って。

 心を病み、折れてしまいそうならば。

 そっと肩を貸し、心癒えるまで寄り添う事だろう。

 自ら身を投げ出そうとするならば、尚更だ。

 何が何でも手を差し伸べて、改心するまで取り憑く事だろう。




 兎にも角にも、それはお節介焼きな者だった。

 そんな、行き過ぎた善意から、無闇矢鱈と何処にでも首を突っ込みたがる性分であった。


 そして、その者はまたとある場所へと向かっていた。

 間に合わなくなってしまう前に、全てが台無しとなってしまう前に。

 まだ救える何かが在るのならばと、この手が届く限りその全てを拾い上げるべくして。




 ──とある学校、階段の踊り場。

 そこには大きな姿見が壁に取り付けられていた。


 一見何の変哲もないその姿見には、とある噂がその曰くを囁いていた。




「ねぇ、知ってる? 学校の七不思議の一つ──ここではない、異界を映す“逆さ鏡”。」


「何故かひっくり返して飾られたその鏡、当然普段は普通な鏡。でもふとした瞬間、不思議な景色を映し出すの。」


「逆さまの景色が映ってしまうの。そこは屋内である筈なのに、鏡には何処かの森が映るみたいに。」


「それに、誰かが見たんだって。そこに誰かが入っていくトコロを。」


「あれは異界に繋がる門なんだって。映っているのはここじゃない、別世界のモノだから。」




 そんな噂が今日も行き交う。

 真偽も何も、知らぬままに。

 けれどもそんな不確かなものならば、利用するに都合が良い。


 故にこそ・・・・、その鏡に手を触れたのだ。

 自身を映さぬ、その曰く付きの鏡に。

 途端、揺らぐ水面な鏡面。

 映す景色がめぐるましく一変していく。




 そこには鏡の前に立つ者ではない、全く別の“誰か”の姿が映っていた。




 嗚咽の音が聞こえる。

 涙を溢す音が聞こえる。

 震える声が、助けを求めていた。




「大丈夫だよ。今、そっちに行くから。」




 とぷん。

 それを口にした途端、一際強く波打つ姿見の水面。

 触れた掌が波に浸る。


 向かう先は鏡の向こう。

 それはあらゆる事柄がひっくり返った、荒唐無稽で歪な世界。


 此方の“有り得ない”が“当然”であるが故に。

 此方の“幻想”が“現実”であるが故に。

 そして、彼方こそが“それ”にとって、在るべき世界であるが故に。


 彼方かなた此方こなたとの境界線を越えるべく、鏡の門の向こう側へと、その足をそっと踏み入れるのだ。





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